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第十六話 封じられた記録
その日は、朝から雨だった。
春にはまだ早いくせに、冬の芯だけが少し緩んだような、重く湿った雨。空は夜明けの時点でも灰色のままで、庭に残った雪の名残を鈍く濡らしていた。石畳は暗く、裸木の枝先から落ちる雫はひどく細い。雪の日とは違う種類の静けさがある。雨の日の屋敷は、音が消えるのではなく、すべての音が濡れて重くなるのだ。
窓を叩く水の音。
廊下の向こうで遠く閉まる扉。
厨房の鍋蓋が触れ合うわずかな金属音。
どれも輪郭を失って、ぼやけたまま空気の中へ溶けていく。
イゼルディナは朝の報告を終えたあと、家政室の窓辺へ立ってその雨を少しだけ眺めていた。
喉のざらつきは昨日よりだいぶましになっている。薬のおかげか、温かいものを口にしたせいか、それとも単に一晩眠ったからか。理由はどれでもよかった。身体の不調が引いたぶん、胸の内側に残ったものはかえってはっきりした。義母の侮辱。セヴェリオンの制止。遅すぎる気遣い。白薔薇の花束。どれも沈み切らないまま、薄い雨雲のように胸の上空を覆っている。
「奥様」
ベルンフリートが一礼して、数冊の帳面を机へ置いた。
「北の別邸へ送る荷の第二便ですが、書籍類をどうなさるか、そろそろご判断を」
イゼルディナは振り返る。
「書籍」
「はい。奥様の私物としてお持ち込みになったものに加え、婚姻後に奥様がご自身で揃えられたものも相当数ございます。すべてをお運びするとなると箱数が増えますので、先に選別いただければと」
それは確かに、そろそろ決めるべきことだった。
更衣室の荷は半分以上整っている。茶器も記録帳も、北の別邸へ持っていくものはおおむね見えた。だが書物は別だ。読書のための本、植物図譜、領地の気候や土質に関する文献、社交界の家系図録、神学書、歴史書。イゼルディナは感情を吐き出すかわりに紙と本へ逃げる癖があったから、この十年でずいぶんと増えた。
「今から見てくるわ」
そう言うと、ベルンフリートはほんのわずかに眉を動かした。
「書庫へ、でございますか」
「ええ。私室の本棚分だけならすぐ終わるけれど、どうせなら保管庫に移したものも確認したいもの」
「雨の日でございますので、足元にはお気をつけください」
「心配はいらないわ」
答えながらも、イゼルディナは自分が少しだけ書庫へ行きたかったのだと気づいていた。
書庫は静かだ。
紙と革と埃の匂いしかしない。
誰も笑わず、誰も気遣わず、誰も「次の公爵夫人」などという言葉を持ち込まない。
今の自分には、それが必要だった。
*
アルクライド公爵邸の書庫は、東棟の二階奥にあった。
日当たりの良い部屋ではない。むしろ、日を避けるように作られている。長い廊下の突き当たり、二重扉の向こうに、天井の高い矩形の空間が広がっている。壁一面を覆う棚。移動式の梯子。中央には大きな閲覧机が二台。窓は高く細く、曇った日には外の光がほとんど届かない。そのかわり、湿気を嫌って暖炉と換気口の位置が工夫され、書物を守るための乾いた空気が保たれていた。
扉を開けた瞬間、イゼルディナは少しだけ息を吐く。
革表紙。古いインク。糊。乾いた木棚。
そこへ、雨の日特有の、冷えた石壁の匂いがわずかに混じる。
書庫の匂いだった。
屋敷のどの部屋よりも、時間がまっすぐ積み上がっている匂い。
「奥様」
中にはすでに書庫番の老書記がいた。細い体に濃紺の上衣を着た老女で、名をロザリアという。目が悪くなっているせいで書物の小さな文字は読めなくなって久しいが、本の位置だけは誰より正確に覚えている。
「この雨の中を、ようこそ」
「私物の選別をしたいの。少し見せてもらえるかしら」
「もちろんでございますよ」
ロザリアは微笑むと、ゆっくりとした足取りで中央の閲覧机へ乾いた布を敷いた。
