離縁した元夫が毎日のように押しかけてきますが、もう私は辺境伯家の妻です

なつめ

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第25話 静かな婚礼と、温かい食卓


 婚礼の日の朝、ノルヴァイルには淡い光が差していた。

 冬はまだ終わっていない。

 屋根の端には細い氷柱が残り、中庭の石畳の隅には雪が白く固まっている。針葉樹の枝も、まだ深い緑の上に薄い白をまとっていた。けれど、その朝の空には、ほんの少しだけ春の気配があった。

 雲の切れ間から落ちる光が、昨日より柔らかい。

 空の灰色が、わずかに青みを帯びている。

 雪の匂いの奥に、凍った土が目を覚ます前の、湿った静けさがあった。

 イリディアは、南向きの書斎の窓辺に立っていた。

 この部屋で朝を迎えるのは、もう何度目だろう。

 最初にここへ案内された時、彼女はこの部屋をどう使えばいいのか分からなかった。ただ自分のために用意された机、膝掛け、薬草茶、南向きの窓。それらすべてが、受け取り方の分からない贈り物のようで、胸の奥が落ち着かなかった。

 今は少し違う。

 机の上には、開いた帳面がある。

 右手側には、温かい白湯。

 窓辺には、領民たちが昨日届けてくれた花がいくつか置かれていた。

 花、と呼ぶには控えめなものばかりだった。王都の温室で育てられた大輪の薔薇や、香りの強い白百合ではない。雪の下でも葉を残す小さな青い花。乾かした赤い実。針葉樹の枝。淡い銀色の葉。早咲きの薄紫の花が数本。

 どれも、ノルヴァイルの人々が持ち寄ってくれたものだった。

 昨日の夕方から、屋敷には次々と小さな包みが届いた。

 「豪華なものではありませんが」と言いながら、薬草を持ってくる老婦人。

 「これ、まだ枯れてないから」と言って、手袋を繕ったニカが抱えてきた小さな青い花。

 「母さんが、奥様の髪に合うって」と顔を赤くしながら、ヤンが差し出した赤い実の枝。

 手袋屋の女性は、淡い灰色の毛糸で編んだ小さな手首飾りを持ってきた。

 干し林檎の老女は、祝いの食卓にと蜂蜜漬けの林檎を届けた。

 誰も、王都のような眩しい贈り物は持ってこなかった。

 けれど、どれも手の温度が残っているものだった。

 イリディアは、その花々を見て胸の奥を押さえた。

 婚礼。

 今日、彼女はセヴラードの妻になる。

 妻。

 その言葉は、まだ完全に平気ではない。

 昨夜も、イリディアは眠る前に少しだけ胸が苦しくなった。手元に置いた書斎の鍵と、ノルヴァイル家の鍵束を見つめながら、何度も自分に言い聞かせた。

 これは鎖ではない。

 これは扉を開ける鍵。

 彼のものになるためではない。

 ここを、自分の家にするための婚礼。

 それでも、体はすぐには過去を忘れない。

 婚礼という言葉を聞くと、最初の結婚式を思い出す。

 王都の大聖堂。

 豪奢な白いドレス。

 重たいヴェール。

 香油と花と人々の視線。

 父の満足げな顔。

 母の涙。

 リゼリットの白いリボン。

 ダリオンの横顔。

 あの日、イリディアはたしかに祝福された。

 けれど、それはイリディア自身への祝福だっただろうか。

 メルシュタイン家の長女が、レーヴェニア侯爵家へ嫁ぐ。

 家同士のつながり。

 体裁。

 地位。

 誰もが美しいと言った。

 誰もが幸せになると言った。

 その日、食卓には豪華な料理が並んだ。銀の皿、透き通ったスープ、香草で飾られた魚、宝石のような菓子、葡萄酒、果物。けれどイリディアは、何を食べたかほとんど覚えていない。

 覚えているのは、締めつけるコルセットの苦しさと、白い手袋の内側で冷えていた指先と、リゼリットが少し具合を悪くして、母が何度もイリディアの耳元で「少し様子を見てあげて」と囁いたこと。

