十一度離縁された無能妻ですが、妹が恋した公爵様だけは私を手放さない〜失った子の記憶を抱えた私は、今度こそ家族を守ります〜

なつめ

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第39話 公爵夫人の仕事机


 朝の公爵家は、静かに動いていた。

 廊下では使用人たちの足音が控えめに響き、厨房の方からは香りの強すぎないスープを温める音が聞こえる。窓の外は薄く晴れていた。前日の灰色の雲は夜のうちに流れ、庭には淡い光が落ちている。白い花の花弁には朝露が残り、温室の硝子屋根は春の光を柔らかく返していた。

 リゼルミアは食堂ではなく、小さな居間で朝食を取った。

 香りの薄い根菜のスープ。小さく切られた白パン。白葡萄が二粒。蜂蜜をほんの少しだけ溶かした白湯。

 今日も、皿は一枚だけ別に置かれていた。

 小さな白葡萄の皿。

 エルネストは朝の執務へ行く前に、その皿から一粒取って食べた。

「甘い」

 いつもの真面目な顔で、いつもの感想。

 リゼルミアは思わず小さく笑った。

「昨日も、一昨日も、同じことをおっしゃいました」

「今日も甘い」

「それは、そうですけれど」

「違う感想が必要か」

「いいえ」

 リゼルミアは、少しだけ頬を緩めた。

「同じで、安心します」

 言ってから、自分で驚いた。

 同じで安心する。

 そんなことを、いつから自分は言えるようになったのだろう。

 かつて、同じことは恐怖だった。

 また同じように責められる。

 また同じように離縁される。

 また同じように、食卓で笑われる。

 けれど今は違う。

 エルネストが同じ皿から果物を一つ食べること。同じように甘いと言うこと。同じように、食べられる分だけでいいと待ってくれること。

 それは、怖い繰り返しではなく、安心の繰り返しだった。

 リゼルミアも白葡萄を半分だけ口にした。

 冷たすぎない果汁が舌の上でほどけ、喉をゆっくり通る。

 食べられた。

 量は少ない。けれど、食べられた。

 エルネストは大げさには褒めなかった。ただ、静かに頷いた。

「半分食べた」

「はい」

「十分だ」

 その言葉が、今日も胸に落ちる。

 十分。

 リゼルミアは、その言葉を少しずつ覚えている。

 朝食の後、医師の短い診察があった。

 体調は大きく崩れていない。香りへの反応はまだあるが、昨日ほどではない。食事量も少しずつでよい。気分の波や不安は、無理に抑え込まないように。

 女医は穏やかにそう言った。

「奥様は、ご自分を責めずにお過ごしください。休むことも、食べられるものを選ぶことも、今は大切なお務めです」

 務め。

 その言葉に、リゼルミアは少しだけ不思議な気持ちになった。

 休むことが務め。

 食べられるものを選ぶことが務め。

 以前なら、務めとは我慢することだった。自分を後回しにして、家のため、妹のため、夫のため、婚家のために動くことだった。

 今は違う。

 自分の身体を守ることも、務めになる。

 まだ完全には信じきれないけれど、そういう考え方があるのだと、彼女は少しずつ知り始めていた。

 診察を終えた後、エルネストが言った。

「今日は、見せたいものがある」

 リゼルミアは水杯を両手で包んだまま、彼を見上げた。

「見せたいもの、ですか」

