十一度離縁された無能妻ですが、妹が恋した公爵様だけは私を手放さない〜失った子の記憶を抱えた私は、今度こそ家族を守ります〜

なつめ

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第25話 愛していたという嘘


 約束の日、公的応接館の空は低く曇っていた。

 王都中央にあるその建物は、貴族同士の私的な会談や調停のために使われる場所だった。どの家の屋敷でもない。誰か一人の記憶に染まった場所でもない。白い石壁、磨かれた床、厚い灰青色の絨毯、壁にかけられた風景画。窓の外には小さな中庭があり、雨を含んだ若葉が静かに揺れている。

 リゼルミアは、その中庭を見つめていた。

 手袋の中の指先は、少し冷えている。

 今日も真珠灰色の手袋をはめてきた。エルネストが選んでくれたもの。怖い時、冷える時、字が震える時、自分の指先を守ってくれる小さな温もり。

 胸元には、薄紫の鍵袋はない。

 応接館へ持ってくる必要はないから、今日は公爵家の書庫の机に置いてきた。けれど、鍵束の重みは胸の奥に残っている。

 閉じ込める鍵ではない。

 開けるための鍵。

 今日開けるのは、温室の扉でも、帳簿室でも、慈善事業資料室でもなかった。

 最初の結婚で閉じ込められた、古い記憶の扉だった。

 リゼルミアは深く息を吸った。

 香りの薄い室内だった。濃い香水も、古い屋敷特有の湿った匂いもない。木と石と、かすかな茶葉の匂いだけ。ここはセルヴァン伯爵邸ではない。あの屋敷ではない。あの寝室へ続く廊下もない。愛人が笑っていた客間もない。義母の冷たい声が響いた食堂もない。

 ここは、中立の場所。

 エルネストが整えてくれた場所。

 彼はリゼルミアの隣に座っている。

 前ではない。

 隣だった。

 そのことが、今日の彼女には何より心強かった。守られているだけではない。代わりに話してもらうだけでもない。リゼルミアが立つなら、彼は隣にいる。そう言った通りの距離だった。

 少し後ろにはロナンが控えている。記録役として同席することになっていた。彼の膝の上には書類箱があり、羽根ペンと紙も用意されている。イーリアは別室で待機している。リゼルミアが途中で席を外したくなった時、すぐに迎えられるように。

 逃げ道はある。

 それを確認するだけで、リゼルミアは少し呼吸ができた。

 扉の外で、足音が止まる。

 係の者が名を告げた。

「セルヴァン伯爵、ルガイン様がお見えでございます」

 リゼルミアの背筋が強張った。

 エルネストが静かに言う。

「息を」

 短い声。

 リゼルミアは、吸っていなかった息をゆっくり吸い直した。

 扉が開く。

 ルガイン・セルヴァンが入ってきた。

 記憶の中の彼より、少し年を重ねていた。金茶の髪は相変わらず整えられ、淡い琥珀色の瞳には社交慣れした柔らかな光がある。身につけている上着は深い葡萄色で、袖口には控えめな金糸が入っていた。美しい男だった。少なくとも、外から見れば。