 婚礼の日でさえ、イリディアは姉だった。

 妻になる前から、すでに誰かの世話をする人間だった。

 今日も婚礼の日だ。

 けれど、この書斎の窓辺に立つイリディアの胸には、あの日とは違う静けさがあった。

 怖い。

 でも、あの時のように息が詰まるだけではない。

 扉が叩かれた。

 軽く、柔らかい音。

「イリディア様、よろしいでしょうか」

 ミラだった。

「どうぞ」

 扉が開く。

 ミラは、両腕に布を抱えていた。

 淡い青。

 最初にその色が目に入った瞬間、イリディアは息を止めた。

 雪の白ではない。

 王都の花嫁衣装の白でもない。

 薄く凍った湖の下に春の空が映ったような青。朝の光の中で見ると、銀色にも見え、角度を変えるとほんの少しだけ緑を含む。北の春が、まだ遠い雪の下からそっと指を伸ばしているような色だった。

 婚礼衣装だった。

 豪奢ではない。

 けれど、丁寧に仕立てられていた。

 生地は厚すぎず、薄すぎない。寒さを防ぐために内側へ柔らかな裏地がつけられている。袖は長く、手首を冷やさない形。襟元は高すぎず、苦しくない。胸元には細かな刺繍がある。銀糸で、針葉樹の枝と小さな花が縫われていた。

 スカートの広がりも控えめだった。

 王都の婚礼衣装のように、動けないほど膨らませるものではない。歩ける。息ができる。座って食事ができる。そういう形だった。

 ミラの目は、すでに潤んでいた。

「オルガ様と、リーヴァさんと、ネリーさんが最後まで調整してくださいました。ベッタ様は、締めつける部分があったら婚礼前にほどくとおっしゃっていました」

 イリディアは思わず小さく笑った。

「ベッタさんらしいわ」

「はい。『婚礼衣装で食べられないなんて本末転倒です』と」

「それも、ベッタさんらしい」

 笑いながら、イリディアの目にも少しだけ涙が浮かんだ。

 食べられる婚礼衣装。

 それは、王都では考えられない言葉だった。

 美しくあることより、呼吸できること。

 見栄えより、食卓で温かいものを食べられること。

 ここでは、それが大事にされている。

 ミラは衣装をそっと寝台の上へ広げた。

「白ではないのですね」

 イリディアが呟くと、ミラは静かに頷いた。

「セヴラード様が、白でなくてよいと」

「セヴラード様が?」

「はい。オルガ様が婚礼衣装の色について確認された際に、『白でなくていい。イリディアが息をしやすい色にしろ』と」

 イリディアは言葉を失った。

 白。

 最初の婚礼の白。

 リゼリットの白いリボン。

 清らかさ、従順さ、守られる妹の印。

 それらの色を、セヴラードは避けてくれた。

 イリディアが言わなくても。

 白が嫌だと、はっきり告げたことはない。けれど白いリボンを燃やした日、彼はそこにいた。詳しくは聞かなかったが、何かを察してくれたのだろう。

 息をしやすい色。

 それが、この淡い青だった。

「北の春の色です」

 ミラは言った。

「オルガ様がそうおっしゃっていました。雪解け前の空の色だと」

 イリディアは指先で布に触れた。

 柔らかい。

 冷たくない。

 ずっと触れていたくなるような手触りだった。

「これを着るのですね」

「はい」

「私が」

「はい。イリディア様が」

 その言葉に、胸の奥がまた震えた。

 侯爵夫人になるためではない。

 家のためでもない。

 誰かに見せるためだけでもない。

 イリディアとして、セヴラードの隣に立つための衣装。

 ミラは静かに言った。

「お支度を、始めてもよろしいですか」

 イリディアは深く息を吸った。

 怖さはある。

 でも、逃げたくない。

「お願いします」

 支度は、静かに進んだ。

 王都の婚礼の時のように、何人もの侍女が一斉に動き、髪、肌、爪、装飾、香りを次々に整えるような騒がしさはなかった。

 部屋にいるのはミラ、オルガ、ネリーだけ。

 リーヴァは隣室で衣装の皺を最後に確認し、ベッタは時々扉の外から「締めつけてませんか」と声をかけてきた。

 髪は大きく結い上げないことになった。

 ミラはイリディアの髪を丁寧に梳き、後ろで柔らかくまとめた。そこへ、ニカが持ってきた小さな青い花と、赤い実をほんの少しだけ挿す。白いリボンは使わない。代わりに、手袋屋の女性が編んだ淡い灰色の細い紐で髪を留めた。

