身代わり花婿の従者だった俺を、公爵閣下が主ごと奪っていきました

なつめ

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第15話 従者ではなく、ルキアンとして


 会わせる。

 夕方、ヴァレシュがそう言った時、ルキアンは一瞬、その意味を理解できなかった。

 北棟の私室の隣へ移されてから、日々の時間は以前より静かに流れていた。いや、流れているように見えるだけで、胸の内側ではいつも何かがざわついていたのかもしれない。本家の牙。アルヴェインの脅し。グレゴルの帳簿。エウリスの手紙。生かされたのだというヴァレシュの言葉。どれも片づかぬまま胸の中に積み重なり、少し触れれば崩れる雪壁のように、白く、冷たく、危ういまま残っている。

 だから、その一言も最初はその雪の上へ落ちた別の白い塊のようにしか思えなかった。

「……何と」

 ルキアンが聞き返すと、ヴァレシュは書き物の手を止めないまま、淡々と繰り返した。

「エウリスに会わせる」

 夕方の光は薄く、書斎の窓にかかる曇り空を白く滲ませていた。暖炉にはまだ火が入り切っておらず、炉床の奥でくすぶる赤が、部屋の底のほうだけを静かに温めている。紙と革と乾いたインクの匂いの中で、その言葉だけが妙に生っぽく聞こえた。

「……本当に」

「そんなことで冗談は言わん」

 ヴァレシュはようやくペンを置き、ルキアンを見た。

 いつものように静かな目だった。だがその静けさの奥に、今日は決定の色があった。もう手配は済んでいるのだろう。そういう顔だった。

 ルキアンはすぐには返事ができなかった。

 会いたいと思わなかった日はない。手紙だけでは足りないと思わなかった夜もない。無事だと知っても、その顔を見なければ胸の奥の何かは収まらなかった。けれど、いざ会えるとなった瞬間、喜びより先に別の感情が来た。怖い。会って、何を言われるのか。何を言うのか。どんな顔をすればいいのか。手紙の「もう戻らなくていい」という一文が、まだ胸の深いところへ刺さったままなのに。

「今夜だ」

 ヴァレシュが言う。

「日が落ちてから出る。表向きは北の離れの視察だ」

 細かな手配はもう終わっているらしい。ルキアンはようやく、膝の上で握っていた指を少し開いた。

「……ありがとうございます」

 言ったあとで、自分の声がほんの少し震えているのに気づく。

 ヴァレシュはそれを指摘しない。ただ、ごく短く頷いた。

「礼は会ってからにしろ」

 その返しが、妙にこの人らしかった。

 馬車は公爵家の紋章を外した、目立たぬものが使われた。

 夜の帳が完全に落ちる前、まだ空の底に灰青い明るさが残っている頃に、二人は裏門から館を出た。同行するのは御者と、少し離れた位置で先導する護衛が二人だけ。目立たない。だが、十分に用意された静けさだった。

 車輪は湿り気を含んだ道をほとんど音もなく進む。窓には厚めの布が下ろされ、外は輪郭だけしか見えない。時折、石畳の継ぎ目を越えるたびに小さく揺れ、そのたびに革張りの座席が静かに軋んだ。狭くはない馬車の内部に、向かい合う形でヴァレシュとルキアンが座っている。灯りはついていない。薄暗い中でも、向かいにある琥珀の目だけは妙に分かった。

 ルキアンは両手を膝の上で組んでいた。手袋はしていない。布を介さぬ自分の手が、今夜はやけに心許ない。

「寒いか」

 不意に、ヴァレシュが問う。

「いえ」

「嘘だな」

 短く言われる。

 ルキアンは思わず顔を上げた。暗がりの中で、ヴァレシュは座席の脇に置いていた薄い毛織りの外套を手に取ると、当然のようにこちらへ差し出した。

「膝にかけろ」

「……大丈夫です」

「大丈夫な顔ではない」

 そのやり取りに、いつかの夜更け、指先を温められた時のことが重なる。拒む理由が見つからず、ルキアンは外套を受け取った。重すぎず、柔らかい。膝へかけると、冷えていた脚のあたりへじんわり熱が戻る。その、あまりにちょうどよい重さにまた落ち着かなくなる。