「ああ。体調がよければ」

「どこへ行くのですか」

「書庫の隣だ」

 書庫の隣には、小さな部屋があった。

 かつては客用の読書室として使われていたらしいが、リゼルミアが公爵家へ来てからはほとんど入ったことがない。書庫へ行く時、扉の前を通るだけだった。

 リゼルミアは少し考えた。

 今朝は気分が悪くない。

 歩くのも、ゆっくりなら大丈夫だ。

「少しなら、行けます」

「無理なら途中で戻る」

「はい」

「階段は使わない」

「はい」

「長く立たない」

「はい」

 あまりに一つずつ確認されるので、リゼルミアは少し笑った。

「エルネスト様は、医師より細かいです」

「医師に従っている」

「それはそうですが」

「嫌か」

 リゼルミアは首を振った。

「いいえ。少し、安心します」

 言うと、エルネストの目元がわずかに和らいだ。

 彼はすぐに手を差し出さなかった。

「手を取る?」

 いつもの問い。

 リゼルミアは、少しだけ迷わずに頷いた。

「はい」

 彼の掌へ、自分の手を乗せる。

 強く握られない。

 けれど、歩き出せるだけの支えがある。

 その距離に、リゼルミアはもう何度も救われていた。

 書庫へ向かう廊下は、朝の光に満ちていた。

 壁に沿って置かれた花瓶には、今日は花ではなく青みがかった葉だけが生けられている。香りがないようにという配慮だろう。床の敷物は一部外され、滑りにくいものへ替えられていた。階段を避けるため、二人は少し遠回りの廊下を通る。

 その遠回りの道を、リゼルミアは嫌ではなかった。

 遠回りしてもよい。

 今の自分に合う道を選んでもよい。

 そう言われているようだった。

 書庫の扉の前を通り過ぎ、隣の小さな扉の前でエルネストが立ち止まった。

 扉は磨かれ、真鍮の取っ手が光っている。

 リゼルミアは、その扉を見た。

「ここは、以前からありましたよね」

「ああ。読書室だった」

「今は違うのですか」

「入れば分かる」

 エルネストは取っ手へ手をかける前に、リゼルミアを見た。

「開けても?」

 彼女は少し驚いた。

「私に聞くのですか」

「君の部屋になるから」

 リゼルミアは、言葉を失った。

 君の部屋。

 扉の向こうに何があるのか、まだ分からない。

 けれど、その一言だけで胸が揺れた。

 彼女の部屋はすでにある。私室も、寝室も、衣装部屋も。公爵夫人として与えられた場所はある。だが、今エルネストが言った「君の部屋」は、少し響きが違った。

 リゼルミアは、小さく頷いた。

「はい」

 扉が開いた。

 中には、光があった。

 広い部屋ではない。

 けれど、窓が大きく、午前の陽射しが柔らかく入る。書庫よりも少し明るく、温室ほど眩しくない。壁際には低めの本棚。棚にはまだ余白がある。窓辺には香りのない青いリボンと、小さな葉物の鉢。暖炉には弱く火が入っている。

 そして部屋の中央より少し窓側に、机があった。

 新しい机だった。

 大きすぎない。

 けれど、便箋や帳簿を広げても窮屈にならない幅がある。表面は滑らかに磨かれ、角は丸く削られていた。冷えないように、机の下には厚手の敷物が敷かれている。椅子は背もたれが高すぎず低すぎず、座面には柔らかな薄紫のクッション。膝掛けが掛けられ、足元には小さな足置きまである。