 鏡の中の自分を見て、イリディアは少し戸惑った。

 最初の婚礼の日の自分とは、まるで違う。

 あの日の自分は、白い花嫁衣装の中に閉じ込められた人形のようだった。美しいと言われた。完璧だと言われた。けれど、鏡の中の自分の目が何を感じていたか、覚えていない。

 今、鏡の中にいる女は、少し痩せている。

 頬もまだ完全には戻っていない。

 目元には、泣いた翌日のわずかな赤みがある。

 けれど、目は死んでいなかった。

 怖がっている。

 緊張している。

 それでも、どこかに細い光がある。

 イリディアは鏡の中の自分を見つめた。

「白くない花嫁も、よいものですね」

 ネリーが小さく言った。

 言ってから、失礼だったかと慌てて口を押さえる。

 イリディアは、ゆっくり微笑んだ。

「ええ。私も、そう思うわ」

 ネリーの目がぱっと潤んだ。

 オルガは静かに頷いた。

「よくお似合いです、イリディア様」

「ありがとうございます」

「今日も、息はできますか」

 その問いに、イリディアは一度胸元へ手を当てた。

 ドレスは締めつけない。

 心も、完全に楽ではないけれど、息が止まるほどではない。

「できます」

 答えた。

「少し震えます。でも、息はできます」

 オルガは深く頭を下げた。

「それなら、よろしいかと」

 婚礼は、屋敷の小さな礼拝堂で行われた。

 大聖堂ではない。

 金の祭壇も、巨大な硝子窓もない。

 石造りの小さな空間に、木の長椅子が数列。奥には古い祭壇があり、その上に北の守護聖人を象った小さな像が置かれている。壁には針葉樹の枝と、領民たちが持ち寄った花が飾られていた。

 青い花。赤い実。薄紫の花。銀色の葉。乾かした小さな白い花もあったが、それはリボンのような白ではなく、雪の下で耐えて咲く素朴な白だった。

 花の香りは強くない。

 代わりに、薪の匂いと石の匂い、少しだけ蜜蝋の香りがした。

 参列者は多くない。

 屋敷の使用人たち。領地の代表者が数人。医師。近くの村の老婦人。手袋屋の女性。ニカとヤンを含む子どもたちが数人。ハルトヴィンとオルガは前の方に立ち、ミラはイリディアのすぐ近くにいた。

 ベッタは礼拝堂へ入る前に、イリディアへ小声で言った。

「終わったらすぐ温かいものです。空腹で誓いを立てると、膝にきます」

 イリディアは緊張でこわばっていたのに、その言葉で少し笑ってしまった。

「婚礼の作法ですか」

「当然です」

 その小さな笑いで、足の震えが少し和らいだ。

 礼拝堂の扉が開く。

 イリディアは一歩を踏み出した。

 王都の婚礼では、長い通路を歩いた。多くの人々の視線を受け、父に手を引かれ、重いヴェールの下で息を細くしていた。

 今日は違う。

 父はいない。

 実家の者はいない。

 彼女はミラに手を添えられて歩いた。

 途中で、ニカが小さく手を振りそうになり、ヤンに止められていた。ベッタが泣きそうな顔をしている。ネリーはもう泣いている。リーヴァは腕を組んで頷いている。ハルトヴィンは厳格な顔だが、目元が柔らかい。オルガはまっすぐ立ち、口元だけをほんの少し緩めていた。

