婚約者の母に疎まれ続けたので、結婚直前ですが先に別の公爵家へ嫁ぎます~今さら惜しまれてももう戻りません~

なつめ

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第8話 婚約解消の席


 話し合いの場は、ヴァルケイン侯爵家の第一応接室に設けられた。

 空は朝からよく晴れていた。数日降り続いた雨がようやく上がり、庭の石畳にはまだ水気が残っているものの、薄い陽射しはその上へ細かな金の粒を散らしている。濡れた若葉の匂いが、開け放たれた廊下の向こうからかすかに入り込んでいた。けれど応接室の中は涼しく、ひんやりと整っていた。分厚い絨毯が足音を吸い、窓辺の白いレースは風をほとんど通さず、磨かれた木の机にはあらかじめ必要な書類だけが静かに並べられている。

 何も、過不足がなかった。

 その「過不足のなさ」が、かえって今日の席の性質を際立たせていた。これは感情をぶつけるための場ではなく、記録され、確認され、結論を持たされるための場なのだと、部屋に入った瞬間に誰へも分かるようになっている。

 ネフェリナは父ガルディエルの右隣に座っていた。淡い灰青のドレスは昨日までよりも少しだけ張りのある生地で、首元には余計な装飾がない。耳元にも何もつけていない。髪はきちんとまとめられているが、柔らかさより整いを優先した形だった。今日は婚約者として美しく見える必要はない。ただ、自分の言葉を自分のものとして置ける姿であればよかった。

 向かいにはフェルゼン伯爵とメルゾア伯爵夫人、その斜め後ろにローディアスがいる。伯爵はいつも通り表情の少ない顔で腰掛け、メルゾアは少し硬質な光沢を持つ濃紫のドレスをまとい、背筋をきっちり伸ばしていた。ローディアスだけが、最初からどこか落ち着かない様子だった。座るべき位置に座っていても、視線の置き場だけが定まらない。手袋をはめた指が、膝の上で一度、二度、微かに動いたのをネフェリナは見た。

 オルネッタはネフェリナの左側に控えている。正式な発言者ではなくとも、家族としてその場にいるためだ。叔母の目は静かだったが、冷えていた。今日に限っては、その冷たさがネフェリナにとって支えだった。

 紅茶は用意されていたが、まだ誰も口をつけていない。

 最初に口を開いたのは、ガルディエルだった。

「本日はお越しいただきありがとうございます」

 侯爵としての声だった。低く、整っていて、余計な情を表へ出さない声。

「本来であれば、もっと穏やかな話し合いのために席を設けるべき時期であったはずです。しかし今日は、そうではない」

 その一言に、部屋の空気がさらに締まった。

 フェルゼン伯爵が短く応じる。

「事情は承知しているつもりだ。だが、あまりに急な申し出であることも事実だろう」

 その「急」という言葉に、ネフェリナは目を伏せなかった。急に見えるのは、言われなかった十年があったからだ。

 ガルディエルは頷きも否定もせず、ただ言葉を続ける。

「本日は、娘ネフェリナの婚約解消の意向を正式にお伝えし、その理由を明確にするためにお時間をいただきました」

 婚約解消。

 その言葉が、応接室の中にようやく形を持って置かれた。

 ローディアスの顔がそこでわずかに強張った。聞いていたはずだ。父から話があったのだろう。それでも、いまこうして公の言葉として口にされると、重さが違うのだと、その表情だけで分かる。

 メルゾアが、ゆっくりと扇を膝へ置いた。

「わたくしどもとしては、まずそこが理解しかねますの」

 声音は落ち着いている。怒りを露わにしないところが、この人らしい。

「婚約解消を望むほどの問題が、本当にあったのかどうか。些細な行き違いを大きく受け取りすぎておられるのではないかと、そう危惧しております」

 些細な行き違い。

 やはり、そう置いてくるのだとネフェリナは思った。

 自分が受けてきたものの輪郭を、まず最初に曖昧にする。傷そのものではなく、受け取り方の問題へずらす。メルゾアが一貫して用いてきた手法だった。

 ガルディエルが「危惧、ですか」と繰り返した。その声にはかすかな冷たさがあった。

「ではまず、何が些細で、何がそうでないかの認識を揃えるところから始めましょう」

 彼はそこで娘へ視線を向けた。

「ネフェリナ」

 その呼びかけは、発言の許可であり、父が娘の言葉を支える意思表示でもあった。

 ネフェリナは姿勢を正した。膝の上で重ねた手は静かだった。ここへ来る前、自分の指先が震えていないことを何度も確かめた。今日必要なのは激情ではない。事実だ。自分が見てきたもの、言われてきたこと、飲み込んできたものを、もう曖昧にはしないこと。

