十一度離縁された無能妻ですが、妹が恋した公爵様だけは私を手放さない〜失った子の記憶を抱えた私は、今度こそ家族を守ります〜

なつめ

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第50話 夫婦の夜明け


 夜の公爵家は、紙をめくる音で静かに満ちていた。

 大広間の灯りは落とされ、廊下の燭台も半分ほどになっている。窓の外には深い藍色の空が広がり、庭の白い花は闇の中で淡く沈んでいた。昼間は柔らかく見える花びらも、夜には雪の名残のように見える。

 けれど、仕事部屋だけはまだ灯りがついていた。

 強い灯りではない。

 リゼルミアの目が疲れないよう、卓上の燭台には薄い覆いがかけられ、暖炉の火も弱く保たれている。白い布を敷いた机の上には、昨日リゼルミアが並べた証拠の写しが整然と置かれていた。

 一、婚家別帳簿写し。

 二、愛人支出および不正支出記録。

 三、侮辱的書状および発言記録。

 四、医師未派遣および体調不良関連記録。

 五、持参金および返却荷物目録。

 六、補足証言照合待ち。

 分類札の文字はロナンのものだったが、その下に置かれた紙を選び、最初に並べたのはリゼルミアだった。

 私は、私の証人です。

 昨日、便箋に書いた一文は、今も机の端に置かれている。

 リゼルミアはその文字を見るたび、胸の奥が震えた。

 自分で書いたのに、まだ自分の言葉ではないような気もする。あまりにも大きく、あまりにも重い。けれど、確かに自分の手で書いた文字だ。

 今日は、貴族院へ提出するための目録を整えていた。

 もちろん、すべてをリゼルミア一人が行うわけではない。ロナンと法律家が正式な文面を作り、原本の扱いを決め、写しに必要な印をつける。エルネストは全体の方針を確認し、どの証拠をどの順番で出すかを判断する。

 リゼルミアの役目は、最後の確認だった。

 どの紙が、どの婚家のものなのか。

 その紙を自分がいつ、どうやって残したのか。

 提出してもよいものか、今はまだ保管に留めたいものか。

 それを一つずつ確認する。

 昼間なら、半刻で切り上げる仕事だった。

 けれどその日は、夕方に長く眠ったせいか、夜になっても目が冴えていた。証拠の整理が気になって、寝台に入っても眠れなかった。何度か目を閉じてみたが、黒い木箱の蓋が頭の中で開いてしまう。

 すると、エルネストが言った。

「眠れないなら、少しだけ仕事部屋へ行くか」

 少しだけ。

 その約束で、夜の仕事部屋へ来た。

 少しだけのはずだった。

 しかし、紙は一枚見ると次の一枚が気になり、気になるものを残して寝台へ戻る方がかえって苦しかった。もちろん、無理はしない。女医も夜間の体調を確認し、白湯と軽い菓子を用意した。イーリアは何度も休憩を挟ませた。

 途中で、リゼルミアは長椅子で少し眠った。

 エルネストはその間に、ロナンと提出目録の形式を整えた。

 そして再び目を覚ました時、仕事部屋の窓の外はまだ夜だったが、闇の色が少しだけ薄くなり始めていた。

「もう、夜明けが近いのですね」

 リゼルミアが呟くと、エルネストは書類から顔を上げた。

「今日はここまでにするか」

 それは確認だった。

 命令ではない。

 リゼルミアは、机の上の最後の束を見た。

 第七の婚家で返されなかった持参品の一覧。

 彼女が嫁ぐ時に写したものと、離縁後に返された荷物の目録。その差異を示すための紙だった。

 最後の確認は、それだけだった。

「これだけ、見てもよろしいですか」

 エルネストは、すぐには頷かなかった。

 リゼルミアの顔を見る。

 目元の疲れ。

 手の冷え。

 呼吸の浅さ。

 そういうものを一つずつ確かめる目だった。

「本当に、これだけだ」

「はい」

「終えたら、朝食まで休む」

「はい」

「白湯を飲む」

「はい」

「梨は、食べられそうなら半分こする」

 リゼルミアは少し笑った。

「それも条件なのですか」

「重要だ」

 いつもの真面目な声。

 それだけで、夜明け前の張りつめた空気が少し緩んだ。

「では、梨までを仕事に含めます」

「いい判断だ」

 エルネストが、机の端へインク壺を寄せる。

 彼は今夜、ずっとそうだった。

 リゼルミアの前に立たない。

 代わりに、インクを補充し、紙を押さえ、ペン先を拭き、白湯を差し出した。書類を読み上げる時も、彼女が「自分で読みます」と言えばすぐに黙った。代わりに、目が疲れた時だけ「ここで止める」と告げる。

