兄の代わりに嫁いだら、結婚相手ではなく兄の婚約者だった公爵閣下に執着されました

なつめ

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**第9話 兄からの贈り物**


 婚礼の翌日から、館の中へ届く荷は少しずつ増えた。

 近隣の貴族からの祝いの品、領内の有力者たちからの花、婚礼へ参列できなかった家からの書状。どれもきちんとした包みに収められ、宛名も形式も整っている。贈り物というより、家同士の礼の往復に近いそれらは、いかにもシュヴァルツローズ侯爵家らしく、ひどく静かに届いて、ひどく静かに片づけられていった。

 婚礼が終わったのだと実感するのは、そういう時だった。

 祝福そのものより、祝福の形式だけが日常の中へ折りたたまれていく。その折りたたまれた白い紙片のようなものが、館のあちこちへ増えていく。

 ユリウスは午前の遅い時間、南棟の小さな居間で、その祝いの品の一部を確認していた。とはいっても、自ら進んで見たいと思ったわけではない。執事長ヴァレルが、一応目を通しておくべきだと、きわめて礼儀正しく勧めたのだ。花婿として受け取るもの、侯爵家へ贈られたもの、両家連名で扱うもの。その区別だけでも把握しておいたほうがいい、と。

 たしかにその通りだった。

 たしかにその通りであることが、少しだけうんざりする。

 居間の窓の外では、昨夜の雪がまだ細く枝へ残っていた。陽は出ているが弱く、白さに青い影が混じっている。暖炉には火が入っているものの、室内の空気にはまだ冬の乾いた冷たさが薄くあった。磨かれた卓の上には、すでにいくつかの箱や書状が並べられている。濃紺の天鵞絨を張った細長い箱、白木の平たい箱、封蝋の色も家ごとに違う。

 それらの横に、セヴランもいた。

 もはや驚くべきことではないはずなのに、ユリウスは彼が当然のように窓辺の椅子へ腰を下ろしているのを見るたび、胸の奥にわずかな苛立ちと、もっと小さな安堵が同時に走るのを感じた。気づかないふりをしようとしても、もうその二つは切り離せないところまで混ざり始めている。

 監視されているみたいで不快だ。

 なのに、見つけてもらえると、少しだけ呼吸がしやすい。

 そんな自分を認めるたび、自己嫌悪が喉の奥に薄く苦く残る。

「これは北領の伯爵家から」

 ヴァレルが箱をひとつ開き、内容を簡潔に説明する。銀の燭台一対。実用的で、重厚で、やはりこの館に似合う品だった。

「こちらは南方からの織物です。季節外れではありますが、格式に配慮した贈り物かと」

 柔らかな布がひろげられる。指先で触れれば、たしかに上等だとすぐわかる。けれど、見れば見るほど、どれも自分自身のためというよりは、婚礼という出来事へ向けて差し出された記号のように思えた。誰が贈ったか、どれほどの格か、どう返礼するか。そればかりが先に立つ。

「お疲れなら、後日に回してもよろしいのですよ」

 ヴァレルが言う。相変わらず抑制された声だ。

「いえ」

 ユリウスは首を振った。

「ここまで見たなら、最後まで」

「かしこまりました」

 ヴァレルは一礼し、次の包みへ手をかけた。細長い灰白色の箱。封蝋は深い赤で、押された紋章を見た瞬間、ユリウスの指先がぴくりと動く。

 フェインベル家の紋章だった。

 箱の向きが変わり、宛名が見える。

 **ユリウス・シュヴァルツローズ様へ**

 見慣れた筆跡。

 兄だ。

 そうわかった瞬間、喉の奥が静かに狭くなる。父の文字よりも崩れていて、母の文字よりも感情がない。なのに妙に整っていて、見るたびに兄の顔が浮かぶ筆跡だった。

「フェインベル伯爵家より、婚礼祝いとして届いたものです」

 ヴァレルは事務的に告げる。

「お開けいたしますか」

 断る理由はない。ないのに、ユリウスは返事が少し遅れた。

「……お願いします」

 封蝋が割られる。ぱきり、と乾いた小さな音がした。

 その音だけで、昔、兄が封蝋を自分で割るのが面倒だといって、いつもユリウスへ書状を開けさせていたことを思い出す。些細なことだ。だが、そういう些細なことばかりが、兄との記憶には妙に多い。