「奥様の本棚分は一覧がございます。保管庫へ移されたものは、分類が少々古うございますが」
「大丈夫。時間はあるもの」
その「時間はある」という言い方が、自分でも少し空虚に聞こえた。
離縁へ向かう女は、たしかに時間を与えられている。だがそれは待たされている時間でもある。未来へ向かって進んでいるようで、実際にはまだこの屋敷の中に留め置かれている時間。
イゼルディナはその感覚を胸の奥へ押し込め、机へ広げられた一覧へ目を落とした。
分類は大きく四つ。
私室の本棚。
温室と庭に関する実用書。
領地と家政の参考資料。
そして「保管庫移送済」の箱番号。
「まずは私室のものからでよろしいですか」
ロザリアが問う。
「ええ。でも保管庫へ移した古い歴史書と家系録も見たいの。もしかすると別邸に持っていく必要はないかもしれないけれど、置いていく前に一度確認しておきたいわ」
「承知しました」
老書記は木札の束を取り、書棚の奥へ消えていった。
イゼルディナは閲覧机の上へ手を置く。乾いた木が掌へひんやりする。書庫の静けさは好きだった。好きになった、と言うべきかもしれない。結婚して最初の頃、義母の茶会も夜会も終わったあと、どこにも自分の気配を置ける場所がないように感じる夜に、何度かここへ逃げてきた。真夜中ではない。夕刻と夜のあいだくらい、廊下の灯りが淡くなり始める頃。棚の間を歩き、背表紙を眺め、何も読まずに帰ることもあった。
書庫は人を慰めはしない。
けれど沈黙の質が、自分を傷つけない。
そのことを知ってからは、気持ちを整えたいときにはここへ来るようになった。
やがてロザリアが数冊の本を抱えて戻ってくる。
「こちらが植物図譜、温室関係、土壌の記録でございます。それから、保管庫から持ってくるものを先にお決めいただければ」
イゼルディナは一冊ずつ手に取る。革の感触。紙の乾き。何度も開かれた頁の柔らかさ。植物図譜は持っていく。北の別邸の温室でも必要になる。土壌に関する小さな論文集も、古びてはいるが実用性が高い。社交界の家系録は一冊だけ。最新のものより、むしろ十年前の版のほうが必要ない。あれはこの家で生き残るために使った本だ。別邸ではもう、そこまで必要ないだろう。
「これは持っていくわ。これは残す」
選別しながら、イゼルディナは少しずつ気持ちが凪いでいくのを感じていた。紙に触れると心が静かになるのは、子どもの頃からだ。物語を読むのも好きだったが、それ以上に「整理された知識」の並びが好きだった。名前。年号。分類。見出し。そういうものは、人の気まぐれより信頼できる。
「保管庫からは、どの辺りを?」
「家系録は古いものを二、三冊。あとは先代公爵時代の領地記録があれば見たいの。別邸の管理状況を確認したいから」
それは口実でもあり、本心でもあった。
北の別邸は先代公爵時代から徐々に使われなくなっていた。ならば当時の維持記録や管理簿が何かしら残っているはずだ。別邸の古い温室がいつから手入れを減らされたのか、暖炉の更新は何年前か、そういうことを知っておけば移住後にも役立つ。
ロザリアは少し首を傾げた。
「先代時代の記録ですか。なら、西側の補助書架の奥かもしれません。表の目録ではなく、移し替えの途中でまとめられたものが」
「あるのね」
「ええ、ただ、少々整理が古く……」
「構わないわ。見せてちょうだい」
老書記は梯子の横を通り、西側の薄暗い書架へ向かった。そこは窓から遠く、灯りも届きにくい一角だ。背の高い棚が二重になっていて、その奥にさらに狭い通路がある。普段はほとんど使われないのだろう。床に敷かれた敷布の色が他よりも濃い。
イゼルディナも後を追った。
棚のあいだはひんやりしていた。雨の日の湿りを防ぐために暖炉は焚かれているはずなのに、この奥だけは石壁の冷えが抜けきらない。本の背表紙には薄く埃が積もり、いくつかの箱は布をかけられたままになっている。
「この辺りでございます」