「会って、何を言うかは決めているか」

 ヴァレシュの問いに、ルキアンはしばらく答えなかった。

 決めているわけがない。会いたかった。確かめたかった。無事か、自分の目で見たかった。けれど、そこから先は何も形になっていない。

「……分かりません」

「それでいい」

 慰めではない。ただの事実としてそう返される。

 馬車はゆるやかに減速し、やがて止まった。扉が外から開けられる。冷えた夜気が流れ込む。そこに混じる匂いで、ルキアンはどこへ来たのかすぐに察した。湿った石、古い木、わずかに焚かれた蜜蝋の灯り、夜の薬草。

 修道院だ。

 表門ではない。裏手の、奉仕の者や荷が出入りする小さな門のあたりらしい。高い石壁の向こうから、夜の祈りを終えたあとのような静けさが漂ってくる。遠くに鐘の余韻が、もうほとんど消えかけた形で残っていた。

 ヴァレシュが先に降り、ルキアンへ手を差し出す。いつものように当然の顔だ。今さら拒むのも不自然で、ルキアンはその手を借りて馬車を下りた。

 足元は細かな砂利だ。夜露の湿り気が靴底からわずかに伝わる。裏門の向こうに立っていたのは、修道衣の上に厚手の灰色の外套を羽織った初老の男だった。修道院長ではない。だがそれに近い立場らしい、落ち着いた眼差しをしている。

「閣下」

 彼はまずヴァレシュへ一礼し、それからルキアンへも静かに頭を下げた。

「短い間ですが、どうぞ」

 必要以上のことを言わない口ぶりだった。分かっていて、分からぬふりをする人間の声だ。

 石造りの回廊を進む。修道院の内部は夜の静けさをたたえていた。壁にかけられた燭台の火だけが細く通路を照らし、古い石床は昼の熱を完全に失って冷えている。歩くたび、衣擦れの音が小さく反る。遠くのほうで、誰かが水を捨てる音がした。ほかには何も聞こえない。

 裏手の離れへ通される。そこは修道女たちが病人や静養の必要な者に貸すための、小さな棟だった。窓は低く、部屋ごとに小さな暖炉があり、豪華さはないが清潔だ。乾いた薬草の匂いがどこかに残っている。

 案内の男が一つの扉の前で足を止めた。

「こちらです」

 それだけ告げて、彼は静かに一歩下がる。

 ヴァレシュは扉を開けなかった。ただルキアンを見た。

「行け」

 短い言葉。

 ルキアンは、そこで初めて息を止めていたことに気づいた。喉が渇く。指先がまた冷える。扉の向こうにいる。エウリスが。本当に。

 手を伸ばし、扉へ触れる。木は夜の冷えを吸って少しだけ冷たかった。その感触に背を押されるように、ルキアンはゆっくりと扉を押し開けた。

 部屋は広くない。

 暖炉には小さな火が入り、その赤が壁へ柔らかく映っている。窓際には簡素な机。棚には薬瓶と布。それから、壁際の椅子のそばに、人が一人立っていた。

 エウリスだった。

 薄い生成りの室内着に、深い青の上着を羽織っている。以前より少しやつれて見えた。だが、顔色は手紙を送っていた頃よりむしろよかった。頬の青白さはまだ完全には取れていないけれど、目の下の影は少し薄い。髪は結い上げられておらず、肩口へやわらかく落ちている。修道院という場のせいか、いつもの貴族らしい整えられ方より、ずっと素の輪郭に近かった。

