もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

なつめ

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第16話 前世と違う襲撃


 王都を離れる日取りが、ようやく現実の輪郭を持ちはじめた頃だった。

 アデル叔母のもとへ向かう準備は、ひとつずつ、けれど確かに進んでいた。父は「静養は一月」と念を押し、継母は露骨に不満を隠さないまま、それでも表向き必要な手配だけは整えさせた。王都から西の丘陵地までの行程。途中で泊まる宿。必要最低限の衣類と書物。薬草院へ持っていくための礼と、母方の家へ送る事前の荷。

 夢ではない。
 逃避でもない。
 それはもう、具体的な移動の話になっていた。

 だからこそ、伯爵家の中は妙に落ち着かなかった。

 父は平静を装っているが、書斎にこもる時間が増えた。継母は茶会の予定をいくつか詰め込み、娘が王都を離れる前にせめて「伯爵家の令嬢として恥ずかしくない姿」を周囲へ見せておきたいらしい。マリアンヌは姉へ何を言えばいいのか分からないのか、以前より静かにこちらを見つめるようになった。

 そしてセドリックは、相変わらず止まらない。

 花は前ほど頻繁ではなくなったが、その代わり、必要そうなものが増えた。旅向きの手袋。雨に強い靴底へ張り替えをすすめる職人の名。西へ向かう馬車の車輪に適した金具を扱う工房の一覧。露骨ではない。けれど一つ一つが、彼がこちらの出立を、もはや想像ではなく現実として扱っている証のようだった。

 行くなとは言わない。
 だが、行くための条件にまで手を伸ばしてくる。

 それが不気味で、腹立たしくて、そして少しだけ、以前ほど完全には拒めない自分がいることにも、リリアーナは苛立っていた。

 そんな中で、今日は王都郊外の教会附属の慈善庫へ顔を出す予定があった。

 伯爵家から薬草院へ運ぶ予定の乾燥布や保存瓶のうち、幾つかを安く分けてもらえるという話があり、エマが「今のうちに見ておいたほうが」と勧めたのだ。継母は「どうせ静養へ行くのなら、その準備くらい自分で見なさい」と皮肉交じりに言ったが、それでも許しは出た。父も特に反対しなかった。むしろ、娘が静養に本気で向かっていることを示す行動として、伯爵家の体面上も悪くないと判断したのかもしれない。

 だからその日、リリアーナは珍しく王都の外縁に近い場所まで出ることになった。

 供は多くなかった。

 表向きは慈善庫への買い出しに近い用事だ。大げさな護衛をつければ、かえって目立つ。御者と下男一人、侍女としてエマ、それに伯爵家の護衛が二名。近郊への外出としては少なくない。少なくともリリアーナ自身は、そう思っていた。

 だが、のちに思い返せば、それは前世と少し違っていた。

 前世で自分が狙われたのは、もっと後だった。
 王都を離れることもなければ、こうして目立たない外出に護衛が手薄になることもなかった。
 少なくとも、記憶の中ではそうだ。

 その違いが、最初はただの違和感にすぎなかった。

     *

 午前の空は、明るくはないが雨の気配もなかった。

 王都の門を抜ける頃には、街のざわめきはやや遠のき、代わりに風の音がはっきり聞こえるようになる。城壁の外の空気は、同じ春先でも少し匂いが違った。石と人いきれの王都とは異なり、湿った土と乾きかけた草の匂いが混ざる。道の脇には冬を越えた低木が並び、その枝の間から、遠くの丘陵が薄青く見えた。

 馬車の揺れは一定だった。
 エマは向かいに座り、膝の上で小さな荷目録を確かめている。
 リリアーナは窓の外を眺めながら、指先で手袋の縫い目をなぞっていた。

「お嬢様、お顔色はいかがですか」
「大丈夫よ」
「本当に?」
「ええ。今日はちゃんと朝も食べたもの」
「それはよろしゅうございました」

 エマがほっとしたように笑う。

 今朝は、珍しく食事が入った。焼いたパンを半分、卵を少し、薄いスープも飲めた。ここ数日の中ではかなり良いほうだ。王都を離れる準備が具体的になるほど、不安が消えるわけではない。だが「先」が見えることで、体が少しだけ現実へ戻ってくる気がした。