 守るのではなく、支える。

 昨日、リゼルミアが必要だと感じたその形を、彼は一晩中守ってくれていた。

 リゼルミアは最後の紙を手に取った。

 持参品一覧。

 真珠の首飾り。

 銀糸のショール。

 冬用の毛皮付き外套。

 母方の叔母から贈られた小さな宝石箱。

 どれも、離縁後の目録にはなかった。

 返されたのは、古い部屋着、擦れた靴、片方のリボンが取れた帽子、洗い古した手袋。

 彼女は当時、それを見ても何も言えなかった。

 言えば、また恨みがましい女だと言われると思った。

 だから、写した。

 持参品一覧と返却目録を並べ、どれが戻らなかったのかを小さな字で記した。

「第七婚家、返却目録差異」

 リゼルミアは提出用目録へ書いた。

 指先は震えていたが、字は読める。

 その横に、紛失ではなく不返還の可能性、と書きかけて止まる。

 断定してよいのか分からなかった。

 すると、エルネストが静かに言った。

「可能性、でいい。判断は貴族院がする。君は記録を出す」

 リゼルミアは頷いた。

「はい」

 不返還の可能性あり。

 そう書いた。

 最後の点を打った瞬間、肩から力が抜けた。

「終わりました」

 声は小さかった。

 けれど、夜の部屋に確かに落ちた。

 エルネストは目録を覗き込んだ。

「終わったな」

 彼の声も静かだった。

 勝ち誇るような響きはない。

 誰かを攻撃するための達成ではない。

 ただ、長く閉じていた箱の中の声を、外へ出す準備が一つ整っただけ。

 リゼルミアは、ペンを置いた。

 指がじんじんする。

 手首も少し痛い。

 目の奥が重く、肩には薄い疲労が積もっている。

 それでも、不思議と心は荒れていなかった。

 紙を並べた夜。

 古い痛みを一つずつ見た夜。

 元夫たちの連名状へ向き合うための夜。

 苦しいはずなのに、胸の奥には静かな湖のようなものがあった。

 波はある。

 けれど、濁っていない。

「不思議です」

 リゼルミアは呟いた。

「疲れているのに、少しだけ穏やかです」

 エルネストは、彼女の顔を見た。

「泣きたい?」

「少し」

「泣く?」

「今は、大丈夫です」

 そう言ってから、リゼルミアは少し笑った。

「大丈夫ではない時は、大丈夫ではないと言います」

 エルネストの目元が柔らかくなる。

「そうしてくれ」

 窓の外が、薄く白み始めていた。

 夜の藍色が、少しずつ灰色へほどけていく。庭の白い花が闇の中から浮かび上がり、温室の硝子屋根に淡い線が走る。鳥はまだ鳴いていない。世界が目を覚ます直前の、息を潜めたような時間だった。