 そして、その顔が、ルキアンを見た瞬間に崩れる。

「……ルキアン」

 最初の一言がそれだった。

 肩書きではない。従者でもなく、誰かに向ける礼儀でもない。名前だけ。

 ルキアンは足が止まったまま、何も言えなかった。

 会えた。無事だった。それだけで本来なら十分なはずなのに、胸の内は一気にいっぱいになって、何から先に手を伸ばしていいのか分からなくなる。

 先に動いたのはエウリスのほうだった。数歩、こちらへ近づく。だが抱きつくでも、駆け寄るでもない。近づきながらも途中で一度だけ躊躇い、ほんの一歩手前で止まる。その揺れ方が、あまりにもエウリスらしくて、ルキアンの喉の奥が熱くなった。

「……会えて」

 エウリスが言いかけ、言葉を切る。

「よかった」

 やっとのように続いたその声は、手紙の文字よりずっと生々しかった。

「本当に、無事で」

 ルキアンはそれを聞いた瞬間、ようやく膝の力が抜けそうになった。無事だ。自分の目の前で喋っている。暖炉の火を背に受けて、少し困ったように眉を寄せながら、それでもここに立っている。

「……エウリス様」

 呼ぶと、声が少し掠れた。

 エウリスはその呼び方に、ごく微かに悲しい顔をした。だがすぐにそれを呑み込み、いつものように柔らかく言う。

「座って。立ち話をするには、ちょっと色々ありすぎるから」

 それがきっかけになって、二人ともようやく息を吐いた。暖炉のそばの小さな卓を挟み、向かい合う形で椅子へ座る。修道院の離れの家具は簡素だが、磨かれていてきれいだった。卓の上には湯の入った白いカップが二つ、すでに用意されている。ルキアンが来ることを分かっていたのだろう。

 しばらく、どちらも口を開けなかった。

 暖炉の火が細く鳴る。夜の修道院は驚くほど静かで、外の世界が別の場所へあるみたいに遠い。そんな中で、エウリスの呼吸だけが聞こえる。そのことが妙に現実感を持って胸へ入ってきた。

「痩せましたね」

 気づけば、ルキアンはそう言っていた。

 再会して最初に言う言葉がそれかと、自分でも少し呆れる。けれどほかに出てこなかった。

 エウリスは小さく笑った。

「君に言われたくないな」

「私は」

「前より痩せた」

 即座に切り返される。

「顔がちょっと険しくなったし、寝不足の時のまばたきも増えた」

 見られている。昔からそうだった。エウリスは人の小さな変化によく気づく。とりわけ、ルキアンに関しては。

「……それでも」

 ルキアンは言葉を続けた。

「お元気そうでよかった」

「元気ではないけど、生きてる」

 エウリスはそう言って、ふっと視線を伏せた。その横顔にはまだ疲労の影が残っている。けれど、公爵邸へ嫁がされる直前の、息もろくに継げないほど追いつめられていた顔ではなかった。少なくとも今は、自分の呼吸のリズムで生きている顔だ。

「……ごめんね」

 不意に、エウリスが言う。

 あまりにまっすぐで、ルキアンは一瞬、目を上げられなかった。

「何を、ですか」

「たくさん」

 返ってきた言葉は短い。だが、その短さの中にいくつもの意味があるのが分かる。

「君にばかり背負わせたこと。逃げる話を最後まできちんと共有しなかったこと。セリアのことも、本家の帳簿のことも、全部」

 ルキアンは唇を引き結んだ。

 やはり知っているのだ。自分が何を知り、何を知らなかったのかを、エウリスももう分かっている。きっとヴァレシュから聞いたのだろう。そう思うと同時に、エウリスがその事実を隠さず口にしたことが、胸の内側をざらりと撫でた。