 リゼルミアの胸が、ぎゅっと締まる。

 昔、彼のその美しい指が、離縁状を机の上に置いた。

 昔、彼のその整った唇が、君といると部屋の火まで冷めると言った。

 昔、彼のその優雅な声が、愛人の前でリゼルミアを笑った。

 ルガインは部屋へ入ると、まずエルネストへ礼をした。

「ヴァルクレイド公爵閣下。本日はご同席をお許しいただき、感謝いたします」

 声は甘く、礼儀正しい。

 エルネストは淡々と返した。

「リゼルミアが会うと決めたので」

 その一言で、ルガインの目がわずかに動いた。

 リゼルミアが決めた。

 彼にとって、それは少し意外だったのかもしれない。

 次に、ルガインはリゼルミアへ向いた。

 その顔に、過去を悔いる男の表情らしきものを浮かべて。

「久しぶりだね、リゼルミア」

 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が冷えた。

 昔の自分が、返事をしなければと怯える。

 だが、今は違う。

 リゼルミアは膝の上で手を握り、静かに礼を返した。

「お久しぶりでございます、セルヴァン伯爵」

 ルガインの表情が、また少しだけ動いた。

 ルガイン様、ではない。

 あなた、でもない。

 伯爵。

 距離を置いた呼び方。

 リゼルミアはそのことに、自分でも小さく驚いた。

 声は震えた。

 けれど、言えた。

 ルガインは穏やかな笑みを作ったまま、椅子へ腰を下ろす。向かい合う形ではあるが、卓の距離は十分にある。エルネストが指定した配置だった。

「君が元気そうで、安心した」

 リゼルミアは答えなかった。

 元気そう。

 その言葉の薄さに、胸が小さく疼く。

 ルガインは、少し困ったように笑う。

「少し、緊張しているようだね。無理もない。私たちの間には、長い時間と、いくつもの誤解がある」

 誤解。

 招待状にもあった言葉。

 リゼルミアの指が手袋の中で冷えた。

 エルネストは何も言わない。

 ただ隣にいる。

 リゼルミアは、ルガインを見た。

「今日は、その誤解についてお話があると伺いました」

「そうだ」

 ルガインは少し身を乗り出した。

 声を柔らかくする。

「私は、ずっと後悔していた」

 後悔。

 その言葉を聞いた瞬間、リゼルミアの胸に昔の自分が顔を上げた。

 あの頃、どれほど欲しかった言葉だろう。

 後悔している。

 悪かった。

 君を傷つけた。

 そう言ってほしかった。

 たった一度でも。

 ルガインは続ける。

「私たちは若かった。あまりにも若かった。君も、私も、夫婦というものを知らなかった。私は不器用で、君への接し方を誤った」

 リゼルミアの唇が少し震える。

 不器用。

 誤った。

 言葉は、謝罪に似ている。

 けれど、どうしてだろう。

 薄い。

 慈善院のスープのように、表面だけが温かくて、具がない。

「本当は」

 ルガインは、少し声を低くした。

「本当は、君を愛していたんだ」

 部屋の空気が止まった。

 リゼルミアの心臓が、大きく跳ねる。

 愛していた。

 その言葉は、遅すぎる薬のように差し出された。

 昔の自分が、震える手でそれを受け取りそうになる。

 欲しかった。

 本当に欲しかった。

 最初の婚家で泣いていた夜。

 夫が背を向けた寝室。

 愛人の笑い声が廊下から聞こえた午後。

 離縁状を前にして、喉が凍った日。

 あの時に、その言葉を言ってくれたら。

 本当は愛していた。

 そう言ってくれたら、リゼルミアはきっと縋った。

 自分が悪かったのではないかと、もっと耐えた。

 まだ望まれているのだと信じた。

 そのくらい、欲しかった。

 ルガインは、リゼルミアの揺れを見逃さなかったのだろう。

 声に少しだけ熱を加えた。

「君は静かで、儚くて、扱い方が分からなかった。私は若すぎた。愛しているのに、それをどう示せばいいか知らなかったんだ」

 リゼルミアは膝の上で手を握る。

 エルネストの隣にいるのに、遠い昔の寝室の匂いがする気がした。

 冷えたシーツ。

 消えかけた暖炉。

 ルガインの背中。

 声をかけようとして、何も言えなかった夜。

 彼は、愛していたのだろうか。

 もしそうなら。

 もし本当に、すべてが不器用さだったのなら。

 リゼルミアは何を失ってきたのだろう。

 胸が揺れる。

 ほんの一瞬。

 だが、確かに揺れた。

 その瞬間、エルネストの声が聞こえたわけではない。

 彼は何も言わなかった。

 だが、隣にいる気配があった。

 温かい手袋を選んでくれた人。

 怖いなら眠るだけでいいと言った人。

 髪をほどく前に、痛かったら言えと言った人。

 蜂蜜入りの茶を甘くしすぎて、真面目に「茶葉が困る味か」と言った人。

 妻だからと、身体の持ち主ではないと言った人。

 その記憶が、リゼルミアの中に静かに灯った。

 愛していた。

 ルガインの言葉と、エルネストの行動。

 二つが胸の中で並ぶ。

 リゼルミアは息を吸った。

 ルガインは続ける。

「だから、やり直せないかと思っている」

 その言葉で、現実が戻った。

 リゼルミアは顔を上げた。

「やり直す、とは」

「君と、もう一度話し合いたい」

 ルガインは焦らず、甘い声を保ったまま言った。

「もちろん、今すぐ何かを決めろとは言わない。ただ、君が公爵家で無理をしているなら、私は受け入れる準備がある」

 エルネストの目が、わずかに冷えた。

 だが、まだ口は挟まない。

 ルガインはリゼルミアだけを見ている。

「公爵家は立派すぎる。君には荷が重いだろう。あの家で公爵夫人として振る舞うより、セルヴァン家の方が君には合う。君は静かで、控えめで、大きな家の中心に立つより、落ち着いた屋敷を内側から支える方が向いている」