 リゼルミアは窓へ目を向けた。

「夜明けです」

「ああ」

「見ても、よろしいですか」

「椅子ごと移る?」

「少しだけ立てます」

 エルネストはすぐに手を差し出した。

「取る?」

「はい」

 リゼルミアは彼の手を取り、ゆっくり立ち上がった。

 足元が少しふらつく。

 けれど、彼の手が支えてくれる。

 強く引っ張らない。

 倒れないように、ただ隣にいる。

 二人は窓辺へ向かった。

 仕事部屋の窓は大きい。

 ここからは、公爵家の庭と、奥にある温室の硝子屋根が見える。白い花の小道、その先の噴水、さらに遠くの木々。夜明け前の庭は、昼の庭とは違う顔をしていた。

 白い花はまだ色を取り戻していない。

 けれど、少しずつ輪郭が見える。

 闇の中で消えていたものが、光に触れながら戻ってくる。

 リゼルミアは、その景色を黙って見た。

 古い紙を一晩中並べた後だからだろうか。

 夜明けの光が、いつもより深く胸に入ってくる。

 消えたと思っていたもの。

 なかったことにされたもの。

 暗い箱の中で眠っていたもの。

 それらが、少しずつ光へ出てくる。

 痛みも、記録も、自分の声も。

 エルネストが、彼女の肩にそっと上着をかけた。

 黒藍色の上着。

 彼の体温が少し残っていて、肩が温かくなる。

 リゼルミアは驚いて振り返った。

「エルネスト様、寒くありませんか」

「俺は平気だ」

「でも」

「君の肩が冷えている」

 そう言いながら、彼は上着の襟元を少し直す。

 その仕草があまりにも自然で、リゼルミアの胸が柔らかく痛んだ。

 いつも、こうだ。

 彼はすぐ気づく。

 手が冷えていること。

 肩がこわばっていること。

 香りが強すぎること。

 疲れたのに無理をしようとしていること。

 そして自分の上着を、当然のように差し出す。

 リゼルミアは、上着の端を指先で握った。

 温かい。

 安心する。

 けれど、今日はその温かさを受け取るだけで終わりたくなかった。

 彼女は、エルネストを見上げた。

 夜明け前の薄い光の中で見る彼の顔は、少し疲れていた。

 目元に薄い影がある。

 髪も、いつもより少し乱れている。

 昨夜、彼はほとんど休んでいない。

 リゼルミアが紙を並べる間、ずっと隣にいた。

 インクを補充し、白湯を渡し、紙を押さえ、時々ロナンと低い声で確認し、彼女が長椅子でうとうとした時も、そのそばにいた。

 彼は、自分が疲れているとは言わない。

 きっと言わない。

 だから、リゼルミアが言わなければならないと思った。

「エルネスト様」

「はい」

「あなたも、休んでください」

 彼の目が、少しだけ驚いたように動いた。

「俺は」

「平気だとおっしゃると思いました」

 リゼルミアは、少しだけ眉を寄せた。

 怒っているわけではない。

 でも、真剣だった。

「でも、平気ではないはずです。昨夜、ずっと起きていてくださいました。私が眠っている間も、目録を見てくださって。私が目を覚ましたら、すぐ白湯を渡してくださいました」

 エルネストは、黙って聞いている。

 リゼルミアは続けた。

「あなたも、休む必要があります」

「リゼルミア」

「あなたも、私の夫なのですから」

 言った瞬間、仕事部屋の空気が少し止まった気がした。

 エルネストが、本当に驚いた顔をした。

 ほんの少し目を見開き、言葉を失ったように彼女を見る。

 リゼルミアの頬が熱くなった。

 言ってから急に恥ずかしくなる。

 でも、言葉を引っ込めなかった。

「私は、あなたに守られてばかりでした」

 声は小さい。

 けれど、夜明けの静けさの中でよく響いた。

「でも、夫婦なら、私もあなたを気遣ってよいはずです」

 エルネストは、まだ何も言わない。

 リゼルミアは、彼の上着を肩に掛けられたまま、自分の片手を伸ばした。

 彼の袖に触れる。

 昨日、庭で花びらを取った時よりも、少しだけ自然に。

「あなたが倒れてしまったら、私は悲しいです」

 エルネストの目元が、静かに揺れた。

「君に、そんな顔をさせたいわけじゃない」

「では、休んでください」

「今?」

「今です」

 リゼルミアは少しだけ強く言った。

 自分でも驚く。

 父の前で「戻りません」と言った時とは違う強さだった。

 これは拒絶ではない。

 守りたいという気持ちから出た強さ。

「夜明けを見たら、少しだけでも」

 エルネストは、しばらく彼女を見ていた。

 やがて、目を伏せる。

 口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 嬉しそうに。

 リゼルミアは、その表情に胸を掴まれたようになった。

 エルネストがそんな顔をするのは、珍しい。

 驚きと、照れと、深い安堵のようなものが混ざった顔。

「分かった」

 彼は低く言った。

「では、夫として妻に甘える」

 リゼルミアの心臓が、ぽん、と跳ねた。

「甘える」

「ああ」

「エルネスト様が?」

「俺も夫だからな」

 その言い方は真面目だった。

 いつも通り真面目で、だからこそ余計に胸が甘くなる。

 リゼルミアは、どう返せばよいのか分からなくなった。

「どうぞ」

 かろうじて言う。

 エルネストは、少しだけ身を屈めた。

 そして、リゼルミアの肩に額を預けた。

 とても静かな仕草だった。

 重くはない。

 けれど、確かに彼の重みがある。

 黒藍色の髪が、リゼルミアの頬の近くに触れる。彼の額の温度が、上着越しの肩に伝わる。普段は彼が彼女を支える側なのに、今はほんの少しだけ、彼が彼女へ寄りかかっている。