「君は、僕のことだけ見ていればいいようにしてしまった」

 エウリスの声は静かだった。

「そうしないと、君が止まらないと思ったから。僕一人なら、きっと君は最後までついてくる。でもセリアまで抱えたって知ったら、君はもっと無理をした」

 その通りだった。反論の余地がない。だからこそ、苦しい。

「……私は」

 ルキアンはどうにか声を出す。

「それでも、知りたかったです」

「うん」

 エウリスは頷く。

「知りたかったと思う。でも、知ったら背負うでしょう」

「背負います」

 即答だった。

 エウリスは少しだけ笑う。困ったような、泣きそうな、でも諦めたような笑みだ。

「そういうところだよ」

 その言い方がやさしくて、ルキアンは胸の奥が痛んだ。

 昔からだ。エウリスはルキアンの忠誠を疎んだことがない。むしろ、誰より大事にしようとした。大事にしようとしたからこそ、今みたいな言葉になる。

「僕が弱かったから」

 エウリスは、暖炉の火を見つめたまま続ける。

「君にばかり重いものを持たせた」

「それは違います」

「違わない」

 今度はエウリスが即座に否定した。

「君が強かったのもある。でも、僕が甘えたのも事実だよ」

 ルキアンは何も言えなかった。

 エウリスは本当に、そう思っているのだろう。甘えた。背負わせた。弱かった。そういう言葉を、自分自身に向ける時のエウリスはひどく容赦がない。

「だから」

 そこでエウリスは、ようやくルキアンをまっすぐ見た。

「ちゃんと言うね」

 その目を見た瞬間、ルキアンは背筋のどこかが冷えた。

 これは、ただの謝罪ではない。何か、決めた人の顔だ。

「ルキアン・フェルド」

 フルネームで呼ばれるのは珍しかった。しかも、この静かな部屋で、その声はひどく formal に響く。

「僕は、レグニス家嫡男エウリス・レグニスとして」

 ルキアンの指先が、卓の下でわずかに強ばる。

「君を、従者の任から解きます」

 言葉が落ちた瞬間、時間が止まったように感じた。

 暖炉の火も、修道院の静けさも、カップから立つ湯気も、何もかもが一度に遠くなる。聞こえているのに、理解が追いつかない。いや、理解はしている。だからこそ、体のどこかが真っ白になる。

「……エウリス様」

 ようやく出た声は、情けないほど掠れていた。

「もう、従者として縛られなくていい」

 エウリスは続ける。

「僕のために人生を止めなくていい。僕を理由に、自分を削らなくていい。今まで本当にありがとう。でももう」

 そこで、声がほんの少しだけ震える。

「もう、主命として言います。自由になって」

 自由になって。

 その言葉は、あまりにもやさしくて、あまりにも残酷だった。

 ルキアンは喜べなかった。

 まず襲ってきたのは安堵ではない。喪失だった。胸の内側の、長年そこにあった柱をいきなり引き抜かれるみたいな感覚。従者として仕えること。主のために立つこと。その形の中でしか自分の存在理由を考えてこなかったところへ、急に「もうそれでなくていい」と言われる。

 それでは、自分は何になるのか。

 何のために手を使い、呼吸を整え、朝を迎えればいいのか。

「……嫌です」

 気づけば、子供みたいな声でそう言っていた。

 エウリスの目が揺れる。

「ルキアン」

「そんなのは」

 喉が焼ける。けれど言葉は止まらない。

「そんなのは困ります。私は、エウリス様の従者です。そうでなければ、私は」

 続きがうまく出てこない。そうでなければ、何だ。空になる。意味がなくなる。役目がなくなる。どの言葉もしっくりきて、どれもしっくりこない。

「私は、どうすれば」

 それだけを絞り出すと、エウリスは痛いほどやさしい顔でルキアンを見た。

「それを、君が考えていいんだよ」

「……」

「僕のためじゃなくて」

「そんなこと、急に」

「急だよね」

 エウリスは苦く笑う。

「分かってる。ずるいとも思う。でも、僕はここで、主として一度ちゃんと言わなきゃいけなかった」

 ルキアンはうつむいた。視界の端で、暖炉の火が揺れている。赤い。静かだ。なのに、自分の中だけがひどくぐらぐらしている。

「君は、僕のものじゃない」

 エウリスの声が落ちる。

「昔から、そう言いたかったのに言えなかった。君がいてくれることに、甘えていたから」

 その言葉が、胸へ深く刺さる。

「君がいなきゃ立てない夜が、たくさんあった」

 エウリスはもう、笑っていなかった。

「怖い時、苦しい時、君がいてくれるから大丈夫だと思っていた。だから従者でいてほしかった。違う、いてくれて助かった。でも、それを続けると、君の人生が僕のためだけになる」

