婚約者の母に疎まれ続けたので、結婚直前ですが先に別の公爵家へ嫁ぎます~今さら惜しまれてももう戻りません~

なつめ

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第30話 最後の面会


 ローディアスからの正式な面会願いが届いたのは、王都の空が春の霞を薄くまとった午後だった。

 その日は朝から風がやわらかく、窓を開ければ遠くの並木の若葉がゆっくり揺れて見えた。北方の春よりずっと軽い光が、アルスレイン公爵家の王都邸の石壁へ白く落ちている。廊下の空気も、北方ほど張りつめてはいない。けれど、そのぶんだけ王都の気配は人の気持ちの輪郭を曖昧にしやすいと、ネフェリナはここ数日の滞在であらためて思い知っていた。

 王都は、何事もなかったような顔をするのが上手い。
 噂が流れても、視線が交わっても、痛みがそこにあったことすら、香と笑い声の下へそっと隠してしまう。
 だからこそ、この街で差し出される「正式」は、ときに私情よりずっと冷たく、そして重い。

 昼を少し過ぎた頃、執事が南向きの居間へ来た。

 ネフェリナは窓辺の小机で、滞在中に返すべき返礼状の文面を見直していた。仕事というほど大きなものではない。だが、どの家へどの程度の熱で言葉を返すか、その匙加減は思っている以上に難しい。王都では一行多ければ含みになり、一行少なければ冷淡と受け取られることもある。そんな細かな均衡の上で成り立つやり取りに目を通していると、自分がまだこの街の空気を完全には好まないのだということを、かえって静かに自覚する。

「奥様」

 執事は一礼し、銀の盆の上に封書を載せた。封蝋にはフェルゼン伯爵家の家紋ではなく、ローディアス個人の印が押されている。

 ネフェリナはそれを見た瞬間、目を細めた。驚きはしなかった。むしろ、やはり来た、という感覚のほうが近い。メルゾアからの手紙を断り、ローディアスの突然の訪問にも会わずに返した。あの男がそれで完全に諦めるとは、最初から思っていなかった。彼はきっと、最後に一度だけ、と願う人だ。すべてが終わったあとで、ようやく自分の思いに形をつけたくなる人だ。

「正式に、面会を願いたいとのことです」

 執事が低く続ける。

「日時、場所、人数、すべて奥様のご意思に従うと。ご無理であれば以後二度と求めぬとも記しております」

 ネフェリナは封書を手に取った。
 紙は上質で、筆跡は整っている。
 あの人らしい。
 最後の最後まで、体裁を崩しきれないところまで含めて。

「旦那様へは」

「すでにご報告申し上げております。後ほど、お時間を取られると」

「……分かりました」

 執事が下がったあと、ネフェリナはしばらく封書を開かなかった。窓の外では、春の風が白いレースを少しだけ揺らしている。庭の石畳の向こうで、誰かが水差しを運んでいるのが見えた。王都の午後は明るい。北方のような鋭さがないぶん、こういう重いものも、何気ない日差しの中で妙に浮いて見える。

 やがて封を切る。

 中の文面は簡潔だった。
 謝罪や後悔の言葉を長々と綴るのではなく、「正式に、一度だけ面会を願いたい」「断られれば以後二度と求めない」「どのような条件でも従う」という三点だけがほとんどを占めている。つまりこれは感情の手紙ではなく、願い出そのものだった。

 ネフェリナは読み終えたあと、静かに便箋を畳んだ。

 最後の面会。

 そういう言葉は書かれていない。
 だが、意味するところは分かる。
 おそらくローディアスにとっても、これが最後の機会なのだ。

 そしてそのことを、ネフェリナ自身もまた、どこかで理解していた。

 会わなくてもいい。
 会う義務はない。
 そう頭では分かっている。
 それでも、ここまで来たのなら、一度きちんと終わらせる必要があるのではないかという思いが、胸の奥で静かに浮かんだ。

 終わらせる。
 許すためでも、戻るためでもない。
 恨みをぶつけるためですらない。
 ただ、自分の言葉で終わりを確かめるために。

 セヴェリオが居間へ来たのは、便箋を閉じてまもなくだった。

 彼は執務の途中だったらしく、いつもより少しだけ硬い表情をしていたが、部屋へ入るとまずネフェリナの顔を見る。その視線は問いただすようではない。今この瞬間のネフェリナの揺れの大きさを測ろうとする目だ。

「読みましたか」

「はい」

 ネフェリナは封書を机の上へ置いた。

「正式に、一度だけ面会を願いたいと」

 セヴェリオは頷いた。
 短い沈黙が落ちる。
 その沈黙の中で、ネフェリナは自分が何を考えているかを整理しようとしていた。会いたいのか。会いたくないのか。会えば傷むかもしれない。けれど会わずに終えた時、自分の中に何かが薄く残る可能性もある。

