敗戦国の元王子へ 〜私を追放したせいで貴国は我が帝国に負けました。私はもう「敵国の皇后」ですので、頭が高いのではないでしょうか?〜

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第十九話:語り継がれる物語

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帝都の図書館にある一室。 そこは、帝国の公式な歴史書を編纂(へんさん)するための特別室だ。

私は老眼鏡の位置を直し、書き上げたばかりの原稿にペンを置いた。 窓の外からは、建設中の新しい時計塔の鐘の音が聞こえてくる。 平和な音だ。

「……ふぅ。これで、第一部は完成か」

私は、バートン。 かつては王国の財務大臣を務め、今は帝国の宰相補佐として、この国の黄金時代を記録する役目を仰せつかっている。 髪はすっかり白くなり、腰も曲がってしまったが、この仕事だけは誰にも譲れなかった。

私が書いているのは、『大陸統一史』ではない。 もっと個人的で、しかし真実の記録。 『氷の皇帝と、物流の賢皇后の物語』だ。

私は原稿を読み返した。

そこには、一人の少女の物語が記されていた。 「鉄の女」と呼ばれ、誰からも理解されず、冷たい書類の山に埋もれていた公爵令嬢。 彼女が祖国を追われ、絶望の淵で皇帝と出会い、その知略で世界を変えていく物語。

「……思えば、遠くまで来たものだ」

私は目を閉じた。 瞼の裏に、あの日の光景が蘇る。

王国の執務室。 予算不足に頭を抱える私に、まだ十代だったコーデリア様が、膨大な計算書を突きつけてきた日を。

『バートン様。嘆いている暇があったら、この無駄な祝宴の予算を削ってください。浮いた金で、北部の堤防を直します』

彼女はいつもそうだった。 愛想がなく、言葉は厳しく、数字には妥協しない。 周囲の貴族たちは彼女を「可愛げがない」「機械のようだ」と陰口を叩いた。

私自身、最初は彼女の厳しさに辟易(へきえき)していたこともあった。 だが、すぐに気づいたのだ。 彼女の計算式の裏には、常に「民を生かすため」という熱い想いがあることに。

彼女は、誰よりも優しかった。 ただ、その優しさを「言葉」ではなく「結果」で示す人だったのだ。

「おじいちゃん、何書いてるの?」

不意に、部屋のドアが開いた。 入ってきたのは、可愛らしい少女だ。 レオンハルト皇太子の娘、つまりコーデリア様の孫にあたる、リリアナ皇女殿下だ。

「おや、リリアナ様。これは昔のお話ですよ」

「昔のお話? おばあさまのお話?」

「はい。おばあさまが、いかにして悪い魔法使い(無能な権力者)を倒し、この国を豊かにしたかという冒険譚です」

「わぁ! 聞かせて!」

リリアナ様が私の膝に乗ってくる。 その瞳は、ジークハルト陛下譲りの赤色で、賢そうな顔立ちはコーデリア様によく似ていた。

「よろしいですか。……昔々、あるところに、とても計算が得意なお姫様がいました」

私は語り始めた。

世界中の商人が行き交う街道を作ったこと。 冬でも温かいスープが飲めるように、物流という魔法をかけたこと。 そして、その知恵を武器に、戦わずして敵を降伏させたこと。

「すごいねぇ。おばあさまは、剣を持たなくても強かったんだね」

「はい。剣よりも強い武器、それは『備え』と『信頼』であることを、あの方は教えてくださいました」

今や、帝国の市場に行けば、大陸中の食材が手に入る。 王国の特産だった果物も、南方の香辛料も、北方の海産物も。 かつては貴族しか口にできなかったものが、平民の食卓に並んでいる。

『民の胃袋を満たさずして、忠誠を求めるなど傲慢です』

彼女の口癖だった言葉は、今や帝国の行政官たちの憲法となっている。 彼女が敷いたレールの上を、この国は最高速度で走り続けているのだ。

     * * *

その日の午後。 私は書きかけの原稿を持って、帝城の温室庭園へと向かった。 完成した第一章を、主役であるお二人に献上するためだ。

温室の中は、常春の楽園だった。 ガラスの天井から柔らかな日差しが降り注ぎ、色とりどりの花が咲き乱れている。

その中央にあるティーテーブルに、お二人の姿があった。

ジークハルト陛下と、コーデリア皇后陛下。

お二人とも、還暦を過ぎ、その髪には霜が降りている。 ジークハルト陛下の銀髪はより白く輝き、コーデリア様の顔には笑い皺が刻まれている。 だが、その美しさは衰えるどころか、年輪を重ねてより深みを増していた。

