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第54話 妹の涙はもう届かない
貴族院の控室は、雨の匂いがした。
窓は閉じられている。それでも、外の石畳を濡らす細い雨の気配は、壁の奥から染み込むように部屋へ入ってきていた。湿った石、古い木、乾いた紙、香りを抑えた白湯。そのどれもが混ざり合って、リゼルミアの胸の奥を静かに重くした。
彼女は椅子に腰かけ、膝の上で手を重ねていた。
真珠色のドレスは、今日も腹部を締めつけないように調整されている。肩には薄いショール。足元には柔らかな膝掛け。小卓には白湯があり、イーリアが少し離れた場所で控えている。女医も隣室で待機していた。
ここは、リゼルミアが話すための場所であり、話さずに休むための場所でもある。
貴族院側は、もう公爵家から出された条件に慣れ始めている。香りの強い花はない。香炉もない。扉の近くには、必要ならすぐ退室できるように道が空けられている。
それでも、今日のリゼルミアの手は冷たかった。
審問室では、これからミュゼリアの発言が扱われる。
妹。
家族の中で、いつも中心にいた子。
泣けば母が駆け寄り、父が眉をひそめ、使用人が慌てて茶や菓子を用意した。リゼルミアが何をしていたかは問われず、ミュゼリアが泣いているというだけで、姉の罪が決まった。
お姉様なのだから。
ミュゼリアは繊細なの。
あなたは我慢できるでしょう。
その言葉は、リゼルミアの体に染みついている。
父の命令ほど重くはない。元夫たちの侮辱ほど露骨でもない。けれど、ミュゼリアの涙はもっと柔らかい形でリゼルミアを縛った。
泣く妹。
謝る姉。
その構図を、リゼルミアは長い間、疑うことすらできなかった。
控室の扉が静かに開いた。
エルネストが入ってくる。黒藍色の上着は雨の湿気を吸って少し暗く見えたが、彼自身の佇まいはいつも通り静かだった。ただ、目元には薄い疲れがある。貴族院での審問が続き、彼もまた眠りの浅い日々を過ごしている。
それでも彼は、まずリゼルミアの顔を見た。
「気分は」
「少し、緊張しています」
リゼルミアは正直に答えた。
昔なら、きっと「大丈夫です」とだけ言っていた。
今でも、最初に喉まで上がるのはその言葉だ。けれど、少しだけ言い直せるようになった。
「聞くのをやめてもいい」
「はい」
「今日、君が発言する必要はない。ミュゼリア嬢の証言を聞くだけでも負担が大きい」
「分かっています」
「それでも、聞く?」
リゼルミアは、膝の上の手を見下ろした。
指先が少し震えている。
怖い。
妹の泣き声を聞くのは、今でも怖い。
何かを奪ったのは自分ではないのに、妹が泣けば自分が悪いような気持ちになる。母に責められ、父に命じられた記憶が、すぐに胸の奥から顔を出す。
それでも、ここで耳を塞いだままでは、きっと終われない。
「聞きます」
声は小さい。
でも、迷わなかった。
「ミュゼリアが何を言うのか、私は聞きたいです」
エルネストはしばらくリゼルミアを見ていた。
そして、ゆっくり頷く。
「分かった。隣にいる」
「はい」
その言葉が、胸の奥に小さく落ちた。
隣。
前ではなく、後ろでもなく。
エルネストは、いつもその場所を選んでくれる。
審問室の扉が開く音が、控室まで届いた。
衣擦れ。
小さな足音。
そして、抑えたざわめき。
ミュゼリアが入室したのだろう。
リゼルミアは、息を浅く吸った。
ミュゼリアの姿が目に浮かぶ。
淡い色のドレス。白い手袋。涙を拭うための繊細なハンカチ。少し伏せた睫毛。自分が可哀想に見える角度を知っている横顔。
昔から、ミュゼリアは綺麗に泣いた。
涙が頬を伝っても、顔が崩れすぎない。声が震えても、聞き苦しくならない。周囲が胸を痛める程度の可憐さで、いつも泣いた。
審問室で、議長の声が響く。