 リゼルミアは、息を止めた。

 驚きすぎて、どう動けばいいか分からない。

 エルネストは、そのまま低く言った。

「少しだけ」

 声が近い。

 近すぎて、胸が熱くなる。

「はい」

 リゼルミアは、震える手をゆっくり上げた。

 彼の背中へ触れていいのか迷う。

 夫婦なのに。

 それでも、こういう触れ方にはまだ慣れていない。

 エルネストは気づいたのか、小さく言った。

「嫌なら触れなくていい」

「嫌ではありません」

 リゼルミアは、そっと彼の肩甲骨のあたりへ手を置いた。

 布地の下に、彼の体温がある。

 硬い背中。

 ずっと自分の前に立ち続けてくれた人の背中。

 ガルシェスの前で怒りをしまった背中。

 父の前で隣に立ってくれた背中。

 元夫たちの連名状を読み、黒い木箱の証拠を整理する間、ずっと隣で支えてくれた背中。

 リゼルミアは、その背中に手を置いたまま、静かに言った。

「重くありません」

 エルネストの肩が、ほんの少しだけ動いた。

「そうか」

「はい」

「俺は、君に寄りかかっている」

「少しだけです」

「少しだけでも?」

「大丈夫です」

 そう言えた。

 本当に、大丈夫だった。

 彼の重みは、怖くなかった。

 誰かが自分へ体重を預けること。

 それは過去の寝室の記憶を呼び起こすかもしれないと思っていた。

 けれど、今のエルネストの触れ方は違う。

 奪う重みではない。

 支配する重みでもない。

 預けてよいか、そっと確かめながら置かれた重み。

 リゼルミアは、それを受け止められた。

 胸の奥が、じんわり熱くなる。

「私」

 リゼルミアは小さく言った。

「あなたの重みが、怖くありません」

 エルネストは動かなかった。

 ただ、少しだけ息を吐いた。

 その息が、肩越しに伝わる。

「それは」

 彼の声が、低く柔らかい。

「嬉しいな」

 あまりにも素直な言葉だった。

 リゼルミアの目に涙が滲む。

「私も、嬉しいです」

 窓の外で、空がさらに白くなった。

 庭の輪郭がはっきりしていく。

 白い花の花弁に、夜露が光る。温室の硝子屋根が、朝日を受ける直前の淡い銀色になる。

 まだ太陽は見えない。

 けれど、光が近づいている。

 二人は、その窓辺に立っていた。

 リゼルミアはエルネストの上着を肩に掛け、エルネストはリゼルミアの肩へ額を預けている。

 証拠の紙が並ぶ机の前で。

 夜を越えた部屋の中で。

 とても静かな甘さだった。

 水飴のように濃すぎず、蜂蜜のように香り立ちすぎない。白湯に溶けた少しの蜜のような、喉を通ってから胸を温める甘さ。

「エルネスト様」

「はい」

「眠れそうですか」

「少し」

「では、寝室へ戻りましょう」

「君は?」

「私も、休みます」

「一緒に?」

 その問いに、リゼルミアは頬を熱くした。

 もちろん夫婦なのだから、同じ寝室へ戻るだけの話だ。

 けれど、今の距離で言われると、心臓に悪かった。

「はい」

 小さく答える。

「一緒に、休みます」

 エルネストは、ゆっくり顔を上げた。

 額が離れる。

 リゼルミアの肩に少しだけ残っていた温度が、名残のように消えていく。

 彼の顔は、やはり少し疲れている。

 でも、先ほどより柔らかい。

 彼は目元を緩めていた。

「妻に休めと言われたからな」

「はい。夫は休むべきです」

「では、従う」

「エルネスト様が従うのですか」

「今日は、妻の命令だ」

 リゼルミアは驚いて、それから小さく笑った。

「命令ではありません」

「では?」

「お願いです」

「なら、なおさら聞く」

 甘い。

 朝の光より、ずっと甘い。

 リゼルミアは上着を肩に掛けたまま、彼の手を取った。

「行きましょう」

「ああ」

 その時、窓の外で最初の鳥が鳴いた。

 細い声だった。

 夜明けの空気をそっと裂くような、小さな声。

 リゼルミアは足を止めた。

「鳥が」

「朝だな」

 東の空に、淡い金色がにじみ始める。