 机の上には、帳簿の写し、便箋、封蝋、ペーパーナイフ、インク壺、砂入れ、羽根ペンが整然と置かれていた。

 インク壺は小ぶりで、蓋が軽い。

 羽根ペンは細すぎず、握りやすそうだった。

 便箋は白と薄紫。上品だが派手ではない。

 机の端には、小さな砂時計もある。

 半刻用。

 リゼルミアは、部屋の入口で立ち止まったまま動けなかった。

 エルネストは、急かさなかった。

 彼女の手をゆるく包んだまま、静かに待っている。

「これは」

 リゼルミアの声は、かすれていた。

「君の仕事机だ」

 その言葉が、胸の奥でゆっくり広がった。

 仕事机。

 リゼルミアの。

 公爵夫人として座るだけの椅子ではない。

 食卓の席でもない。

 眠るための寝台でもない。

 彼女が考え、書き、判断し、働くための場所。

「私の……仕事机」

「ああ」

 エルネストは頷いた。

「書庫の机は俺やロナンも使う。君が落ち着いて作業できる場所が必要だと思った」

 リゼルミアは、ゆっくり部屋へ入った。

 足元の敷物は柔らかく、滑らない。窓から入る光は、紙を読むのにちょうどよい。暖炉の火は強すぎず、部屋の温度を穏やかにしている。

 机へ近づくと、細かな配慮がさらに見えてきた。

 椅子の横には、小さな呼び鈴。

 水差しを置くための低い台。

 香りの弱い白湯用の茶器。

 机の右端には、手を休ませるための柔らかな布が畳まれている。指先が冷えた時に温めるための小さな手袋もあった。真珠灰色ではなく、仕事用に少し薄い灰紫色の手袋。

 引き出しは軽く開く。

 力を入れなくてもよいように、取っ手が大きめに作られている。

 中には帳簿用の付箋、糸綴じの帳面、未使用の封筒、予備のペン先が整えられていた。

 リゼルミアは、何も言えなかった。

 胸がいっぱいになる。

 嬉しい。

 怖い。

 申し訳ない。

 信じられない。

 その全部が、喉の奥で絡まる。

「座ってみる?」

 エルネストが尋ねる。

 リゼルミアは、少し躊躇った。

 この椅子に座っていいのだろうか。

 自分専用の仕事机に、自分が。

 過去の婚家で与えられた机は、いつも余り物だった。寒い廊下の隅。倉庫の片隅。夫の書斎の端に、使わなくなった机を置かれただけの場所。椅子は高さが合わず、足が冷え、灯りは足りなかった。

 それでも彼女は、そこに座って帳簿を整えた。

 支払いの計算をし、使用人の賃金表を書き、取引先への詫び状を作り、備蓄の減り方を見た。

 机はあった。

 でも、それはリゼルミアの場所ではなかった。

 ただ仕事を押しつけられる場所だった。

 この机は違う。

 最初から、彼女のために置かれている。

 その事実が、怖いほど眩しかった。

 リゼルミアは椅子の背に触れた。

 木はなめらかで、冷たすぎない。

「私には、贅沢です」

 ようやく出た言葉は、それだった。

 エルネストはすぐに答えた。

「贅沢ではない。必要なものだ」

 静かな声。

 少しも揺れなかった。

 リゼルミアは彼を見た。

「必要、ですか」

「ああ」

 エルネストは机を見た。

「君が仕事をするには、身体に合う机と椅子が必要だ。冷えない部屋も、軽い引き出しも、使いやすい筆記具も。休むための膝掛けも、時間を区切る砂時計も」

 彼は一つずつ言った。

「どれも贅沢ではない」

 リゼルミアの目に涙が滲む。

「今まで、そんなものを考えたことがありませんでした」

「これから考えればいい」

「机は、あるものを使うものだと思っていました。椅子が合わなくても、指が冷えても、灯りが暗くても、私が我慢すればよいのだと」

「我慢しなくていい」

 エルネストは低く言った。

「君の仕事を大切にするなら、君の身体も大切にする必要がある」

 その言葉が、胸に深く入った。

 仕事だけを求められるのではない。

 働く身体も、考える頭も、疲れる心も含めて扱われている。

 それは、初めての感覚だった。

 リゼルミアは、ゆっくり椅子に座った。

 座面は柔らかい。

 背中が支えられる。

 足置きに足を乗せると、膝が楽だった。机の高さも、腕を置いた時に肩が上がらない。帳簿を開けば、ちょうど光が落ちる位置にある。羽根ペンは手元に近すぎず遠すぎず、インク壺も蓋を開けやすい。

