41 / 57
第41話 失われた子の証拠
ガルシェスが残していった封筒は、エルネストの執務室の机の上に置かれた。
封は切られていない。
ロナンが白い布の上に載せ、四隅に小さな重しを置いている。まるでそれ自体が毒を含んだ刃物であるかのように、誰も素手で軽々しく触れなかった。
封筒は、薄い灰色だった。
上質な紙。フロラドール家の小さな紋章。角は少し擦れている。古い記録だと言っていたが、封筒そのものは最近整えられたものだろう。中に何があるのかは、まだ誰も知らない。
リゼルミアは、それを直接見ていなかった。
ガルシェスが帰った後、医師が呼ばれ、彼女は私室で休まされていた。夜も何度か目を覚ました。夢の中で、濡れた石段が出てきた。けれど目を開けるたび、エルネストがそばにいた。
ここはフロラドール家ではない。
何度もそう言ってくれた。
私は、あの家の妻ではありません。
そう自分でも言えた。
それでも朝になっても、封筒の存在は胸の奥に残っていた。
古い診察記録。
そこには何が書かれているのか。
リゼルミアの痛みは、大げさだったと書かれているのか。
転倒したのは本人の不注意だと書かれているのか。
懐妊は確かではなかったと、曖昧にされているのか。
それとも。
自分がずっと恐れていた言葉が、紙の上に残されているのか。
守れなかった。
その証として。
朝食の白葡萄は、半分しか食べられなかった。
エルネストは同じ皿から一粒食べ、いつものように「甘い」と言った。リゼルミアは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。彼はそれを責めず、「今日は半分で十分だ」と言った。
十分。
その言葉は、今日も彼女の胸を少しだけ支えた。
午前の診察を終えると、女医はエルネストへ言った。
「奥様は、昨日の件で強い緊張を受けておいでです。しばらくは無理な対面、長い書類確認、感情を大きく揺らす話し合いは避けてください。ただ、何も知らせず周囲だけが動くと、かえって不安になられる場合もございます」
リゼルミアは寝椅子に座ったまま、その言葉を聞いていた。
女医は彼女へ向き直る。
「奥様。知ることと、今すぐ全部を見ることは別です。怖い記録がある時は、一度に読まなくてもよろしいのです」
リゼルミアは小さく頷いた。
「はい」
女医は優しく続けた。
「ご自分を責めるために記録を見る必要はありません。必要な時に、必要な分だけでよろしゅうございます」
その言葉に、喉が詰まった。
記録。
証拠。
それらは、ずっと責められるためのものだと思っていた。
離縁状。
婚姻契約書。
持参金の一覧。
婚家の不満を並べた手紙。
リゼルミアの名が書かれた紙は、多くの場合、彼女の価値を測り、足りなさを示し、追い出すために存在していた。
だから、記録が怖い。
紙が怖い。
そこに自分の罪が書かれている気がする。
女医が帰った後、エルネストはリゼルミアのそばに座った。
近すぎず、遠すぎない椅子。
彼は、すぐに封筒の話をしなかった。
まず白湯を渡し、膝掛けの位置を整え、窓が少し寒くないかを確かめた。香りのない青いリボンが窓辺に置かれている。机には何も広げられていない。
リゼルミアは白湯を両手で包みながら、先に口を開いた。
「封筒は」
声が少し震えた。
「まだ、開けていないのですか」
「開けていない」
エルネストは答えた。
「君のいないところで中身を読むこともできた。だが、それをすると君が怖がると思った」
リゼルミアは目を伏せる。
その通りだった。
知らないところで見られるのも怖い。
けれど、自分で見るのも怖い。
どちらも怖い。
「ただ、中身を確認しないわけにもいかない」
エルネストの声は低い。
「ガルシェスは、記録を武器にするつもりで来た。なら、こちらも事実を集める」
リゼルミアの手が杯を握る。
「事実」
「ああ」
エルネストは、彼女を真っ直ぐ見た。
「フロラドール家の記録だけを事実にはしない」
その言葉に、胸が揺れた。
「どういうことですか」
「調べる。元侍女、薬師、馬車番、近隣の医師。当時、君の周りにいた者を探す。誰が何を見たのか、何を聞いたのか、何を握りつぶしたのか」
リゼルミアの喉が詰まる。
あの夜が、外へ出ていく。
自分の胸の奥だけに閉じ込めていた夜が、他人の言葉になる。
それは怖かった。
あの子がいたことを認めてほしい。
けれど、記録になるのが怖い。
見知らぬ人に調べられるのが怖い。
何もなかったと言われるのが怖い。
逆に、本当にあったと示されるのも怖い。
リゼルミアは、白湯の表面を見つめた。
湯気が薄く上がっている。
「もし」
声がかすれる。
「もし、私が悪かったと書かれていたら」
「それだけでは信じない」
エルネストは即座に言った。
「記録は、人間が作る。誰が、何のために、どんな言葉を選んだかを見る」
リゼルミアは彼を見る。
エルネストの顔には、怒りがあった。
だが昨日よりも整えられている。
怒りを動く力に変えようとしている顔だった。
「君は言った。医師を呼んでほしいと言ったと。痛かったと。ひとりだったと」
彼の声が静かに深くなる。
「俺はそれを軸に調べる」
軸。
リゼルミアの言葉が、軸になる。
今まで、彼女の言葉はすぐに押し流された。
大げさ。
思い込み。
妊娠したふり。
繊細な妹を傷つけた。
役に立たない妻。
そういう言葉で、彼女の訴えはいつも薄められた。
でも、エルネストは違うと言う。
リゼルミアが言ったことを、軸にする。
「怖いです」
リゼルミアは正直に言った。
「調べることも、調べられることも」
「うん」
「でも、ガルシェス様の言う記録だけで、あの夜を決められたくありません」
その言葉は、震えていた。
けれど、確かに彼女自身のものだった。
エルネストの目元が少しだけ和らぐ。
「なら、俺が調べる」
「私も見なければいけませんか」
「見なくていいものもある。見たいものだけ、君の速さで見る」
「私の速さで」
「ああ」
エルネストは手を差し出した。
「手を取る?」
リゼルミアは頷いた。
白湯の杯を机に置き、彼の掌へ自分の手を乗せる。
彼はゆるく包む。
「これは君を責めるものではない」
エルネストは言った。
リゼルミアの指が震える。
「君が責められるべきではなかった証拠だ」
その言葉で、胸の奥が痛くなった。
証拠。
責めるためではなく。
責められるべきではなかったことを示すため。
そんな証拠があるのだろうか。
自分を追い詰める紙ではなく、自分から罪を剥がす紙が。
リゼルミアは、涙を堪えながら小さく頷いた。
「少しずつなら」
「少しずつでいい」
その日から、エルネストの調査が始まった。
最初に封筒が開けられたのは、リゼルミアのいない場所だった。
ただし、それは彼女の知らないところではなかった。
エルネストは事前に説明した。
封筒は執務室で、エルネスト、ロナン、女医、法律家の立ち会いのもとで開封する。リゼルミアが同席しないのは、彼女の体調を守るため。中身はその場で写しを取り、医師的に確認が必要な部分、法的に問題となる部分、リゼルミアが今すぐ見なくてよい部分へ分ける。
リゼルミアは私室で待った。
イーリアがそばにいた。
白湯と、小さく切った梨の皿がある。
エルネストは封筒を開ける前に、梨を一切れ食べていった。
「甘い」
いつもの声。
少し硬かった。
それでも、いつもの言葉を置いていってくれた。
リゼルミアは、その言葉を握るようにして待った。
待つ時間は長かった。
時計の針の音が大きく感じる。廊下の足音がするたび、胸が跳ねる。封筒の中身が、今どこかで読まれている。自分の過去が、他人の目に触れている。
怖い。
でも、何も知らないままでいるよりは、少しだけ耐えられる。
イーリアが静かに言った。
「奥様、白湯を」
「はい」
リゼルミアは杯を受け取った。
手が震えていたが、こぼさずに飲めた。
「イーリア」
「はい」
「証拠というものは、怖いですね」
イーリアは少し考えてから答えた。
