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第18話 前世を知る男
その夜、リリアーナは侯爵邸の客間で、ほとんど眠れなかった。
眠れない理由はいくつもあった。
襲撃のあとで身体がまだ興奮を引きずっていること。
王都へ戻る途中の馬車で、何度も短く揺れた時の衝撃がまだ骨の奥に残っていること。
知らぬ間に握りしめていた指先が、今も少し熱を持っていること。
そして何より、あの人も前世の記憶を持っていると、もう疑いでは済まないところまで知ってしまったこと。
暖炉の火は小さく入っていた。侯爵邸の客間らしく、布も寝台も申し分なく整えられている。窓には厚いカーテンが引かれ、夜気はほとんど遮られている。女医が置いていった薬湯の匂いがまだ薄く残っていて、煎じた草の青さと蜂蜜の甘さが混ざっていた。
完璧だった。
部屋は何も悪くない。
むしろ心身を休めるにはこれ以上ないほど整っている。
なのに、リリアーナの胸の内だけが、ぐちゃぐちゃに乱れていた。
同じ夢を見る人。
さっき、自分はそう思った。
同じ悪夢を知っている人。
自分が死ぬところを見て、その後も生き残ってしまった人。
でもその事実は、慰めにはならない。
少なくとも今は、少しも。
彼も知っていた。
前世の自分の孤独を。
熱を出した朝も、夜会のあとも、義母に削られていたことも、実家の打算も、たぶん全部。
知っていて、沈黙した。
そして、自分が死んだあとで初めて、やり直したいと思っている。
胸の奥へ浮かぶのは、悲しみだけではなかった。
怒りだ。
どうしようもなく、濁った怒り。
知っていたなら、なぜ。
見ていたなら、なぜ。
死ぬまで、何も言わなかったの。
寝台の上で目を閉じても、眠気はまるでこなかった。
あの沈黙。
あの目。
「毎日、そう思っていた」と掠れた声で言った時の、ひどく静かな顔。
怒鳴りたい。
泣きたくない。
逃げたい。
でも、逃げたらたぶんもう、一生この問いを抱えたままになる。
知りたいのだと、認めるしかなかった。
どうしてあの時、言わなかったのか。
何をどこまで知っていて、それでも何もしなかったのか。
自分が死んだあと、彼は何を見たのか。
そこまで考えた時、扉の外で気配がした。
遅い時間だ。
使用人なら、もっとはっきりノックをする。
エマなら遠慮のある間を置く。
今の気配は、それとは違った。
リリアーナは身を起こした。
毛布が膝の上へ滑り落ちる。
寝台脇の燭台の火が小さく揺れ、壁へ薄い影を作った。
「……誰」
問いかけると、一拍おいて、低い声が返る。
「私だ」
セドリック。
その二音だけで、胸の中の何かが硬くなる。
逃げたい。
でも、来たということは、彼もまた今夜を曖昧に終わらせられなかったのだろう。
「……入って」
言ってしまってから、少しだけ息を止めた。
扉が静かに開く。
セドリックはいつものように整っていた。だが、よく見れば肩のあたりには疲労が滲んでいる。上着は昼のものから替えていたが、髪は少しだけ乱れていた。彼にしては珍しいことだ。
つまり、この夜まで何かしていたのだろう。
襲撃の後始末か。
捕らえた者の取り調べか。
あるいは、それ以外の何かか。
「休んでいたなら」
「眠れないわ」
それだけで十分だった。
彼も無駄な気遣いは続けなかった。
扉を閉め、部屋の中へ数歩入る。
けれど、近づきすぎない。
寝台のすぐ傍まで来ないのは、配慮か、それとも彼自身もまた今の距離を測りかねているのか。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
暖炉の火が小さくはぜる。
夜の侯爵邸はひどく静かで、外の風の音すら遠い。
こんなに整えられた静けさの中で、自分たちだけが前世の死と沈黙を抱えて立っているのだと思うと、妙に現実感がなかった。
先に口を開いたのは、リリアーナだった。
「あなたも覚えているのね」
問いではなかった。
ほとんど確認に近い。
セドリックは一瞬だけ目を伏せ、それからはっきりと頷いた。
「ああ」
「最初から?」
「……目が覚めた時からだ」
「いつ」
「婚約調印の少し前だ」
「……私と同じ」
自分の声が少し掠れたのが分かった。
同じ時期。
同じように巻き戻ったのだ。
もう疑いようがない。
「どうして黙っていたの」
「言えば信じると思ったか」
「思わない」
「だからだ」
短い答え。
だがそこにある疲れは深かった。
「言葉にした瞬間、君はもっと私から離れると思った」
「……」
「それに、私はまず、確かめなければならなかった」
「何を」
「君が本当に生きていることを」
その言葉に、胸の奥へ冷たいものが落ちる。
ぞっとするほど重いのに、なぜかすぐには否定できなかった。
彼は前世で自分の死を見たのだ。
その瞬間を知っている。
そして巻き戻った今、最初に会った時のあの目。
あれは演技ではなかったのだと、今さら思い知る。
