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第19話 戻らないと決める
手紙を燃やしたあとの客間には、しばらくのあいだ、燃えた紙の匂いだけが細く残っていた。
伯爵家の封蝋の冷たい匂いでもなく、ユリゼンの部屋に漂っていた葡萄酒と香油の混ざった匂いでもない。火に舐められ、文字を失い、灰へ変わった紙の匂い。それは終わったものの匂いだった。終わりきってはいなくても、少なくとも、こちらの部屋の中ではもう命令として力を持てないものの匂い。
セスティアは暖炉の前にしばらく立っていた。
火ばさみはラドヴァンが元の場所へ戻した。ニネッタは小卓の上を片づけ、写しを入れた記録箱をそっと机の端へ移している。誰も「これで安心ですね」とは言わない。そんな安っぽい言葉で済むほど、伯爵家から届いた紙の冷たさは浅くなかったからだろう。けれど部屋の空気は、手紙を読む前とは確かに違っていた。
自分で選んで燃やした。
その事実が、胸の奥へじわじわと沁みていた。
「奥様」
ニネッタが控えめに呼ぶ。
「お茶を淹れ直しますか」
セスティアは一度だけ瞬きをした。暖炉の火を見つめていたせいで、視界の端に橙の残像が揺れている。
「……ええ、お願い」
「はい」
侍女が小さく頭を下げて出ていく。扉が閉まる音は小さかったのに、そのあとに訪れた沈黙はやけに重かった。セスティアは無意識に暖炉へ目を向ける。赤い火が、何も知らないように静かに薪を食べている。
伯爵家から来た手紙。
謝罪だろうか。いや、違う。少なくとも純粋な謝罪ではあり得ない。ユリゼンはあの日、自分が笑ったことすらきちんと理解していなかった。ベルソナに至っては、離縁の場ですら体面と上下関係の話しかしていない。あの家の人間が、ただ「悪かった」とだけ書いてくるはずがない。
戻れ、だろうか。
戻って何事もなかったふりをしろ。伯爵夫人として家へ戻れ。家計を立て直せ。女主人の席へ座れ。ただし黙って。そんな命令と依存が、謝罪の形を借りて並ぶのではないか。
そう考えたところで、扉が軽く叩かれた。
「持ってまいりました」
男の声。落ち着いた執事補佐の声だった。
「どうぞ」
入ってきたのは中年の男で、低く頭を下げ、銀の盆に封書を一通載せている。封筒は厚手の上質紙で、見覚えのある伯爵家の紋章入り封蝋がきちんと押されていた。離縁が成立し、指輪も置いてきたというのに、その紋章がまだ自分へ届く。その事実が妙に不愉快で、同時に少し恐ろしい。
「ここへ」
セスティアは小卓の空いた場所を指した。
男は静かに封書を置き、余計な視線を向けることなく一礼して下がった。扉が閉まる。
部屋にはセスティアとニネッタだけが残る。
その封書を前にしただけで、手が冷たかった。まだ触れてもいないのに、指先の熱が抜けていく。伯爵家の紋章はただの蝋の形にすぎないのに、それがまるで過去そのもののように見える。
「奥様」
ニネッタが不安そうに呼ぶ。
「わたしが開けましょうか」
セスティアはすぐには答えなかった。開けてほしい気持ちもある。封蝋を割る、その小さな動作にすら、伯爵家の空気が蘇りそうで嫌だった。けれど、それを人に任せたくない気持ちのほうが強い。
「いいえ」
ようやく言った。
「わたくしが」
封書へ手を伸ばす。指先がほんの少しだけ震える。紙に触れた瞬間、その冷たさが皮膚から腕の内側を這い上がった。南の紙だ、と身体が先に理解したみたいだった。暖炉のある部屋にいるのに、伯爵家の石の食堂の冷たさが一瞬だけ蘇る。
封蝋を割る。ぱきり、と乾いた音。
封筒から便箋を取り出す。字は、案の定ユリゼンのものだった。流れるようでいて、どこか責任を持たない、あの字。見ただけで胃のあたりが硬くなる。
セスティアは一度だけ呼吸を整え、読み始めた。
『セスティアへ
まず、あの日は取り乱した形になったことを詫びる。君が感情的になっていたこともあり、こちらも冷静さを欠いた。そこは互いに良くなかったと思う』
最初の一行で、もう胸のどこかが冷えた。