「はい、お父様」

 そう答えた自分の声が、驚くほど落ち着いていた。

「私が婚約解消を望む理由は、一つの出来事だけではございません」

 ネフェリナは向かいの二人を見た。伯爵は無表情のまま、メルゾアは薄い笑みを崩さない。ローディアスはただ、まっすぐこちらを見返せずにいる。

「十年にわたり、繰り返されてきた言葉と態度の積み重ねによるものです」

 メルゾアがそこで軽く眉を動かした。

「十年、とは大げさですこと」

 ネフェリナは目を逸らさないまま答える。

「では、最初から申し上げます」

 部屋の中の空気が、静かに変わる。

 ガルディエルは何も挟まない。オルネッタも黙っている。ネフェリナの言葉が、そこで初めて、誰にも遮られずにまっすぐ机の中央へ置かれた。

「婚約当初より、伯爵夫人は私の服装について『若い娘らしい愛らしさだけでは足りない』と仰いました。色合いが落ち着いていない、控えめさが足りない、そのような指摘は最初からございました」

 メルゾアが口を開きかけるが、ネフェリナは続けた。

「その後も、使用人への礼の言い方は距離が曖昧だと。贈り物に選んだ手作りの刺繍は、家を代表するには内輪向きだと。詩集について意見を求められて答えた時には、男性方の前では半歩下がって見せる可愛げが必要だと」

 ローディアスの指が、膝の上でぴくりと動く。

 ネフェリナはそこを見なかった。見れば、たぶん相手の困った顔に言葉を和らげてしまうからだ。

「その一つ一つについて、私は当初、自分の至らなさゆえだと思いました。ですから直そうとしました。服の色も、声の高さも、贈答品の選び方も、答え方も」

 メルゾアがそこで、やわらかな笑みのまま言う。

「まあ、それは未来の嫁として当然の努力ではありませんか。わたくしは導いたに過ぎませんわ」

 ネフェリナはその言葉を受けて、ほんの少しだけ頷いた。

「ええ。最初はそう思っておりました」

 メルゾアの目がわずかに揺れる。賛同を得たと思ったのかもしれない。

 だがネフェリナは、次の言葉を静かに置いた。

「けれど問題は、導きが終わらなかったことです」

 沈黙が落ちる。

「直しても、また別の不足が示される。合わせても、さらに合わせることを求められる。その繰り返しの中で、私はいつしか、何をしても『足りない側』に置かれるのだと理解しました」

