病弱な妹に婚約者を譲れと言われ続けたので、私は先に辺境伯に嫁ぎます

なつめ

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第9話 王都を捨てる日



 出立の日の朝、王都はよく晴れていた。

 春の初めらしい、ひどく明るい空だった。空気はまだ冷たく、朝の庭には夜の冷えが薄く残っている。けれど空だけは高く澄み、雲の欠片さえ見当たらない。石造りの屋敷の窓へ、白く硬い光が斜めに差し込み、床へ細長い影を落としていた。

 こんな日に発つのだと、アリアは寝台から身を起こしたときに思った。

 もっと暗い朝でもよかった。雨でも、霧でも、曇天でも。そういう空の方が、王都を捨てる日には似つかわしいような気がしていた。けれど現実は、妙に美しかった。見送る感傷を誘うように、空はどこまでも綺麗で、鳥の声さえ澄んでいた。

 だからこそ余計に、胸の内側との落差がひどかった。

 昨夜のうちに、ほとんどの支度は終わっている。

 ベルナール家との婚約解消は、驚くほど早く整えられた。侯爵家側は表向き「両家の将来を慎重に考えた末」としたが、内実がどちらに傾いていたかなど、アリアにはもう考えるまでもない。父は手際よく必要な書面を整え、母は「余計な噂が立つ前に」と出立の日取りまで前倒しした。辺境伯家からは簡潔で無駄のない返書が届き、正式に受け入れる旨と、迎えの馬車と護衛が王都まで来ることが告げられた。

 そのあまりの速さに、最初の一日は現実感がなかった。

 けれど今日、こうして目を覚ましてみると、すべてがもう後戻りしないところまで来ているのだとわかる。

 王都を出る。

 ヴァレンシュタイン伯爵家の長女として過ごした部屋を離れ、辺境伯家へ向かう。

 それは誰かに追い出された結果であると同時に、自分で選んだ結末でもある。

 アリアはしばらくのあいだ、寝台の上に座ったまま、差し込む朝の光を見ていた。白いレースの天蓋がその光を受けて透け、薄い布地の陰影が頬へ落ちる。幼いころから何度も見た景色だ。熱を出した夜も、茶会の前の朝も、眠れないまま明け方を迎えた日も、この部屋の天蓋と光はいつも変わらなかった。

 それが今日で最後になる。

 そう思っても、涙は出なかった。

 寂しくないわけではない。ここには、嫌な記憶ばかりではないのだ。窓辺で本を読んだ午後も、春の雨音を聞きながら刺繍をした時間も、遠い昔には確かにあった。母がまだ今ほど冷たい目で娘を値踏みしなかったころ、父が領地から戻るたびに小さな土産を二人の娘へ平等に置いてくれたころ、セレフィナがただの幼い妹で、夜になるとアリアの寝台へ潜り込んできたころ。その全部を、この部屋は知っている。

 けれど、それでも涙は出なかった。

 それだけ、もう長く冷やされ続けたのだろうと、アリアは思った。

 扉の外で、控えめな足音が止まる。

「お嬢様」

 ミナの声だった。

「お目覚めでいらっしゃいますか」

「ええ、起きているわ」

 返すと、扉が開く。朝の支度のための湯と衣装を持った侍女たちが入ってくる。ミナはその先頭に立ち、いつも通りの整った顔で一礼したが、その目の奥だけは少し赤かった。

 アリアはそれを見て、胸の内に小さく温かいものが触れるのを感じた。

 この屋敷を出るにあたって、惜しいと感じるものがないわけではない。その大半は、こういう人たちだ。静かに見ていてくれた者たち。味方だと大声で言えなくても、自分がどんな顔をしているかをちゃんとわかってくれていた者たち。

 今日、ミナはアリアに同行する。辺境伯家からもその旨は歓迎すると返書が来ており、父も「長く使っている侍女がいた方が向こうでも都合がいいだろう」と許可した。その言い方は相変わらず実務的だったが、今はそれでよかった。ミナがそばにいてくれることが、アリアにとってどれほど大きいか、家族に説明するつもりはない。