 身体が、驚くほど楽だった。

 仕事を始める前から、こんなに違うのか。

 リゼルミアは両手を机の上に置いた。

 そこは、彼女のために空けられていた。

 誰かの書類の隙間ではない。

 誰かの都合で奪われる端でもない。

 まっすぐ、彼女の前にある机。

「座れます」

 小さく言った。

「痛くありません」

 言ってから、自分で胸が詰まった。

 仕事机に座って、最初に出た感想が「痛くない」。

 どれほど、自分は今まで痛い場所で働いてきたのだろう。

 エルネストの目元が静かに痛む。

 だが彼は、怒りを出さずに頷いた。

「よかった」

 リゼルミアは、机の上の帳簿に触れた。

「これは、公爵家の帳簿ですか」

「写しだ。すべてではない。君が今確認している範囲だけ」

「慈善院の分も?」

「ある」

 彼は机の端を指した。

「ただし、半刻までだ」

 リゼルミアは砂時計を見た。

「やはり、それは置かれるのですね」

「必要なものだ」

「監視のためではなく?」

「守るためだ」

 エルネストは真面目に言った。

「君は放っておくと、最後までやる」

 リゼルミアは言い返せなかった。

 その通りだった。

「途中でやめる練習も必要だ」

「仕事を途中でやめる練習」

「重要だ」

 あまりにも真剣に言うので、リゼルミアは少し笑った。

「エルネスト様は、休むことも仕事にして、途中でやめることも練習になさるのですね」

「必要なら、全部そうする」

「私は、ずいぶん多くの仕事を抱えていることになります」

「なら、仕事量を調整する」

 その返事に、リゼルミアはまた笑ってしまった。

 仕事机の前で笑える。

 それも、初めてかもしれない。

 かつて仕事机の前で浮かぶ表情は、緊張か疲労か恐怖だった。間違えれば責められる。遅れれば叱られる。気づきすぎれば細かい女と嫌がられる。気づかなければ役立たずと罵られる。