ロザリアが腰をかがめ、下段の奥へ手を入れる。木札を引き、重たそうな革箱を一つ引き出した。鍵はかかっていない。蓋の金具は少し錆びている。
「移送途中、と申しましたが……正確には、先代様が亡くなられた頃にまとめ直されたものかと」
「見ても?」
「もちろん」
ロザリアが蓋を開く。
中には、綴じ直されていない書類の束と、薄い帳面が何冊か、そして数冊の家系録のようなものが入っていた。きちんとした目録はついていない。紙の端には年号がばらばらに書かれているだけだ。
イゼルディナは一番上の帳面を手に取った。
先代公爵時代の別邸維持費一覧。
次の紙束は、温室修繕の見積もり。
その下には、来客名簿の控え。
そこまでは想定の範囲だった。
だが、さらに下をめくった時、彼女の指がふと止まる。
薄い灰色の表紙をした、綴じ紐のゆるい記録帳。表題は消えかかっていて、かろうじて「来訪・滞在記録」と読める。別邸に関するものかと思って開くと、最初の頁に記されていたのは地名ではなく人名だった。
**エリュゼ・ヴァルニエ**。
入邸日付。
滞在三日。
帰路にて落馬、療養のため実家へ。
その下に別の名。
**ルシェット・エルヴァン**。
訪問後、婚約解消。
理由、先方家都合により。
さらに頁をめくる。
**カミラ・ド・レスティエ**。
王都夜会後、不慮の失脚。
社交界より事実上の退出。
日付はまばらだ。
年も一致しない。
だが共通していることが一つある。
どの名前も女であり、いずれも「当主周辺」の欄に小さな印がついている。
イゼルディナは黙って頁をめくり続けた。
名前。
日付。
短い結果の記述。
重篤な病。
乗馬中の事故。
婚約の破談。
名誉の失墜。
他家への急な縁談。
国外への移動。
偶然にしては、あまりに出来すぎている。
「……ロザリア」
イゼルディナが呼ぶと、老書記がすぐに顔を上げた。
「はい、奥様」
「これは、何の記録だと思う?」
彼女は帳面を差し出す。ロザリアは目を細め、頁の上へ顔を近づけた。
「さあ……字が薄うございますが」
「女の名ばかりなの。しかも『当主周辺』という印がある」
ロザリアは困ったように眉を寄せた。
「先代様の時代、ですか」
「たぶん。でもこれだけではない気がするわ」
イゼルディナは箱の中をさらに探る。
すると、帳面の下に挟まれていた封書の束が目に入った。封は切られており、外側には人名と日付だけが書かれている。差出人欄のないものが多い。中から紙を一枚抜くと、そこには簡潔な文が並んでいた。
――先方令嬢の件、以後当家との往来は控えさせること。
――噂が広がる前に整理済。
――当主の御心痛に配慮し、表向きは病とする。
イゼルディナの指先が冷える。
御心痛。
当主。
噂が広がる前に整理済。
その言葉の配置は、あまりにも不穏だった。
「奥様?」
ロザリアの声が遠い。
イゼルディナはもう一枚、別の紙を取った。
そちらはもっと古い紙だった。端が傷み、インクも薄い。
――あの方がお心を寄せたと見える女性は、早急に遠ざけるべし。
――家名に余計な混乱を招く前に。
そこまで読んだところで、背筋を冷たいものが走った。
先代公爵時代の記録。
当主周辺にいた女たち。
関わったあと、必ず何らかの事故や失脚や離別に巻き込まれている。
しかも、その一部はどう見ても「偶然」として片づけるには出来すぎている。
イゼルディナは一度、目を閉じた。
頭の中で、いくつもの点が薄く線になりかける。
セヴェリオンの結婚初夜の宣告。
白い結婚。
十年限り。
義母の異様なまでの執着。
そして今になって「離縁は認めない」と言い出したこと。
もし。
もし、この家に、当主が深く関わった女を必ず遠ざける何かが、先代の頃からずっとあったのだとしたら。
いや、まだ早い。
想像だけでつなぐには危うい。
だが帳面は嘘をつかない。少なくとも、ここに繰り返し同じ種類の女たちの名が残され、その後に必ず何かしらの不運が記されているという事実はある。