 庭の白い花が、その光を受けて少しずつ色を取り戻していく。夜のあいだ青白く沈んでいた花弁が、朝の中で柔らかく白くなる。

 リゼルミアは、その景色を見た。

 証拠整理の夜が明ける。

 元夫たちの連名状は消えていない。

 貴族院へ提出する証拠はこれから動く。

 戦いが終わったわけではない。

 それでも、夜は明けた。

 リゼルミアは、エルネストの手を握ったまま言った。

「夜明けは、静かなのですね」

「そうだな」

「もっと、眩しいものだと思っていました」

「今はまだ、始まりだからだろう」

 始まり。

 リゼルミアは、その言葉を胸へ入れた。

 証拠を出すことも。

 過去の自分を証人として扱うことも。

 夫を気遣うことも。

 彼が自分へ少しだけ寄りかかることも。

 全部、始まりなのかもしれない。

 リゼルミアは、お腹へ手を置いた。

 もう片方の手は、エルネストと繋いでいる。

「この子にも、いつか夜明けを見せたいです」

 言ってから、少し怖くなった。

 未来の話。

 まだ遠い。

 まだ確かなものではない。

 でも、昨日より少し自然に言えた。

 エルネストは、彼女を見た。

「見せよう」

 短い答え。

 叶うと決めつけすぎない。

 でも、諦めない。

 その声が、リゼルミアにはちょうどよかった。

「はい」

 彼女は頷いた。

「その時は、名前も決まっているでしょうか」

「顔を見てからだからな」

「また硬い候補を出しますか」

「少し柔らかくする努力をしている」

「努力中なのですね」

「ああ」

 リゼルミアは笑った。

 夜明けの窓辺で、証拠の紙に囲まれながら、赤子の名前の硬さを笑える。

 それは奇妙で、穏やかで、とても二人らしい時間だった。

 しばらくして、イーリアが静かに入ってきた。

 彼女は二人の姿を見て、一瞬だけ目を細め、それから深く礼をした。

「旦那様、奥様。お部屋を暖めております」

 ロナンも後ろに控えていた。

 彼は机の上の書類を確認し、静かに言う。

「証拠目録は、こちらで保管いたします。奥様、本日はもうお触れにならず、どうぞお休みください」

 リゼルミアは、少しだけ机へ目を向けた。

 紙が並んでいる。

 昨夜の自分が、震えながら確認したもの。

 怖い紙。

 痛い紙。

 でも、もう箱の中に閉じ込められていない紙。

「お願いします」

 リゼルミアは言った。

「はい」

 ロナンは深く礼をした。

 仕事部屋を出る前に、リゼルミアは便箋へ目を向けた。

 私は、私の証人です。

 その文字が見える。

 今日は、新しい一文を書く力はなかった。

 でも、胸の中には言葉があった。

 私は、夫を気遣ってもいい。

 まだ紙には書かない。

 今は、胸の中だけで十分だった。

 寝室へ戻る廊下は、朝の薄い光に満ちていた。

 燭台の火はもう弱く、窓からの光の方が明るい。夜を越えた屋敷は、静かに目覚め始めている。遠くで厨房の準備の音がする。使用人たちの足音が控えめに動き始める。

 リゼルミアは、エルネストの上着を肩に掛けたまま歩いた。

 エルネストは、隣で手を繋いでいる。

 いつもなら、彼が彼女の歩幅に合わせてくれる。

 今日は、リゼルミアも彼の疲れた歩幅を気にした。

「エルネスト様」

「はい」

「歩くの、少しゆっくりにしますか」

 彼は、また少し驚いた顔をした。

 それから、嬉しそうに目元を緩める。

「頼む」

 頼む。

 その一言が、リゼルミアの胸を温かくした。

 彼が頼ってくれた。

 ほんの少し。

 夜明けの廊下で。

 二人は、少しゆっくり歩いた。

 寝室に入ると、部屋はすでに暖められていた。

 寝台の近くには白湯。

 小皿には梨が二切れ。

 窓辺のカーテンは少しだけ開かれ、淡い朝の光が床に落ちている。

 エルネストは、まずリゼルミアの上着を外そうとした。

 リゼルミアは首を振った。

「先に、あなたが座ってください」

「俺が?」

「はい」

「君を」

「私は座れます」

 リゼルミアは、寝台の端にそっと腰掛けた。

 そして、隣の椅子を指す。

「エルネスト様も」