「ミュゼリア・オルフェルト嬢。本日は、公爵夫人に関する発言、社交界での訴え、ならびに公爵家訪問時の言動について確認する」
短い沈黙。
それから、妹の声がした。
「はい……」
たった一音。
その震えだけで、リゼルミアの背筋がこわばった。
昔と同じだ。
泣き出す前の声。
誰かに庇ってもらうことを、どこかで信じている声。
「私は、本当に、お姉様を傷つけるつもりではなかったのです」
ミュゼリアは言った。
柔らかく、頼りなく、甘い声だった。
「ただ、突然のことで……私は、エルネスト様をずっとお慕いしていました。家族も、その気持ちを知っていました。ですから、お姉様がエルネスト様と踊られて、婚約なさって、結婚なさるなんて、私は何も知らなくて」
リゼルミアは、膝掛けを握った。
何も知らなかった。
それは本当かもしれない。
けれど、リゼルミアだって何も知らなかった。
エルネストが自分を望んでくれることも、自分が選んでいいと言われることも、誰かのための縁談ではなく、自分自身へ向けられた求婚が存在することも。
リゼルミアだって知らなかった。
ミュゼリアは続ける。
「私は、置いていかれたような気がしました」
置いていかれた。
その言葉に、リゼルミアの胸が痛んだ。
置いていかれたのは、誰だったのだろう。
家族の食卓から。
母の膝から。
父の視線から。
温かい部屋から。
初めての結婚の時から。
十一度の離縁のたびに。
北側の物置部屋で。
リゼルミアは、いつも置いていかれていた。
けれど、ミュゼリアはその言葉を、自分の涙のために使う。
議長は淡々と尋ねた。
「ヴァルクレイド公爵とあなたの間に、正式な婚約、または婚姻交渉があったのか」
「正式には、ありません」
ミュゼリアの声が細くなる。
「ですが、私は本気でお慕いしていて」
「本人から婚姻の意思を示されたことは」
「……ありません」
「では、公爵夫人があなたの婚約者を奪ったという社交界での発言は、事実とは異なる」
ミュゼリアの呼吸が乱れる。
「私は、そんなつもりでは。ただ、皆がそう言ってしまって」
皆が。
リゼルミアは目を伏せた。
都合が悪くなると、ミュゼリアの言葉から主体が消える。
私が言ったのではない。
皆がそう言った。
私はただ泣いただけ。
私はただ悲しかっただけ。
その間に、リゼルミアの名は傷ついていく。
議長の声は変わらない。
「公爵家訪問時、あなたは公爵夫人の懐妊について、また守れなかったらかわいそうだもの、という趣旨の発言をしたと記録されている」
ミュゼリアの返事が、一拍遅れた。
「……私は、お姉様を心配して」
その声に、リゼルミアの内側が冷える。
心配。
あの言葉が、心配だったというのか。
また守れなかったら。
それは祝福ではない。
それは、子の存在へ向けた毒だった。
リゼルミアは、お腹へそっと手を置いた。
ここにいる。
今、自分はここにいる。
そして、この子もここにいる。
ミュゼリアの声が、少しずつ涙を含んでいく。
「私だって、傷ついていたのです。お姉様はいつも黙っていて、何を考えているのか分からなくて。私は、怖かったのです。お姉様が本当は私を憎んでいるのではないかと」
リゼルミアは、静かに息を吸った。
ミュゼリアは、自分を怖かったと言う。
泣けば誰もが味方になり、姉に謝らせることができた妹が。
物置部屋に姉が押し込められても何も言わなかった妹が。
姉の花嫁衣装を見て顔を歪め、姉の懐妊に毒を混ぜた妹が。
姉を怖かったと言う。
エルネストの手が、そっと差し出された。
リゼルミアは迷わず取る。
手のひらが温かい。
その温もりのおかげで、耳を塞がずにいられる。
審問室で、ミュゼリアの声が崩れた。
「お姉様は私を見捨てるの?」
その言葉は、昔ならリゼルミアの胸を貫いた。
見捨てる。
なんてひどい姉なのだろう。
妹が泣いているのに。
妹が傷ついているのに。
そう思って、謝っていた。