 そして、祭壇の前にセヴラードがいた。

 黒に近い青灰色の礼服。

 飾りは少ない。

 けれど、今日の彼はいつもより少しだけ正式な姿だった。襟元にはノルヴァイル家の紋章が入った小さな留め具。腰には剣ではなく、鍵束を象った銀の飾りがついている。

 彼はイリディアを見た。

 その青灰色の瞳が、ほんのわずかに揺れた。

 イリディアは気づいた。

 彼も緊張している。

 そのことが、なぜか安心になった。

 セヴラードは大きな言葉で褒めたりしない。

 美しい、と言うような王都式の賛辞も口にしない。

 ただ、イリディアが近づくと、低く言った。

「寒くないか」

 婚礼の日の最初の言葉がそれだった。

 イリディアは、泣きそうになりながら笑った。

「寒くありません」

「息は」

「できます」

「そうか」

 その短いやり取りを聞いていた司祭が、少しだけ微笑んだ。

 ノルヴァイルの老司祭だった。背は曲がり、声も穏やかだが、目は澄んでいる。彼は二人を見て、ゆっくり頷いた。

「では、始めましょう」

 婚礼の誓いは、静かだった。

 王都のように長い祝辞はなかった。家門の歴史を長々と読み上げることも、招待客の前で大きく宣言することもない。

 老司祭は、北の婚礼の古い言葉を唱えた。

 冬を越す家。
 火を絶やさぬ手。
 同じ食卓。
 閉ざすためではなく、開くための鍵。
 互いの名を、役目の前に忘れないこと。

 その言葉を聞いて、イリディアは胸の奥が震えた。

 互いの名を、役目の前に忘れない。

 名前。

 イリディア。

 妻になる前に、彼女はイリディアだ。

 セヴラードが差し出したのは、指輪ではなかった。

 ノルヴァイルの婚礼には、指輪を交わす家もあるという。だがセヴラードは鍵を選んだ。

 あの鍵束から、婚礼用に小さな鍵が二つ用意されていた。

 一つはノルヴァイル家の鍵を象ったもの。

 もう一つは、イリディアの書斎の鍵と同じ形をした小さな銀の鍵。

 実際の鍵ではない。

 身につけられるよう、小さな飾りにしたものだった。

 セヴラードはそれをイリディアの手に置いた。

「この家を、お前の家に」

 低く言った。

 司祭に促されたわけではない。

 彼自身の言葉だった。

 イリディアは、その小さな銀の鍵を握った。

 手が震える。

 けれど、逃げたい震えではなかった。

 彼女も、セヴラードへ同じ形の鍵飾りを渡した。

 それは、オルガとハルトヴィンが用意してくれたものだった。淡い青の布に包まれていた銀の鍵。イリディアの手からセヴラードの手へ渡る。

 何と言えばいいのか、昨夜からずっと考えていた。

 美しい誓いの言葉は浮かばなかった。

 だから、イリディアは自分の言葉で言った。

「私は、私の名前を持ったまま、あなたの隣に立ちたいです」

 声は震えた。

 けれど、礼拝堂に届いた。

「この家を、私の帰る場所にしたいです」

 セヴラードの目が、少しだけ揺れた。

「ああ」

 彼は短く答えた。

 それだけなのに、イリディアには十分だった。

 老司祭は穏やかに微笑み、二人の手を見た。

「では、ここに婚姻は結ばれました。冬の火が、この家を守りますように。互いの名が、役目に埋もれませんように」

 礼拝堂の中が、静かな拍手に包まれた。

 大きな歓声ではない。

 けれど、温かかった。

 ミラは泣いていた。

 ネリーも泣いていた。

 ベッタは涙を拭くふりをせず、堂々と泣いていた。

 オルガはまっすぐ立ったまま、目元だけを濡らしていた。

 ハルトヴィンは厳格な顔を保っていたが、鼻を一度だけすすったので、リーヴァに見られて咳払いをしていた。

 ニカは我慢できず、小さく「おめでとう!」と言った。

 ヤンが慌てて止めようとしたが、老司祭が笑ったので、そのまま広がった。

「おめでとうございます!」

「おめでとう、イリディア様!」

「セヴラード様、おめでとう!」

 王都の整った祝福とは違う。

 言葉も順番もばらばら。

 けれど、胸に直接届いた。

 イリディアは涙で視界を滲ませながら、一人一人へ小さく頭を下げた。

 セヴラードが横で低く言う。

「無理に全部返さなくていい」

「返したいのです」

「なら、少しずつ」

「はい」

 そのやり取りもまた、二人らしかった。

 婚礼の後、食堂には温かい料理が並んだ。

 王都の披露宴とはまったく違う。

 金の皿も、氷細工も、何段にも重ねた菓子もない。だが、長卓には湯気の立つ料理がたくさん置かれていた。

 大鍋で煮込まれた南瓜のスープ。蜂蜜がほんの少し入っていて、甘く、温かい。

 柔らかく焼かれた白身魚。

 香草を控えめにした鶏肉の煮込み。

 黒パンと、柔らかい小麦パン。

 根菜の蒸し焼き。

 干し林檎の蜂蜜漬け。

 小さな焼き菓子。

 そして、イリディアのために、量を調整できるよう小皿がいくつも用意されていた。

 食堂は花で飾られていた。

 領民たちの持ち寄った花が、豪華ではないが温かく置かれている。針葉樹の枝と赤い実、青い花、薄紫の花、乾いた草。暖炉の火と蝋燭の光を受けて、北の冬の食堂が、少しだけ春を先取りしたように見えた。