 彼は少しの間、どうしたものかという顔をした。

 普段なら、彼が指示する側だ。

 座れ、白湯を飲め、休め、と。

 今日は逆だった。

 リゼルミアは、そのことに少しだけ緊張しながらも、目を逸らさなかった。

「あなたも、私の夫なのですから」

 もう一度、言った。

 さっきより少し小さな声で。

 でも、確かに。

 エルネストは、ゆっくり椅子に座った。

「分かった」

 リゼルミアは、白湯の杯を手に取った。

 自分用かもしれない。

 けれど、彼へ差し出す。

「少し飲んでください」

 エルネストは、杯を見る。

 そしてリゼルミアを見る。

「妻に甘えると言ったからな」

「はい」

「受け取る」

 彼は杯を受け取り、白湯を飲んだ。

 それだけのことなのに、リゼルミアは胸がいっぱいになった。

 自分が彼へ白湯を渡した。

 彼が受け取った。

 守られるだけではない。

 支えられるだけでもない。

 支えることも、できる。

 ほんの少しでも。

 エルネストは杯を置き、梨の皿を見た。

「半分こする?」

 リゼルミアは微笑んだ。

「はい。でも、今日は先にあなたが選んでください」

「同じ皿だ」

「少しだけ、こちらが大きいです」

「では、大きい方を君が」

「今日は、エルネスト様が」

 二人はしばらく梨を見つめた。

 真剣に。

 夜明けまで証拠を整理した夫婦が、梨の大きさで静かに迷っている。

 その事実が、少し可笑しかった。

 リゼルミアが笑うと、エルネストも目元を緩めた。

「では、大きい方をもらう」

「はい」

 彼が食べる。

 少し間を置き、いつものように言う。

「甘い」

 リゼルミアは小さく笑った。

「よかったです」

 彼女も残りを食べる。

 甘い。

 証拠の夜明けの味が、少しだけ梨の甘さに変わっていく。

 その後、リゼルミアは寝台に入った。

 エルネストはいつもの椅子に座ろうとしたが、リゼルミアが手を伸ばす。

「休むのでは?」

「ここで休む」

「椅子では、休めません」

「慣れている」

「だめです」

 言ってから、リゼルミアは自分の声に驚いた。

 だめです。

 夫へそんなふうに言う日が来るとは思わなかった。

 エルネストも驚いたように彼女を見る。

 そして、少し笑った。

 本当に少しだけ。

「叱られた」

 リゼルミアの頬が熱くなる。

「叱ったわけでは」

「いや、叱られた」

「エルネスト様」

「夫として妻に甘えると言った」

「はい」

「なら、今日は寝台の端で休ませてもらっても?」

 リゼルミアの心臓が、大きく跳ねた。

 寝台の端。

 同じ寝台。

 もちろん、二人は夫婦だ。

 初夜から同じ部屋で眠っている。

 けれど、彼はいつも距離を置いてくれた。彼女が怖がらないように。身体の持ち主は自分だと、何度も行動で示してくれた。

 今日も、彼の声には無理強いがない。

 選ばせてくれる余白がある。

 リゼルミアは、少しだけ呼吸を整えた。

 怖いか。

 少し。

 嫌か。

 嫌ではない。

 むしろ、彼が椅子で疲れたまま眠る方が心配だった。

「端なら」

 声が小さくなる。

「はい」

 エルネストは、すぐに頷いた。

「ありがとう」

 彼は上着を脱ぎ、寝台の端へ横になった。

 距離はある。

 リゼルミアへ近づきすぎない。

 片腕分の余白を残し、顔は彼女の方を向けない。リゼルミアが怖くならないように、最初から逃げ道を置いている。

 その配慮が、また胸に甘く沁みた。

 リゼルミアは、少し迷った後、手を伸ばした。

 エルネストの袖に触れる。

「手を」

 彼はすぐに顔を向けた。

「取っていい?」

「はい」

 彼の手が、リゼルミアの手を包む。

 寝台の上で、二人は手だけを繋いだ。

 それだけ。

 でも、その「それだけ」が、今のリゼルミアにはとても大切だった。

「眠れそうですか」

 リゼルミアが尋ねると、エルネストは目を閉じたまま答えた。

「ああ」

「よかった」

「君は?」

「私も、眠れそうです」

「証拠の紙は?」

「ロナンが守ってくれます」