けれど今は、胸の奥に別の言葉が浮かんだ。
見捨てるのではない。
戻らないだけ。
「私はただ幸せになりたかっただけなのに」
ミュゼリアの泣き声が、審問室に響いた。
その瞬間、リゼルミアの中で、何かがすっと澄んだ。
雨上がりの水たまりの濁りが、底へ沈んでいくように。
ミュゼリアの涙に隠れていたものが、初めてはっきり見えた。
妹は、幸せになりたかったのかもしれない。
だが、それは自分自身の幸せではなかった。
姉より上でいる幸せ。
姉に譲らせる幸せ。
姉が泣き、黙り、戻ってくることで成り立つ幸せ。
リゼルミアが不幸であることを前提にした、甘い椅子。
それを幸せと呼んでいたのだ。
リゼルミアは、立ち上がった。
イーリアがすぐに近づく。
「奥様」
「行きます」
声は、思ったより静かだった。
震えていない。
自分でも驚くほどに。
エルネストが、リゼルミアの顔を見る。
「言いたいことがある?」
「はい」
「短く」
「はい」
「俺は隣にいる」
リゼルミアは頷いた。
控室の扉が開く。
審問室の視線が、また彼女へ集まった。
前回、前々回のような強い恐怖はある。けれど今日、その中心にいるのは父でも元夫でもない。
妹だ。
ミュゼリアは、涙を浮かべた目でリゼルミアを見た。
淡い色のドレス。
白いハンカチ。
赤く潤んだ目元。
かつてなら、誰もが守ろうとした姿。
けれど、今日のリゼルミアは、その涙の奥を見ることができた。
議長が確認する。
「公爵夫人。発言を希望されますか」
「はい」
「短くお願いします」
「承知しています」
エルネストが隣に立つ。
リゼルミアは、ミュゼリアを見た。
妹が、震える声で言う。
「お姉様……私、本当に」
「ミュゼリア」
リゼルミアは、静かに名前を呼んだ。
妹の肩がぴくりと動く。
その声が、いつもの謝罪でも、宥める声でもないと気づいたのだろう。
「あなたは、ただ幸せになりたかっただけだと言いましたね」
ミュゼリアは、涙を浮かべたまま頷こうとした。
「そうよ。私はただ」
「違います」
リゼルミアは遮った。
大きな声ではない。
けれど、審問室の端まで届いた。
「あなたが欲しかったのは幸せではありません」
ミュゼリアの唇が、わずかに開く。
「何を」
「私が不幸でいることです」
その一言が落ちた瞬間、審問室の空気が変わった。
ミュゼリアの涙が止まった。
頬にはまだ雫が残っている。けれど、新しい涙は出てこない。目を見開き、リゼルミアを凝視している。
姉が、自分の本質を見抜いた。
それに耐えられない顔だった。
リゼルミアは続けた。
「あなたは、エルネスト様が欲しかったのではありません」
ミュゼリアの顔が強張る。
「違うわ」
「公爵家の椅子が欲しかっただけでもありません」
「違う」
「あなたは、私があなたより下にいることを望んでいました」
審問室は静まり返っていた。
書記官のペンだけが、かすかに紙を走る。
「物置部屋にいる私。冷めた食事を食べる私。何度離縁されても黙っている私。あなたが泣けば謝る私。あなたが欲しがるものを、何も言わずに差し出す私」
リゼルミアの声は、淡々としていた。
だからこそ、余計に逃げ場がなかった。
「あなたが安心して見ていられる姉は、そういう私だったのです」
ミュゼリアの手が震える。
ハンカチが膝の上に落ちた。
「私は、そんなこと」
「私が公爵家で大切にされることを、あなたは許せませんでした」
リゼルミアはお腹へ手を置いた。
この場で、その仕草をすることにもう迷わなかった。
「私が母になるかもしれないことも、許せなかった」
ミュゼリアの瞳が揺れる。
怒り。
恐怖。
悔しさ。
泣きたいのに、泣き方を忘れたような顔。
「あなたは、私の子のことを毒にしました」
リゼルミアの言葉に、ミュゼリアは小さく息を呑んだ。
「心配だったのではありません。私が一番怖がっている場所へ、言葉を置いたのです」