 言葉は優しい。

 けれど、その奥にあるものを、リゼルミアは感じ取った。

 公爵家は荷が重い。

 君には合わない。

 セルヴァン家の方が合う。

 それは、彼女を案じる言葉に見える。

 だが本当は、彼女を小さな場所へ戻そうとしている。

 椅子を低くしようとしている。

 温室の鍵も、帳簿室の鍵も、慈善事業の資料室も、エルネストの隣の席も、すべて彼女には大きすぎると言っている。

 ルガインは微笑んだ。

「君は無理をしなくていい。公爵家で背伸びをする必要はない。私のところへ戻れば、昔とは違う。今度こそ、君を大切に」

「昔とは、何が違うのですか」

 リゼルミアの声は小さかった。

 だが、ルガインの言葉を遮った。

 彼は一瞬、目を瞬いた。

「何が、とは」

「昔とは違うとおっしゃいました。何が違うのですか」

 リゼルミアの胸は震えている。

 けれど、問いは消えなかった。

 ルガインはすぐに笑みを戻す。

「私が大人になった。君を失って、自分の未熟さに気づいた」

「いつ、気づかれたのですか」

 ルガインの笑みが少し硬くなる。

「いつ?」

「私が屋敷を出た後ですか。それとも、二度目、三度目の離縁の噂を聞いた時ですか。十一度目の離縁の時ですか。それとも、私がヴァルクレイド公爵家へ嫁いだと聞いた時ですか」