 フェルゼン伯爵がそこで初めて目を細めた。メルゾアは口元の形を崩さず、「それは被害的なお受け取りではなくて?」と言う。

「成長を促す言葉というものは、とかく耳に痛いものですのよ。わたくしは、将来の伯爵夫人として恥をかかぬよう、気を配っただけで」

「恥をかかぬように、ですか」

 そこで口を挟んだのはオルネッタだった。叔母は微笑んでいたが、その目は冷えている。

「亡き母君の耳飾りを『少し古い趣味』と評したことも、ですか」

 メルゾアの視線がオルネッタへ向く。

「それは流行の話を」

「母の形見であると申し上げたあとも、若い方には若い方らしい華やぎを、と続けられましたわね」

 ネフェリナが静かに重ねる。

「私はあの時、ただ耳飾りの意匠を言われたのではなく、母から受け取ったものごと否定されたように感じました」

 ローディアスの表情が、そこで目に見えて変わった。あの夜のことを、彼も思い出したのだろう。回廊で言った「母も悪気はない」という自分の言葉を。

「それに加えて、先日の夜会では、オルディス侯爵令嬢を『理想の伯爵家の嫁』と、私がその場にいる前で仰いました」

 フェルゼン伯爵の眉が、そこでようやく深く動いた。

「メルゾア」

 低い声だった。

 メルゾアは夫へ向け、少しだけ目を開く。

「褒め言葉ではありませんか。高位令嬢を称賛することのどこが」

「問題は、そこではございません」

 ネフェリナは言った。

「私が婚約者として同席している場で、別の令嬢を『理想の嫁』と褒められたことです。しかも、その場で止める方はおられませんでした」

 ローディアスの喉が、目に見えて上下した。

 彼はここまで来て、ようやく、自分の沈黙がこうして事実の列の中に置かれるのだと知ったのだろう。

 メルゾアはなおも言う。

「でもあなたは、その場でも後でも、大きく取り乱すことはなさらなかったでしょう。こちらには、そこまで深く傷ついておられるようには見えませんでしたわ」

 その言葉に、ネフェリナはほんの少しだけ目を細めた。

「私は、いつも取り乱さなかったと思います」

 自分でも驚くほど穏やかな声だった。

「泣きませんでしたし、声も荒げませんでした。ですから、私が大丈夫なのだと見えていたのかもしれません。でも、それは私が傷ついていなかったからではなく、そう振る舞うしかなかったからです」

 ガルディエルの手が静かに肘掛けへ置かれたまま、わずかに力を帯びる。娘の口からその言葉を聞くことの重さを、彼自身が噛みしめているようだった。

 ネフェリナはさらに続けた。

「そして、最後の茶会で」

 部屋の温度がまた少し下がる。

「伯爵夫人は、私のナプキンの扱いから話を始められ、母の育て方とヴァルケイン家の家風にまで言及なさいました。『亡きお母様はおおらかな方だったのでしょう』『母親というものは娘へ最初の癖を与えるもの』『フェルゼン家の求める細やかさとは少し違う』と」

 フェルゼン伯爵の目が、今度ははっきりと妻へ向けられた。

「本当にそう言ったのか」

 メルゾアは一瞬、返答の間を測るように沈黙した。それが、むしろ答えのようなものだった。

「文脈を切り取られては困りますわ」

 ようやく出た言葉は、それだった。

「わたくしはただ、嫁入り前の最終調整として、気づいた点を」

「亡き人の育て方までが、最終調整の範囲なのですか」

 オルネッタの声は冷ややかだった。

「しかもご本人が弁明できぬ場で」

 メルゾアの扇が、膝の上でぴたりと止まる。

 ネフェリナはその様子を見ながら、さらに一つ、最も重要なことを言わねばならないと感じていた。ここまで並べてきたのはメルゾアの言動だ。だが婚約解消の理由は、それだけではない。

「私が婚約を続けられないと判断した理由は、伯爵夫人のお言葉だけではございません」

 ローディアスがそこで、初めて真っ直ぐに顔を上げた。

「ローディアス様が、そのたびに何も仰らなかったことです」

 その言葉は、部屋の中央へ静かに置かれた。

「服装の時も、贈り物の時も、教養の時も、耳飾りの時も、夜会の時も、茶会の時も。あなたは困った顔をなさったことはありました。後で謝ってくださったこともございます。でも、その場で明確に止めてくださったことは、一度もありませんでした」