「はい。けれど、証拠は時に、黙らされていた声を支えることがございます」
リゼルミアは杯を見つめた。
「声を」
「奥様が痛いとおっしゃったこと。医師を呼んでほしいとおっしゃったこと。それを奥様だけが覚えていると、相手はなかったことにしようといたします。ですが、他にも聞いていた者、見ていた者、残された記録があれば、奥様の声は一人ではなくなります」
リゼルミアの胸が震えた。
声が一人ではなくなる。
それは、恐ろしくもあり、少しだけ救いでもあった。
昼過ぎ、エルネストが戻ってきた。
彼の顔は険しかった。
だが、リゼルミアの前に来る前に、怒りを一度深く飲み込んだのが分かった。扉の前で立ち止まり、息を整えてから入ってきたのだろう。
彼はリゼルミアの前に座った。
手には一枚の薄い紙だけを持っている。
分厚い書類ではない。
一枚。
それを見て、リゼルミアは少しだけ息を吸えた。
「全部は持ってこなかった」
エルネストが言った。
「今日は、君に見せてもよいと医師が判断した部分だけだ」
リゼルミアは紙を見つめる。
手を伸ばせない。
怖い。
エルネストはすぐに言った。
「見なくてもいい。俺が読むこともできる。読むのもやめられる」
リゼルミアは、膝の上で手を握った。
「何が、書いてありますか」
「当時の医師の記録の写しだ」
心臓が跳ねる。
「朝に呼ばれた医師の」
「ああ。ガルシェスが持ってきた封筒の中にあった。だが、彼の家が保存していた写しには、いくつか不自然な欠落がある」
「欠落」
「診察時刻、呼び出し時刻、呼び出しの遅れに関する部分が曖昧にされていた」
リゼルミアは息を呑んだ。
やはり。
何かが隠されていた。
「ただ、医師本人の医院に残る元帳を探せる可能性がある。ロナンがすでに手配している」
エルネストは一拍置き、紙へ視線を落とした。
「今日見せるのは、診察所見の部分だけだ」
リゼルミアは唇を震わせる。
「そこには」
声が続かない。
エルネストは、静かに言った。
「懐妊初期の兆候があったと書かれている」
リゼルミアの胸が止まりかけた。
部屋の音が遠くなる。
懐妊初期の兆候。
あった。
あったのだ。
自分だけの思い込みではなかった。
期待だけで騒いだのではなかった。
妊娠したふりで怠けたのではなかった。
リゼルミアは両手で口元を押さえた。
涙が一気に溢れる。
嬉しいのか、悲しいのか分からない。
ただ、胸の奥が大きく揺れた。
「あの子は」
声が震える。
「いたのですね」
エルネストの目が痛む。
彼は、静かに頷いた。
「いた」
リゼルミアは泣いた。
声を押し殺さずに。
けれど、昨夜のように大きく崩れる涙ではなかった。
静かで、深い涙だった。
あの子がいた。
リゼルミアの中に。
少しの間でも。
医師の紙にも、その痕跡があった。
ずっと自分だけが信じていたことが、外の世界にも残っていた。
それは救いだった。
同時に、痛みだった。
いたのなら。
本当にいたのなら。
なおさら、失ったことが胸に迫る。
エルネストは紙を机に置かず、自分の手元に持ったままだった。
リゼルミアが紙を見たいと言うまで、渡さないつもりなのだろう。
彼女は涙を拭い、しばらくしてから言った。
「見ても、いいですか」
「一行だけにする?」
リゼルミアは少し考えた。
「はい。一行だけ」
エルネストは紙を彼女の前へ差し出した。
指で、一行を示す。
そこには古い筆跡で、医師の所見が書かれていた。
流麗だが少し読みづらい文字。
けれど、エルネストが示した箇所だけは、リゼルミアにも読めた。
懐妊初期の兆候、ならびに転倒後の流血を確認。
リゼルミアの視界が滲む。
一行だけで、十分だった。
それ以上は読めなかった。
彼女は目を閉じ、顔を背ける。
エルネストはすぐに紙を下げた。
「今日はここまで」
低く、確かな声。
リゼルミアは頷いた。
「はい」
「これは君を責めるものではない」
エルネストがもう一度言う。
「君が責められるべきではなかった証拠だ」
リゼルミアは、泣きながら頷いた。
「はい」
その日、リゼルミアは仕事をしなかった。
机へ行きたい気持ちは少しあったが、エルネストが「今日は証拠を一行見た。それで十分だ」と言った。イーリアも同じように頷いた。女医も、午後の診察で「今日は心が大きく動いた日です。休みましょう」と言った。
休むことも、今は仕事。
リゼルミアは寝椅子で横になり、白湯を飲んだ。
梨を一切れ食べた。
エルネストも同じ皿から一切れ食べた。
「甘い」
今日も、そう言った。
リゼルミアは涙の跡の残る顔で、少しだけ笑った。
翌日から、証言が集まり始めた。
最初に見つかったのは、元侍女だった。
名をシェーラといった。
当時、フロラドール家の離れを担当していた下働きの一人。今は結婚して王都の外れに暮らしていた。ロナンが探し出し、直接話を聞いたという。
シェーラは、最初は怯えていた。
フロラドール家のことを話せば報復されるのではないかと恐れたのだ。だが、公爵家が正式に身分を守ると告げると、少しずつ話し始めた。
リゼルミアは、その証言の全文を見ることはできなかった。
エルネストが要点だけを読んでくれた。
「シェーラは、君が数日前から吐き気とめまいを訴えていたことを覚えている」
リゼルミアは寝椅子の上で膝掛けを握った。
「私、言っていたのですね」
「言っていた」
「誰にも聞いてもらえなかった気がしていました」
「聞いた人間はいた。ただ、上に通らなかった」
エルネストの声が低くなる。
「シェーラは、義母に報告したそうだ。奥様は顔色が悪い、重い仕事は控えた方がいいと」
「義母は」
「怠け癖を覚えさせるなと答えた」
リゼルミアの胸が冷える。
でも、涙はすぐには出なかった。
それは、自分の記憶と同じだったから。
新しい傷ではなく、古い傷に形が与えられる感覚だった。
「シェーラは、転倒の後、君が医師を呼んでほしいと言ったのも聞いている」
リゼルミアの手が震えた。
「本当に?」
「ああ」
「私、言えたのですね」
「言えていた」
エルネストは、静かに言った。
「君は助けを求めていた」
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
助けを求めていた。
守ろうとしていた。
何も言えずに失ったのではない。
言った。
医師を呼んでほしいと。
助けてほしいと。
その声を、誰かが聞いていた。
たとえ助けにはならなかったとしても。
なかったことにはならない。
リゼルミアは泣いた。
エルネストは手を握り、「今日はここまで」と言った。
次の日、薬師の証言が届いた。
フロラドール家の近くにあった小さな薬舗の主人で、名はドーマン。彼は、当時リゼルミアのために胃を落ち着ける薬草と、身体を温める香りの弱い薬湯を用意した記録を持っていた。
誰が買いに来たのか。
それは、フロラドール家の若い女中だった。
女中は「奥様が吐き気を訴えている」と言い、薬師が「懐妊の可能性があるなら強い薬は避けるべきだ」と注意したという。
その控えが、薬舗の帳面に残っていた。
リゼルミアは、その帳面の写しを見た。
今度は、自分で見たいと言った。
エルネストは一行だけ、薬師が記した部分を示した。
強薬不可。懐妊疑いあり。安静推奨。
安静。
推奨。
その文字を見た瞬間、リゼルミアの喉が熱くなった。
安静にするべきだった。
薬師は分かっていた。
少なくとも、可能性を考えていた。
それなのに、彼女は重い水桶を持たされた。
階段を上らされた。
リゼルミアは、紙から目を離した。
「私、休んでよかったのですね」
小さな声だった。
エルネストは即答した。
「休むべきだった」
「怠けではなく」
「怠けではない」
「妊娠したふりではなく」
「違う」
彼の声は、少し震えていた。
怒りで。
リゼルミアの涙が落ちる。
「私は、休んでよかった」
「よかった」
その言葉を聞いて、リゼルミアはしばらく泣いた。
休んでよかった。
あの頃の自分に、誰かがそう言ってくれたら。