「会う必要はありません」

 セヴェリオが静かに言う。

「断っていい。返事をしなくてもいい」

「はい」

「もし会うなら、あなたが決めた条件で」

 そこまで言って、彼はそれ以上先回りしなかった。
 この人はいつもそうだ。
 判断のための逃げ道は示す。
 だが、選ぶことそのものを代わりにしてしまうことはない。

 ネフェリナは窓の外を見た。
 王都の春の午後。
 何もかもが穏やかに見える。
 でも、自分の中ではそうではない。

「……会います」

 そう言った瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
 怖くないわけではない。
 けれど、それでもやはりそうするべきだと思った。

 セヴェリオはすぐには言葉を返さなかった。
 その一拍が、ありがたい。
 軽々しく「そうですか」とは言わない。
 選んだことの重みを、ちゃんと受け止めている沈黙だった。

「理由を聞いても」

 低い声が落ちる。

 ネフェリナは少し考えた。
 自分でもうまく説明しきれない思いが、いくつか重なっている。

「恨みを伝えたいわけではありません」

 ゆっくりと言葉を探す。

「戻りたいとも思っていません。ただ……」

 ただ、何なのだろう。
 言葉はすぐには出なかった。
 けれどセヴェリオは急がせない。

「終わりを、私の言葉できちんと知っておいてほしいのです」

 ようやくそれが出る。

「彼が何を思っていたとしても、私が何を失って、何を選んだのかは、私の口で一度だけ言っておきたい」

 セヴェリオの目が静かにネフェリナへ向く。
 そこに否定も賛美もない。
 ただ、その理由をまっすぐ受け取る視線だけがある。

「分かりました」

 短く、しかし揺らぎなく。

「場所はこの屋敷で。応接室の扉は閉めません。私は隣室にいます」

 ネフェリナは顔を上げた。
 それは「立ち会う」ではない。
 けれど、完全に一人へもしない。
 自分で選ばせながら、必要な守りだけは先に整える。
 やはり、この人らしい。

「ありがとうございます」

「礼はいりません」

 セヴェリオは言う。
「あなたが会うと決めたなら、条件を整えるのは当然です」

 その当然が、いつもネフェリナを支える。

 面会は翌日の午後に決まった。

 場所は王都邸の北側にある小応接室。大広間でもなく、客間でもなく、しかし私室とも違う、中立のための部屋だった。壁は淡い灰白、家具は濃い木、窓は高く、春の曇り空から入る光だけが静かに床へ落ちている。花は飾られていない。茶も用意しない。ただ必要な椅子と小卓だけが置かれ、逃げ道のない会話にも、余計な飾りは要らぬように整えられていた。

 ジルヴェナは面会の直前、ネフェリナの襟元を整えながら言った。

「終わらせるための場でございます」

 鏡越しに目が合う。

「相手を慰めるための場ではございません」

 ネフェリナは小さく頷いた。
「はい」

「何も持ち帰らずとも結構です。何かを置いてこられれば、それで十分」

 その言い方に、ネフェリナはわずかに息をついた。
 何かを置いてくる。
 たぶん、自分の中に最後まで細く残っていた「言えなかった言葉」なのだろう。

 小応接室へ入ると、ローディアスはすでに来ていた。

 以前より明らかに痩せて見えた。頬が少し削げ、目の下に薄い影がある。だが服装はきちんとしている。最後の最後まで、外側だけは崩せないのだろう。立ち上がった時の動きにも、かつての癖が残っていた。丁寧で、しかしどこか頼りない。決断をする人の立ち方ではなく、決断を遅らせてきた人の立ち方。

 ネフェリナは扉の前で一礼した。

「お時間は、長く取りません」

 まずそう言うと、ローディアスは小さく頷いた。

「……ありがとう。会ってくれて」

 声が少し掠れている。
 緊張しているのだろう。
 けれどネフェリナは、それに引きずられないよう、静かに席へ着いた。

 二人のあいだには小卓が一つ。距離は十分にある。扉は開いたまま。廊下の向こうの気配はないが、完全に閉じた場ではないことが、それだけで分かる。セヴェリオが隣室にいるのだと思うと、不思議と呼吸が整った。

 しばらく沈黙が続いた。

 ローディアスのほうが先に口を開くべきだと、二人とも分かっている。
 その沈黙を破るには、それなりの覚悟がいる。

「……まず、謝りたかった」

 ようやく彼はそう言った。

「何度謝っても足りないことは分かっている。けれど、あの時も、その前も、君を守れなかった。見ていたのに、止めなかった。今さらだと分かっていても、まずそれを言わなければと思った」