 でも今、机の前で少し笑っている。

 そのことが、信じられないほど甘かった。

 エルネストは、机の上の便箋を一枚取った。

 薄紫の縁取りがある上品な紙だ。

「最初に、これを書いてほしい」

「手紙ですか」

「いや」

 彼は便箋をリゼルミアの前へ置いた。

 そして、インク壺の横に置かれた小さな札を指す。

 白い厚紙の札。

 まだ何も書かれていない。

「この机の持ち主の名を」

 リゼルミアの指先が止まった。

「持ち主の名」

「ああ」

 エルネストは静かに言った。

「この部屋と机は、君の仕事場所だ。誰のものか、最初に君が書けばいい」

 リゼルミアは、空白の札を見つめた。

 ただの札だ。

 名前を書くだけ。

 それなのに、胸が大きく揺れた。

 名前を書く。

 自分の場所に。

 今まで、リゼルミアの名前は、書類の末尾にあった。

 離縁状の署名欄。

 嫁入り契約書。

 婚家への持参品リスト。

 謝罪文の下。

 誰かの都合のために、彼女の名前は使われてきた。

 自分の場所を示すために、自分の名前を書くことなどなかった。

 リゼルミアはペンを取ろうとして、指が震えた。

 エルネストはすぐに言った。

「無理なら、今日は書かなくていい」

 その言葉で、逆に少し息ができた。

 今書いてもいい。

 書かなくてもいい。

 選べるなら、書けるかもしれない。

 リゼルミアは、ペンを取った。

 羽根ペンは軽かった。

 握りやすいように、軸に薄い布が巻かれている。指が滑らない。冷たくない。机の上の小さなインク壺の蓋を開けると、黒いインクが静かに光った。

 リゼルミアはペン先を浸し、空白の札へ向ける。

 手が震える。

 最初の線が、少しだけ揺れた。

 けれど、書き始めると、胸の中に静かな集中が生まれた。

 リゼルミア・ヴァルクレイド。

 結婚してから、何度かその名を書いた。

 けれど、今日ほど意味を感じたことはなかった。

 リゼルミア。

 自分の名。

 ヴァルクレイド。

 この家の名。

 離縁状ではない。

 命じられた署名ではない。

 この机の持ち主としての名前。

 最後の文字を書き終えた瞬間、リゼルミアは息を止めた。

 インクはまだ濡れている。

 少し震えた文字。

 けれど、読める。

 確かに自分の名だ。

 リゼルミア・ヴァルクレイド。

 エルネストは、隣でその札を見た。

「綺麗な字だ」

 リゼルミアの頬が少し熱くなる。

「少し震えました」

「それでも綺麗だ」

「本当に?」

「本当に」

 リゼルミアは、濡れたインクが乾くのを見つめた。

 文字が紙の上に定着していく。

 まるで、自分の居場所が少しずつ形になっていくようだった。

「ここに、私の名前があるのですね」

「ああ」

「離縁状ではなく」

 言ってから、胸が少し痛んだ。

 エルネストはすぐに答えなかった。

 少し間を置いて、静かに言う。

「ここでは、君を追い出すための名ではない。迎えるための名だ」

 リゼルミアの目に涙が溢れた。

 迎えるための名。

 その言葉が、胸の奥に深く入り込む。

 離縁状に書いた名は、家から出されるための名だった。

 今日書いた名は、この場所に座るための名。

 同じ名前なのに、意味がまったく違う。

 リゼルミアは、涙を拭おうとした。

 エルネストがすぐにハンカチを差し出す。

「泣いてもいい」

「最近、よく泣いてしまいます」

「その分、長く我慢していた」

「そうでしょうか」

「ああ」

 リゼルミアはハンカチを受け取った。

「ありがとうございます」

 涙を押さえながら、もう一度札を見る。

 リゼルミア・ヴァルクレイド。

 その下に、小さく何かを加えたいと思った。

 だが、何を書けばいいのか分からない。

 公爵夫人。

 それだけではない気がした。

 奥向き担当。

 慈善事業補佐。

 帳簿確認役。

 どれも間違いではない。

 けれど、まだ少し足りない。

 リゼルミアが迷っていると、エルネストが言った。

「無理に肩書きを書かなくていい」

「でも、私がここで何をするのか」

「これから決めればいい」

 リゼルミアは彼を見る。

「これから」

「ああ。妻としてだけではなく、共同でこの家を見る者として」

 共同。

 その言葉に、胸が震えた。

 共同運営者。

 以前、家の仕事をしていても、リゼルミアはただの裏方だった。妻として当然。手伝いとして当然。責任だけは押しつけられ、権限は与えられなかった。失敗すれば責められ、成功しても存在は消された。