いや、今言ってもらえた。
遅くても、意味はある。
その夜、リゼルミアは書庫の保管棚へ行きたいと言った。
エルネストは体調を確認し、短時間ならと付き添った。
小箱の前で、リゼルミアは静かに手を重ねた。
「あなたのために、休んでよかったのですね」
箱へ向けた言葉。
「私は、休みたかった。医師を呼んでほしかった。助けてほしかった」
涙が落ちる。
「それは、わがままではなかったのですね」
エルネストは隣で何も言わなかった。
彼女の言葉を、邪魔しない沈黙だった。
三日目には、馬車番の証言が届いた。
名はバルト。
当時、フロラドール家の厩で働いていた男だ。今は別の貴族家で働いているという。
彼は、あの夜、医師を呼びに行く準備をしたことを覚えていた。
リゼルミアの容体が悪いと聞いた若い侍女が、馬車番へ小声で頼みに来たのだ。夜間でも近隣の医師の家へ走れるか、と。バルトは馬を出す準備をした。
だが、その直後、義母付きの侍女が来て命じた。
馬を出すな。
奥様が騒いでいるだけだ。
男爵家の夜中の騒ぎにするな。
医師は朝でよい。
バルトは、その命令に従った。
従ってしまった。
証言の最後に、彼は「今も夢に見る」と話したという。
リゼルミアは、その話を聞いた時、全身が冷たくなった。
医師を呼ぶ道は、あったのだ。
馬は出せた。
誰かが準備しようとしてくれた。
それを、止めた者がいた。
握りつぶされた。
本当に。
エルネストの声は低かった。
「派遣依頼はあった。少なくとも、侍女と馬車番は動こうとしていた」
リゼルミアは、震える手で口元を押さえた。
「では、私は」
「ひとりで黙っていたわけではない」
「助けを呼ぼうとした人も」
「いた」
「でも、止められた」
「止められた」
言葉を重ねるたび、胸の奥の黒い塊が形を変えていく。
自分が悪かった。
守れなかった。
もっと早く言えばよかった。
その言葉たちの下から、別の事実が出てくる。
体調不良を訴えていた。
薬師は安静を勧めていた。
侍女は医師を呼ぼうとした。
馬車番は馬を出そうとした。
それを、止めた者がいた。
義母が休ませなかった。
医師の派遣依頼が握りつぶされた。
リゼルミアは、泣きながら言った。
「私は、全部一人で間違えたわけではなかったのですね」
エルネストは、彼女の手を強くしすぎないよう包んだ。
「君は間違えていない」
「でも、階段で」
「重い水桶を持たせた者が悪い」
「でも」
「休ませなかった者が悪い」
「医師を」
「呼ばせなかった者が悪い」
同じ問答を、何度もした。
それでも必要だった。
何度も言われなければ、リゼルミアの中にこびりついた罪は剥がれない。
四日目には、近隣の医師の元帳が届いた。
これは、リゼルミアには見せられなかった。
女医が先に確認し、今はまだ負担が大きすぎると判断したのだ。
エルネストも同意した。
ただ、要点だけを伝えることにした。
リゼルミアは、仕事部屋の机ではなく、私室の長椅子で聞いた。机では受け止めきれないと思ったからだ。手元には白湯、膝には膝掛け。エルネストは隣の椅子に座り、ロナンは少し離れて控えている。
「医師の元帳には、呼び出しを受けた時刻が残っていた」
エルネストが言った。
「朝だったのですね」
「ああ。夜明け後だ」
リゼルミアは目を閉じる。
分かっていた。
体感として、朝だった。
けれど、記録に残っている。
「さらに」
エルネストの声が少し低くなる。
「医師は、前夜に呼ぶべき状態だったと書いている」
リゼルミアの呼吸が止まりかけた。
前夜に。
呼ぶべき状態。
あの夜に。
やはり、そうだった。
朝まで待ってはいけなかった。
自分の身体が感じていた恐怖は、正しかった。
リゼルミアは、涙をこぼした。
「私は、分かっていたのです」
「うん」
「朝まで待ってはいけないと、思っていました」
「君の感覚は正しかった」
「でも、誰も」
「呼ばなかった」
エルネストの声には、抑えた怒りがあった。
「医師は、転倒後の処置が遅れたこと、安静が守られていなかったことも記している」
リゼルミアは、膝掛けを握った。
「私の身体のせいだとは」
「少なくとも、元帳にはそう書かれていない」
その言葉に、胸が震えた。
リゼルミアの身体が駄目だったから。
弱い子だったから。
そう言われ続けた。
でも、医師の元帳には、処置の遅れと安静不足が記されている。
リゼルミアは、ゆっくり息を吐いた。
痛い。
でも、息が入る。
証拠は痛い。
けれど、彼女を刺すだけではなかった。
胸に刺さった古い棘の位置を、少しずつ教えてくれている。
「奥様」
ロナンが静かに言った。
「追加で、当時の若い侍女シェーラが保管していた手紙の下書きが見つかりました」
リゼルミアは顔を上げる。
「手紙?」
「はい。彼女は、奥様のご実家へ助けを求める手紙を書こうとしたようです。結局、出せなかったそうですが」
リゼルミアの胸が痛む。
実家。
仮に届いていても、助けてくれただろうか。
きっと分からない。
でも、誰かが助けを求めようとした。
それだけでも、胸が揺れる。
ロナンは続けた。
「下書きには、奥様が数日前から食事の匂いを受けつけず、めまいを訴えていたこと。義母が休ませず、水汲みを命じたこと。転倒後、奥様が医師を求めたことが書かれています」
リゼルミアは、目を閉じた。
自分の記憶と同じ。
他人の言葉でも同じ。
「私だけの思い込み」ではなかった。
「その手紙は」
声が震える。
「見られますか」
エルネストは、少し迷った。
ロナンも同じだった。
「今日は要点だけにしよう」
エルネストが言った。
「手紙は感情の揺れが大きい。君が今すぐ全部読むには重い」
リゼルミアは、少しだけ残念なような、ほっとしたような気持ちになった。
「では、いつか」
「いつか。君が見たい時に」
「はい」
その夜、リゼルミアは久しぶりに仕事机へ行った。
長くは座らない約束だった。
彼女は机の前に座り、白い札を見る。
リゼルミア・ヴァルクレイド。
自分の名。
その横に、エルネストが一枚だけ紙を置いた。
証拠の写しではない。
リゼルミアのための白い便箋だった。
「今日は、読むのではなく、書く日でもいい」
「何を書くのですか」
「君が決める」
リゼルミアは、白い便箋を見つめた。
何を書くか。
謝罪ではない。
報告でもない。
離縁状でもない。
しばらく考えて、彼女は羽根ペンを取った。
震える手で、最初の一文を書く。
私は、助けを求めていました。
インクが紙に染みる。
リゼルミアは、その文字を見て涙を落とした。
でも、書いた。
次の一文。
私は、休んでよかった。
さらに。
私は、医師を呼んでほしかった。
そして、最後に。
私は、責められるべきではありませんでした。
書き終えた瞬間、胸の奥で何かが震えた。
信じきれたわけではない。
まだ、何度も疑うだろう。
でも、自分の手で書いた。
自分を責めないための文を。
エルネストは隣でそれを見ていた。
「いい文章だ」
リゼルミアは、涙のまま少し笑った。
「とても短いです」
「十分だ」
「また、その言葉」
「必要な言葉だから」
彼の声が柔らかい。
リゼルミアは便箋を乾かし、折り畳まなかった。
机の上に置いたままにした。
明日も見られるように。
自分の目で。
翌日も、その翌日も、少しずつ証拠は集まった。
元使用人の証言。
薬舗の帳面。
馬車番の話。
医師の元帳。
出されなかった手紙の下書き。
それらは、リゼルミアの記憶と重なり、時に彼女を泣かせた。
夜にうなされる日もあった。
白湯しか飲めない夜もあった。
お腹に手を置けず、エルネストの手だけを握って眠る日もあった。
けれど、そのたびにエルネストは言った。
これは君を責めるものではない。
君が責められるべきではなかった証拠だ。
何度も。
何度でも。
リゼルミアは、その言葉を少しずつ体に入れていった。
証拠は痛い。
でも、証拠は刃だけではなかった。
長い間、リゼルミアの胸に貼りついていた「私が悪い」という札を、一枚ずつ剥がすための手でもあった。