 ネフェリナは黙って聞いた。

 ローディアスは続ける。

「母のことも、自分のことも、全部言い訳にしかならない。僕はずっと、次があると思っていた。今度こそ話そう、今度こそ止めよう、そう思って……でも、結局どの時も何も出来なかった」

 その声には本当の後悔が混じっていた。
 それは分かる。
 嘘ではないのだろう。
 だが、後悔が本物だからといって、それで過去が変わるわけではない。

「そして」

 ローディアスは一度言葉を切った。
 指先が膝の上で強く組まれている。
 ネフェリナはその手元を見て、彼がいま初めて自分の言葉を真正面から飲み込もうとしているのだと感じた。

「僕は君を愛していた」

 その一文は、部屋の中へ静かに落ちた。

 ネフェリナはまばたき一つしなかった。
 驚かないと言えば嘘になる。
 だが、それはもう胸を揺らす種類の驚きではなかった。
 むしろ、来るべきものがようやく来た、という感覚に近い。

 ローディアスはその言葉を口にしたことで、自分の中の何かがほどけたように見えた。だが同時に、そのあと何を言えばよいか分からなくなっているのも見て取れる。

「愛していたと、今ごろ言うのは卑怯だと思う」

 彼は苦く笑おうとして、笑えなかった。

「でも、便利だったとか、いて当然だったとか、それだけじゃなかった。君がいると落ち着いた。君の声を聞くと、家の空気がやわらぐ気がした。君が何かを整えてくれることに、僕は……」

 彼はそこで言葉を失った。
 たぶん「甘えていた」と言いたいのだろう。
 だが、それを口にすると、自分の愛の中にどれほどの依存と怠慢が混じっていたかまで見えてしまう。だから喉で止まる。

 ネフェリナはその沈黙を見てから、ゆっくりと口を開いた。

「ローディアス様」

 声は穏やかだった。
 責めるための鋭さはない。
 けれど曖昧に受け流すやわらかさもなかった。

「愛していたのなら」

 そこで一度だけ息を継ぐ。

「なぜ、守らなかったのですか」

 その問いは、部屋の空気を変えた。

 ローディアスの顔から、また少し色が引く。
 たったそれだけの問いだ。
 だが、その一文は彼の告白の中心へ真っ直ぐに届いている。

 愛していたのなら、なぜ守らなかったのか。

 ネフェリナは続けて何も言わなかった。
 問いの先を急かさない。
 言い逃れのための言葉を与えない。

 ローディアスは答えようとした。
 唇がわずかに開く。
 だが出てきたのは、すぐには言葉の形にならなかった。

「……それは」

 かすれた声。

「僕は……」

 怖かった。
 母に逆らうのが。
 家の空気が荒れるのが。
 自分が板挟みになるのが。
 ネフェリナが耐えてくれるだろうと思っていた。
 いずれ何とかなると、どこかで甘えていた。

 そうした答えはいくつもあるのだろう。
 だが、そのどれもが「だから守れなかった」の説明にはなっても、「愛していたのに守らなかった」の答えにはならない。

 ローディアス自身、それが分かっているのだ。
 だから口に出せない。

 ネフェリナは、その沈黙の中で静かに彼を見ていた。

 責め立てたいわけではない。
 泣かせたいわけでもない。
 ただ、その問いに答えられないことそのものが、すでにすべてを言っていると分かったからだ。

「……答えられないのですね」

 ネフェリナがそう言うと、ローディアスは目を閉じた。
 ほんの一瞬だけ。
 そしてまた開く。

「答えがないわけではない」

 ようやく出てきた声は、ひどく低かった。

「でも、どれも……君の前で言葉にした瞬間、言い訳にしかならない」

 ネフェリナは頷きもしなかった。
 ただ、そのまま次の言葉を置く。

「私があの時ほしかったのは、謝罪ではありませんでした」

 ローディアスの肩がわずかに揺れる。

「愛していたという告白でもありません。たった一度でよかったのです」

 ネフェリナはゆっくりと言う。

「耳飾りの時でも、夜会の時でも、最後の茶会でも。あの時、あなたが『それ以上言うな』と一言、前に立ってくだされば、それだけでよかった」

 その一言一言は静かだ。
 だが静かなぶん、逃げ道がない。

「私は完璧な味方を求めていたのではありません。あなたが母上と決裂して、家を捨てることを望んでいたわけでもない。ただ……」

 ネフェリナはそこで、ごく小さく息を吐いた。

「たった一度でも、私を選んでくださればよかった」

 ローディアスは何も言えなかった。

 彼の顔に浮かんでいるのは、後悔だけではない。
 いま、自分が失ったものの形を、やっと具体的に見せつけられた人間の顔だった。

 愛していた。
 かもしれない。
 でもその愛は、決断にならなかった。
 守るという形を取らなかった。
 その事実が、ネフェリナの静かな問いの前でむき出しになっている。