 けれど、今エルネストは、共同で見る者と言った。

 この家を。

 仕事を。

 人を。

 一緒に。

「私が、この家を一緒に見てもよろしいのですか」

「君に見てほしい」

「でも、今は体調も不安定で、少ししか仕事ができません」

「少しでいい」

「休む日もあります」

「ある」

「泣く日も」

「あるだろうな」

「食べられない日も」

「果物を半分こする」

 その答えがあまりに自然で、リゼルミアは涙の中で笑ってしまった。

「そこに戻るのですか」

「重要だ」

「はい。重要です」

 彼女は笑いながら、胸の中の不安が少しだけほどけるのを感じた。

 仕事をするには、完璧でなくてはならないと思っていた。

 倒れないこと。

 泣かないこと。

 食べられない日を作らないこと。

 すべてを抱えること。

 けれど、エルネストの言う共同は違う。

 少しずつ。

 休みながら。

 必要な道具を揃えながら。

 体調に合わせて。

 それでも、リゼルミアの目と力を必要としてくれる。

 彼女自身を消費するためではなく、彼女が自分の力を使えるように。

 リゼルミアは、机の上の帳簿へ触れた。

「では、最初の仕事は何でしょう」

 エルネストは砂時計を見た。

「今日は、机に名前を書いた」

「それだけですか」

「それだけで十分だ」

 リゼルミアは少し目を丸くした。

「仕事ではないような」

「重要な仕事だ」

 エルネストは真面目な顔で言った。

「君がこの机の持ち主だと決めた」

 リゼルミアは、札を見る。

 確かに、それは大きな一歩かもしれない。

 この机に自分の名前を書く。

 この場所を自分の仕事場所として受け取る。

 それは、単なる準備ではない。

 始まりだ。

「では、今日はこれで仕事を終えてもいいのですか」

「終える」

「砂時計はまだ残っています」

「今日は特別だ」

「エルネスト様がそうおっしゃるなら」

「俺が言う」

 リゼルミアはまた笑った。

 こんなに笑っていいのだろうか、と思う。

 仕事部屋で。

 机の前で。

 妊娠の不安も、過去の痛みも、まだ消えていないのに。

 それでも、笑いが出た。

 それは、罪ではないのだろう。

 エルネストが隣で、穏やかに見ていてくれるから。

 イーリアが扉を叩いたのは、その少し後だった。

「奥様、お加減はいかがでしょう」

 中へ入ったイーリアは、机の上の札を見た。

 リゼルミア・ヴァルクレイド。

 彼女は一瞬、目を細めるようにして、それから深く礼をした。

「素敵でございます、奥様」

 その声には、静かな喜びがあった。

 リゼルミアは少し照れた。

「字が少し震えています」

「奥様の字です」

 イーリアはそう言った。

「この机に、よくお似合いです」

 その言葉に、また胸が熱くなる。

 この机に似合う。

 自分が。

 リゼルミアは、うまく返事ができずに小さく頷いた。

 イーリアは部屋の中を確認する。

「膝掛けの厚みは足りていますか」

「はい。とても温かいです」

「椅子の高さは」

「座りやすいです」

「足置きは、もう少し手前でもよろしいかもしれません」

 そう言って、イーリアは少しだけ足置きを調整した。

 本当に身体に合わせてくれている。

 机だけではない。

 椅子も、足元も、光も、温度も、道具の位置も。

 リゼルミアが仕事をするために、リゼルミア自身を痛めつけないように整えられている。

 それが、たまらなく優しかった。

 イーリアは、机の端へ小さな布袋を置いた。

「こちらは、指先が冷えた時の温石でございます。熱すぎないように包んでおりますので、必要でしたら手元へ」

「ありがとうございます」

「それと、料理長からです」

 イーリアが次に差し出したのは、小さな皿だった。

 白い皿に、梨が二切れと白葡萄が二つ。

 細かく切られている。

「半分こ用でございます」

 リゼルミアは、思わず顔を赤くした。

「料理長まで」

 エルネストは真面目に皿を見た。

「配慮が行き届いている」

「エルネスト様」

「食べるか」

「今ですか」

「仕事場で食べられるか試す」

 また真面目な顔だった。

 リゼルミアは、恥ずかしさと可笑しさと嬉しさで、胸がいっぱいになる。

「では、一切れだけ」

 エルネストは梨を一切れ取って食べた。

「甘い」

 リゼルミアは笑った。

「仕事机でも同じ感想ですね」

「甘いものは場所を変えても甘い」

「それは、そうです」

 リゼルミアも梨を一切れ食べた。

 喉を通る。

 仕事机の前で、果物を食べた。

 責められない。

 行儀が悪いと言われない。

 休みながら仕事をすることを、許されている。

 いや、許されるというより、それが必要なものとして整えられている。

 贅沢ではない。

 必要なもの。

 エルネストの言葉が、また胸で温かくなる。

 その日の午後、リゼルミアは少しだけ新しい仕事机で過ごした。

 書類は読まなかった。

 エルネストが言った通り、今日は机に名前を書いたことで仕事は終わりだったからだ。

 代わりに、彼女は机の引き出しを一つずつ開け、中に何が入っているか確認した。帳面。便箋。封筒。付箋。予備のペン先。温石。小さな香りのない乾燥葉。膝掛けの替え。手袋。