謝罪を装っている。だが「互いに良くなかった」という言い方で、最初から責任を分け合おうとしている。感情的だったのは自分だと置き、その上で、向こうの冷静さを欠いた態度を「同程度の過失」に矮小化している。
セスティアの指先は、そこでさらに冷たくなった。
読み進める。
『だが、その後の展開は明らかに行き過ぎだ。公証人を入れ、家の内情を外へ晒したことは、結果としてハルヴァス家にも君自身にも傷を残した』
行き過ぎ。
家の内情を外へ晒した。
そこに、自分がしたことへの謝意も、痛みへの理解もない。あるのは、外聞を損ねたことへの恨みだけだ。
『いま必要なのは、過去の感情にこだわることではなく、現実的な収拾だ。家は現在、想定以上に不安定だ。母上も気落ちしておられるし、使用人たちも動揺している。君はもともと実務に強く、家の運営に欠かせない立場だった。そこは私も認めている』
欠かせない立場だった。
認めている。
文字にすると褒め言葉のように見えるのが、腹立たしかった。けれどその実、言っていることはただ一つだ。戻って来て家を立て直せ。お前が抜けた穴をお前が埋めろ。そこに、関係を修復したいという願いはない。まして、失ったものを惜しむ気持ちもない。
『感情論を横へ置き、一度戻って話し合うべきだと考える。伯爵夫人として再び迎える用意はある。形式にこだわるなら、改めて人を通して整えてもいい。母上も、家のためになるなら折れるだろう』
セスティアの手が、そこでぴたりと止まった。
伯爵夫人として再び迎える用意はある。
家のためになるなら折れる。
まるで慈悲のように書いてある。だが実際には、またあの席へ戻れと言っているだけだ。自分たちが壊したものを「形式」と呼び、義母の支配を「折れる」と書き換え、すべてを家の都合へ回収しようとしている。
最後の数行を読む前から、中身はもう分かっていた。
『君一人では、北にいても長くは持つまい。今のうちに意地を張らず戻るのが賢明だ。こちらも完全に目を閉じるつもりはない。必要なら迎えを出す。
ユリゼン・ハルヴァス』
読み終えた瞬間、指から紙が落ちそうになった。
迎えを出す。
その一言に込められた意味は、謝罪でも懇願でもない。命令だ。支配だ。戻るのが賢明だと決め、戻らなければこちらから動くと言っている。しかも最後まで、自分が「家のために役に立つ者」としてしか書かれていない。
セスティアの指は、紙に触れただけで冷えていた。読み進めるうち、その冷たさは手の甲、腕の内側、喉の奥へまで広がった。暖炉の火が目の前にあるのに、身体の中だけ伯爵家の石の食堂へ引き戻されるみたいだった。
「奥様」
ニネッタが恐る恐る呼ぶ。
「何と……」
セスティアは答えられなかった。声にすると、その文面の嫌悪がもっとはっきり部屋へ広がってしまいそうで。
けれど答えずにいるうちに、気配が増えた。
いつの間に来たのか、客間の扉の近くにラドヴァンが立っていた。ノックも、足音も、今のセスティアは気づかなかったらしい。それほど紙の中へ引きずり込まれていたのだと遅れて分かる。
彼はすぐには何も聞かなかった。セスティアの手元の便箋と、その色を失った指先と、たぶん顔色まで見たのだろう。灰緑の目が一度だけ細くなる。
「読んだな」
低い声だった。
セスティアは、どうにか頷いた。
「はい」
「内容は」
問われて、彼女は便箋を見下ろす。まだそこに文字が並んでいる。見たくないのに、目を離すと逆に言葉が耳の奥で繰り返されそうだった。
「謝罪の形をしています」
ゆっくりと言う。
「でも……中身は、戻れという命令です。家を立て直せ、と。わたくしが抜けた穴を埋めろ、と。伯爵夫人として迎える用意はある、などと」
最後のところで少しだけ喉が詰まる。怒りというより、呆れに近い。それでもまだこんな文をよこせることへの、深い倦みのようなもの。
ラドヴァンはそれを最後まで聞いた。遮らず、慰めず、ただ聞く。
「読み返すな」
やがて彼はそう言った。
その言葉と同時に、暖炉のそばへ歩み寄る。火の近くに立てかけてあった火ばさみを取り、黙ってこちらへ差し出した。