ある晩、リゼルミアは書庫の保管棚の前に立った。
薄紫の組紐で結ばれた小箱がある。
エルネストが隣にいる。
リゼルミアは、小箱を開けなかった。
ただ、その前に手を重ねた。
「あなたがいた証拠が、少しずつ見つかっています」
声は小さい。
「私は、まだ全部を見るのが怖いです。でも、あなたがいなかったことにされるのは、もっと嫌です」
涙が一粒落ちた。
「私が責められるべきではなかったことも、少しずつ分かってきました」
エルネストは静かに聞いている。
「でも、まだ時々、自分を責めてしまいます」
それも正直に言った。
「だから、何度でも聞きます。私は、責められるべきではなかったのですね」
エルネストが答えた。
「責められるべきではなかった」
リゼルミアは目を閉じる。
「私は、助けを求めていたのですね」
「求めていた」
「私は、休んでよかったのですね」
「よかった」
「私は、あの子を守ろうとしていたのですね」
「していた」
その言葉で、リゼルミアは泣いた。
小箱の前で。
声を殺さずに。
けれど、以前より少し穏やかな涙だった。
夜、寝室で。
リゼルミアはお腹へ手を置いた。
まだ怖い。
でも、今日は少し違った。
あの子がいた証拠。
自分が責められるべきではなかった証拠。
それらは、今の子への恐怖も少しだけ変えた。
失うのが怖い。
守れないのが怖い。
けれど、何かあった時に全て自分の罪にされるわけではない。
少なくとも、この家では。
リゼルミアは、エルネストの手を握った。
「エルネスト様」
「はい」
「証拠を見るのは、怖いです」
「うん」
「でも、集めてくださって、ありがとうございます」
「礼はいらない」
「言いたいです」
エルネストは、少しだけ目元を和らげた。
「なら、受け取る」
リゼルミアは小さく頷いた。
「いつか、全部見られるでしょうか」
「急がなくていい」
「はい」
「見なくてもいいものもある」
「でも、いつか見たいです。あの夜が、私の中だけの悪夢ではなかったと、ちゃんと知りたいので」
エルネストは、彼女の手を温かく包み直した。
「その時は、一緒に見る」
「はい」
リゼルミアは目を閉じた。
証拠はまだすべて揃っていない。
ガルシェスも、フロラドール家も、まだ遠くで影を落としている。
けれど、闇の中に小さな灯りが増えている。
元侍女の声。
薬師の帳面。
馬車番の証言。
医師の元帳。
出されなかった手紙。
それらは、失われた子を取り戻すものではない。
時間を巻き戻すものでもない。
でも、リゼルミアから「あなたが悪かった」という鎖を少しずつ外していく。
その夜、彼女は眠る前に、自分で書いた便箋の言葉を思い出した。
私は、助けを求めていました。
私は、休んでよかった。
私は、医師を呼んでほしかった。
私は、責められるべきではありませんでした。
まだ完全には信じられない。
それでも、紙の上に文字は残っている。
彼女自身の手で書いた証拠として。
「おやすみなさい、エルネスト様」
「おやすみ、リゼルミア」
エルネストの声が、すぐそばで返る。
リゼルミアは、お腹の上に手を置いたまま眠りへ落ちていった。
夢の中で、彼女は仕事机の前にいた。
机の上には、いくつもの紙が並んでいる。
怖い紙。
痛い紙。
けれど、どれも彼女を追い出す紙ではなかった。
その一番上に、自分の書いた便箋がある。
私は、責められるべきではありませんでした。
夢の中のリゼルミアは、その一文を指でなぞる。
すると、机の隣に小さな箱が現れた。
薄紫の組紐で結ばれた箱。
その隣には、まだ形のない柔らかな光。
リゼルミアは、二つを見つめて、静かに言った。
私は、あなたたちを責めるためではなく、守るために知りたい。
窓の外では、青い花が揺れていた。
その朝、目覚めた時。
リゼルミアの頬には涙が残っていた。
けれど、呼吸は少しだけ深かった。
隣の椅子でエルネストが顔を上げる。
「起きた?」
「はい」
「夢?」
「仕事机の夢でした」
「怖かった?」
リゼルミアは少し考えた。
「怖かったです。でも、少しだけ明るかったです」
エルネストの目元が柔らかくなる。
「それはいい夢だ」
「はい」
リゼルミアは、朝の薄い光の中でお腹へ手を置いた。
そして、小さく言った。
「今日も、少しずつ知ります」
エルネストが答える。
「一緒に」
その言葉を聞いて、リゼルミアは頷いた。
証拠は、彼女を責めるためにあるのではない。
彼女が責められるべきではなかったことを、世界の側へ刻むためにある。
その事実を、今日も少しだけ信じてみようと思った。
封は切られていない。
ロナンが白い布の上に載せ、四隅に小さな重しを置いている。まるでそれ自体が毒を含んだ刃物であるかのように、誰も素手で軽々しく触れなかった。
封筒は、薄い灰色だった。
上質な紙。フロラドール家の小さな紋章。角は少し擦れている。古い記録だと言っていたが、封筒そのものは最近整えられたものだろう。中に何があるのかは、まだ誰も知らない。
リゼルミアは、それを直接見ていなかった。
ガルシェスが帰った後、医師が呼ばれ、彼女は私室で休まされていた。夜も何度か目を覚ました。夢の中で、濡れた石段が出てきた。けれど目を開けるたび、エルネストがそばにいた。
ここはフロラドール家ではない。
何度もそう言ってくれた。
私は、あの家の妻ではありません。
そう自分でも言えた。
それでも朝になっても、封筒の存在は胸の奥に残っていた。
古い診察記録。
そこには何が書かれているのか。
リゼルミアの痛みは、大げさだったと書かれているのか。
転倒したのは本人の不注意だと書かれているのか。
懐妊は確かではなかったと、曖昧にされているのか。
それとも。
自分がずっと恐れていた言葉が、紙の上に残されているのか。
守れなかった。
その証として。
朝食の白葡萄は、半分しか食べられなかった。
エルネストは同じ皿から一粒食べ、いつものように「甘い」と言った。リゼルミアは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。彼はそれを責めず、「今日は半分で十分だ」と言った。
十分。
その言葉は、今日も彼女の胸を少しだけ支えた。
午前の診察を終えると、女医はエルネストへ言った。
「奥様は、昨日の件で強い緊張を受けておいでです。しばらくは無理な対面、長い書類確認、感情を大きく揺らす話し合いは避けてください。ただ、何も知らせず周囲だけが動くと、かえって不安になられる場合もございます」
リゼルミアは寝椅子に座ったまま、その言葉を聞いていた。
女医は彼女へ向き直る。
「奥様。知ることと、今すぐ全部を見ることは別です。怖い記録がある時は、一度に読まなくてもよろしいのです」
リゼルミアは小さく頷いた。
「はい」
女医は優しく続けた。
「ご自分を責めるために記録を見る必要はありません。必要な時に、必要な分だけでよろしゅうございます」
その言葉に、喉が詰まった。
記録。
証拠。
それらは、ずっと責められるためのものだと思っていた。
離縁状。
婚姻契約書。
持参金の一覧。
婚家の不満を並べた手紙。
リゼルミアの名が書かれた紙は、多くの場合、彼女の価値を測り、足りなさを示し、追い出すために存在していた。
だから、記録が怖い。
紙が怖い。
そこに自分の罪が書かれている気がする。
女医が帰った後、エルネストはリゼルミアのそばに座った。
近すぎず、遠すぎない椅子。
彼は、すぐに封筒の話をしなかった。
まず白湯を渡し、膝掛けの位置を整え、窓が少し寒くないかを確かめた。香りのない青いリボンが窓辺に置かれている。机には何も広げられていない。
リゼルミアは白湯を両手で包みながら、先に口を開いた。
「封筒は」
声が少し震えた。
「まだ、開けていないのですか」
「開けていない」
エルネストは答えた。
「君のいないところで中身を読むこともできた。だが、それをすると君が怖がると思った」