けれど、それで怒りが消えるわけではない。
「……それで?」
「……」
「生きていると分かったあとで、何をするつもりだったの」
「今度こそ」
「今度こそ、何」
「失わせないつもりだった」
リリアーナは息を止めた。
失わせない。
その言い方は、あまりにも他人行儀で、あまりにも本音を隠している。
やはりこの男は、肝心なところで言葉をずらす。
「またそうやって」
「何」
「主語をぼかすのね」
「……」
「失わせない、じゃなくて、私を失いたくない、でしょう」
セドリックの目が、わずかに揺れた。
それだけで十分だった。
彼はやはり、まだ本音の輪郭を言い切ることに慣れていない。
リリアーナは寝台の縁を掴んだ。
今夜はもう、曖昧なところで止まりたくなかった。
「聞かせて」
「……」
「あなたが見たものを」
「リリアーナ」
「今さら優しくしないで」
「優しくしているつもりはない」
「なら、なおさらちゃんと話して」
その言葉に、セドリックは長く沈黙した。
拒んでいるわけではない。
たぶん、どこから言えばいいのかを探している。
あるいは、口にした瞬間に本当に現実になることを、自分でも恐れているのかもしれない。
やがて彼は、部屋の中央に置かれた椅子へゆっくり腰を下ろした。
寝台の正面。
距離はある。
でも、逃げない位置だった。
「……君が死んだ夜」
低い声が落ちる。
その一音だけで、リリアーナの背筋が冷えた。
「私は、間に合わなかった」
「……」
「正確には、間に合ったと思った」
「……」
「まだ温かかった。息も、完全には止まっていなかった」
「やめて」
「でも、助からなかった」
やめて、と言ったのに。
でも彼は止まらなかった。
止めたくないのではない。
止めたらまた、全部が沈黙のままになると知っているからだろう。
「抱き上げた時、血で滑った」
「……」
「君は何か言おうとした。だが聞き取れなかった」
「……」
「私は名前を呼んだ。何度も」
「……」
「遅かった」
その最後の二音が、あまりにも静かで、逆に胸を深く抉った。
リリアーナは目を閉じた。
見たくない。
聞きたくない。
でも、耳は勝手に彼の声を拾う。
「その後、私は」
セドリックの声が一段低くなる。
「全部、壊した」
「……」
「襲撃に関わった者。金の流れ。命令系統。口を利いた商会。手引きをした使用人。君の実家の動き。母の周辺。全部だ」
「……」
「証拠がなくても潰した。疑わしいだけの者も切った。王都での立場も、外聞も、どうでもよかった」
「……」
「君を殺した理由が一つでも残っているのが耐えられなかった」
リリアーナはゆっくりと目を開けた。
彼の顔は変わっていない。
泣いてもいない。
声を荒げてもいない。
なのに、その静けさの中にあるものが、ひどく重かった。
全部、壊した。
その言葉は比喩ではないのだろう。
セドリックはそういう男だ。
いったん決めれば、どれほど冷たくても実行する。
前世で自分は、その冷たさを何度も外側から見てきた。
今、その同じ冷たさが、自分の死のあとに向けられていたのだと知る。
「……それで、何が分かったの」
喉の奥が痛い。
でも、聞かなければ終われない気がした。
「私の死が、何だったのか」
「……君を狙ったのは一つの手ではなかった」
「一つじゃない」
「伯爵家の焦り。商会の圧。私の周囲の内通。母の差別意識。全部が重なっていた」
「……」
「そして、その全部を繋いだのは」
「何」
「私の沈黙だ」
その一言で、リリアーナの視界がわずかに滲んだ。
「君が、どこにも逃げ場のない場所にいると知っていて」
「……」
「私は言わなかった」
「……」
「見ていた。分かっていた。君の実家が何を求めているかも、母がどう君を削るかも、社交界がどう囁くかも」
「……」
「それでも、何も言わなかった」
「……」
「守るつもりだった。表に出しすぎなければ、君を弱点に見せずに済むと、本気で思っていた」
「……」
「だが違った。私は、守るための言葉さえ奪った」
「……」
「君が一人で耐えるしかない場所に、私自身が押し込めていた」
そこで、リリアーナの中で何かが切れた。
「だったら、どうして」
気づけば声が出ていた。
低く押さえたつもりだったのに、途中から抑えきれなくなる。
「どうして、何も言わなかったの」
「……」
「分かっていたのよね」
「……ああ」
「私が一人だったことも」
「……」
「熱を出しても、夜会のあとも、食べられない日も、全部」
「……ああ」
「分かっていたのに!」
最後の一音で、声が震えた。
涙が落ちる前に、視界が歪む。
こんなふうに泣きたくなかったのに。
怒っていたかったのに。
でも、怒りと悲しみが一緒に来ると、人はこんなにも簡単に声を壊すのだと、今さら知る。
「分かっていて、見ていて、死んでから全部壊したって、それで何になるのよ」
「……」
「私は、あの時、生きてほしかったの」
「……」