 慈善庫は、王都南西の外れ、小さな礼拝堂に隣接した倉庫だった。孤児院と療養小屋を兼ねた施設の一角で、余った保存布やガラス瓶、乾燥薬草を安価で分けることがあると聞いていた。アデル叔母の薬草院で使うのなら、きっと無駄にならない。

 そういう話を考えている時間は、好きだった。

 伯爵家の娘でも、侯爵家の婚約者でもなく、単に必要な物を揃える人間の頭でいられるから。

「西の丘陵は、やはりこちらより寒いのでしょうか」
「叔母様のお手紙では、朝晩はかなり冷えると」
「では、毛布をもう一枚持たれたほうが」
「馬車が重くなるわ」
「でもお風邪を召しては」
「……そうね。考えてみる」

 そんな他愛もない話をしていた時だった。

 御者台のほうで、不意に馬のいななきが聞こえた。

 甲高く、短く、驚いた時の声だった。

 続いて馬車がわずかに斜めへ揺れる。車輪が石を踏み外したような大きな揺れではない。けれど、普通の道の段差ではない種類の、急な揺れ。

 リリアーナは咄嗟に窓の外を見た。
 道の脇に、荷車が一台、妙な角度で止まっている。

 本来ならすれ違う側へ寄るべきなのに、まるで道を塞ぐような位置だ。車輪の一つが外れたようにも見えたが、その不自然さに気づいたのは一瞬遅かった。

「止まるな!」

 外から、護衛の一人の怒声。

 その直後、何か硬いものが馬車の側面へぶつかった。
 鈍い音。
 板が軋む。
 馬が再び大きく鳴き、御者が手綱を引く気配。
 エマが短く息を呑んだ。

「お嬢様!」

 次の瞬間、馬車が止まった。

 止まらざるをえなかったのだと、すぐに分かった。前方だけではない。窓の向こう、反対側にも人影が見えたからだ。荷運び人のような粗末な外套。だがその立ち方が違う。腰が低く、間合いを詰める準備をしている。偶然道を塞いだ者ではない。

 襲撃。

 その言葉が、遅れて脳裏に上がる。

 前世では、こんなに早くではなかった。

 心臓がどくりと打つ。
 息が浅くなる。
 体は一瞬、凍る。

 けれど次の一拍で、前世の記憶が逆に身体を動かした。
 怖い、と思う暇より先に、まず何をすべきかが分かってしまう。

「エマ、床に伏せて」
「でも」
「早く!」

 エマをほとんど押すようにして、馬車の座席の下へ身を低くさせる。自分もスカートの裾を乱しながら床へ膝をついた。窓から見える位置に頭を上げていてはいけない。これだけは、もう身に染みている。

 外ではすでに金属のぶつかる音がした。
 短剣か、護身用の剣か。
 悲鳴ではなく、男たちの低い怒声。
 そして、ひときわ異質な音。

 空気を裂くような、高い風切り音。

 リリアーナの背中が総毛立つ。
 弓だ。
 しかも狙いは馬車そのものではない。護衛を散らすための牽制。

「前より、早い……」

 思わず口から零れた。
 エマが「お嬢様?」と震え声で呼ぶが、答えられない。

 前世ではもっと後だった。
 しかも、やり口が少し違う。
 あの時はもっと粗く、もっと混乱の中へ押し込むような襲撃だった。
 今のこれは、手際がいい。
 荷車で道を塞ぎ、射手で護衛を散らし、少数で一気に馬車へ近づく。

 誰が教えた。

 いや、違う。
 誰が、と考えるより先に、今は生き延びなければ。

 馬車の扉側で、乱暴に取っ手を引く音がした。
 開けようとしている。

 リリアーナは無意識に床へ落ちていた小さな革袋を掴んだ。中身は薬草ではない。伯爵家の紋入りの封蝋や小物を入れていた袋だ。武器になるはずもない。だが、何も持たずにいるよりはましだった。