「……あーん」

「もう、あなたったら。人が見ますよ?」

「いいじゃないか。誰もいない」

信じられないことに、ジークハルト陛下はフォークに刺したカットフルーツを、コーデリア様の口元に運んでいた。 結婚して数十年経っても、このバカップル……失礼、おしどり夫婦ぶりは健在だった。

「ごほん」

私が咳払いをすると、お二人はまたしてもギクリとしてこちらを向いた。

「あ、バートンか。……気配を消すのが上手くなったな」

「陛下が隙だらけなだけです。……本日は、執筆中の記録書の確認に参りました」

私は原稿をテーブルに置いた。

「ほう、『賢皇后伝説』か。どれどれ」

ジークハルト陛下は楽しげに眼鏡をかけ、ページをめくった。 コーデリア様は恥ずかしそうに頬を染めている。

「やめてください、バートン。伝説だなんて大袈裟な。私はただ、当たり前の仕事をしただけです」

「その『当たり前』ができなかったのが、旧王国の悲劇でしたから。……それに、これは貴女様だけでなく、これからの帝国の指針となる教科書でもあります」

コーデリア様は、控えめな笑みを浮かべた。 その手元には、まだ現役で使われている黒い万年筆があった。 かつて、陛下が贈ったあの万年筆だ。 何度も修理し、ペン先を交換しながら、彼女はずっとこのペンで帝国の舵取りをしてきたのだ。

「……ふむ。悪くない」

陛下が顔を上げた。

「だが、一つ訂正がある」

「訂正ですか?」

「ああ。ここの記述だ。『コーデリアは氷の皇帝の心を溶かした』とあるが、正確には『溶かした』のではない。『奪った』のだ」

陛下は大真面目な顔で言った。

「彼女に出会った瞬間、私の心臓は彼女のものになった。今もそうだ。私の心臓は、彼女の許可なくしては動かん」

「……あなた」

コーデリア様が呆れたように、しかし愛おしそうに陛下を見つめる。

「バートン、そのまま書いておいてください。『皇帝は、皇后の尻に敷かれることを至上の喜びとしていた』と」

「ふふっ、承知いたしました」

私はペンを取り出し、メモをした。

平和だ。 かつて戦場を駆け抜け、修羅場をくぐり抜けてきた三人で、こうして穏やかな午後の日差しを浴びている。 この時間が、何よりも尊い。

「バートン」

不意に、コーデリア様が私を呼んだ。

「はい」

「貴方がいてくれて、本当によかった。あの雪の日、私を信じてついてきてくれたこと……一生忘れません」

彼女の青い瞳は、昔と変わらず澄んでいた。

「私のワガママな改革が実現できたのは、貴方という実務の天才が支えてくれたからです。貴方もまた、この物語の主人公の一人ですよ」

胸が熱くなった。 老いた涙腺が緩む。

「……勿体ないお言葉です」

私は深く頭を下げた。

「私こそ、貴女様の夢を見させていただきました。……退屈で色のなかった私の人生に、鮮やかな虹をかけていただいたのは、貴女様です」

そう。 彼女は魔法使いではなかったけれど、私たちの人生を変える魔法を持っていた。 「情熱」と「知性」という名の魔法を。

     * * *

その夜。 私は自宅に戻り、再びペンを執った。 書き足すべきエピソードは、まだまだ山ほどある。

レオンハルト皇太子が初めてトンネル工事を視察した時のこと。 コーデリア様が、過労で倒れたフリをして陛下を休ませたこと。 陛下が結婚記念日に、国中の花を買い占めて怒られたこと。

どれもこれも、愛すべき歴史の一ページだ。

窓の外を見ると、帝都の夜景が広がっていた。 魔法の灯りではなく、ガス灯と、家々の窓から漏れる生活の灯り。 それは、星空よりも美しく、温かい光の海だった。

かつて、あの愚かな王太子レイモンドは、この光を消そうとした。 だが、コーデリア様はこの光を守り、増やし、永遠のものとした。

「……さて、最終章はどう締めくくろうか」

私は考えた。 まだ、物語は終わっていない。 お二人の旅路は、命ある限り続くのだから。

だが、後世の人々にこれだけは伝えておきたい。

この帝国が黄金時代を迎えたのは、強大な軍事力があったからではない。 一人の女性が、「愛する人の役に立ちたい」と願い、一人の男性が「愛する女性を守りたい」と願った。 その、極めて個人的で、純粋な愛のエネルギーが、結果として世界を救ったのだと。

私はペンのインクを補充した。

『その名はコーデリア。敗戦国の元王子に捨てられ、氷の皇帝に拾われた、世界で一番幸せな皇后の物語である』

ペン先が紙を滑る音だけが、静かな部屋に響いていた。

それは、遠い未来まで語り継がれるであろう、愛と知略の伝説の記録。 そして、私たちが生きた証そのものであった。
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