 ローディアスの顔から血の気が少し引く。

「ネフェリナ……」

「私はずっと、最後にはあなたが私の側に立ってくださるのだと思っていました」

 ネフェリナは続ける。言いながら、胸の奥のどこかが静かに軋むのを感じた。だが今日は、その軋みさえもう隠さない。

「だから耐えてきました。私がきちんとしていれば、あなたも困らずに済むと思っていました。でも、違いました」

 ローディアスの指先が、手袋越しに強く握られる。

「私は困っていたんだ」

 彼は掠れた声で言った。

「毎回、苦しかった。母上の言い方がきついと思うこともあった」

「でも、止めなかった」

 ネフェリナは静かに返す。

「……はい」

 その返事は、ほとんど潰れそうなほど小さかった。

 フェルゼン伯爵が、息を吐くのが聞こえた。

「なぜだ」

 それは息子への問いだった。

 ローディアスは父を見た。答えようとして、言葉がうまく出ない。その顔には、混乱と後悔と、今になって初めて飲み込んだ事実の重さが一度に浮かんでいた。

「私は……」

 声が詰まる。

「母上を怒らせれば家の中が荒れると思っていた。ネフェリナはいつも冷静で、ちゃんとしていて……だから、少しは流してくれると……」

 そこまで言って、自分で何を口にしたのか分かったのだろう。ローディアスの顔が強く歪んだ。

 ネフェリナは目を閉じたくなった。やはりそうだったのだ。彼はいつも、自分の沈黙を「角を立てないため」と呼んでいた。だがその実、耐えられるほうへ耐えることを任せていただけなのだ。

「流してくれると、思っていたのですね」

 ネフェリナが確認するように言うと、ローディアスは何も返せなかった。

 その沈黙が、どんな弁明より明確だった。

 ガルディエルがそこで、ようやく口を開く。

「フェルゼン伯爵」

 低い声だった。

「私は本日、感情論を持ち込むつもりはありませんでした。ですから娘にも、事実だけを話すよう伝えています」

 伯爵は無言で頷く。

「今の話を聞く限り、問題は明白です。娘が感情的になって婚約解消を望んでいるのではない。長く継続した軽視と、婚約者の沈黙により、これ以上この縁を維持できないと判断したということです」

 メルゾアが、そこで初めて声の硬さを隠しきれなくなる。

「軽視、とはずいぶんな言い様ですわね。わたくしは家へ入る娘として不足がないよう導いてきただけですし、ローディアスも気を遣ってきたはずです」

「気を遣うことと、守ることは違います」

 ガルディエルの返答は即座だった。

「そして、導くことと、常に足りぬ側へ置き続けることも違う」

 応接室の空気が張りつめる。

 フェルゼン伯爵は、しばらく目を閉じていた。開いた時には、その目の色が少し変わっていた。妻を庇うでもなく、娘側を咎めるでもない。ただ、ようやく現実の輪郭を認めざるを得なくなった顔だ。

「ローディアス」

 伯爵が言う。

「おまえは、この話をどう聞いた」

 ローディアスは、まるで裁かれる子どものように父を見た。

「……私は」

 彼はゆっくりと息を吐く。

「ネフェリナが、ここまで具体的に覚えているとは思っていませんでした」

 その言葉はあまりにも正直で、あまりにも愚かだった。

 ネフェリナは内心で、静かに何かが沈むのを感じた。覚えていないと思っていたのか。飲み込んだことは消えるとでも。笑ってやり過ごしたことは、やがてなかったことになるとでも。

「覚えております」

 ネフェリナは言う。

「覚えようとしたわけではありません。ただ、言われたことは残ります」

 ローディアスの目が揺れる。

「私は、加害していたのだな」

 それはようやく、彼が自分で口にした言葉だった。

 部屋の中の誰も、すぐには返さなかった。

 傍観していたこと。

 止めなかったこと。

 耐えられるほうへ耐えることを期待したこと。

 それらが積み重なれば、もうそれはただの不作為ではない。加わっているのだ。傷つける側へ。

 ローディアスは自分の膝へ視線を落とした。肩がわずかに震えて見える。泣いているわけではない。けれど、今になってようやく、自分が十年のあいだ何を見て見ぬふりをしていたのか、輪郭だけでも掴んだのだろう。

 メルゾアはなおも納得していない顔だった。

「そんな大層な話にされては困りますわ。婚約というのは、多少の我慢と調整の上に成り立つものでしょう。ネフェリナ様は少々……」

「我慢不足だと仰りたいのですか」

 ネフェリナが静かに問う。

 メルゾアは顎を引いた。

「言葉を選ぶなら、そういうことになるのでしょうね。結婚前の不安から、敏感になっておられるのではなくて?」

 そこまで聞いた時、ネフェリナの胸の内には怒りよりも、むしろ薄い静けさが広がった。この人は、ここまで来てもまだ、自分の言葉が相手にどう届いていたかを見ないのだ。見る気がないのだ。