「この箱、他にもございますか」
イゼルディナが問うと、ロザリアは少し考えてから答えた。
「同時期のものが、もう二箱ほど。ですが、奥様、そのような古い雑記は」
「見せてちょうだい」
自分でも驚くほどはっきりした声だった。
ロザリアはそれ以上言わず、棚の奥へ消える。
その間、イゼルディナは手元の帳面をもう一度開いた。
名前たちを、今度は一つずつ読む。
誰だったのだろう、この女たちは。
本当に当主の恋人だったのか。
婚約候補だったのか。
ただ関心を寄せられただけなのか。
それとも、義母や周囲が「そう見えた」と判断しただけなのか。
そこまでは、まだわからない。
わからないままでも、嫌な確信だけはじわじわ生まれる。
この家では、当主が本気で何かを向けた女は、無事では済まない。
そんなふうに言われているか、あるいはそうなるように動く者がいるのではないか、と。
ロザリアが箱を二つ追加で持って戻る頃には、イゼルディナの胸の中にはもう「嫌な偶然」という言葉では済まない何かが生まれていた。
「重うございますよ、奥様」
「ありがとう」
新しい箱を開く。
こちらはもっと雑多だった。新聞の切り抜き、夜会の招待状の控え、医師の診断書の写し、そして個人名の一覧。そこにまた、見覚えのない女の名前が並ぶ。
事故。
縁談破談。
療養。
国外移動。
沈黙。
沈黙、という一語だけ記された紙もあった。
その不気味さに、イゼルディナは紙を持つ指へ思わず力を込める。
「……妙ね」
声に出すと、書庫の乾いた空気の中で自分の声だけが浮いた。
「偶然にしては」
出来すぎている。
その続きを、口にする必要はなかった。
ロザリアは何も知らない顔で首を傾げるだけだ。だがイゼルディナはもう、自分の中で何かが戻れないところまで来たのを感じていた。
ただの冷たい結婚ではないのかもしれない。
ただの気まぐれや、愛情表現の下手さではないのかもしれない。
この家そのものに、何か長く濁ったものが沈んでいる。
義母の悪意とは別の、もっと古く、もっと家名に近い暗さ。
窓の外で雨が硝子を打つ。
書庫は静かだ。
紙の匂いは乾いているのに、胸の中だけがひどく湿って冷たい。
イゼルディナは、封書の束をひとつずつ並べ始めた。日付順に。名前ごとに。何度も帳簿を整理してきた手つきで、今度は不審そのものを整えるように。
すると見えてくるものがある。
先代公爵時代の後半に集中している。
「当主周辺」と印をつけられた女たちだけ。
しかも、その多くが、名が表立って広がる前に「整理済」とされている。
整理。
その言葉が何度も出てくる。
まるで人ではなく、問題のある書類か、汚れた器でも片づけるように。
イゼルディナはそこで、ふいに背筋へ別の冷たさが走るのを感じた。
もし自分も、そういう「整理」の中で守られていたのだとしたら。
セヴェリオンが十年の白い結婚を強いた理由が、もしそこにあるのだとしたら。
考えたくない。
だが、考えずにもいられない。
「奥様」
ロザリアが不安そうに呼ぶ。
「お顔色が」
「大丈夫」
答えながら、イゼルディナは自分の声が少し掠れていることに気づいた。
「この記録、しばらく借りられるかしら」
「本来なら書庫外への持ち出しは……」
老書記は言い淀む。
当然だ。目録にもまともに載っていない雑記とはいえ、この家の古記録には違いない。
イゼルディナは少し考え、帳面の表紙を撫でた。
「では、この部屋で見るわ。あとでベルンフリートへも伝えておく」
「かしこまりました」
ロザリアはそれ以上訊かなかった。
彼女もまた、この家で長く働いてきた女だ。知らなくていいことを、あえて知らないままでいる術を知っている。
イゼルディナは閲覧机へ箱ごと移動し、帳面と切り抜きを整えた。外の雨はまだ続いている。高窓から入る光はますます薄くなり、書庫の灯りをひとつ追加で入れなければならないほどだ。