 席に着く時、イリディアは一瞬緊張した。

 婚礼の食卓。

 最初の婚礼の日の記憶が、胸の奥で小さく身じろぎする。

 食べなければ。
 笑わなければ。
 新郎側の親族へ礼を言わなければ。
 妹の様子を見なければ。
 母の言葉を聞かなければ。
 夫の隣で、完璧に振る舞わなければ。

 だが、今日の食卓で最初に聞こえたのは、ベッタの声だった。

「イリディア様、今日は全部食べなくて結構です」

 イリディアは瞬きした。

 ベッタは堂々と続ける。

「婚礼だからといって、胃袋まで礼装にはなりません。食べたいものを少しずつ。残してよし。気に入ったものはおかわりしてよし。今日はそれが作法です」

 ネリーが小さく笑った。

「また作法が増えました」

「増やしました」

 ベッタは胸を張る。

 セヴラードは席に着きながら、低く言った。

「妥当だ」

 ベッタが満足げに頷く。

「旦那様が認めました」

 そのやり取りで、イリディアの肩の力が少し抜けた。

 誰も、彼女に完璧な花嫁を求めていない。

 食事を残してもよい。

 ゆっくり食べてもよい。

 笑えない時に笑わなくてもよい。

 今日の主役だからといって、ずっと人々の視線を受け止め続けなくてもよい。

 セヴラードは彼女の隣に座った。

 隣。

 今度は、譲らなくていい席だった。

 誰かのために空ける必要のない席。

 リゼリットが来ることはない。

 ダリオンが当然のように別の誰かを優先することもない。

 この席は、イリディアの席だ。

 その事実だけで、喉の奥が熱くなった。

 セヴラードが小さく聞く。

「大丈夫か」

 イリディアは一度呼吸を確かめた。

 胸は震えている。涙も出そうだ。けれど、息はできる。

「大丈夫です」

 少し間を置いて、付け加えた。

「今の大丈夫は、本当に大丈夫です」

「そうか」

 彼は頷き、自分の皿ではなく、まずイリディアの前の小皿を見た。

「何から食べる」

 イリディアは目の前の料理を見た。

 南瓜のスープ。

 蜂蜜の香りがほんの少しする。湯気が上がっている。柔らかな黄金色。ベッタが朝から作ってくれた、祝いの日のスープ。

「スープを」

 イリディアは言った。

 ベッタが遠くから、勝ち誇った顔をした。

 ネリーが小さな器へスープをよそい、イリディアの前に置く。量は多くない。熱すぎないよう、少し冷ましてある。

 匙を手に取る。

 婚礼の日の食卓で、匙を持つ自分の手が少し震えている。

 だが、その震えは以前の婚礼とは違う。

 失敗しないようにという震えではない。

 大切なものを受け取る前の震えだった。

 イリディアはスープをすくい、口へ運んだ。

 南瓜の甘さ。

 少しの蜂蜜。

 根菜の深い味。

 舌の上で柔らかく広がり、喉を通って、胃へ落ちる。

 温かい。

 ただ温かいだけではなく、体が受け取れる温かさだった。

 イリディアは目を伏せた。

 王都の婚礼の日、彼女は料理の味を覚えていない。

 けれど今日のこのスープの味は、きっと忘れない。

 南瓜の甘さ。

 蜂蜜の控えめな香り。

 ベッタの強引な優しさ。

 隣にいるセヴラードの静かな気配。

 誰も、急かさない。

 誰も、もっと食べろと言わない。

 誰も、花嫁なのだから笑いなさいと言わない。

 イリディアはもう一口飲んだ。

 喉が震えた。

「おいしいです」

 声が少し濡れた。

 ベッタは食堂の向こうで、顔をくしゃりとさせた。

「当然です」

 そう言いながら泣いている。

 イリディアは泣き笑いのような顔になった。

 次に、柔らかいパンを少し食べた。

 焼きたてで、外は薄く香ばしく、中はふんわりしている。王都の白パンより素朴だが、口の中でほのかに甘い。セヴラードが干し林檎を小さく切って、皿の端に置いてくれた。

 イリディアは少し驚いて彼を見る。

「ありがとうございます」

「食べやすいかと思った」

「はい」

「違えば残せ」

「食べてみます」

 干し林檎は、蜂蜜の甘さと果実の酸味があった。

 噛むとじんわり味が広がる。

 イリディアはゆっくり味わった。

 味わう。

 婚礼の日に、食事を味わっている。

 その事実が、胸を温かく満たしていく。

 食堂では、領民たちが穏やかに話している。子どもたちは小さな焼き菓子を前に目を輝かせ、ハルトヴィンに「二つまで」と言われている。ニカは「祝いの日なのに」と抗議し、ヤンが「三つ食べたらあとで腹が痛くなる」と真面目に言っていた。