 部屋が静まり返る。

 ロナンのペンも止まった。

 エルネストは、リゼルミアを見ていない。

 彼はルガインを見ている。

 だが、リゼルミアには分かった。

 彼は、今の言葉を聞いてくれている。

 ルガインは、少しだけ不快そうに眉を動かした。

「随分、棘のある言い方をするようになったんだね」

 その言葉で、昔のリゼルミアなら謝った。

 申し訳ありません。

 そんなつもりでは。

 不快にさせてしまって。

 だが、今日は違った。

 彼女は膝の上の手を握り直す。

「質問です」

 静かに言った。

「棘ではありません」

 ルガインの目が、わずかに細くなった。

 彼はすぐに表情を整えたが、一瞬、昔の顔が見えた。リゼルミアの言葉が自分の思い通りにならなかった時の、面倒そうな顔。

 胸が冷える。

 だが、同時に分かる。

 この顔だ。

 覚えている。

 ルガインは少し息を吐き、甘い声に戻した。

「君が公爵家へ嫁いだと聞いた時、私は自分の心に気づいた。遅すぎると言われるかもしれない。だが、人は失って初めて大切なものに気づくことがある」

 失って初めて。

 リゼルミアは、その言葉を胸の中で繰り返した。

 失う。

 彼にとって、自分は失ったものなのか。

 では、彼が失ったと感じたのは何だろう。

 妻。

 それとも、屋敷を整える人。

 黙って耐える人。

 自分の不機嫌を受け止める人。

 リゼルミアは、静かに息を吸った。

「私を失って、何が困りましたか」

 ルガインの顔が、今度こそはっきりと固まった。

「リゼルミア」

「答えてください」

 声は震えている。

 だが、言葉は強かった。

「私を失って、あなたは何に困ったのですか」

 ルガインは、視線を一瞬エルネストへ移した。

 公爵の前で、迂闊なことは言えない。そう考えたのだろう。

 彼は慎重に言葉を選んだ。

「君の静かな気配が、屋敷から消えたことに」

「静かな気配」

「そうだ。君は目立たないが、いつもそこにいた。私が帰れば、部屋に明かりがついていた。帳簿も、食卓も、屋敷のことも、君が見ていた」

 リゼルミアの胸の奥で、何かが静かに冷めた。

 やはり。

 ルガインは気づいていない。

 彼が愛していたと言うものの正体に。

「それは、私を愛していたということですか」

「もちろんだ」

 ルガインは少し慌てたように言う。

「君がいる日常を、私は大切に思っていた」

「では、なぜ愛人の前で私を笑ったのですか」

 部屋の温度が、一段下がった。

 ルガインの唇が止まる。

 リゼルミアは、もう逃げなかった。

「私が食卓で黙っていた時、あなたは愛人の方に言いました。妻は花瓶の影のようだと。そこにあっても、誰も気に留めないと」

 ルガインの顔色が変わる。

「若い頃の冗談だ」

「私は、笑えませんでした」

 リゼルミアは続けた。

「その夜、寝室で私は泣きました。あなたは背を向けて、泣くなら別の部屋で泣いてくれと言いました」

 指先が震える。

 でも、言える。

「私は、自分が何を間違えたのか分かりませんでした。夫に笑われて、愛人に笑われて、泣くことも面倒だと言われて。それでも翌朝、食堂に出ました」

 ルガインは焦ったように言った。

「リゼルミア、それは昔の」

「昔です」

 リゼルミアは頷いた。

「ですが、私の中では終わっていませんでした」

 静かな言葉。

「あなたが今日、愛していたと言った時、一瞬揺れました。昔の私は、その言葉が欲しかったからです。あの頃に言われていたら、きっと縋りました。自分が悪かったのだと思って、もっと耐えようとしたでしょう」