ミュゼリアは、首を横に振った。
「違う……私は、ただ、お姉様が心配で」
「あなたが本当に心配していたのは、私があなたの下に戻らないことです」
リゼルミアは、妹を真っ直ぐ見た。
逃げなかった。
初めて、妹の涙から逃げず、妹の涙に飲まれず、妹の目を見た。
「私はもう、あなたの下に戻りません」
ミュゼリアの顔から血の気が引いた。
「お姉様」
「あなたが泣いても、私は謝りません」
「ひどい」
「あなたが、見捨てるのかと言っても、私は戻りません」
「私は、本当に傷ついて」
「私も傷ついていました」
リゼルミアは言った。
今まで、一度も妹の前で置けなかった言葉。
「あなたが泣くたびに、私は謝らされました。あなたが欲しいと言ったものを譲りました。あなたが繊細だからと、私は我慢することを求められました。私は十一度嫁ぎ、十一度離縁されても、あなたの邪魔をするなと言われました」
ミュゼリアの唇が震える。
彼女は、そんなふうに言われると思っていなかったのだろう。
姉は、いつも黙っていたから。
「私はもう、あなたの涙の下に座る姉ではありません」
リゼルミアは、エルネストの手を握った。
強く。
「私は、この家の妻です。母になろうとしている人間です。そして、私自身です」
ミュゼリアは言葉を失った。
泣けば誰かが庇ってくれる。
その法則が、ここでは働かない。
姉が謝らない。
姉が戻らない。
その事実の前で、彼女は初めて本当に立ち尽くしていた。
議長が、静かに言った。
「発言を記録する」
書記官のペンが動く。
リゼルミアの言葉が、紙に残っていく。
私はもう、あなたの下に戻りません。
その一文が、リゼルミアの胸にも深く刻まれた。
体が少し揺れた。
緊張が解けかけている。
エルネストがすぐ支えた。
「ここまでだ」
低く、優しい声。
リゼルミアは頷いた。
「はい」
退室しようとした時、背後でミュゼリアが声を上げた。
「待って、お姉様」
その声は、昔なら足を止めた。
リゼルミアは一瞬だけ足を止めた。
だが、振り返らなかった。
止まったのは、迷ったからではない。
自分の中に、まだ妹の声へ反応する古い癖があると確認したからだった。
そして、今度は自分で足を進めた。
控室へ戻ると、身体から力が抜けた。
イーリアがすぐに支え、椅子へ座らせる。女医が脈を取り、白湯を差し出す。エルネストはリゼルミアの前に膝をついた。
「言えた」
彼が言った。
リゼルミアは、白湯の杯を両手で包みながら頷いた。
「はい」
「妹君の涙に、戻らなかった」
「戻りませんでした」
その言葉を口にした瞬間、涙が落ちた。
勝ったからではない。
妹を傷つけたかったからでもない。
ただ、長い間自分の首に巻きついていた柔らかな紐が、ようやく一つ解けた気がしたからだった。
「私、少しひどいことを言ったのでしょうか」
リゼルミアは小さく尋ねた。
胸の端に、古い罪悪感が残っている。
妹が泣いた。
自分は謝らなかった。
それだけで、体がまだ少し戸惑っている。
エルネストは、すぐに否定しなかった。
彼は少し考えてから言った。
「痛いことは言った」
リゼルミアは目を伏せる。
「はい」
「だが、嘘ではない」
その言葉に、胸が震えた。
痛いこと。
でも、嘘ではない。
それは、リゼルミアが今まで避け続けてきた種類の言葉だった。
「境界を引く言葉は、聞く側には痛い」
エルネストは続けた。
「だが、君がずっと痛み続ける理由にはならない」
リゼルミアは、白湯を一口飲んだ。
温かい。
喉の奥が少し緩む。
「境界」
「ああ」
「私、引けたのでしょうか」
「引けた」
「ミュゼリアが泣いても」
「戻らなかった」
リゼルミアの涙がまた落ちた。
自分がどれほど妹の涙を恐れていたのか、今になって分かる。
あの涙は、単なる水ではなかった。
家族の命令、母の叱責、父の沈黙、使用人たちの視線。全部を連れてくる小さな洪水だった。