「死んだあとで真相を暴かれたって、嬉しいわけないでしょう!」
「……」
「欲しかったのは、あの時のあなたの言葉だったのに!」
涙が一筋、頬を伝った。
その熱さが、自分でも情けなかった。
泣いたからといって、今さら何が変わる。
でも止まらない。
怒っている。
悲しい。
悔しい。
そして何より、彼が本当に知っていたと分かったことが、あまりに痛かった。
セドリックは動かなかった。
座ったまま、ただその怒りを受けていた。
言い訳しない。
遮らない。
それが余計に腹立たしい。
少しは否定してくれればいいのに。
そうすれば、もっと簡単に責められるのに。
「私、あなたを恨んでいたわ」
嗚咽を噛み殺しながら、リリアーナは言った。
「冷たい人だって。
私を愛していないって。
そう思うことでしか、自分を保てなかった」
「……」
「でも今は、もっとひどい」
「……」
「愛していたのかもしれないって、そんなことまで考えさせられる」
「……」
「それが一番、残酷なのよ」
セドリックの喉が小さく動く。
ようやく、彼の顔に感情のひびが入った。
痛み。
苦さ。
何より、自分が今、彼女にそれを言わせているという自覚。
「……愛していた」
その声は、ほとんど掠れていた。
「最初から」
「やめて」
即座にそう言った。
その言葉は、今は毒にしかならない。
「今さら、そんなこと言わないで」
「だが」
「やめて!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
胸が痛い。
息が乱れる。
でも、そこだけは今聞きたくなかった。
前世で一度も与えられなかった言葉を、こんなふうに、すべてを失ったあとで聞いたら、自分の中のどこが壊れるか分からなかった。
「……私は」
「……」
「簡単には許さない」
はっきりと言う。
涙で声が揺れても、そこだけは譲れなかった。
「あなたが苦しんだことも、知っていたことも、後で全部壊したことも」
「……」
「分かった。今、聞いた」
「……」
「でも、それで前の私が救われるわけじゃない」
「……ああ」
「今の私だって、すぐに許せるほど優しくない」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっている」
その返事は静かだった。
悔しいほど静かで、真実味があった。
「なら、待って」
リリアーナは頬を濡らしたまま言った。
「私が怒ることも、泣くことも、全部」
「……ああ」
「あなたは、前世で私に何もさせなかったでしょう」
「……」
「苦しいって言わせなかった。寂しいって言わせなかった。何も」
「……」
「今度は、私がちゃんと怒るのを見て」
その言葉に、セドリックは初めてほんのわずかに目を閉じた。
拒絶ではない。
受け止めるための、短い閉眼。
「……見る」
「逃げないで」
「逃げない」
「私がどれだけ腹を立ててるか、ちゃんと知って」
「……ああ」
「それでもまだ、やり直したいと思うなら」
「……」
「その時に、また考える」
やっとそこまで言って、リリアーナは深く息を吐いた。
涙はまだ止まらない。
でも、言うべきことは少しだけ言えた気がした。
前世を知る男。
自分の死を見た男。
その後、全部を壊してでも真相を暴いた男。
それが目の前にいて、自分へ「愛していた」と言おうとした。
世界はめちゃくちゃだ。
でも、そのめちゃくちゃさの中で、自分が簡単に許さないと言えたことだけは、たぶん前世とは違う。
セドリックはそれ以上、何も押しつけなかった。
近づかない。
触れない。
ただ、低く言う。
「今夜は、休め」
「眠れないわ」
「眠れなくていい」
「……」
「それでも、横になっていろ」
その言い方に、少しだけ前の自分が疼いた。
昔もこうして、言葉の形だけは似たものがあった気がする。
でも、今は違う。
少なくとも、その言葉の向こうにあるものを、前よりは知っている。
知ってしまった。
だから、余計に苦しい。
セドリックはゆっくり立ち上がった。
「行く」
「……」
「だが、明日また来る」
「勝手ね」
「そうだな」
「本当に」
「知っている」
その返しに、怒りの中へほんの少しだけ乾いた笑いが混じる。
ひどい人だ。
前世でも今世でも。
でも、前より少しだけ、自分のひどさを自覚している。
それだけで許せるわけではない。
だが、完全に憎みきるには足りない。
扉が開く。
セドリックが出ていく。
閉まる。
部屋に静けさが戻る。
暖炉の火。
薬草の匂い。
濡れた頬。
胸の中の、ひどく重たいもの。
リリアーナは毛布を引き寄せ、顔を覆うようにして目を閉じた。
前世を知る男。
同じ夢を見る人。
自分を死なせた沈黙を、自分の罪だと知っている人。
そんな相手を、どうしたら簡単に許せるというのだろう。
答えはまだ、どこにもなかった。
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