 その時だった。

 外から、聞き覚えのある声が落ちた。

「右を潰せ! 弓を先に落とせ!」

 低く、鋭く、迷いのない声。

 セドリック。

 そんなはずはないと思った。
 だが、その声を聞き間違えるはずがない。

 次の瞬間、外の空気が変わった。

 それまでの乱雑な金属音が、急に鋭く整理される。
 誰かが地面へ倒れる重い音。
 短い悲鳴。
 そして再び、あの声。

「荷車の下だ! 二人いる!」

 リリアーナは息を止めた。

 なぜ分かるの。

 外の様子が見えているわけではない。
 だがセドリックは、まるで最初からそこに敵が潜んでいると知っていたみたいに叫んだ。
 右の弓。
 荷車の下の二人。
 回り込みの位置。

 その指示は早すぎた。
 襲撃の場で、その場の判断だけで出せる速さを超えている。

 馬車の外でさらに大きな衝突音。
 誰かが「ぐっ」と短く呻く。
 馬のいななきは遠ざかり、代わりに重い足音がこちらへ近づいてきた。

「リリアーナ!」

 今度は、はっきりと自分の名だった。

 扉が開く。
 外の光が急に差し込み、一瞬、目が眩む。
 そこにいたのは、やはりセドリックだった。

 黒の上着には土と泥がはね、袖口には薄く何かが擦れた跡がある。呼吸は乱れていない。蒼灰色の瞳だけが異様に鋭く、そしてこちらを捉えた瞬間に、張りつめていた何かが一段落ちたのが分かった。

「怪我は」
「……ない、わ」
「立てるか」
「ええ」

 立てる、の言葉と同時に彼の手が伸びる。
 強い。
 迷いがない。
 だが乱暴ではない。

 その手に引き上げられた瞬間、馬車の外の景色が見えた。

 荷車は横倒しになり、伯爵家の護衛の一人が肩を押さえてうずくまっている。地面には二人の男が伏せていた。顔は布で覆われ、服もありふれた荷運び人のものだ。だが腰の位置には短剣。単なる賊ではない。訓練を受けた動きだったと、一目で分かる。

 そしてもう一つ。

 荷車の下から引きずり出された男の手首に、薄い革紐が巻かれている。
 その結び方に、リリアーナは見覚えがあった。

 前世の終わり近く、一度だけ見た。
 侯爵家の裏で動く連中が好んで使う、識別用の癖のある結び方。
 偶然でなければ、あまりに嫌な符合だった。

「移動する」

 セドリックが短く言う。

「ここに留まるな」
「待って」
「何だ」
「……どうして、そこまで分かったの」

 問いは、ほとんど反射だった。
 彼は一瞬だけ、こちらを見た。
 その目に走った揺れは短かったが、見逃せない。

「何のことだ」
「右に弓がいるって」
「……」
「荷車の下に二人いるって」
「……」
「まるで、最初から知っていたみたいだった」

 エマがまだ馬車の中で震えている。
 護衛たちは周囲を固めている。
 こんな場で問い詰めるべきではないと頭では分かる。
 だが、今の今まで冷えていた血が、別の意味でざわめいて止まらない。

 セドリックは答えなかった。
 答えないまま、リリアーナの腕を掴む手だけを少し強めた。

「後で話す」
「今よ」
「今は違う」

 その低さに、前世の彼を思い出しかける。
 だが、違う。
 昔なら、そこで終わりだった。
 今の彼は、終わらせるために言っていない。
 ただ、本当に今は場が違うのだと押し切ろうとしている。

 それが分かることすら、余計に腹立たしい。

「侯爵様!」

 伯爵家の護衛が呼ぶ。
 道の先で、別の馬の音が近づいてきていた。
 味方か、遅れてきた追手か。判別する暇はない。

 セドリックは一瞬で判断したらしい。
 リリアーナを自分の側へ引き寄せ、そのまま待たせていた別の馬車へ向かわせる。
 別の馬車。
 それも、最初から用意していたみたいに。

 そこでまた、背筋が冷えた。

 なぜ。

 どうして予備の馬車が、こんなにも早く?