 オルガは食事の進行を見守りながら、時々ネリーに合図を出している。

 リーヴァは手袋屋の女性と、冬の洗濯物が乾きにくい話をしている。

 ミラはイリディアの少し後ろに控えていたが、ベッタに「今日はあなたも座って食べなさい」と引っ張られ、結局近くの席へ座らされた。

 その様子を見て、イリディアはまた目元が熱くなった。

 ここでは、ミラも食べる。

 イリディアが休むことは、ミラを休ませることにもつながる。

 そのことを、北の屋敷が教えてくれた。

 食事の途中で、イリディアは少し匙を置いた。

 もう食べられないわけではない。

 だが、胸がいっぱいだった。

 セヴラードがすぐに気づいた。

「疲れたか」

「少し」

「休め」

「でも、まだ残っています」

「残せばいい」

 隣で、あまりにも当然のように言う。

 イリディアは皿を見た。

 南瓜のスープが少し残っている。

 柔らかい魚も、半分ほど残っている。

 最初の婚礼の日なら、残すことはできなかった。見られている。評価されている。花嫁として、きちんと食べ、きちんと笑い、きちんと礼を言わなければならなかった。

 でも今日は。

 ベッタが遠くから声を張った。

「イリディア様、残すのも作法です!」

 食堂に笑いが起きた。

 イリディアも、今度は涙ではなく笑った。

「では、少し休みます」

「そうしろ」

 セヴラードが答える。

 彼女は椅子の背に少し体を預けた。

 誰も責めない。

 誰も不満そうに見ない。

 むしろ、ネリーがすぐに温かい茶を用意し、ミラが膝掛けを持ってきて、ベッタが「休んだら焼き林檎を少しだけ勧めます」と言った。

 イリディアは、そのすべてを受け取った。

 婚礼の日の食卓で、彼女は初めて、自分の体の声を聞いてよいのだと思えた。

 食べたいものを食べる。

 休みたい時に休む。

 笑いたい時に笑う。

 泣きたい時に泣く。

 それは、あまりにも当たり前のことなのに、イリディアにとっては新しい誓いのようだった。

 しばらくして、セヴラードが低く言った。

「今日の食事は、覚えていられそうか」

 イリディアは彼を見た。

 彼は、最初の婚礼の日に料理の味を覚えていないことを、いつか彼女が少しだけ話したのを覚えていたのだろう。

 胸が静かに震えた。

「はい」

 イリディアは答えた。

「南瓜のスープの味も、パンの温かさも、干し林檎の甘さも、覚えていられそうです」

「そうか」

「それから」

 少し迷って、続けた。

「隣の席を、誰にも譲らなくてよかったことも」

 セヴラードの目が静かに揺れた。

 彼は短く言った。

「譲る必要はない」

 その言葉が、胸へ深く沈む。

 イリディアは頷いた。

「はい」

「ここは、お前の席だ」

 イリディアの目に、また涙が浮かんだ。

 けれど今度は、笑いながらだった。

「はい」

 その返事は、婚礼の誓いよりも小さかった。

 けれど、彼女にとっては同じくらい大切だった。

 食卓の終わりに、ニカが青い花を一輪持ってきた。

「イリディア様、これ、まだ渡してなかった」

「ありがとう」

「奥様って呼んでもいい?」

 ニカはまっすぐ尋ねた。