「お湯の温度はいかがでしょう」

「ちょうどいいわ。ありがとう」

 衣擦れの音。湯気に混じる石鹸の清潔な匂い。磨かれた銀のブラシの冷たい光。支度の一つひとつはいつも通りなのに、今日だけはやけに鮮明だった。髪を梳くブラシの歯が頭皮をすべる感覚も、襟元へ触れる指先の温度も、コルセットが背を締める圧も、全部が最後の記憶として残りそうな気がした。

 衣装は旅装だ。

 深い青の厚手のドレスに、灰銀の刺繍を控えめに入れた上着。さらに濃紺の外套を重ね、首元には白い毛皮を巻く。王都の春の朝なら少し重たいくらいだが、北へ向かうならこれでも軽いくらいだろうと父が言った。手袋はしっかりした革で、靴も旅用の丈夫なものが用意されている。華やかな花嫁衣装ではない。辺境へ向かう女の、実用を優先した装いだった。

 鏡の前に立つと、自分でも見慣れない姿に見える。

 いつもの王都の令嬢らしい淡さが少ない。代わりに、色も布地も少しずつ重く、輪郭がはっきりしている。淡い蜂蜜色の髪はきっちり結い上げられ、耳元にだけ小さな真珠が残る。旅装の上からさらに外套を羽織れば、華奢なはずの体つきまで、少しだけ硬く見えた。

「よくお似合いです」

 ミナが言う。

 その声音が少しだけ震えていたので、アリアは鏡越しに彼女を見た。

「泣かないで」

「泣いておりません」

「少しだけ、泣いている顔よ」

 そう言うと、ミナは口元をきゅっと引き結んで、それからほんのわずかに笑った。

「困ります。お嬢様がそうおっしゃると、本当に涙が出てしまいます」

 アリアはその言葉に、少しだけ救われる。

 この朝、屋敷の中でたぶんただ一人、別れそのものを悲しんでくれる人だった。

 支度を終えても、出立までにはまだ少し時間があった。

 アリアは部屋を見回した。荷物はもうほとんどない。必要な衣類、本、最低限の装身具、書類、そして少しの私物。大きな家具も、使い慣れた鏡台も、窓辺の長椅子も、飾り棚の小物も、ここへ置いていく。幼いころに集めた陶器の人形も、母から一度だけ贈られた髪飾りも、ユリウスから受け取って使わなかった小さなリボンも、机の奥へしまったままの手紙も、何も持っていかない。

 持っていかないと決めた時、不思議と迷いは少なかった。

 この部屋のものの多くは、「過去」としてここに置いていくのがちょうどよかった。

 アリアは窓辺へ歩み寄り、最後に窓を開けた。

 朝の空気が流れ込む。少し冷たい。庭では下働きの者たちが水桶を運び、庭師が早咲きの枝を見ている。馬車の準備も、もう始まっているらしい。玄関前の砂利道に、いくつかの轍がうっすらついていた。

 この景色を、何度ここから見ただろう。

 けれど今日見るそれは、まるで別の家の庭みたいに感じられた。懐かしさはある。だが、それ以上に、もう自分の場所ではないという感覚の方が強い。

「お嬢様」

 ミナが静かに告げる。

「旦那様が、そろそろ広間へと」

 時間だ。

 アリアは窓を閉め、部屋を振り返った。そして最後に、何も言わず一礼した。誰に対してというわけでもない。ただ、自分が過ごした場所へ、これで終わるという区切りをつけたかった。

 廊下は、いつもより静かだった。

 使用人たちが気を遣っているのだろう。足音が控えめで、扉の開閉もいつも以上に慎重だ。大きな荷物は先に運び出されているので、アリアとミナは小さな手荷物だけを持って階段を下りる。窓から差す光が手摺に反射し、磨かれた木の手触りが掌へ残る。

 階下へ降りるほど、胸の奥がゆっくりと冷えていくのがわかった。

 ここから先には家族がいる。

 引き留めてもらえるとは、最初から思っていない。けれど、それでも人は最後の最後まで、ほんの少しだけ期待してしまうものなのかもしれない。行くなと言われることではなくても、せめて体を気遣う一言や、無事を願う眼差しや、そういうものがあるのではないかと。