 エルネストの手が、膝の上でわずかに動いた。

 だが、彼は触れなかった。

 リゼルミアが自分で立っているからだ。

「でも、今は思い出せます」

 リゼルミアは、ルガインを見る。

 まっすぐに。

「あなたが愛人の前で私を笑ったこと。寝室で冷たく背を向けたこと。泣く私を面倒そうに見たこと。離縁状を渡す時、私の顔を見なかったこと」

 ルガインの顔から、甘い笑みが消えかける。

「そんな昔のことを、いつまでも」

「私は、忘れられませんでした」

 リゼルミアの声は、小さいがはっきりしていた。

「あなたにとっては昔の冗談でも、私には最初の傷でした」

 最初の傷。

 口に出した瞬間、胸の奥で何かが震えた。

 最初の夫。

 最初の離縁。

 最初の否定。

 そのすべてを、今初めて本人へ返している。

 ルガインは少し苛立ったように息を吐いた。

「君は変わったね」

 その言葉。

 オルフェルト家の父にも言われた。

 お前は変わったな。

 責めるように。

 リゼルミアは、静かに答えた。

「変わっている途中です」

 エルネストの目元が、ほんの少し柔らかくなった。

 ルガインは唇を引き結ぶ。

「公爵家の影響かな。君は以前、そんなふうに人を責める女ではなかった」

「責めているのではありません」

「では何だ」

「返しているのです」

 リゼルミアは、自分の声が震えていないことに気づいた。

「あなたが私に向けた言葉を。あなたがなかったことにしようとしている事実を。今、返しています」

 ルガインは沈黙した。

 リゼルミアは続ける。

「あなたが愛していたのは、私ではありません」

 ルガインの目が揺れる。

 彼は何か言おうとした。

 だが、リゼルミアの方が先に言った。

「あなたが愛していたのは、黙って傷つく妻です」

 その言葉は、応接室に静かに落ちた。

 柔らかくはない。

 けれど、叫びでもなかった。

 まっすぐな拒絶だった。

 リゼルミアは、胸の奥で自分の言葉が立つ音を聞いた。

 怖い。

 とても怖い。

 でも、言えた。

 ルガインの顔がこわばる。

「リゼルミア」

「私は、もうその妻には戻りません」

 言葉が続く。

 自分でも驚くほど、静かに。

「公爵家が私に合うかどうかを、あなたが決めることではありません。私がどこに立つかを、あなたが決めることでもありません」

 彼女は、隣にいるエルネストを一瞬だけ見た。

 彼は何も言わない。

 ただ、そこにいる。

 それだけで十分だった。

「私は今、ヴァルクレイド公爵家の妻です」

 妻。

 その言葉を、自分で言った。

 胸が熱くなる。

「そして、あの家で少しずつ、自分の仕事を覚えています。帳簿室の鍵も、温室の鍵も、慈善事業の資料室の鍵も、私の手元にあります。怖いですが、受け取ると決めました」

 ルガインの顔に、理解できないものを見るような色が浮かぶ。

 鍵。

 帳簿。

 温室。

 彼にとって、それはリゼルミアを取り戻すための言葉ではなかったのだろう。

 だが、リゼルミアにとっては違う。

 自分が今、どこにいるかの証だった。

「セルヴァン伯爵」

 彼女は、あえてそう呼んだ。

「昔の誤解を解きたいとおっしゃいました。ですが、誤解ではありませんでした。私は傷つきました。あなたは私を傷つけました。今日、そのことを確認できました」

 ルガインは低く言った。

「それで、君は満足か」

「満足ではありません」

 リゼルミアは静かに首を振る。

「でも、少しだけ終われます」

 その言葉を言った瞬間、胸の奥の古い部屋に風が入った気がした。

 完全に癒えたわけではない。

 過去が消えたわけでもない。

 ルガインが謝罪したわけでもない。

 けれど、あの頃何も言えなかった自分が、今やっと声を出した。

 それだけで、閉じ込められていた部屋の窓が少し開いた。

 ルガインは、甘い仮面を戻そうとした。

 だが、うまく戻らなかった。

「君は、公爵にそう言わされているのか」

 エルネストの目が冷えた。

 しかし、リゼルミアは彼が口を開く前に答えた。

「いいえ」

 ルガインを見る。

「私の言葉です」

 短い一言。

 だが、確かな一言。

 ルガインの顔が歪む。

「では、君は本当に私とやり直す気はないのか」

「ありません」

 今度は、迷わなかった。

「私は、あなたの家には戻りません」

「公爵家で同情されるよりも?」

「同情ではありません」

 リゼルミアは静かに言った。

「もし同情だったとしても、少なくとも公爵家では、怖いなら眠るだけでいいと言われました。痛かったら言えと言われました。返事を書くかどうかは自分で決めていいと言われました。鍵は閉じ込めるものではなく、開けるためのものだと教えられました」