「うん」

「インク壺は?」

「閉めた」

「梨は?」

「甘かった」

 リゼルミアは、ふふ、と小さく笑った。

 エルネストの手が、ほんの少しだけ握り返してくる。

「笑った」

「はい」

「よかった」

 その声は眠たげだった。

 普段より少し低く、柔らかい。

 リゼルミアは、その声を聞いて胸が満ちていくのを感じた。

「エルネスト様」

「はい」

「甘えてくださって、ありがとうございます」

 彼は目を開けた。

 少しだけ驚いたように。

「礼を言うことではない」

「言いたいのです」

「なら、受け取る」

 いつものやり取り。

 でも、今日はいつもより少し近い。

 エルネストは再び目を閉じた。

「また甘えても?」

 リゼルミアは、頬を赤くしながら答えた。

「少しずつなら」

「少しずつ」

「はい」

「分かった」

 沈黙が落ちる。

 朝の光が、カーテンの隙間から入ってくる。

 外では鳥が鳴き始めていた。

 証拠整理で迎えた夜明け。

 その終わりに、二人は同じ寝台の上で手を繋いでいる。

 戦いは終わっていない。

 貴族院へ出す書類も、元夫たちの反論も、オルフェルト家の動きも、これからだ。

 けれど、今この瞬間は穏やかだった。

 リゼルミアは、お腹へ片手を置く。

 もう片方の手は、エルネストと繋いでいる。

「夜明けを、見ました」

 小さく呟く。

 エルネストは眠気の中で答えた。

「見たな」

「次は、もっと休んでから見ましょう」

「そうする」

「あなたも」

「ああ」

「私も」

「うん」

 リゼルミアは目を閉じた。

 疲れている。

 でも、胸は不思議と穏やかだった。

 肩には、少し前までエルネストの額の温度があった。

 手には、今も彼の温もりがある。

 守られてばかりではない。

 自分も、少しだけ守れた。

 夫に白湯を渡し、休んでくださいと言い、寝台で眠るように言えた。

 小さなことかもしれない。

 けれど、リゼルミアにとっては、大きな夜明けだった。

 眠りに落ちる前、彼女は胸の中で新しい一文をそっとなぞった。

 私は、夫を気遣ってもいい。

 まだ便箋には書かない。

 でも、いつか書くだろう。

 その日まで、胸の中に置いておく。

 リゼルミアは、エルネストの手を握ったまま、静かに眠りへ沈んでいった。

 夢の中で、彼女はまた仕事部屋の窓辺にいた。

 机の上には証拠の紙が並んでいる。

 黒い木箱は開いている。

 けれど、紙たちはもう彼女を責めていない。

 窓の外では夜が明け、白い花が朝日に染まっていた。

 隣にエルネストがいる。

 彼は、夢の中でも少し疲れている。

 リゼルミアは彼の肩に上着をかけた。

 現実とは逆だった。

 夢の中のエルネストが、少し驚いた顔をする。

 リゼルミアは言った。

 あなたも、私の夫なのですから。

 すると、朝日が部屋いっぱいに広がった。

 目を覚ました時、昼近くになっていた。

 リゼルミアは、少し驚いて目を開ける。

 隣を見ると、エルネストが眠っていた。

 本当に眠っている。

 椅子ではなく、寝台の端で。

 手は、まだ繋がれている。

 彼の顔は、いつもより少し幼く見えた。眉間の皺もなく、怒りも緊張もない。静かで、疲れた夫の顔だった。

 リゼルミアは、起こさないように息をひそめた。

 そして、そっと微笑む。

 夫として妻に甘える。

 彼は本当に甘えてくれた。

 少しだけ。

 その少しが、リゼルミアにはたまらなく嬉しかった。

 カーテンの隙間から入る光は、もう夜明けではなく、昼の柔らかさに変わっている。

 けれど、リゼルミアの胸の中には、あの夜明けの金色がまだ残っていた。

 証拠を並べた夜。

 夫を気遣えた朝。

 二人で休んだ昼。

 その全部を抱きしめるように、リゼルミアは目を閉じた。

 もう少しだけ、手を繋いだまま。

 もう少しだけ、この穏やかな甘さの中にいたかった。

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