 箱の蓋が持ち上げられた。

 内側には深い青の布が張られ、その中央に、銀の襟留めがひとつ置かれていた。

 息が、止まる。

 淡い青灰の石が、銀の枠へはめ込まれている。月長石にも似た、曇った空の色の石だ。その周囲を、霜を宿した蔓のような細い銀細工が取り巻いている。派手ではない。けれど、近くで見れば目を奪われる繊細さがある。冷たい光を含んだ、小さな冬の欠片みたいな襟留め。

 ユリウスはそれを知っていた。

 知っているどころではない。忘れたことがない。

 胸の中で、何かが静かに軋んだ。

「……ああ」

 自分でも意味のない声が漏れたとわかった。ヴァレルが顔を上げる。エーベルも。窓辺にいたセヴランの視線が、明らかにこちらへ寄ったのがわかった。

「お心当たりが?」

 ヴァレルが慎重に問う。

 心当たりなんて、ありすぎるほどあった。

 十五の冬、王都で初めて本格的な夜会へ出る前のことだ。母が仕立てさせた新しい礼服に合わせる装飾具を選ぶため、細工師がいくつかの品を屋敷へ持ち込んだ。兄には深い色の石を使った目を引くものが似合うと皆が言い、自分にはそれより控えめなものがいいだろうと、いくつかの小さな箱が並べられた。その中に、この襟留めがあった。

 青灰の石と銀細工。雪の朝みたいな静かな色。

 ユリウスは一目見て、それが好きだと思った。自分の瞳の色にも少し似ている気がしたし、控えめなのに冷たすぎず、兄の横へ立つ時にも悪目立ちしないと思った。だから珍しく、自分から「これがいい」と言ったのだ。

 するとオルリックが笑って、その襟留めをつまみ上げた。

『へえ。お前、こういうのが好きなんだ』

 あの時の兄の声まで、耳の裏へよみがえる。

 暖炉の前、午後の光、細工師のぎこちない笑顔、母の何でもない顔。兄はその場で襟留めを自分の胸元へ軽く当て、鏡へ向かって首を傾けた。それから、いかにも気まぐれに言ったのだ。

『でもこれ、私のほうが似合うんじゃない?』

 母は一瞬だけユリウスを見て、それから兄のほうを見て、柔らかく笑った。

『そうねえ。オルリックの髪色にも映えるわ』

 それで終わりだった。

 ユリウスの「これがいい」は、その一言でなかったことにされた。兄は悪びれずにそれを取って、自分の礼服に合わせた。ユリウスには別の、もっと無難で目立たない銀具が渡された。似合わなくはなかった。だが欲しかったものではないと、指先がずっと覚えていた。

 たかが襟留めひとつ。

 たかが、そんなものだ。

 なのに、その「たかが」でさえ、兄は当然のように先に取った。そして周囲も、それを当然のように許した。

 箱の中の銀具は、今もほとんど傷なく美しかった。兄が大切に使っていたのか、使わぬまましまっていたのか、そこまではわからない。わからないのに、その綺麗さがかえって胸をざらつかせた。

「……綺麗なものですね」

 ユリウスはどうにかそう言った。声は驚くほど平らで、自分でも少し怖かった。

 ヴァレルがうなずく。

「ええ。上等な細工です」

「兄からの?」

 セヴランが、窓辺の椅子に座ったまま問うた。

 その声音は低く静かで、しかし明らかに先ほどまでよりもこちらへ寄っている。

「……はい」

 ユリウスは箱から視線を外さずに答える。

「婚礼祝い、なのでしょう」

 兄が、今さら善人ぶるような贈り物を寄越す。そのこと自体がひどく兄らしくて、笑いたいような、吐き気がするような、奇妙な気分だった。

 ヴァレルが箱の底へ目をやり、小さなカードを見つけた。

「短い書き添えがございます」

 やめてほしい、と一瞬だけ思った。だが、止めるには遅い。ヴァレルはカードを取り上げ、内容を確かめる。無表情な執事長の目がほんの僅かに止まったあと、彼はそれをユリウスへ差し出した。

「お読みになりますか」

 受け取る指が冷える。

 白い厚紙の上に、兄の文字があった。

 **祝婚。以前からお前に似合うと思っていた。**

 たったそれだけ。

 なのに、その短さの中にあるものが、あまりにも鮮明だった。

 以前から、お前に似合うと思っていた。

 それなら、どうしてあの時取ったのだろう。

 どうして、母の前で、細工師の前で、自分が欲しいと口にしたものを、そのまま自分の胸へ当てて笑えたのだろう。

 ユリウスはカードを持つ手に少しだけ力を入れた。厚紙の角が手袋越しの指先へ食い込む。呼吸がうまくできないほどではない。だが、胸の真ん中へ薄い刃をそっと差し込まれたみたいに痛む。