「それでいいと」

 ルキアンは反射的に言い返した。

「私は思っていました」

「うん」

 エウリスは頷く。

「だから駄目なんだ」

 静かな断言だった。

「君は、そうやって自分の分まで人を生かそうとするから」

 ルキアンは答えられなかった。

 否定できないからだ。

 エウリスは卓の上へ片手を置き、少しだけ身を乗り出した。その指先は細く、以前より骨ばって見える。だがその手が、今はまっすぐルキアンのほうへ伸びている。

「僕は弱かった」

 エウリスが言う。

「本家の圧に抗う力もなくて、婚姻を断ち切る勇気も遅くて、セリアのことも君のことも、きちんと守れるほど強くなかった」

「そんな」

「でも、君にそれを背負わせ続ける弱さだけは、やめたい」

 その言葉に、ルキアンの喉が詰まる。

「だから、お願いじゃなくて命令する」

 エウリスはそこで、ほんの少しだけ息を吸った。

「もう、従者として縛られなくていい」

 繰り返される。

 今度は、はっきりと“命令”として。

 ルキアンは目を閉じたかった。耳を塞ぎたかった。けれどどちらもできず、ただその言葉をまともに受けるしかなかった。

 自由になって。

 縛られなくていい。

 主命だ。

 そこまで言われたら、従者は従うしかない。従うしかないのに、その命令は従うことで自分の立つ場所を失う類のものだった。

「……かしこまりました」

 どうにか言えたのは、それだけだった。

 その声は、自分でも驚くほど乾いていた。泣きそうでも怒っているでもなく、ただ感情が一度引き剥がされた後の声だ。

 エウリスの瞳が揺れる。

「ルキアン」

「ですが」

 ルキアンは顔を上げた。言わなければならなかった。

「すぐには、無理です」

 正直な言葉だった。従者ではなくなったあと、自分がどう生きればいいのかなど、今すぐ考えられるはずがない。

「そうだよね」

 エウリスはかすかに息を吐く。

「急にできないよね。ごめん」

「謝らないでください」

「謝るよ。これも僕の弱さだから」

 そこだけは譲らないような声だった。

 しばらく、どちらも言葉を失った。

 暖炉の火が少し崩れ、赤い芯が見える。部屋の中は暖かい。けれどルキアンの内側はどんどん空いていくみたいだった。従者をやめたあと。そう考えた瞬間、自分の中身がきれいに抜けてしまうような怖さがある。

 エウリスは、その沈黙の中で最後に静かに言った。

「君は、従者じゃなくても、君だよ」

 その言葉はやさしい。やさしいが、今のルキアンにはすぐには受け取れない。従者ではなくなったあとに残る“君”が、まだどういう形なのか見えないからだ。

 別れの時間は、思っていたより早く来た。

 長くいては危険なのだろう。修道院側の男が控えめに扉を叩き、ヴァレシュのほうへ目配せする気配があった。ルキアンは立ち上がる。エウリスも立つ。距離は近いのに、抱きしめることも、手を取ることも、今はできなかった。

「元気で」

 エウリスが言う。

「それは、命令ですか」

 自分でも意地の悪い返しだと思った。けれどそう言わずにはいられなかった。

 エウリスは少しだけ笑った。

「お願いだよ」

「……そうですか」

 ルキアンはそれ以上、何も言えなかった。

 修道院の回廊へ出ると、夜気がひやりと頬に触れた。さっきまで暖炉の近くにいたせいで、その冷たさが妙に鋭い。ヴァレシュは少し離れた位置で待っていた。こちらへ何も聞かない。ただ、ルキアンの顔を一度見ただけで、十分だと判断したように歩き出す。