けれど今日、その水はリゼルミアの足元まで届かなかった。
自分の中に線を引けたから。
私はもう、あなたの下に戻りません。
その線の内側に、自分が立てたから。
貴族院での確認が終わり、公爵家へ戻る頃、雨は小降りになっていた。
馬車の中で、リゼルミアは疲れていた。
発言は短かった。
それでも、妹と向き合うことは、父や元夫たちと向き合うのとは違う疲れがあった。柔らかい布を何枚も剥がしていくような、静かな消耗。
エルネストは隣に座り、彼女の手を取っている。
「気分は」
「疲れています」
「うん」
「でも、少しだけ、軽いです」
「それはいい」
「ミュゼリアは、泣いていました」
「ああ」
「昔なら、私が悪いと思いました」
「うん」
「今も、少し痛いです」
「痛くていい」
「でも、戻りたいとは思いません」
エルネストの手が、温かく握り返してくる。
「それでいい」
リゼルミアは、雨に濡れた窓の外を見た。
王都の街並みが淡く滲んでいる。
「私は、妹を幸せにできなかったのでしょうか」
それは、心の奥からふと出てきた問いだった。
エルネストはすぐには答えなかった。
彼の沈黙は、いつも答えを探してくれる沈黙だった。
やがて、静かに言う。
「君が妹君を不幸にしたわけではない」
「でも」
「人の下に誰かを置かなければ成り立たない幸せは、君が支えるものではない」
その言葉に、リゼルミアは胸を押さえた。
人の下に誰かを置かなければ成り立たない幸せ。
ミュゼリアの幸せは、そういう形をしていたのかもしれない。
姉が下にいること。
姉が譲ること。
姉が謝ること。
その上で笑う幸せ。
リゼルミアがそこから降りた時、ミュゼリアの世界は崩れた。
でも、それはリゼルミアが悪いわけではない。
そう思うには、まだ少し時間が必要だった。
「私、また何度も確認してしまうかもしれません」
「何を?」
「私は戻らなくていいのだと」
「何度でも言う」
エルネストは、いつものように即答した。
「君は戻らなくていい」
リゼルミアは、目を閉じた。
その言葉を、雨音と一緒に胸へ入れる。
公爵家へ戻ると、いつものように使用人たちが迎えた。
奥様、お帰りなさいませ。
その声は、大げさではない。
けれど、リゼルミアにとっては何より温かかった。
帰ってきた。
妹の涙の下ではなく。
父の家でもなく。
夫たちの屋敷でもなく。
公爵家へ。
私室には、白湯と薄いスープ、そして梨が用意されていた。
エルネストが一切れ取る。
食べる。
「甘い」
いつもの声。
リゼルミアは、疲れた顔で少し笑った。
「今日も、甘いのですね」
「ああ」
「ミュゼリアが泣いた日でも」
「梨は甘い」
「はい」
リゼルミアも一口食べた。
甘さが口の中に広がる。
それは、誰にも譲らなくていい甘さだった。
夕方、リゼルミアは便箋を出してもらった。
エルネストは、もう半ば予想していたようにインク壺を開けた。
「一文だけ」
「はい。一文だけです」
膝の上に板を置き、リゼルミアは羽根ペンを取る。
今日の手は、いつもより少し震えが少なかった。
ゆっくり、書く。
私はもう、あなたの下に戻りません。
インクが紙に染みる。
その文字を見て、涙が一粒落ちた。
エルネストが隣で静かに言う。
「いい言葉だ」
「痛い言葉です」
「うん」
「でも、必要な言葉でした」
「ああ」
リゼルミアは、便箋を見つめた。
私は、戻りません。
私は、道具ではありません。
いなかったことにはしません。
私はもう、あなたの下に戻りません。
言葉が増えていく。
それは、過去を消すためではない。
自分がどこへ戻らないのかを、一つずつ確かめるための言葉だった。
夜、寝室で。
リゼルミアは早めに横になった。
身体は疲れている。胸も少し痛い。ミュゼリアの泣き顔が、何度も浮かんでは消える。
お姉様は私を見捨てるの?