リゼルミアは目を伏せる。
その通りだった。
知らないところで見られるのも怖い。
けれど、自分で見るのも怖い。
どちらも怖い。
「ただ、中身を確認しないわけにもいかない」
エルネストの声は低い。
「ガルシェスは、記録を武器にするつもりで来た。なら、こちらも事実を集める」
リゼルミアの手が杯を握る。
「事実」
「ああ」
エルネストは、彼女を真っ直ぐ見た。
「フロラドール家の記録だけを事実にはしない」
その言葉に、胸が揺れた。
「どういうことですか」
「調べる。元侍女、薬師、馬車番、近隣の医師。当時、君の周りにいた者を探す。誰が何を見たのか、何を聞いたのか、何を握りつぶしたのか」
リゼルミアの喉が詰まる。
あの夜が、外へ出ていく。
自分の胸の奥だけに閉じ込めていた夜が、他人の言葉になる。
それは怖かった。
あの子がいたことを認めてほしい。
けれど、記録になるのが怖い。
見知らぬ人に調べられるのが怖い。
何もなかったと言われるのが怖い。
逆に、本当にあったと示されるのも怖い。
リゼルミアは、白湯の表面を見つめた。
湯気が薄く上がっている。
「もし」
声がかすれる。
「もし、私が悪かったと書かれていたら」
「それだけでは信じない」
エルネストは即座に言った。
「記録は、人間が作る。誰が、何のために、どんな言葉を選んだかを見る」
リゼルミアは彼を見る。
エルネストの顔には、怒りがあった。
だが昨日よりも整えられている。
怒りを動く力に変えようとしている顔だった。
「君は言った。医師を呼んでほしいと言ったと。痛かったと。ひとりだったと」
彼の声が静かに深くなる。
「俺はそれを軸に調べる」
軸。
リゼルミアの言葉が、軸になる。
今まで、彼女の言葉はすぐに押し流された。
大げさ。
思い込み。
妊娠したふり。
繊細な妹を傷つけた。
役に立たない妻。
そういう言葉で、彼女の訴えはいつも薄められた。
でも、エルネストは違うと言う。
リゼルミアが言ったことを、軸にする。
「怖いです」
リゼルミアは正直に言った。
「調べることも、調べられることも」
「うん」
「でも、ガルシェス様の言う記録だけで、あの夜を決められたくありません」
その言葉は、震えていた。
けれど、確かに彼女自身のものだった。
エルネストの目元が少しだけ和らぐ。
「なら、俺が調べる」
「私も見なければいけませんか」
「見なくていいものもある。見たいものだけ、君の速さで見る」
「私の速さで」
「ああ」
エルネストは手を差し出した。
「手を取る?」
リゼルミアは頷いた。
白湯の杯を机に置き、彼の掌へ自分の手を乗せる。
彼はゆるく包む。
「これは君を責めるものではない」
エルネストは言った。
リゼルミアの指が震える。
「君が責められるべきではなかった証拠だ」
その言葉で、胸の奥が痛くなった。
証拠。
責めるためではなく。
責められるべきではなかったことを示すため。
そんな証拠があるのだろうか。
自分を追い詰める紙ではなく、自分から罪を剥がす紙が。
リゼルミアは、涙を堪えながら小さく頷いた。
「少しずつなら」
「少しずつでいい」
その日から、エルネストの調査が始まった。
最初に封筒が開けられたのは、リゼルミアのいない場所だった。
ただし、それは彼女の知らないところではなかった。
エルネストは事前に説明した。
封筒は執務室で、エルネスト、ロナン、女医、法律家の立ち会いのもとで開封する。リゼルミアが同席しないのは、彼女の体調を守るため。中身はその場で写しを取り、医師的に確認が必要な部分、法的に問題となる部分、リゼルミアが今すぐ見なくてよい部分へ分ける。
リゼルミアは私室で待った。
イーリアがそばにいた。
白湯と、小さく切った梨の皿がある。
エルネストは封筒を開ける前に、梨を一切れ食べていった。
「甘い」
いつもの声。
少し硬かった。
それでも、いつもの言葉を置いていってくれた。
リゼルミアは、その言葉を握るようにして待った。
待つ時間は長かった。
時計の針の音が大きく感じる。廊下の足音がするたび、胸が跳ねる。封筒の中身が、今どこかで読まれている。自分の過去が、他人の目に触れている。
怖い。
でも、何も知らないままでいるよりは、少しだけ耐えられる。
イーリアが静かに言った。
「奥様、白湯を」
「はい」
リゼルミアは杯を受け取った。
手が震えていたが、こぼさずに飲めた。
「イーリア」
「はい」
「証拠というものは、怖いですね」
イーリアは少し考えてから答えた。
「はい。けれど、証拠は時に、黙らされていた声を支えることがございます」
リゼルミアは杯を見つめた。
「声を」
「奥様が痛いとおっしゃったこと。医師を呼んでほしいとおっしゃったこと。それを奥様だけが覚えていると、相手はなかったことにしようといたします。ですが、他にも聞いていた者、見ていた者、残された記録があれば、奥様の声は一人ではなくなります」
リゼルミアの胸が震えた。
声が一人ではなくなる。
それは、恐ろしくもあり、少しだけ救いでもあった。
昼過ぎ、エルネストが戻ってきた。
彼の顔は険しかった。
だが、リゼルミアの前に来る前に、怒りを一度深く飲み込んだのが分かった。扉の前で立ち止まり、息を整えてから入ってきたのだろう。
彼はリゼルミアの前に座った。
手には一枚の薄い紙だけを持っている。
分厚い書類ではない。
一枚。
それを見て、リゼルミアは少しだけ息を吸えた。
「全部は持ってこなかった」
エルネストが言った。
「今日は、君に見せてもよいと医師が判断した部分だけだ」
リゼルミアは紙を見つめる。
手を伸ばせない。
怖い。
エルネストはすぐに言った。
「見なくてもいい。俺が読むこともできる。読むのもやめられる」
リゼルミアは、膝の上で手を握った。
「何が、書いてありますか」
「当時の医師の記録の写しだ」
心臓が跳ねる。
「朝に呼ばれた医師の」
「ああ。ガルシェスが持ってきた封筒の中にあった。だが、彼の家が保存していた写しには、いくつか不自然な欠落がある」
「欠落」
「診察時刻、呼び出し時刻、呼び出しの遅れに関する部分が曖昧にされていた」
リゼルミアは息を呑んだ。
やはり。
何かが隠されていた。
「ただ、医師本人の医院に残る元帳を探せる可能性がある。ロナンがすでに手配している」
エルネストは一拍置き、紙へ視線を落とした。
「今日見せるのは、診察所見の部分だけだ」
リゼルミアは唇を震わせる。
「そこには」
声が続かない。
エルネストは、静かに言った。
「懐妊初期の兆候があったと書かれている」
リゼルミアの胸が止まりかけた。
部屋の音が遠くなる。
懐妊初期の兆候。
あった。
あったのだ。
自分だけの思い込みではなかった。
期待だけで騒いだのではなかった。
妊娠したふりで怠けたのではなかった。
リゼルミアは両手で口元を押さえた。
涙が一気に溢れる。
嬉しいのか、悲しいのか分からない。
ただ、胸の奥が大きく揺れた。
「あの子は」
声が震える。
「いたのですね」
エルネストの目が痛む。
彼は、静かに頷いた。
「いた」
リゼルミアは泣いた。
声を押し殺さずに。
けれど、昨夜のように大きく崩れる涙ではなかった。
静かで、深い涙だった。
あの子がいた。
リゼルミアの中に。
少しの間でも。
医師の紙にも、その痕跡があった。
ずっと自分だけが信じていたことが、外の世界にも残っていた。
それは救いだった。
同時に、痛みだった。
いたのなら。
本当にいたのなら。
なおさら、失ったことが胸に迫る。
エルネストは紙を机に置かず、自分の手元に持ったままだった。
リゼルミアが紙を見たいと言うまで、渡さないつもりなのだろう。
彼女は涙を拭い、しばらくしてから言った。
「見ても、いいですか」
「一行だけにする?」
リゼルミアは少し考えた。
「はい。一行だけ」
エルネストは紙を彼女の前へ差し出した。
指で、一行を示す。
そこには古い筆跡で、医師の所見が書かれていた。
流麗だが少し読みづらい文字。