 ルガインは何も言えなかった。

「あなたは、私が何を怖がるか、一度も聞きませんでした」

 その言葉で、彼の顔からさらに色が消えた。

 リゼルミアは立ち上がった。

 脚は少し震えている。

 それでも立てた。

 エルネストも、同時に静かに立ち上がる。

 隣に。

 約束通り。

「今日は、お話しできてよかったです」

 リゼルミアは礼をした。

「私は、もう戻りません」

 ルガインは椅子に座ったまま、彼女を見ていた。

 信じられないという顔だった。

 自分が「愛していた」と言えば、リゼルミアが揺れ、涙を見せ、過去の自分に戻ると思っていたのだろう。

 揺れた。

 確かに、揺れた。

 けれど戻らなかった。

 リゼルミアは、応接室の扉へ向かった。

 足元が少しふらつく。

 すぐ隣で、エルネストが静かに尋ねた。

「触れても?」

 リゼルミアは、小さく頷いた。

「はい」

 彼の手が、肘の少し下に添えられた。

 支えるだけの手。

 引っ張らない。

 閉じ込めない。

 リゼルミアは、その手の温かさを感じながら、部屋を出た。

 廊下に出た瞬間、足の力が抜けそうになった。

 エルネストが支える。

 ロナンがすぐに扉を閉め、係の者へ目配せした。応接室の中からルガインの声は聞こえない。扉が厚く、すべてを遮った。

 リゼルミアは壁際で息を吸った。

 胸が痛い。

 喉も痛い。

 手袋の中の指が震えている。

 でも、逃げ出したい痛みではなかった。

 走りきった後のような、深い疲れだった。

「立っていました」

 リゼルミアは呟いた。

 エルネストが隣で答える。

「ああ」

「私、立っていました」

「見ていた」

「言えました」

「ああ」

 その短い返事だけで、涙がこぼれた。

 リゼルミアは慌てて目元を押さえる。

「泣かないつもりでした」

「泣いていい」

「でも、勝ったような顔をしたかったです」

「十分だった」

 エルネストの声は静かだった。

「君は、自分の言葉で拒んだ」

 拒んだ。

 その言葉が、胸に落ちる。

 初めてだった。

 元夫に戻れと言われ、愛していたと言われ、やり直したいと言われて。

 彼女は断った。

 自分の言葉で。

 ロナンが控えめに言った。

「奥様。別室にお茶をご用意しております。イーリアもおります」

 リゼルミアは頷いた。

「行きます」

 別室では、イーリアが待っていた。

 彼女はリゼルミアの顔を見るなり、すぐに温かい茶を用意した。蜂蜜はひと匙だけ。茶葉は困っていない味だった。

 リゼルミアは椅子に座り、茶杯を両手で包んだ。

 温かさが指先に戻ってくる。

 イーリアが静かに尋ねる。

「終わりましたか」

 リゼルミアは少し考えた。

「全部ではありません」

 正直に言う。

「でも、ひとつ、終わりました」

 イーリアの目元が柔らかくなる。

「それは、ようございました」

 エルネストは向かいに座らず、隣の椅子へ腰を下ろした。けれど、近すぎない。リゼルミアが自分で呼吸できる距離。

 彼女は茶を一口飲んだ。

 甘い。

 でも、甘すぎない。

 胸の震えが少しずつ落ち着いていく。

「エルネスト様」

「はい」

「一瞬、揺れました」

「うん」

「本当は愛していたと言われて、昔の私が……その言葉を受け取りそうになりました」

「それでも、戻らなかった」

 エルネストは言った。

 リゼルミアは茶杯を見つめる。

「戻りませんでした」

 声が小さく震える。

「戻りませんでした」

 二度目は、少しだけ強く言えた。

 エルネストの目元が和らぐ。

「よく立っていた」

 その言葉で、また涙が滲む。

「今日は、褒められると泣いてしまいます」

「なら、少しだけにする」

「少しだけ?」

「よく頑張った」

 全然、少しだけではなかった。

 胸がいっぱいになって、リゼルミアは涙をこぼしながら小さく笑った。

「エルネスト様は、控えめが下手です」

「そうか」

「はい」

「覚えておく」

 その真面目な返事に、また笑いそうになる。

 泣きながら笑う。

 そんな顔を昔の自分は知らなかった。

 公爵家へ戻る馬車の中で、リゼルミアはずっと黙っていた。

 エルネストも何も聞かなかった。

 車輪の音が石畳を叩く。

 窓の外では、王都の街並みがゆっくり流れていく。人々の声、馬の蹄、遠くの鐘。世界は何事もなかったように動いている。

 けれどリゼルミアの中では、ひとつの扉が閉じた。

 閉じ込めるためではない。

 終えるために。

 屋敷へ戻ると、玄関でマリナが出迎えた。料理長も廊下の奥から顔を覗かせていた。イーリアがすでに先に戻っていたため、話が伝わっているのだろう。

 誰も詳しく聞かなかった。

 ただ、マリナが温かい膝掛けを差し出し、料理長が「今夜は体に優しいものにします」と言い、ロナンが「記録は私が整理いたします。奥様はお休みください」と言った。

 リゼルミアは、その一つ一つに胸を温められながら頷いた。

 夜、寝室で。

 リゼルミアは鏡の前に座っていた。

 髪はイーリアがほどいてくれた。痛くなかった。けれど、今日は疲れて、自分で寝台へ行く前に少しだけ鏡を見ていた。

 鏡の中の自分は、青白い。

 目元も赤い。

 美しく勝った女には見えない。

 震えながら拒んだ女に見える。

 でも、それでよかった。

 エルネストが長椅子へ向かう前、彼女の後ろで足を止めた。

「鏡がつらいなら、伏せる」

 リゼルミアは首を振った。

「今日は、見ておきます」

「うん」

「泣いていますね」

「少し」

「でも、戻りませんでした」

「ああ」

 リゼルミアは鏡の中の自分を見る。

 昔の自分が、少し遠くにいる。

 最初の婚家の客間で俯いていた自分。

 寝室で泣いていた自分。

 離縁状に署名した自分。

 その子へ、今なら言える気がした。

 あなたのせいではなかった。

 リゼルミアは、鏡の中で小さく頷いた。

 寝台へ入ると、疲れがどっと押し寄せた。

 布団の温かさが身体を包む。長椅子にはエルネスト。窓の外は静かで、雲の隙間から月の光が少しだけ落ちている。

「エルネスト様」

「はい」

「私は、今日、最初の結婚を少しだけ終えられました」

「うん」

「全部ではありません。でも、少し」

「それでいい」

 彼の声はいつも通りだった。

 穏やかで、急がせない。

 リゼルミアは目を閉じる。

「あなたが隣にいてくださって、よかったです」

 少しの沈黙。

 そして、エルネストの低い声。

「俺も、隣にいられてよかった」

 胸が温かくなる。

 涙がまた滲む。

 けれど、今日はその涙を無理に止めなかった。

「おやすみなさい、エルネスト様」

「おやすみ、リゼルミア」

 眠りに落ちる直前、リゼルミアは思った。

 愛していたという嘘は、もう彼女を引き戻せない。

 欲しかった言葉だった。

 けれど今は、知っている。

 愛は、過去の傷を都合よく薄める言葉ではない。

 愛は、痛かったら言えと待つ手。

 怖いなら眠るだけでいいと言う夜。

 隣にいると約束し、本当に隣にいること。

 そして、自分の言葉で拒む力を奪わないこと。

 リゼルミアは静かに息を吐いた。

 最初の元夫の影は、完全には消えない。

 けれど、その影の向こうに、今日初めて自分の足跡がついた。

 戻りません。

 その言葉を抱いたまま、彼女は深い眠りへ落ちていった。


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