 彼は今日、偶然ここを通りかかったわけではない。
 追ってきていた。
 しかも、何かが起きることをある程度見込んでいた動き方だ。

「侯爵様、こちらは制圧しました!」
「逃がした数は」
「一人、林へ」
「追うな。囮だ」

 その言葉に、リリアーナはまた凍った。

 囮。

 前世で聞いたことのある言い方だった。
 あの襲撃のあと、彼はたしかに同じことを言った。
 追うな。囮だ。
 その時はただの冷静な判断だと思っていた。
 だが、今目の前で同じ言葉を、同じ速さで、同じ顔で言われると、偶然だとは思えない。

 侯爵邸の護衛らしき男たちが追加で駆けつける。
 それを見て、周囲の警戒がようやく少しだけ緩んだ。

 セドリックはリリアーナを別の馬車の中へ先に入れ、自分もすぐ乗り込んだ。エマも遅れて中へ押し込まれるように入り、扉が閉まる。
 ようやく外の音が一段遠のいた。

 車内の空気は、張りつめたままだ。
 泥と血と外気の匂いが混ざっている。
 リリアーナは座席へ腰を落としたが、心臓の鼓動はまだ速かった。

「怪我は」

 セドリックがもう一度問う。
 今度の声は少しだけ低く落ちている。
 焦りがまだ消えていないのだろう。

「ないわ」
「本当に?」
「本当に」

 そう言いながら、自分でも分かる。
 声が少し掠れている。
 体も少し震えている。
 だが怪我はない。
 傷ついてはいない。
 少なくとも身体は。

 問題は別だった。

「……あなた」

 リリアーナは彼を見た。

 前髪の端に汗が少しだけ滲んでいる。
 いつもの無機質な整い方とは違う。
 外套も汚れている。
 それでも目だけは、異様に冴えていた。
 何を警戒すべきか、どこを見ればいいかを知っている目。

「何」
「前世の記憶、あるんじゃないの」

 車内の空気が、ぴたりと止まった。

 エマが息を呑む。
 御者台の外から馬の蹄の音が響く。
 けれどそのどれも、今はひどく遠かった。

 セドリックは答えなかった。
 だが、その沈黙がすべてだった。

 ほんの一瞬だけ、彼の目の奥に、誤魔化しきれないものが揺れた。
 動揺。
 観念。
 そして、とうとうそこへ辿り着かれたという種類の、苦い諦め。

 リリアーナは冷たく息を吸った。

 やはり。

 おかしいと思っていた。
 花も。
 視線も。
 近さも。
 異様な早さも。
 そして今の襲撃への反応も。

 全部、前世を知っているなら説明がつく。

「……そう」

 喉の奥がひどく熱いのに、声は驚くほど静かだった。

「あなたも、覚えているのね」

 セドリックはしばらく何も言わなかった。
 馬車は走り続けている。
 窓の外では、王都へ戻る道の木々が流れる。
 その間中、彼はただ黙ってリリアーナを見ていた。

 前世でも、彼はよく黙った。
 だが今の沈黙は、そのどれとも違う。
 これは、隠していた扉がとうとう開いた時の沈黙だ。

 リリアーナは座席の端を強く掴んだ。
 指先が白くなる。
 怖い。
 知りたかったのかもしれない。
 でも、知ってしまったら戻れない。

 自分だけが過去を抱えているのではない。
 あの人もまた、同じ十年を知っている。
 それなのに、ここまで黙っていた。

 その事実の重さに、胸の奥がひどく冷えた。

「後で話す、じゃ済まないわ」

 そう言うと、ようやくセドリックの喉が小さく動いた。

「……分かっている」
「本当に?」
「分かっている」

 その声は低く、どこまでも重かった。

 馬車は王都へ向かって走る。
 だがリリアーナの中では、もう別の何かが取り返しのつかない音を立てて動き始めていた。

 前世と違う襲撃。
 前世を知っているような彼の動き。
 そして、今の沈黙。

 ただの違和感ではない。
 もう疑いでは済まない。

 自分だけが記憶を持っているわけではなかったのだと、リリアーナはようやくはっきりと知った。

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