長い鉄の火ばさみ。
暖炉の赤い火を背景にして、その先端だけが鈍く光っている。
「燃やすか、保管するかは」
ラドヴァンが言う。
「お前が決めろ」
その一言で、セスティアは息を止めた。
火ばさみを受け取るかどうかさえ、自分で決めていいのだと、まずそのことに少し驚く。伯爵家では、手紙が来れば読むか捨てるかを自分で選ぶ感覚などほとんどなかった。来たものは受け取り、返事を書くよう求められれば書き、命じられれば会い、呼ばれれば出る。選ぶというより、反応を強いられるだけだった。
けれど今、ラドヴァンは答えを与えない。
燃やせ、とも言わない。大事な証拠だから残せ、とも言わない。自分が決めろとだけ言う。その突き放し方が、不思議なくらい優しかった。
選ぶ権利を返される。
たったそれだけのことが、こんなにも胸へしみるのかと、セスティアは思う。
彼女はそっと火ばさみを受け取った。鉄はひやりと冷たい。指先の冷えと似た温度だ。便箋をもう一度見る。そこにはまだ、ユリゼンの流れる字が残っている。戻れ。立て直せ。迎えを出す。家。家。家。どこまで行っても、自分はその文の中で道具でしかなかった。
燃やしたい。
今すぐ火へくべて、灰にしてしまいたい。そうすれば、あの家の匂いも少しは消える気がする。
けれど同時に、保管すべきだとも分かる。この手紙は、あの家の本質そのものだ。謝罪を装いながら、命令と依存しか書けない人間の文字。もし今後また何かが起きた時、これが証拠になる可能性は十分にある。
セスティアの指が、便箋の端をかすかに震わせた。
「……ずるいですね」
ぽつりと、そんな言葉が口からこぼれた。
ラドヴァンは何も言わない。ただ暖炉の前に立ったまま、こちらを見る。答えを急かさない沈黙だった。
「燃やしたいのに、残すべきだと分かってしまうから」
そう言うと、自分でも少しおかしくて、苦い息が漏れる。伯爵家にいた時と同じだ。感情だけで動けばあとで首を絞めると知ってしまっているから、最後まで「ただ嫌だから捨てる」ができない。
ラドヴァンは短く頷いた。
「なら、両方取ればいい」
「両方?」
「中身を書き写して残す。原本は燃やす」
その言い方が、いかにも彼らしいと思った。感情を捨てろとも、証拠を捨てるなとも言わない。両方欲しいなら両方取れ、と言う。実務と感情を両立させるやり方を、まるで当たり前のように差し出す。
セスティアは便箋を見下ろした。たしかに、それならできる。中身を記録として残し、原本はここで終わらせる。紙そのものの持つ匂いと冷たさは、火にくべてしまえばいい。
「……そうします」
ようやくそう答えると、ニネッタがほっと息をついた。
「では、わたしが」
「いいえ」
セスティアは首を振る。
「これは、わたくしが写します」
誰かに代わってほしくないのだと、自分でも分かった。読みたくない。触れたくない。けれど、だからこそ自分の手で終わらせたい。誰かに処理してもらうのではなく、自分で文字にし、自分で火へ返したい。
小卓へ紙を引き寄せ、インク壺の蓋を開ける。手はまだ冷えている。けれどペンを持つと、少しずついつもの感覚が戻ってくる。数字ほどではないが、言葉もまた形にすれば扱える。感情のまま胸に残しておくより、紙へ写したほうがいい。
セスティアはユリゼンの手紙を一文ずつ、簡潔に書き写していった。
『謝罪を装う書き出し』
『家の内情を晒したと非難』
『家の不安定を理由に帰還要求』
『実務に強いから必要と明記』
『伯爵夫人として迎える用意と記載』
『戻らねば迎えを出すと示唆』
書いているうちに、妙なことが起きた。
最初に便箋へ触れた時のあの冷えが、少しずつ別のものへ変わっていくのだ。腹立たしさはある。嫌悪もある。けれど、文字を要約し、自分の言葉で置き直すたびに、紙の向こうの支配が一枚ずつ薄れていく。ユリゼンの文面は、最初は生々しい命令に見えた。だが、こうして整理し直すと、その本質はただの依存と命令の束でしかない。
写し終えた時、セスティアはもう一度だけ原本を見た。