けれど、エルネストが示した箇所だけは、リゼルミアにも読めた。
懐妊初期の兆候、ならびに転倒後の流血を確認。
リゼルミアの視界が滲む。
一行だけで、十分だった。
それ以上は読めなかった。
彼女は目を閉じ、顔を背ける。
エルネストはすぐに紙を下げた。
「今日はここまで」
低く、確かな声。
リゼルミアは頷いた。
「はい」
「これは君を責めるものではない」
エルネストがもう一度言う。
「君が責められるべきではなかった証拠だ」
リゼルミアは、泣きながら頷いた。
「はい」
その日、リゼルミアは仕事をしなかった。
机へ行きたい気持ちは少しあったが、エルネストが「今日は証拠を一行見た。それで十分だ」と言った。イーリアも同じように頷いた。女医も、午後の診察で「今日は心が大きく動いた日です。休みましょう」と言った。
休むことも、今は仕事。
リゼルミアは寝椅子で横になり、白湯を飲んだ。
梨を一切れ食べた。
エルネストも同じ皿から一切れ食べた。
「甘い」
今日も、そう言った。
リゼルミアは涙の跡の残る顔で、少しだけ笑った。
翌日から、証言が集まり始めた。
最初に見つかったのは、元侍女だった。
名をシェーラといった。
当時、フロラドール家の離れを担当していた下働きの一人。今は結婚して王都の外れに暮らしていた。ロナンが探し出し、直接話を聞いたという。
シェーラは、最初は怯えていた。
フロラドール家のことを話せば報復されるのではないかと恐れたのだ。だが、公爵家が正式に身分を守ると告げると、少しずつ話し始めた。
リゼルミアは、その証言の全文を見ることはできなかった。
エルネストが要点だけを読んでくれた。
「シェーラは、君が数日前から吐き気とめまいを訴えていたことを覚えている」
リゼルミアは寝椅子の上で膝掛けを握った。
「私、言っていたのですね」
「言っていた」
「誰にも聞いてもらえなかった気がしていました」
「聞いた人間はいた。ただ、上に通らなかった」
エルネストの声が低くなる。
「シェーラは、義母に報告したそうだ。奥様は顔色が悪い、重い仕事は控えた方がいいと」
「義母は」
「怠け癖を覚えさせるなと答えた」
リゼルミアの胸が冷える。
でも、涙はすぐには出なかった。
それは、自分の記憶と同じだったから。
新しい傷ではなく、古い傷に形が与えられる感覚だった。
「シェーラは、転倒の後、君が医師を呼んでほしいと言ったのも聞いている」
リゼルミアの手が震えた。
「本当に?」
「ああ」
「私、言えたのですね」
「言えていた」
エルネストは、静かに言った。
「君は助けを求めていた」
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
助けを求めていた。
守ろうとしていた。
何も言えずに失ったのではない。
言った。
医師を呼んでほしいと。
助けてほしいと。
その声を、誰かが聞いていた。
たとえ助けにはならなかったとしても。
なかったことにはならない。
リゼルミアは泣いた。
エルネストは手を握り、「今日はここまで」と言った。
次の日、薬師の証言が届いた。
フロラドール家の近くにあった小さな薬舗の主人で、名はドーマン。彼は、当時リゼルミアのために胃を落ち着ける薬草と、身体を温める香りの弱い薬湯を用意した記録を持っていた。
誰が買いに来たのか。
それは、フロラドール家の若い女中だった。
女中は「奥様が吐き気を訴えている」と言い、薬師が「懐妊の可能性があるなら強い薬は避けるべきだ」と注意したという。
その控えが、薬舗の帳面に残っていた。
リゼルミアは、その帳面の写しを見た。
今度は、自分で見たいと言った。
エルネストは一行だけ、薬師が記した部分を示した。
強薬不可。懐妊疑いあり。安静推奨。
安静。
推奨。
その文字を見た瞬間、リゼルミアの喉が熱くなった。
安静にするべきだった。
薬師は分かっていた。
少なくとも、可能性を考えていた。
それなのに、彼女は重い水桶を持たされた。
階段を上らされた。
リゼルミアは、紙から目を離した。
「私、休んでよかったのですね」
小さな声だった。
エルネストは即答した。
「休むべきだった」
「怠けではなく」
「怠けではない」
「妊娠したふりではなく」
「違う」
彼の声は、少し震えていた。
怒りで。
リゼルミアの涙が落ちる。
「私は、休んでよかった」
「よかった」
その言葉を聞いて、リゼルミアはしばらく泣いた。
休んでよかった。
あの頃の自分に、誰かがそう言ってくれたら。
いや、今言ってもらえた。
遅くても、意味はある。
その夜、リゼルミアは書庫の保管棚へ行きたいと言った。
エルネストは体調を確認し、短時間ならと付き添った。
小箱の前で、リゼルミアは静かに手を重ねた。
「あなたのために、休んでよかったのですね」
箱へ向けた言葉。
「私は、休みたかった。医師を呼んでほしかった。助けてほしかった」
涙が落ちる。
「それは、わがままではなかったのですね」
エルネストは隣で何も言わなかった。
彼女の言葉を、邪魔しない沈黙だった。
三日目には、馬車番の証言が届いた。
名はバルト。
当時、フロラドール家の厩で働いていた男だ。今は別の貴族家で働いているという。
彼は、あの夜、医師を呼びに行く準備をしたことを覚えていた。
リゼルミアの容体が悪いと聞いた若い侍女が、馬車番へ小声で頼みに来たのだ。夜間でも近隣の医師の家へ走れるか、と。バルトは馬を出す準備をした。
だが、その直後、義母付きの侍女が来て命じた。
馬を出すな。
奥様が騒いでいるだけだ。
男爵家の夜中の騒ぎにするな。
医師は朝でよい。
バルトは、その命令に従った。
従ってしまった。
証言の最後に、彼は「今も夢に見る」と話したという。
リゼルミアは、その話を聞いた時、全身が冷たくなった。
医師を呼ぶ道は、あったのだ。
馬は出せた。
誰かが準備しようとしてくれた。
それを、止めた者がいた。
握りつぶされた。
本当に。
エルネストの声は低かった。
「派遣依頼はあった。少なくとも、侍女と馬車番は動こうとしていた」
リゼルミアは、震える手で口元を押さえた。
「では、私は」
「ひとりで黙っていたわけではない」
「助けを呼ぼうとした人も」
「いた」
「でも、止められた」
「止められた」
言葉を重ねるたび、胸の奥の黒い塊が形を変えていく。
自分が悪かった。
守れなかった。
もっと早く言えばよかった。
その言葉たちの下から、別の事実が出てくる。
体調不良を訴えていた。
薬師は安静を勧めていた。
侍女は医師を呼ぼうとした。
馬車番は馬を出そうとした。
それを、止めた者がいた。
義母が休ませなかった。
医師の派遣依頼が握りつぶされた。
リゼルミアは、泣きながら言った。
「私は、全部一人で間違えたわけではなかったのですね」
エルネストは、彼女の手を強くしすぎないよう包んだ。
「君は間違えていない」
「でも、階段で」
「重い水桶を持たせた者が悪い」
「でも」
「休ませなかった者が悪い」
「医師を」
「呼ばせなかった者が悪い」
同じ問答を、何度もした。
それでも必要だった。
何度も言われなければ、リゼルミアの中にこびりついた罪は剥がれない。
四日目には、近隣の医師の元帳が届いた。
これは、リゼルミアには見せられなかった。
女医が先に確認し、今はまだ負担が大きすぎると判断したのだ。
エルネストも同意した。
ただ、要点だけを伝えることにした。
リゼルミアは、仕事部屋の机ではなく、私室の長椅子で聞いた。机では受け止めきれないと思ったからだ。手元には白湯、膝には膝掛け。エルネストは隣の椅子に座り、ロナンは少し離れて控えている。
「医師の元帳には、呼び出しを受けた時刻が残っていた」
エルネストが言った。
「朝だったのですね」
「ああ。夜明け後だ」
リゼルミアは目を閉じる。
分かっていた。
体感として、朝だった。
けれど、記録に残っている。
「さらに」
エルネストの声が少し低くなる。
「医師は、前夜に呼ぶべき状態だったと書いている」