「あなたが私をどう思っていたかは、今の私にはもう大切ではありません」

 ネフェリナは言った。

「大切だったのは、あの時、どうしてくださったかです」

 ローディアスの唇がわずかに震えた。
 だが、やはり言葉は続かない。

 ネフェリナはその沈黙を見つめながら、自分の胸の内が不思議なほど静かなことに気づいていた。怒りで燃えているわけではない。悲しみが押し寄せてもいない。ただ、ようやく終わるべきものが終わっていく感覚だけがあった。

 ローディアスの愛が本物だったかどうか。
 それを、もう量る必要はない。
 本物であろうと、遅すぎたという事実は変わらない。
 愛は時に言葉だけでは足りず、選ぶことや守ることにならなければ意味を持たないことがある。
 それを、今のネフェリナはもう知っている。

「……申し訳ない」

 ようやくローディアスが絞り出したのは、その一言だった。

 それ以外、もうないのだろう。

 ネフェリナは小さく首を振った。

「謝罪は、もう受け取りました」

 ローディアスが顔を上げる。

「ですが、それで戻るものはありません」

 ネフェリナは静かに言い切る。

「私はもう、あの頃の場所へ戻りません。あなたが今ここで何を認めても、それは変わりません」

 その言葉には冷酷さはなかった。
 ただ事実だけがあった。

 ローディアスはその事実を前に、ようやく本当に何も言えなくなったようだった。視線が落ちる。肩の力が抜ける。謝りたい気持ちも、愛していたという告白も、問い返されたあとの沈黙の前では、もう自分を支えきれない。

 ネフェリナはそこで立ち上がった。

「これで十分です」

 最後の言葉としては、ひどくあっさりしているかもしれない。
 だが、それがいまの本音だった。
 もうこれ以上重ねる言葉はない。
 恨みをぶつける必要もないし、慰める必要もない。

 ローディアスもゆっくり立ち上がった。
 その動きは来た時よりさらに重い。

「……会ってくれて、ありがとう」

 最後にそう言った声は、もうかつての婚約者のものではなく、ただ遅れて理解した一人の男の声だった。

 ネフェリナは一礼した。
 それは親しみではなく、終わりの礼だった。

「さようなら、ローディアス様」

 言って、ネフェリナは扉のほうへ向かった。
 背後で何か言われる気配はなかった。
 もう言えることが残っていないのだろう。

 廊下へ出ると、空気が少しだけ違って感じられた。
 重く閉じた部屋の中から、一歩外へ出た時のような、静かな解放感。
 隣室の扉が開き、セヴェリオがそこにいた。

 彼は何も訊かなかった。
 まずネフェリナの顔を見る。
 それだけで十分だった。

「終わりました」

 ネフェリナが言うと、セヴェリオは短く頷いた。

「ええ」

「……答えられませんでした」

 自分でも、どこか不思議な声だと思った。責める響きでも、落胆でもなく、ただ確認するような声音。

「そうでしょう」

 セヴェリオの返答も静かだった。
 そこに侮蔑はない。
 ただ、答えられぬ問いであったことを最初から知っていた人の声だ。

 ネフェリナはそのまま少しだけ目を閉じた。
 胸の奥に何かが残っているかと思った。
 だが意外なほど、それは空っぽに近かった。
 寂しさもなくはない。
 長くあったものが、ようやく完全に切れたあとの薄い痛みはある。
 けれどそれ以上に、もう自分の中であの問いは終わったのだという感覚が大きかった。

「よかったです」

 ぽつりと、そう零れる。

 セヴェリオがわずかに目を細める。

「何が」

「会って」

 ネフェリナはゆっくり言った。

「彼がどう思っていたのかより、私が何を失って、何を必要としていたのかを……私自身がちゃんと分かった気がするのです」

 セヴェリオは何も足さなかった。
 ただ、その言葉をそのまま受け止めるように、静かにそこにいる。

 ネフェリナは目を開け、廊下の窓のほうを見た。春の曇り空はまだ淡く、どこか遠くで雨になる前の匂いがした。王都の空気はやわらかい。けれど、いまの自分の胸の中には、北方の冬を越えたあとの澄んだ静けさがある。

 最後の面会は、これで終わった。

 ローディアスは謝罪し、自分が愛していたと認めた。
 だが、愛していたのならなぜ守らなかったのかという問いには、答えられなかった。
 その答えられなさこそが、たぶんすべてだった。

 ネフェリナはその事実を、もう痛みではなく、終わったものとして胸の中へ置くことが出来そうだった。

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