あの家の匂いがする紙。
謝罪を装いながら命じる男の字。
「よし」
ラドヴァンが小さく言う。
それが合図になった。
セスティアは火ばさみで便箋の端を挟んだ。鉄の先が紙をつかむ。持ち上げると、紙は驚くほど軽かった。軽いのに、その軽さがひどく不快だった。こんなにも薄い紙一枚で、身体の中へあれだけ冷えが広がったのだ。
暖炉の火へ近づける。
最初、紙は少しだけ躊躇うように端を焦がした。次いで、火が文字の上を舐めていく。ユリゼンの字が黒く縮れ、灰になり、やがて赤い火の中へ丸まって落ちる。戻れ。立て直せ。迎えを出す。その命令の文字が、音もなく潰れていく。
セスティアはそれを、最後まで見届けた。
全部が灰になり、火ばさみの先を離れて崩れるまで。目を逸らさずに。
そうしてようやく、胸の中へひとつ、深い息が落ちた。
苦しいのではない。吐ける息だ。あの紙はもうここにはない。写しは残した。必要ならまた見返せる。だが、この匂いのある原本は火の中で終わった。
火ばさみを下ろすと、ラドヴァンが黙って受け取った。何も言わない。ただ、彼の目は「お前が決めたな」と言っているように見えた。
「ありがとう」
セスティアがそう言うと、彼は短く頷いた。
「次が来ても同じだ」
「同じ」
「読むか、読まないか。燃やすか、残すか。返すか、無視するか」
灰緑の目がこちらをまっすぐ見る。
「お前が決めろ」
その言葉に、セスティアはほんの少しだけ笑った。まだ顔のどこかに緊張は残っている。それでも、自分の口元がやわらぐのを感じる。
選ぶ権利を返される。
それは一度で終わることではなく、これから先も何度も必要になるのだろう。南からまた手紙が来るかもしれない。噂も届くかもしれない。そのたびに、返事をするかしないか、保管するか捨てるか、自分で決めなければならない。
怖い。けれど、怖いままでいいのだ。
怖いままでも、選べる。
「覚えます」
セスティアは静かに言った。
「少しずつでも」
ラドヴァンはその答えにだけ頷き、暖炉の脇へ火ばさみを戻した。ニネッタはまだ少し青い顔をしていたが、燃え尽きた灰を見て、やっと肩の力を抜く。
客間の中には、暖炉の火と、燃えた紙のわずかな匂いが残った。
その匂いは、伯爵家の封蝋の冷たい匂いよりずっとましだった。灰になる匂いは終わる匂いだ。命令の匂いではなく。
セスティアは写しを折りたたみ、記録用の箱へ入れた。
残すものと、燃やすもの。
その両方を、自分で選んだ。
それだけで、部屋の空気が少しだけ自分のものへ近づいた気がした。
しばらく誰も話さなかった。
ニネッタは茶をもう一度温め直し、カップへ注ぐ。ラドヴァンは暖炉の火の具合を一度見て、それから窓の外へ目をやる。外は灰色だった。北の空は、雪になる前に必ず少し重く沈む。枝の先まで色を失って、白とも灰ともつかぬ光が地面へ落ちる。風も少し出てきたらしく、窓ガラスの向こうで裸木がかすかに揺れていた。
「今日は外へ出るな」
ラドヴァンが窓を見たまま言う。
「雪になる」
「はい」
セスティアは素直に頷いた。
いつもの自分なら、こういう時でも何か一つくらい見ておきたい、数字の確認がしたい、昨日の便の控えをまとめたい、と思ったかもしれない。だが今日は不思議とそうならなかった。手紙を読み、冷えた指で紙を持ち、写しを作り、火へ返した。その一連だけで、胸の中はもう十分に仕事をしたあとのみたいに重かった。
「少し休め」
ラドヴァンが続ける。
「頭が冷えてる」
その言い方に、セスティアは少しだけ口元を和らげた。熱がある、ではなく、頭が冷えている。たしかに今の自分はそうなのだろう。身体の内側へ、伯爵家の紙の冷たさがまだ薄く残っている。
「そうします」
答えると、ラドヴァンはもう何も言わずに客間を出ていった。扉が閉まる。閉まる音が、やはり静かだ。
ニネッタが茶のカップを手渡してくる。
「奥様」
「なに」
「本当に、お返事なさらないのですね」
セスティアは両手でカップを包み、その熱を指へ移した。もうだいぶ冷えは和らいでいる。けれど思い出せば、あの封書へ触れた瞬間の冷たさはまだすぐに蘇る。