 今さらだ。

 今さら、善人みたいな顔で返されても遅い。

 兄は昔からこういうことをする。欲しいとわかったものを取る。取ったあとで、それを与える側の顔をして戻す。しかも、戻す時には、あたかも最初からお前のために考えていたみたいな言い方をする。そのやり方で、どちらが与える側で、どちらが受け取る側かをずっと決めてきた。

 ユリウスは平気なふりをした。

「……素敵ですね」

 口に出たのはそんな無難な言葉だった。

「兄らしい贈り物です」

 兄らしい。その一言の中へどれだけのものを押し込めたのか、自分でもよくわからなかった。だがヴァレルは礼儀正しく「そのようでございますか」とだけ答え、深くは踏み込まない。エーベルは無言だった。沈黙のほうが、よほど気遣いに見える。

「どこへお納めいたしましょう」

 ヴァレルが問う。

 本来なら、自分で決めるべきなのだろう。花婿宛に届いた祝いの品なのだから。けれどユリウスはすぐに答えられなかった。飾る、と言えば、これから何度も目に入る。しまう、と言えば、あまりにも感情的に見えそうだ。どちらも嫌だった。

「……とりあえず、こちらへ」

 そう言いかけたところで、セヴランが初めて立ち上がった。

 椅子の脚が絨毯の上で小さく擦れる音がしただけなのに、室内の空気が少し変わる。彼はゆっくり卓へ近づき、箱の中を覗き込んだ。銀の襟留めと、ユリウスの手の中のカード。その両方を、静かな目で確かめている。

「見せていただいても」

 問いの形をしているが、ほとんど確認に近い声音だった。

 ユリウスは一瞬ためらった。だが断れば余計に何かを認める気がして、結局カードを差し出す。セヴランはそれを受け取り、数秒だけ目を落とした。

 その横顔には感情がほとんどない。けれど、ユリウスは知っている。この人は何も感じていない時ほど静かな顔をするのではない。むしろ、何かを確かめている時ほど、こういう顔になる。

「以前から、お前に似合うと思っていた」

 セヴランがごく低く、その一文をなぞるように読む。

 ユリウスは笑おうとした。笑えなかった。

「ええ」

 代わりにそう言う。

「兄は、たぶん本気でそう思っているんでしょう」

「たぶん?」

「思っていなければ、こういう書き方はしません」

 セヴランが顔を上げる。琥珀色の瞳が静かにこちらを見る。その視線の中で、ユリウスは自分の唇の端が、少しだけ不自然に上がっているのを感じた。平気なふりをする時の笑い方だ。兄の前でも、母の前でも、昔からよく使ってきた顔。