 帰りの馬車の中、ルキアンはほとんど一言も発しなかった。

 窓の外はもう完全な夜だ。修道院の裏門を離れ、石壁が遠ざかる。車輪の音だけが一定のリズムで続く。向かいに座るヴァレシュの姿は暗がりの中で輪郭だけが見える。けれど、その視線が何度か自分へ向いたことは分かった。

 ルキアンは膝の上の手を見つめていた。

 従者の手。

 花婿の形を作っても、茶を淹れる時に無意識の癖が出る手。主のために動くように覚えた手。その“従者”という名前を、さっき正式にほどかれた。

 嬉しいはずがない。悲しいとも少し違う。ただ、体の中にあった骨組みが一つ抜かれたみたいに、何をどう支えればいいのか分からない。

「……何も」

 気づけば、呟いていた。

 ヴァレシュの目が上がる。

「何だ」

「何もなくなったみたいです」

 声は思ったより静かだった。泣いているわけでも、取り乱しているわけでもない。ただ、本当にそう感じていることが、そのまま声に乗った。

「従者でなくなったら」

 喉が少し熱い。

「私は、何でいればいいんでしょう」

 ヴァレシュはすぐには答えなかった。

 馬車が小さな段差を越え、揺れる。そのわずかな揺れのあとで、低い声が落ちた。

「従者をやめたあと、お前は空にはならない」

 その一言が、夜の暗さの中でやけにはっきり響いた。

 ルキアンは顔を上げる。

 向かいの暗がりの中で、ヴァレシュの目がこちらを見ていた。いつもの冷たさだけではない。もっと深く、静かな熱を含んだ目だ。

「役目がほどけても、中身までは消えない」

 ヴァレシュは続ける。

「お前の手も、目も、息の仕方も、誰かを守ろうとするところも、全部そのまま残る」

 ルキアンは何も言えなかった。

「空になるのは、役目しか自分に与えられなかった人間が、自分をその役目だけだと思い込んだ時だけだ」

 低い声が、ゆっくり胸へ落ちてくる。

「だが、お前は違う」

 そして、そこで初めて、ヴァレシュは少しだけ声を変えた。

 大きくではない。甘ったるくもない。けれど、今までルキアンが聞いたどの呼び方よりも柔らかく、近い響きで。

「ルキアン」

 名前だけ。

 それだけなのに、破壊力がひどかった。

 花婿でもなく、従者でもなく、役目でもなく、ただ名前だけで呼ばれる。その声が妙に甘く、しかし甘やかしではなく、確かにそこへ在るものを呼び起こすみたいに落ちてくる。

 ルキアンは一瞬、本当に息を忘れた。

 心臓が遅れて強く打つ。首筋の白い花の香りがふっと立ち、胸の奥がひどく熱くなる。役目をほどかれた直後で、空洞になりかけていた内側へ、その名だけがまっすぐ差し込まれる。

「……そんなふうに」

 ようやく掠れた声が出る。

「呼ばないでください」

 拒んでいるつもりなのに、その声には力がない。ヴァレシュはそれを分かっている顔で、わずかに目を細めた。

「嫌か」

 問い方まで静かだ。

 ルキアンはすぐには答えられなかった。嫌だと言えば、今の胸の揺れを否定することになる。嫌ではないと言えば、もっと深く何かを認めてしまう気がする。

「……ずるいです」

 結局それしか言えなかった。

 ヴァレシュは薄く息を吐く。笑ったのかどうかも分からないほど小さな変化だ。

「知っている」

 また、その返答。

 けれど今は、その言葉すら前よりやわらかく聞こえた。

 馬車は夜の道を進む。窓の外は暗い。館へ戻れば、また花婿としての顔を作らなければならない。グレゴルもアルヴェインもいる。本家の牙も消えていない。エウリスとの別れも、従者を解かれた痛みも、簡単には消えない。

 それでも今、ヴァレシュに名前で呼ばれた一瞬だけは、胸の空洞に熱が差した。

 従者ではなく、ルキアンとして。

 その呼び方の破壊力に、ルキアンは帰り道のあいだずっと、まともに呼吸を整えられなかった。


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