リゼルミアの呼吸が止まりかけた。
前夜に。
呼ぶべき状態。
あの夜に。
やはり、そうだった。
朝まで待ってはいけなかった。
自分の身体が感じていた恐怖は、正しかった。
リゼルミアは、涙をこぼした。
「私は、分かっていたのです」
「うん」
「朝まで待ってはいけないと、思っていました」
「君の感覚は正しかった」
「でも、誰も」
「呼ばなかった」
エルネストの声には、抑えた怒りがあった。
「医師は、転倒後の処置が遅れたこと、安静が守られていなかったことも記している」
リゼルミアは、膝掛けを握った。
「私の身体のせいだとは」
「少なくとも、元帳にはそう書かれていない」
その言葉に、胸が震えた。
リゼルミアの身体が駄目だったから。
弱い子だったから。
そう言われ続けた。
でも、医師の元帳には、処置の遅れと安静不足が記されている。
リゼルミアは、ゆっくり息を吐いた。
痛い。
でも、息が入る。
証拠は痛い。
けれど、彼女を刺すだけではなかった。
胸に刺さった古い棘の位置を、少しずつ教えてくれている。
「奥様」
ロナンが静かに言った。
「追加で、当時の若い侍女シェーラが保管していた手紙の下書きが見つかりました」
リゼルミアは顔を上げる。
「手紙?」
「はい。彼女は、奥様のご実家へ助けを求める手紙を書こうとしたようです。結局、出せなかったそうですが」
リゼルミアの胸が痛む。
実家。
仮に届いていても、助けてくれただろうか。
きっと分からない。
でも、誰かが助けを求めようとした。
それだけでも、胸が揺れる。
ロナンは続けた。
「下書きには、奥様が数日前から食事の匂いを受けつけず、めまいを訴えていたこと。義母が休ませず、水汲みを命じたこと。転倒後、奥様が医師を求めたことが書かれています」
リゼルミアは、目を閉じた。
自分の記憶と同じ。
他人の言葉でも同じ。
「私だけの思い込み」ではなかった。
「その手紙は」
声が震える。
「見られますか」
エルネストは、少し迷った。
ロナンも同じだった。
「今日は要点だけにしよう」
エルネストが言った。
「手紙は感情の揺れが大きい。君が今すぐ全部読むには重い」
リゼルミアは、少しだけ残念なような、ほっとしたような気持ちになった。
「では、いつか」
「いつか。君が見たい時に」
「はい」
その夜、リゼルミアは久しぶりに仕事机へ行った。
長くは座らない約束だった。
彼女は机の前に座り、白い札を見る。
リゼルミア・ヴァルクレイド。
自分の名。
その横に、エルネストが一枚だけ紙を置いた。
証拠の写しではない。
リゼルミアのための白い便箋だった。
「今日は、読むのではなく、書く日でもいい」
「何を書くのですか」
「君が決める」
リゼルミアは、白い便箋を見つめた。
何を書くか。
謝罪ではない。
報告でもない。
離縁状でもない。
しばらく考えて、彼女は羽根ペンを取った。
震える手で、最初の一文を書く。
私は、助けを求めていました。
インクが紙に染みる。
リゼルミアは、その文字を見て涙を落とした。
でも、書いた。
次の一文。
私は、休んでよかった。
さらに。
私は、医師を呼んでほしかった。
そして、最後に。
私は、責められるべきではありませんでした。
書き終えた瞬間、胸の奥で何かが震えた。
信じきれたわけではない。
まだ、何度も疑うだろう。
でも、自分の手で書いた。
自分を責めないための文を。
エルネストは隣でそれを見ていた。
「いい文章だ」
リゼルミアは、涙のまま少し笑った。
「とても短いです」
「十分だ」
「また、その言葉」
「必要な言葉だから」
彼の声が柔らかい。
リゼルミアは便箋を乾かし、折り畳まなかった。
机の上に置いたままにした。
明日も見られるように。
自分の目で。
翌日も、その翌日も、少しずつ証拠は集まった。
元使用人の証言。
薬舗の帳面。
馬車番の話。
医師の元帳。
出されなかった手紙の下書き。
それらは、リゼルミアの記憶と重なり、時に彼女を泣かせた。
夜にうなされる日もあった。
白湯しか飲めない夜もあった。
お腹に手を置けず、エルネストの手だけを握って眠る日もあった。
けれど、そのたびにエルネストは言った。
これは君を責めるものではない。
君が責められるべきではなかった証拠だ。
何度も。
何度でも。
リゼルミアは、その言葉を少しずつ体に入れていった。
証拠は痛い。
でも、証拠は刃だけではなかった。
長い間、リゼルミアの胸に貼りついていた「私が悪い」という札を、一枚ずつ剥がすための手でもあった。
ある晩、リゼルミアは書庫の保管棚の前に立った。
薄紫の組紐で結ばれた小箱がある。
エルネストが隣にいる。
リゼルミアは、小箱を開けなかった。
ただ、その前に手を重ねた。
「あなたがいた証拠が、少しずつ見つかっています」
声は小さい。
「私は、まだ全部を見るのが怖いです。でも、あなたがいなかったことにされるのは、もっと嫌です」
涙が一粒落ちた。
「私が責められるべきではなかったことも、少しずつ分かってきました」
エルネストは静かに聞いている。
「でも、まだ時々、自分を責めてしまいます」
それも正直に言った。
「だから、何度でも聞きます。私は、責められるべきではなかったのですね」
エルネストが答えた。
「責められるべきではなかった」
リゼルミアは目を閉じる。
「私は、助けを求めていたのですね」
「求めていた」
「私は、休んでよかったのですね」
「よかった」
「私は、あの子を守ろうとしていたのですね」
「していた」
その言葉で、リゼルミアは泣いた。
小箱の前で。
声を殺さずに。
けれど、以前より少し穏やかな涙だった。
夜、寝室で。
リゼルミアはお腹へ手を置いた。
まだ怖い。
でも、今日は少し違った。
あの子がいた証拠。
自分が責められるべきではなかった証拠。
それらは、今の子への恐怖も少しだけ変えた。
失うのが怖い。
守れないのが怖い。
けれど、何かあった時に全て自分の罪にされるわけではない。
少なくとも、この家では。
リゼルミアは、エルネストの手を握った。
「エルネスト様」
「はい」
「証拠を見るのは、怖いです」
「うん」
「でも、集めてくださって、ありがとうございます」
「礼はいらない」
「言いたいです」
エルネストは、少しだけ目元を和らげた。
「なら、受け取る」
リゼルミアは小さく頷いた。
「いつか、全部見られるでしょうか」
「急がなくていい」
「はい」
「見なくてもいいものもある」
「でも、いつか見たいです。あの夜が、私の中だけの悪夢ではなかったと、ちゃんと知りたいので」
エルネストは、彼女の手を温かく包み直した。
「その時は、一緒に見る」
「はい」
リゼルミアは目を閉じた。
証拠はまだすべて揃っていない。
ガルシェスも、フロラドール家も、まだ遠くで影を落としている。
けれど、闇の中に小さな灯りが増えている。
元侍女の声。
薬師の帳面。
馬車番の証言。
医師の元帳。
出されなかった手紙。
それらは、失われた子を取り戻すものではない。
時間を巻き戻すものでもない。
でも、リゼルミアから「あなたが悪かった」という鎖を少しずつ外していく。
その夜、彼女は眠る前に、自分で書いた便箋の言葉を思い出した。
私は、助けを求めていました。
私は、休んでよかった。
私は、医師を呼んでほしかった。
私は、責められるべきではありませんでした。
まだ完全には信じられない。
それでも、紙の上に文字は残っている。
彼女自身の手で書いた証拠として。
「おやすみなさい、エルネスト様」
「おやすみ、リゼルミア」
エルネストの声が、すぐそばで返る。
リゼルミアは、お腹の上に手を置いたまま眠りへ落ちていった。
夢の中で、彼女は仕事机の前にいた。
机の上には、いくつもの紙が並んでいる。
怖い紙。
痛い紙。
けれど、どれも彼女を追い出す紙ではなかった。
その一番上に、自分の書いた便箋がある。
私は、責められるべきではありませんでした。
夢の中のリゼルミアは、その一文を指でなぞる。