 だが広間に入った瞬間、その期待はひどく綺麗に消えた。

 父は玄関前の広間の中央に立ち、出立の確認を執事へしていた。母はその少し後ろで、外套の襟を整える侍女へ短く指示を飛ばしている。セレフィナも来ていた。薄い灰藤色のドレスに身を包み、体調が万全ではないのか、壁際の椅子に浅く腰かけている。

 三人とも、そこにいた。

 だがそこにあるのは、別れの情ではなく、段取りの空気だった。

 父がアリアを見る。

「時間通りだな」

 第一声がそれだった。

 温かさのない、確認の声。

「はい」

「護衛と迎えの者たちはすでに到着している。途中の宿も向こうで手配済みだ。お前は余計なことを考えず、道中は体を冷やさぬようにしろ」

「承知しました」

 それは命令のやりとりでしかない。娘を送り出す父の言葉ではなかった。

 母が一歩近づいてくる。香油の匂いが微かに漂う。今日もきちんと化粧をし、髪を整えた完璧な伯爵夫人の顔だ。表情も、外から見れば穏やかだろう。けれど目元には疲れではなく、ただ硬い慎重さだけがある。

「向こうは王都とは勝手が違うわ。言葉遣いや所作でこちらの家名に傷がつかないよう、十分気をつけなさい」

 それが母の別れの言葉だった。

 アリアは一瞬だけ、言葉を失った。

 今ここでなお、その話なのかと。体を気遣うより先に、家名。無事を願うより先に、恥をかかせるな。

 けれど驚きはしなかった。むしろ、これで最後の最後まで何も変わらなかったのだと、妙に納得してしまう。

「ええ」

 アリアは静かに答えた。

「承知しております」

 母はそれ以上何も言わない。ただ、アリアの外套の前を一度だけ見て、乱れがないかを確認する。その仕草は幼いころ、娘の襟を整えてくれた手つきに似ている。だが、そこにぬくもりはなかった。衣装の仕上がりを確かめる人の指だった。

 視線をずらすと、セレフィナと目が合った。

 妹の顔は白かった。頬色も薄く、唇もいつもより乾いて見える。目元にはうっすらと影があり、昨夜よく眠れなかったのかもしれない。だがその弱々しさの中にある感情は、アリアにはもう読み違えなかった。

 罪悪感。

 安堵。

 そして、わずかな怯え。

 セレフィナはゆっくり立ち上がると、二歩だけこちらへ来た。歩き方まで慎重で、少しでも風が吹けば折れてしまいそうなふりをしている。昔なら、それだけでアリアの方が歩み寄っていただろう。

「お姉さま」

 呼ばれた声は、かすかに震えていた。

「……お気をつけて」

 それだけ。

 止めない。泣いて縋らない。行かないでとも言わない。

 ただ「お気をつけて」と言う。その顔に、引き留めたい気持ちよりも、「これ以上責めないでほしい」という願いが透けて見えるのを、アリアははっきりと感じた。

 ああ、この子も、私に残ってほしいとは思っていないのだ。

 その事実が胸へ落ちた瞬間、最後の最後に残っていた何かが、音もなく切れた。

「ありがとう、セレフィナ」

 アリアはそう返した。

 声音は自分でも驚くほど穏やかだった。怒っていないわけではない。憎んでいないわけでもない。だがもう、その感情でこの家に留まる理由はない。

 セレフィナは何か言いかけて、結局何も言えずに唇を閉じる。指先がハンカチを強く握りしめていた。そこにあるのは、姉を失う痛みより、自分の世界がどう変わるのかへの不安の方が大きいのだろう。そう見えてしまった。