私はただ幸せになりたかっただけなのに。
その声は、まだ完全には遠くならない。
けれど、以前のようにリゼルミアを引き戻す力はなかった。
エルネストが寝台の近くに座る。
リゼルミアは手を伸ばした。
「手を取ってもよろしいですか」
「もちろん」
温かい手が包んでくれる。
「エルネスト様」
「はい」
「私は、妹を見捨てたのでしょうか」
最後に残っていた問いが、夜の中でこぼれた。
エルネストは、彼女の手を握ったまま答える。
「君は、自分を見捨てるのをやめた」
リゼルミアの目に涙が滲む。
「自分を」
「ああ」
「私は、ずっと自分を見捨てていたのでしょうか」
「そうしなければ生きられなかった時期があったんだと思う」
その言葉は、責めるものではなかった。
過去のリゼルミアを否定しない言葉。
生きるために記録していた自分。
泣きながら黙っていた自分。
そのどちらも責めない言葉。
「でも、今は違う」
エルネストは続けた。
「君は、自分を戻さなかった」
リゼルミアは目を閉じた。
自分を戻さなかった。
ミュゼリアの涙の下へ。
物置部屋へ。
姉だから我慢する場所へ。
「おやすみなさい、エルネスト様」
「おやすみ、リゼルミア」
眠りに落ちる前、リゼルミアは胸の中で今日の一文をなぞった。
私はもう、あなたの下に戻りません。
その文字は、まだ痛い。
でも、温かい手の中で少しずつ、形を保っていた。
夢の中で、リゼルミアは大きな階段の前に立っていた。
上段にはミュゼリアがいる。
淡いドレスを着て、泣いている。
お姉様、と呼ぶ声が降ってくる。
昔のリゼルミアなら、その階段を上り、妹の足元に膝をついただろう。ごめんなさい、と言っただろう。
けれど、夢の中のリゼルミアは階段を上らなかった。
代わりに、振り返った。
背後には公爵家の庭がある。
白い花が咲いている。
窓辺に仕事机があり、机の上には自分の名前の札がある。
リゼルミアは、階段の上の妹へ向かって静かに言った。
私はもう、あなたの下に戻りません。
すると、階段は音もなく薄れていった。
朝、目が覚めると、頬には涙が残っていた。
でも、身体は縮こまっていない。
エルネストが顔を上げる。
「夢は?」
「階段の夢でした」
「怖かった?」
「少し。でも、上りませんでした」
エルネストの目元が柔らかくなる。
「いい夢だ」
「はい」
リゼルミアは、お腹へ手を置いた。
妹の涙は、もう届かない。
完全に忘れたわけではない。
痛くないわけでもない。
でも、リゼルミアを引き戻すことはできない。
朝食には、梨が出た。
エルネストが一切れ食べる。
「甘い」
リゼルミアは、小さく笑って答えた。
「はい。甘いです」
妹の涙の下へ戻らなかった翌朝の梨は、静かで、少しだけ自由な味がした。
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