すると、机の隣に小さな箱が現れた。
薄紫の組紐で結ばれた箱。
その隣には、まだ形のない柔らかな光。
リゼルミアは、二つを見つめて、静かに言った。
私は、あなたたちを責めるためではなく、守るために知りたい。
窓の外では、青い花が揺れていた。
その朝、目覚めた時。
リゼルミアの頬には涙が残っていた。
けれど、呼吸は少しだけ深かった。
隣の椅子でエルネストが顔を上げる。
「起きた?」
「はい」
「夢?」
「仕事机の夢でした」
「怖かった?」
リゼルミアは少し考えた。
「怖かったです。でも、少しだけ明るかったです」
エルネストの目元が柔らかくなる。
「それはいい夢だ」
「はい」
リゼルミアは、朝の薄い光の中でお腹へ手を置いた。
そして、小さく言った。
「今日も、少しずつ知ります」
エルネストが答える。
「一緒に」
その言葉を聞いて、リゼルミアは頷いた。
証拠は、彼女を責めるためにあるのではない。
彼女が責められるべきではなかったことを、世界の側へ刻むためにある。
その事実を、今日も少しだけ信じてみようと思った。
あなたにおすすめの小説
三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで
狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。
一度目は信じた。
二度目は耐えた。
三度目は――すべてを失った。
そして私は、屋上から身を投げた。
……はずだった。
目を覚ますと、そこは過去。
すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。
――四度目の人生。
これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、
同じように裏切られ、すべてを失ってきた。
だから今度は、もう決めている。
「もう、陸翔はいらない」
愛していた。
けれど、もう疲れた。
今度こそ――
自分を守るために、家族を守るために、
私は、自分から手を放す。
これは、三度裏切られた女が、
四度目の人生で「選び直す」物語。
白い結婚を望んだのは旦那様の方でしたが、捨てられるのはそちらです
なつめ
恋愛
政略結婚の初夜。
公爵セヴランに告げられたのは、妻として愛するつもりはないという冷たい宣言だった。
形だけの白い結婚。
都合のいい妻。
やがて用済みになれば捨てるつもりだったのは、あちらのはずだった。
けれど、夫の家を陰で支え続けていたのが誰なのか。
夫が見ようともしなかった彼女の価値を、別の男だけが見抜いていたとき。
捨てられるのは、夫の方になる。
再構築なし、元さやなし。
冷遇された公爵夫人が誇りを取り戻し、正しく愛してくれる相手と未来へ進む、離縁ざまぁ恋愛譚。
[完結]裏切りの果てに……
青空一夏
恋愛
王都に本邸を構える大商会、アルマード男爵家の一人娘リリアは、父の勧めで王立近衛騎士団から引き抜かれた青年カイルと婚約する。
彼は公爵家の分家筋の出身で、政争で没落したものの、誇り高く優秀な騎士だった。
穏やかで誠実な彼に惹かれていくリリア。
だが、学園の同級生レオンのささやいた一言が、彼女の心を揺らす。
「カイルは優しい人なんだろ? 君が望めば、何でもしてくれるはずさ。
でも、それは――仕事だからだよ。結婚も仕事のうちさ。
だって、雇い主の命令に逆らえないでしょ?
君に好意がなくても、義務でそうするんだ」
その言葉が頭から離れないリリアは、カイルの同僚たちに聞き込み、彼に病気の家族がいると知った。「治療費のために自分と結婚するの?」 そう思い込んだリリアに、父母がそろって事故死するという不幸が襲う。
レオンはリリアを惑わし、孤立させ、莫大な持参金を持って自分の元へ嫁ぐように仕向けるのだった。
だが、待っていたのは愛ではなく、孤独と裏切り。
日差しの差さない部屋に閉じ込められ、心身を衰弱させていくリリア。
「……カイル、助けて……」
そう呟いたとき。動き出したのは、かつて彼女を守ると誓った男――カイル・グランベルだった。そしてリリアも自らここを抜けだし、レオンを懲らしめてやろうと決意するようになり……
今、失われた愛と誇りを取り戻す物語が始まる。
「君は健康だから我慢できるだろう」と言われ続けたので離縁しました。――義妹の嘘が社交界で暴かれます
暖夢 由
恋愛
誕生日。久しぶりに夫と過ごせるはずだったその日も、また約束は消えた。
理由はいつも同じ――「病弱で可哀想な義妹」が倒れたから。
「君は健康なんだから我慢できるだろう?」
そう言われ続け、優しい妻を演じてきたマリア。
だがある日、ついに気づく。
いつまで我慢を続ける必要があるのかと。
静かに離縁を決意し家を出た彼女の前に現れたのは、冷静沈着な侯爵。
彼は告げる――義妹の過去と、隠された違和感を。
やがて明らかになるのは、“可哀想な少女”の裏の顔。
そして社交界という舞台で暴かれる、歪んだ関係と嘘の構図。
これは、我慢をやめた一人の女性が、真実を取り戻す物語。
その時、“守られる側”だったはずの少女は――何を選ぶのか。
お望み通り、消えてさしあげますわ
梨丸
恋愛
一国の次期王妃と言われていた子爵令嬢アマリリス。
王太子との結婚前夜、彼女は自ら火を放ち、死んだ。
国民達は彼女の死を特に気にもしなかった。それどころか、彼女の死を喜ぶ者もいた。彼女の有していた聖女の力は大したものではなかったし、優れているのは外見だけの“役立たずの聖女”だと噂されるほどだったから。
彼女の死後、すぐさま後釜として皆に好かれていた聖女が次期王妃に召し上げられた。
この国はより豊かになる、皆はそう確信した。
だが、“役立たずの聖女”アマリリスの死後──着実に崩壊は始まっていた。
※投稿してから、誤字脱字などの修正やわかりにくい部分の補足をすることがあります。(話の筋は変わらないのでご安心ください。)
※この調子だと短編になりそうです。
指輪を外した朝に
柴田はつみ
恋愛
侯爵夫人アリアは、完璧な妻だった。
社交界では優雅に微笑み、屋敷では使用人に慕われ、夫のためにすべてを整えた。
ただひとつ夫リオンの心だけが、手に入らなかった。
彼が愛していたのは、幼い頃からの想い人。
再会した公爵令嬢セレスティアの前では、あの「氷の侯爵」が、はじめて笑った。
(彼が笑う顔を、私はまだ知らない)
アリアは気づかれないように廊下を引き返し、翌朝もいつもどおり微笑んだ。
それを、三年間続けた。
拝啓、許婚様。私は貴方のことが大嫌いでした
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【ある日僕の元に許婚から恋文ではなく、婚約破棄の手紙が届けられた】
僕には子供の頃から決められている許婚がいた。けれどお互い特に相手のことが好きと言うわけでもなく、月に2度の『デート』と言う名目の顔合わせをするだけの間柄だった。そんなある日僕の元に許婚から手紙が届いた。そこに記されていた内容は婚約破棄を告げる内容だった。あまりにも理不尽な内容に不服を抱いた僕は、逆に彼女を遣り込める計画を立てて許婚の元へ向かった――。
※他サイトでも投稿中
私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ
みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。
婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。
これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。
愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。
毎日20時30分に投稿