 広間の扉の向こうで、外の気配が濃くなる。馬の鼻息。護衛の者たちが金具を鳴らす音。冷たい朝の風が、扉の隙間から薄く入り込んでくる。

 執事が静かに告げた。

「ご用意が整いました」

 父が短く頷く。

「では、行け」

 その一言が、最後だった。

 行け。

 引き留める気はない。寂しさも惜しさもない。ただ、決めたことを遂行しろという命令だけ。

 アリアは父の顔を見た。そこには、娘を送り出す父親の痛みはなかった。あるのは、家の駒をひとつ動かす当主の顔だけだ。

 母もセレフィナも、同じだった。

 その瞬間、アリアは完全にわかった。

 もうこの家へ期待するものは何もない。

 哀しみより先に、その事実がひどく静かに腑へ落ちた。

 アリアは一礼した。

「今までお世話になりました」

 それは娘としての挨拶ではなく、ほとんど家人への礼に近い響きだった。父も母も、それを咎めない。セレフィナだけが、少しだけ顔を歪めたが、それでも何も言わなかった。

 ミナが一歩後ろに控え、アリアはそのまま扉へ向かう。

 外気が広間へ流れ込む。春の朝の冷たさが、頬へ触れた。空は高く、よく晴れている。門前には、辺境伯家の紋章を掲げた馬車が停まっていた。深い群青の塗装に、銀で刻まれた狼の意匠。その前後には護衛の騎馬が四騎。王都の侯爵家の馬車とは違う、飾りより実用を優先した重厚さがある。車輪も大きく、窓は小さめで、長い道行きを想定した造りだった。

 迎えの責任者らしい男が一歩進み出て、丁寧に頭を下げる。三十前後だろうか。日焼けした肌に、北の風に晒された人間特有の硬さがある。

「アリア様でいらっしゃいますね。グランフェルド辺境伯家より、お迎えにあがりました。道中は我々が責任をもってお守りいたします」

「お願いいたします」

 そのやりとりの端正さに、アリアは不意に少しだけ息が楽になるのを感じた。

 そこにあるのは家族の情ではない。だが少なくとも、役目に対する明確な誠実さがあった。曖昧な優しさではなく、はっきりした責任の言葉。今のアリアには、その方がよほど信じられる気がした。

 石段を下りる前に、一度だけ振り返る。

 父は広間の中央に立ったまま。母はその斜め後ろ。セレフィナは白い顔で扉の陰に半身を寄せている。誰も前へ出てこない。誰も手を伸ばさない。誰も、「行かないで」とは言わない。

 その光景は、冷たかった。

 けれど、その冷たさは不思議なくらい、アリアの背中を押した。

 もういいのだと。

 この家へ未練を残さなくていいのだと。

 石段を下りる靴音が、朝の静けさの中へ響く。裾の重みが足首に触れる。外套の毛皮が首元をくすぐる。風は冷たいのに、呼吸は深くなった。

 馬車の前で、ミナがそっと囁く。

「お嬢様」

 アリアは小さく頷いた。

「大丈夫よ」

 その言葉は、今度は自分への言い聞かせではなかった。まだ怖さはある。知らない北へ向かう不安も、これから会う辺境伯への緊張もある。けれど少なくとも、後ろへ戻りたいとは思わない。それだけは本当だった。

 馬車へ乗り込むと、内装は想像より簡素だがしっかりしていた。厚手の座席、毛布、道中用の小さな箱、揺れを少しでも吸うための深い造り。窓越しに見えるヴァレンシュタイン伯爵家の玄関は、今まで見慣れたよりも遠く感じる。

 ミナが向かいへ座り、扉が閉まる。

 その瞬間、外の音が少しだけ遠ざかった。

 御者の合図。馬のいななき。車輪が砂利を踏む鈍い音。ゆっくりと馬車が動き出す。

 アリアは窓の外を見た。

 父も母も、最後まで動かなかった。セレフィナは扉の陰で小さく見えるだけだ。誰も手を振らない。誰も別れを惜しまない。その事実が、胸に少しだけ痛みを残す。けれどその痛みは、今さら期待を裏切られた痛みではない。ようやく最終確認が終わったことによる、乾いた痛みだった。