「昔」

 ユリウスは自分でも止められないまま、口を開いていた。

「これ、欲しかったんです」

 ヴァレルがごくわずかに目を伏せる。エーベルの肩も、ほんの僅かに強張る。

 だがユリウスはもう止まれなかった。セヴランの前でだけ、どうしてこんなふうに少しずつ感情が漏れるのか、自分でもわからない。

「十五の時の夜会で。兄上と一緒に飾りを選んでいて、私はこれがいいって、珍しく自分で言ったんです」

 喉の奥が乾く。けれど声は出た。

「そしたら兄上が、自分のほうが似合うって取ってしまった」

 あの時の暖炉の火の色まで思い出せる。兄の笑い方も。母の視線も。あまりにも些細で、あまりにも忘れられない。

「母も、兄上のほうが映えると言って」

 そこで言葉が一度途切れる。ユリウスは箱の中の銀具を見た。綺麗だ。昔と同じくらい綺麗で、だから余計に腹が立つ。

「それで私は別のものをつけました。べつに大したことじゃないんです。そういうことは、昔からよくあったので」

 言いながら、胸の奥で何かがゆっくり熱を帯びる。怒りなのか、恥ずかしさなのか、区別がつかない。

「でも」

 言葉が勝手に続く。

「今になって、これを『以前からお前に似合うと思っていた』って寄越されると、さすがに少し……」

 少し、の先が出てこなかった。

 可笑しい。腹が立つ。惨めだ。全部本当だ。けれど、どれかひとつに決めてしまうと、それ以外を置き去りにしてしまう気がした。

 セヴランはまだカードを持ったまま、黙っていた。

 その沈黙が、追及ではなく待つためのものだとわかってしまうから、ユリウスはさらに少しだけ言ってしまう。

「兄上って、こういうのがうまいんです」

 小さく笑う。ひどく乾いた笑いだった。

「欲しがったものをくれるのが。自分が一度取って、いらなくなった時だけ」

 ヴァレルがほんのわずかに顔を上げた。エーベルは唇を引き結んでいる。

 その瞬間、セヴランの目の色が変わったように見えた。

 怒りではない。露骨な憐れみでもない。ただ、何かの輪郭が彼の中ではっきりした、というような静かな変化だ。兄と弟の関係を、彼は今この瞬間に、自分が想像していた以上に歪んだものとして受け取ったのだと、言葉がなくてもわかった。

「……それで」

 ユリウスは視線を逸らし、唇だけで笑った。

「今さら善人みたいなことを書いてよこすんです。兄らしいでしょう」

 平気なふりをしているつもりだった。軽く流すつもりだった。けれど最後の一言は、思ったよりもずっと薄く掠れていた。

 セヴランの前でだけ、感情が少しだけ零れる。

 それが嫌なのに、もう止め方がわからない。

「似合うと思うなら、最初からそうしておけばよかったのに」

 ぽつりと呟いたその言葉は、自分でも驚くほど子どもっぽかった。

 室内がしんと静まる。

 暖炉の火がぱち、と小さく爆ぜた。

 ユリウスはしまったと思った。そこまで言うつもりはなかった。兄へのみっともない未練や悔しさを、こんなふうに露わにしたかったわけではない。

「失礼しました」

 取り繕うようにそう言い、ユリウスは姿勢を正した。

「忘れてください。少し、疲れているだけです」

 だがセヴランは忘れろとも、気にするなとも言わなかった。

 ただ、手にしていたカードを静かに卓の上へ戻し、箱の中の襟留めをもう一度見た。その視線には、もはやただの装飾品を見る冷静さはなかった。兄が弟から奪い、今さら「お前に似合う」と返してきた品。その行為そのものを見ている目だった。

「ヴァレル」

 セヴランが低く呼ぶ。

 執事長が一歩前へ出る。

「はい」

「それを下げてください」

 あまりに静かな声音だったので、ユリウスは一瞬意味がわからなかった。だが次の言葉で、胸の奥が小さく跳ねる。

「今後、ユリウス様の目に入る場所へ置かなくていい」

 ヴァレルがわずかに目を見開く。エーベルも息を飲んだ気配がした。

「しかし、花婿様宛の婚礼祝いでございます」

 ヴァレルが慎重に言う。

「承知しています」

 セヴランは視線を箱から外さないまま答える。

「それでも下げてください」

 その言い方は、命令というより決定に近かった。しかも、どういう理屈でそこまで言えるのかは説明しない。ただそうするのが当然だという声だ。

「閣下」

 ユリウスは思わず名を呼んだ。

「そこまでしていただかなくても」

「そこまで?」

 セヴランがようやくこちらを見る。

「これは、そういう品でしょう」

 その一言で、ユリウスは言葉を失った。

 そういう品。

 つまり、ただの祝いの品ではない。兄弟の関係そのものを箱へ詰め、綺麗な顔をして差し出してきた品だ。兄が取って、返して、なお与える側のつもりでいる、その歪みを象った贈り物。

 わかってしまうと、もう「綺麗だから飾っておけばいい」とは言えなかった。

 ヴァレルは一瞬だけユリウスを見た。確認するような、伺うような視線だった。だがユリウスはうまく頷けない。拒むことも、受け入れることもできずにいる。

 その短い沈黙を、セヴランは待たなかった。

「下げて」

 先ほどよりさらに低く、静かな声。

 ヴァレルは深く一礼し、箱へ蓋をした。深い青の布ごと、銀の襟留めが見えなくなる。ぱたりと閉じたその音が、ひどく小さいのに、ユリウスの胸には思ったより重く響いた。

 ヴァレルが箱を抱えて退出し、エーベルも指示を受けてあとを追う。扉が閉まると、部屋にはまたユリウスとセヴランだけが残った。

 だが今、ユリウスには何も言えなかった。

 助かったのか、情けないのか、腹が立つのか、感謝しているのか、そのどれもが一度に胸の中へ流れ込んできて、言葉の形を結ばない。

 箱が見えなくなった卓の上へ、夕方の薄い光だけが残っていた。そこにもう、兄の字も銀の襟留めもない。

 ないのに、胸の奥に残るざらつきだけは消えなかった。


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