紙の上に並ぶ名前たちは、みな知らない女たちだ。
知らないのに、妙に生々しい。
それぞれに家があり、体温があり、人生があり、その一時期だけ「当主周辺」という曖昧な印をつけられた。
そしてその後、何かが起きた。
それは事故だったのか。
意図だったのか。
あるいは家の中の誰かが、そうなるように動いたのか。
まだ何も確定していない。
けれど、偶然だけでは説明しきれない。
その時だった。
書庫の扉が開き、ベルンフリートが静かに入ってきた。
「奥様」
彼は机の上へ広げられた帳面と封書を見て、ほんのわずかだけ目を細めた。
「……何を」
「先代時代の記録を見つけたの」
イゼルディナは言う。
隠す気にはなれなかった。ここまで見てしまったものを、自分一人の胸へ抱えるにはまだ整理が足りない。
「見て」
そう言って、一枚の紙を差し出す。
――当主の御心痛に配慮し、表向きは病とする。
ベルンフリートはそれを読み、表情を動かさなかった。動かさなかったが、沈黙が少しだけ長くなる。
「……どこで」
「保管箱の奥」
「そうですか」
それだけ言って、老執事長は紙を戻した。
「偶然にしては出来すぎているわ」
イゼルディナは、今度は自分の考えをはっきり口にした。
「この家では、当主が深く関わった女性が、必ず何かしらの事故や失脚に巻き込まれている」
ベルンフリートは目を伏せる。
その仕草は、肯定でも否定でもない。
けれど、完全な無知の顔ではなかった。
「あなた、知っていたの」
問いかけると、彼はしばらく沈黙し、それから低く答えた。
「詳しくは、存じません」
詳しくは。
その言い方がすべてだった。
「ですが、先代様の頃より、この家には……あまり表へ出ぬ形で処理される事柄があったとは」
イゼルディナの指が、帳面の角を静かに押さえる。
「処理」
「はい」
ベルンフリートの声は乾いていた。
「家名に不都合なものを、表へ出さぬようにする力が、この家には昔からございました」
その答えに、書庫の空気がまた一段冷えた気がした。
家名に不都合なもの。
その中には、人も含まれるのだ。
女たちも。
もしかすると、愛情すら。
イゼルディナは、手元の帳面をゆっくり閉じた。
革表紙が小さく鳴る。
その音は、扉の閉まる音よりもずっと静かだった。
けれど今の彼女には、そのほうがよほど不気味だった。
公爵家の闇。
そんな言葉は、これまで物語や噂の中でしか聞いたことがなかった。
けれど今、その気配は目の前の紙の束に触れればわかる形で存在している。
イゼルディナは窓の外の雨を見た。
灰色の午後。
濡れた庭。
書庫の灯り。
そして机の上の、封じられていた女たちの名。
胸の中で、また何かが小さく形を変える。
自分の十年の白い結婚が、ただ「愛されなかったから」ではないのかもしれないという予感。
それは救いではない。
むしろ、もっと深く冷たい穴の縁を見つけたような感覚だった。
イゼルディナはその場で、もう一度だけ帳面の上へ指を置く。
「まだ、見るわ」
小さくそう言うと、ベルンフリートは静かに一礼した。
「必要な灯りを増やしましょう」
そうして老執事長は、何も聞かなかった。
聞かないまま、書庫の奥へもう一つ灯りを入れる。
その灯りは、乾いた紙の上に長い影を落とし、封じられた記録の文字だけを、ひどくくっきりと浮かび上がらせた。
偶然にしては出来すぎている。
その違和感は、もう違和感という柔らかな言葉では足りなかった。
この家には、何かがある。
そしてその「何か」は、きっとイゼルディナの十年とも無関係ではない。
雨音の向こうで、屋敷は今日も静かに呼吸していた。
だがその静けさの底にあるものへ、彼女はついに指先を触れてしまったのだと、はっきりわかっていた。
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