 どれも、彼女が楽に仕事をするためのものだった。

 引き出しの一つには、空の場所もあった。

 リゼルミアはそこを見て、少し考える。

「ここには、何を入れましょう」

「君が必要だと思うものを」

 エルネストは答えた。

「私が」

「ああ」

 リゼルミアは、空の引き出しを見つめた。

 空の場所。

 自由に使っていい場所。

 それは、小さいようで大きかった。

「では、慈善院の子どもたちからもらった花の押し葉を、少し」

「いいと思う」

「それから、薄紫のリボンを予備に」

「うん」

「あと、白い布を一枚。涙が出た時に、ハンカチとは別に机を拭けるように」

 エルネストは少しだけ目元を和らげた。

「必要だ」

「はい」

 リゼルミアは、空の引き出しを閉めた。

 これから、ここに少しずつ自分のものが増えていく。

 それは、彼女がこの場所を使っていくということだった。

 夕方になる前に、エルネストはリゼルミアを私室へ戻した。

 まだ座っていたい気持ちもあった。

 けれど、立ち上がると少し疲れを感じた。身体は正直だ。今日の喜びも、心の揺れも、意外と体力を使っているらしい。

 リゼルミアは机の札をもう一度見た。

 リゼルミア・ヴァルクレイド。

「また来てもいいですか」

 思わず聞いてから、少し恥ずかしくなった。

 自分の部屋なのに。

 エルネストは真面目に答えた。

「もちろん。君の部屋だ」

 胸が温かくなる。

「はい」

「明日は、体調がよければ慈善院の報告書を一枚だけ読む」

「一枚だけ」

「一枚だけ」

「二枚目は」

「明後日」

「厳しいですね」

「必要なものだ」

 またその言葉。

 リゼルミアは小さく笑った。

 夜、寝室で。

 リゼルミアはいつもより少し穏やかにお腹へ手を置いていた。

 今日の出来事を、まだ胸の中で何度も思い返している。

 机。

 椅子。

 膝掛け。

 インク壺。

 自分の名を書いた札。

 仕事場所。

 それは、ただ便利な家具をもらったというだけではなかった。

 リゼルミアにとっては、居場所を一つ渡されたようなものだった。

 妻としての席だけではない。

 母になるかもしれない身体だけでもない。

 考え、働き、判断する人としての場所。

 共同でこの家を見る者としての場所。

 エルネストは、近くの椅子に座っていた。

 リゼルミアは彼を見る。

「エルネスト様」

「はい」

「今日の机は、本当に嬉しかったです」

「よかった」

「でも、まだ少し怖いです」

「うん」

「自分の場所が増えるほど、失ったらどうしようと思います」

 エルネストは静かに聞いている。

「仕事机も、この部屋も、この家も。あなたの隣も。この子も。大切だと思うほど、怖くなります」

「うん」

「でも、怖いからいらないとは、もう思いません」

 その言葉に、エルネストの表情が少し柔らかくなった。

 リゼルミアは、お腹の上の手に少し力を込める。

「今日、名前を書いた時、少しだけ分かりました。私は追い出されるためだけに名前を書くのではないのですね」

「そうだ」

「迎えられるために書く名もあるのですね」

「ああ」

「なら、この子にも、いつか」

 言いかけて、リゼルミアは少し怖くなった。

 名前。

 まだ早い。

 まだ考えるのが怖い。

 失う恐怖が、すぐに胸を掠める。

 エルネストは、すぐに言った。

「今は考えなくていい」

 リゼルミアは息を吐く。

「はい」

「ただ、いつか考えられる日が来たら、一緒に考えよう」

 リゼルミアの目に涙が滲む。

「はい」

 いつか。

 今ではなくていい。

 急がなくていい。

 それでも、いつかがあるかもしれない。

 そのことが、少しだけ温かかった。

「手を取る?」

 エルネストが尋ねる。

 リゼルミアは頷いた。

「はい」

 彼の手を取る。

 温かい。

 今日、自分の名前を書いた手を、彼がゆるく包んでくれる。

「エルネスト様」

「はい」

「私、今日、仕事をしたのでしょうか」

「した」

「名前を書いただけです」

「自分の場所を受け取った」

「それは、仕事ですか」

「最初の仕事だ」

 リゼルミアは、胸がじんわりと熱くなるのを感じた。

 最初の仕事。

 机に座ること。

 自分の名を書くこと。

 その場所を受け取ること。

 そこから、すべてが始まる。

「明日も、少しだけ仕事をします」

「体調がよければ」

「はい。体調がよければ」

 以前なら、何があってもやりますと言っていただろう。

 今は違う。

 体調がよければ。

 そう付け足せる。

 それは弱さではなく、自分を守るための言葉だった。

 リゼルミアは目を閉じた。

 仕事机の光景が浮かぶ。

 窓辺の淡い光。

 薄紫の椅子。

 膝掛け。

 小さな砂時計。

 白い札に書いた自分の名前。

 リゼルミア・ヴァルクレイド。

 その文字は、まだ少し震えていた。

 けれど、確かにそこにあった。

「おやすみなさい、エルネスト様」

「おやすみ、リゼルミア」

 眠りに落ちる前、リゼルミアは胸の中で小さく呟いた。

 明日、またあの机へ行きます。

 それは、自分への約束だった。

 働くためだけではない。

 無理をするためでもない。

 自分の場所に、自分の名で座るために。

 妻としてだけではなく。

 母としてだけでもなく。

 リゼルミア自身として。

 彼女は、エルネストの手の温もりを感じながら、静かに眠りへ落ちていった。

 その夜の夢には、机が出てきた。

 離縁状は置かれていない。

 叱責の手紙もない。

 代わりに、白い札があった。

 リゼルミア・ヴァルクレイド。

 夢の中の彼女は、その札を見て、ゆっくり椅子に座る。

 窓の外では、青い花が揺れていた。

 机の上には、小さな白葡萄が二粒。

 隣にエルネストがいて、一粒を食べる。

 甘い。

 彼が言う。

 夢の中のリゼルミアは、少し笑って、もう一粒を食べた。

 そして、自分の名前の書かれた机に、そっと手を置いた。

 そこは、痛くない場所だった。


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