 だからこそ、もう話は終わっている。

「でしたら」

 ネフェリナは言った。

「私は、その我慢をもう続けたくありません」

 その一言は、驚くほど軽かった。もう十分言い尽くした後だからだろう。感情を乗せないぶん、かえって硬く、揺るがなかった。

「私は未来の伯爵夫人として不足があるのかもしれません。フェルゼン家の細やかさに馴染めないのかもしれません。ですが、それならなおのこと、この婚約は解消すべきです。お互いのために」

 フェルゼン伯爵は長く黙っていた。やがて、極めて低い声で言った。

「……分かった」

 メルゾアが顔を上げる。

「あなた」

「これ以上続けても、溝が深まるだけだ」

 伯爵は妻を制した。

「少なくとも、今ここで娘側の訴えを軽々しく退けることは出来ん」

 その「娘側」という言い方は、ネフェリナに少しだけ温度を戻した。相手側の当主がようやく、自分を感情的な令嬢ではなく、理由を持って訴えている一人の人間として扱い始めたのだと分かったからだ。

 ガルディエルは深く頷いた。

「では、正式な手続きに入りましょう。細部は家同士で詰めますが、本日ここで婚約解消の意向が双方に確認されたものとしたい」

 書記役として控えていた家令が、机の端で静かに記録を整える音がした。紙へ走るペン先の音が、しん、とした部屋へ小さく響く。

 ローディアスはそこで初めて、ネフェリナを見た。真正面から。けれどその目にあったのは、引き留める力ではなく、遅すぎる理解だった。

「ネフェリナ」

 名を呼ばれる。

 けれど、今その声にはもう、以前のような柔らかな逃げ場がなかった。そこにあるのはただ、自分がずっと傍観していた加害の重さをようやく知ってしまった男の痛みだった。

 ネフェリナは静かに見返した。

 憎いわけではない、とその瞬間思った。怒りはある。疲れもある。けれど憎悪ではない。ただ、この人の隣へはもう戻れないという、動かしようのない事実だけがそこにあった。

「本日は、お時間をいただきありがとうございました」

 彼女はそう言った。礼儀の形を崩さない、最後の言葉だった。

 話し合いはそれで終わった。

 フェルゼン伯爵家が立ち上がり、退出のために身支度を整える。メルゾアの顔は最後まで硬かったが、もう先ほどまでのような余裕ある微笑は戻らなかった。伯爵は最小限の礼だけを残し、ローディアスは何か言いたげに立ち尽くしたまま、結局その場では何も口にしなかった。

 扉が閉まる。

 ようやく部屋の中から相手方の気配が消えた時、ネフェリナは膝の上の手へそっと力を入れた。爪が手袋の内側へ沈む。それでようやく、自分がまだ身体をきちんと保っていることを確かめられた。

 オルネッタが小さく息を吐く。

「よく言ったわ」

 その声はやわらかかった。

 ガルディエルは椅子の背へもたれ、娘を見た。その目には疲れと、怒りと、そして静かな誇りが混じっている。

「大丈夫か」

 その問いに、ネフェリナはすぐには答えられなかった。大丈夫とは、少し違う。けれど壊れてもいない。胸の中にはまだ冷たさがある。だがそれは、耐えている最中の冷たさではなく、ようやく切り離した後に残る冷えのようなものだった。

「……はい」

 少しだけ間を置いて、そう答える。

「まだ、実感はありませんけれど」

「それでよい」

 父は言った。

「実感はあとから来る」

 窓の外では、雨上がりの陽がさらに強くなっていた。濡れた庭の葉先が細かくきらめいている。さっきまで重かった空が、少しずつ高くなる。部屋の中へ差し込む光も、来た時より白さが抜けて、ほんの少しだけあたたかかった。

 ネフェリナはそれを見ながら、胸の奥にある静かな空洞へそっと手を当てるような気持ちになった。

 終わったのだ。

 十年分の沈黙と我慢と期待の果てに、ようやくその形が正式な言葉になった。

 傷は消えない。今日言った事実も、言われた言葉も、きっと簡単には薄れない。けれど少なくとももう、これを「些細な行き違い」と呼ばせずに済むのだと分かった。

 そのことだけで、呼吸は少しだけ楽だった。


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