「ええ」
静かに答える。
「返事はしない」
「迷いでは、ないですか」
「ないわ」
セスティアは窓の外を見た。灰色の空の向こうに、まだ輪郭のあいまいな未来がある。何もかも見通せているわけではない。北の館でどれくらい過ごすことになるのか。ラドヴァンのもとで、どこまで自分が役に立てるのか。春になれば何が変わるのか。まだ白紙の部分はいくらでもある。
けれど一つだけ、はっきりした。
「これは、線引きよ」
カップの湯気越しに、自分の声が見えるような気がした。
「向こうの言葉へ、もうわたくしの時間を差し出さないって決めるための」
過去の自分なら、きっと違った。返事を書いたはずだ。説明したはずだ。理解を求め、まだ分かり合える余地がどこかにあるのではないかと、紙の上で何度も自分を削ったはずだ。
でも、もう違う。
理解を求めることと、消耗することが同じ意味しか持たない相手だと知ってしまった。だったら、その回路を自分で閉じなければならない。
「戻らない」
セスティアは、今度ははっきりと言葉にした。
「もう、戻らない」
その一言は、手紙を読む前よりもずっと深く胸へ落ちた。
伯爵家を出た時にもそう思っていた。けれどあの時は、追われるように馬車へ乗り、身体だけが先に逃げていた。今は違う。向こうから来た言葉を読み、その依存と命令を見たうえで、それでも戻らないと自分で決める。
その違いは大きかった。
「未来のことを、考えられるわ」
ぽつりとそう言うと、ニネッタが目を瞬いた。
「未来」
「ええ。向こうへ何と返すかではなくて、明日どこを見るかとか、冬が終わるまでに何を整えるかとか、そういうこと」
それが初めてだった。
伯爵家にいた頃、自分の未来はいつも「相手が何を言うか」の先にしかなかった。夫の機嫌。義母の要求。愛人の居座り。外聞。どれもこちらの時間を先に奪い、その残り滓の中でなんとか息をしていただけだ。だが今、返事をしないと決めたことで、向こうへ差し出すはずだった時間がまるごと自分の手元へ戻ってくる。
それはひどく小さな自由に見える。
けれど、輪郭のない未来を初めて自分の側へ引き寄せるには、十分すぎるほど大きかった。
「奥様」
ニネッタの声は少しだけ明るかった。
「では、このあと、何をなさいますか」
セスティアは少し考え、それから小さく笑った。
「まずは、雪になる前に窓辺の灯りを少し内側へ寄せたいわ。曇ると手元が見えにくくなるもの」
「はい」
「それから、昨日の南便の積載見直しをきちんと写して、父の手紙も少し整理したい」
「はい」
「あと……」
そこまで言って、セスティアはほんの少しだけ視線を遠くへやった。窓の外の灰色の向こう。まだ白紙の多い未来のほうへ。
「春になったら、この館の庭がどんな色になるのか、知りたい」
口にした瞬間、自分で少し驚いた。
春。
そんな先のことを、自分が口にするなんて思っていなかった。けれど、言ってみるとその言葉は妙に自然だった。戻らないと決めたからこそ、初めて「その先の季節」を想像できるのだと気づく。
ニネッタは目を丸くしてから、ふわりと笑った。
「きっと、見られます」
「ええ」
セスティアも頷く。
戻らないと決めたことで、ようやく未来の輪郭が浮かぶ。
それはまだ、雪の向こうにある薄い影みたいに頼りない。けれど、確かにそこにある。伯爵家の手紙へ返事を書くことでまた過去へ引き戻されるのではなく、その紙を燃やし、返答しないと線を引いたことで、自分の時間はやっと前へ向き始めたのだ。
客間の外では、風の音が少し強くなっていた。雪が来るのだろう。けれど部屋の中には暖炉があり、熱い茶があり、机と紙があり、これから整えていくべき日々がある。
セスティアはカップを置き、白紙を一枚引き寄せた。
返事の便箋ではない。
自分のための紙だ。
そのことが、今は何より静かに嬉しかった。
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