 以前なら、イリディアは固まっただろう。

 今も少し胸が震えた。

 だが、隣にセヴラードがいる。食卓は温かい。鍵は彼女の手元にある。書斎の鍵も、ノルヴァイル家の鍵束も。

 イリディアは少し考えた。

 そして言った。

「今日は、少しだけ慣れたいと思っているの。だから、呼んでみてくれる?」

 ニカは目を丸くした。

 それから、ぱっと笑った。

「奥様!」

 イリディアの胸が震える。

 痛みもある。

 でも、それだけではない。

 奥様。

 王都で彼女を縛った言葉。

 けれど今、ニカの声で呼ばれたそれは、寒い土地の食卓で、花を差し出す子どもの声だった。

 イリディアは、その呼び名を一度だけ胸に受け取った。

「ありがとう、ニカ」

 ニカは嬉しそうに笑った。

 セヴラードは何も言わなかった。

 ただ、イリディアの横で静かに見守っていた。

 食事が終わる頃、外では夕方の光が雪を薄い青に染めていた。

 食堂の窓に、淡い青のドレスが映る。

 イリディアはその姿を見た。

 白い花嫁ではない。

 豪奢な侯爵夫人でもない。

 北の春を思わせる淡い青をまとった、自分。

 怖さはまだある。

 けれど、今日の食卓は温かかった。

 婚礼の日に、彼女は初めて食事を味わった。

 自分の席で。

 自分の名前を持ったまま。

 セヴラードの隣で。

 その夜、イリディアは書斎に戻り、帳面を開いた。

 婚礼衣装のままではなく、着替えて、膝掛けをかけ、薬草茶を飲みながら。

 手元には、小さな銀の鍵飾り。

 机の端には、本物の書斎の鍵と、ノルヴァイル家の鍵束。

 彼女はゆっくりペンを取った。

『今日、セヴラード様と婚礼を挙げた。王都のような豪華な婚礼ではなかった。けれど、領民たちが花を持ち寄ってくれた。ミラは泣いていた。ベッタさんも泣いた。ネリーも泣いた。オルガ様も少し泣いていたと思う。ハルトヴィンさんは泣いていない顔をしていたけれど、たぶん泣いていた。』

 書きながら、イリディアは少し笑った。

 インクが滑る。

 続ける。

『私は白ではなく、淡い青のドレスを着た。北の春の色だと言われた。締めつけず、息ができた。食卓では、誰も私に我慢を求めなかった。残してもよいと言われた。食べたいものを食べてよいと言われた。』

 手が止まる。

 胸の奥が温かい。

 彼女は最後に、丁寧に書いた。

『私は今日、婚礼の日に初めて、食事をおいしいと思った。ここは、私の家になり始めている。』

 書き終えると、涙が一粒だけ落ちた。

 けれど、紙には落とさなかった。

 布でそっと押さえる。

 イリディアは窓の外を見た。

 雪はまだある。

 冬はまだ続く。

 王都からの問題も、消えたわけではない。

 だが、今日、彼女は温かい食卓に座った。

 そこでは誰も、彼女に我慢を求めなかった。

 婚礼の日に、彼女は初めて自分の体で食べ、自分の心で味わい、自分の席を譲らずに済んだ。

 それは、静かな婚礼だった。

 けれどイリディアにとっては、どんな豪華な祝宴よりも眩しい一日だった。


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