 完全に見切りをつける、というのは、こういうことなのかもしれない。

 激しく憎むことでも、泣いて嘆くことでもない。

 ああ、この人たちはここまでなのだと、静かに受け入れること。

 馬車が門を抜ける。

 王都の通りへ出ると、朝の街はすでに動き始めていた。荷車を引く商人、店を開ける職人、パンを運ぶ少年。石畳は朝の光を受けて白く輝き、昨夜の冷えをまだ少し残している。窓辺の花々、塔の上の旗、遠くで鳴る鐘の音。見慣れた街なのに、今日のアリアにはそのすべてが少しずつ遠ざかっていくものに見えた。

 王都を捨てる。

 そう口にすれば、もっと劇的な痛みがあるのかと思っていた。けれど実際は違う。街が悪いわけではない。石畳も、市場の匂いも、春の空も、美しいままだ。ただ、その中心にいたはずの自分の居場所だけが、もうここにはないのだ。

 馬車は大通りを進み、やがて城壁へ向かう道へ入る。

 通り過ぎる景色の中に、アリアは自分の過去の断片をいくつも見つける。幼い頃に母と買い物へ来た仕立て屋。ユリウスと婚約後に一度だけ立ち寄った書店。セレフィナが体調を崩して外出できず、その代わりに自分が土産を選んだ菓子屋。全部、ちゃんと覚えている。覚えているけれど、それらが自分を引き止めることはなかった。

 なぜなら、その記憶のほとんどに、自分が譲る側でいた影が薄く重なっているからだ。

 ここで笑った。ここで我慢した。ここで妹の分まで選んだ。ここで婚約者の顔色を見た。そういう積み重ねが、街のあちこちに薄く染みついている。

 だから、ただ美しいだけの王都を愛しきれなかったのかもしれない。

 城門が見えてくる。

 厚い石の門。朝日に白く照らされた城壁。見張りの兵たちの槍先が光を返す。門をくぐれば、王都は背後になる。

 アリアはその直前で、もう一度だけ振り返った。

 馬車の小窓から見える王都の空は、どこまでも高く晴れている。塔の先端も、白い建物も、薄い春霞の中で輝いて見えた。美しい街だった。本当に、美しかった。

 けれど、その美しさの中に、自分を留めるものはなかった。

 馬車が城門をくぐる。

 石畳の響きがわずかに変わり、車輪の音が低くなる。門の影を抜けた瞬間、外の光がさらに強く差し込んだ。王都の外の道はまだ冷たく、遠くの地平は白くかすんでいる。北へ続く道は、まっすぐで、どこまでも知らない方角へ伸びていた。

 アリアはようやく、膝の上に置いた手から力を抜いた。

 知らない土地へ向かう不安はある。辺境伯がどんな人かも、どんな家かもわからない。北の寒さも、暮らしも、想像するしかない。楽な道ではないだろう。けれど少なくとも、誰かの涙に押されて自分を削る道ではない。

 それだけで十分だった。

 ミナが向かいでそっと尋ねる。

「お嬢様、お加減はいかがですか」

 アリアは少しだけ考えてから答えた。

「……思ったより、すっきりしているわ」

 それは強がりではなかった。

 もちろん痛みはある。胸の奥に薄い傷のようなものが残っている。けれどその上を覆っていた曖昧さが消えた今、呼吸はむしろしやすい。自分が何を捨て、何を選んだのかが、はっきりしたからだ。

 王都はもう、遠ざかり始めている。

 窓の外を流れていく景色は次第にひらけ、畑と林と、まだ冷たい川筋が見えてくる。春へ向かう大地は色が浅く、ところどころに冬の名残を残している。それでも光は前から差し、道は確かに北へ続いていた。

 アリアはその光の中で、胸の内へ静かに言い聞かせる。

 もう戻らない。

 そう決めたのだと。

 もう、あの家へ期待しない。

 あの王都へ、自分の幸福を探さない。

 見送る家族の顔に温かさはなかった。そのことが、最後に必要な確認になった。だからこそ、アリアはようやく完全に見切りをつけることができたのだ。

 馬車は北へ向かう。

 知らない空気へ。知らない人のもとへ。知らない未来へ。

 怖さと同じだけ、静かな自由がそこにあった。


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