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第37話 王都社交界に流された嘘
王都から噂が届いたのは、雪が薄く雨へ変わりかけた朝だった。
ノルヴァイルの空は重く、灰色の雲が屋敷の屋根すれすれまで下りているように見えた。雪はまだ残っている。けれど、降るものの質が変わり始めていた。真冬の乾いた粉ではなく、少し湿りを帯びた白。石畳に落ちるとすぐに潰れ、淡い水の跡を残す。
春はまだ遠い。
それでも、冬が永遠ではないことを、空気の匂いが少しずつ知らせていた。
イリディアは書斎で、グラナート商会の契約見直しに関する覚書を読み返していた。ハルトヴィンが草案にまとめたものへ、彼女が気づいた表現の曖昧さをいくつか書き添える。王都商会は、言葉の隙間へ利益を隠すことがある。だから、こちらの文書はできるだけ隙間を減らさなければならない。
机の上には、ノルヴァイル家の便箋。
隣には、書斎の鍵。
窓辺には、もう半ば乾きかけた雪明かり草。
花の青は淡くなっていたが、イリディアはまだ捨てられなかった。
初めて自分で好きだと思えた花だから。
白い鈴蘭ではなく。
リゼリットの花ではなく。
自分が北で見つけた、小さな青。
ペン先をインク壺から上げた時、扉が叩かれた。
硬い音だった。
ハルトヴィン。
イリディアはすぐに分かった。
「どうぞ」
扉が開く。
入ってきたハルトヴィンの顔は、いつもよりさらに硬かった。整えられた髪、皺一つない服、まっすぐな姿勢。そこまでは普段通りだ。だが、目元に冷えた怒りのようなものがある。
ハルトヴィンは一礼した。
「奥様。旦那様より、執務室へお越しいただけるかとのことです」
イリディアはペンを置いた。
胸の奥が、静かに沈む。
「何かありましたか」
「王都より、数通の書簡が届いております」
「父からですか」
「メルシュタイン侯爵家からもございます。レーヴェニア侯爵家からも。ただ、それだけではありません」
ハルトヴィンは言葉を選んだ。
その慎重さが、かえって不穏だった。
「王都社交界で、奥様に関する噂が広がっております」
噂。
その一語で、指先が冷えた。
王都。
社交界。
噂。
それらは、イリディアが長い間逃れたかったものだった。晩餐会、舞踏会、婦人たちの扇の陰、男たちの低い笑い、名前を伏せた皮肉。真実よりも面白い形に整えられた話が、香水と葡萄酒の匂いに混じって広がる場所。
イリディアは、喉の奥が少し乾くのを感じた。
「私に関する」
「はい」
「どのような」
ハルトヴィンはすぐには答えなかった。
彼の目に、わずかな躊躇が浮かぶ。
イリディアは、それを見てかえって背筋を伸ばした。
「聞きます」
「承知しました」
ハルトヴィンは低く答えた。
「奥様がレーヴェニア侯爵との婚姻中からセヴラード様へ近づき、辺境伯家の地位と庇護を得るために誘惑した。離縁はその結果であり、再婚は以前から計画されていた。病弱な妹君と年老いたご両親を見捨て、王都の責任から逃げた。そういった内容です」
イリディアは、一瞬呼吸を忘れた。
誘惑。
その言葉が、紙の刃のように胸へ刺さった。
セヴラードを。
自分が。
婚姻中から。
地位と庇護のために。
視界が少し揺れた。
実際には、彼女がノルヴァイルへ来た時、心も体も空っぽに近かった。誰かを誘惑する余力などなかった。辺境伯家の地位を狙うどころか、自分に居場所があるとすら思えなかった。
最初に出された温かい食事を、食べていいのか分からなかった。
書斎を与えられて、戸惑った。
眠れない夜、暖炉の前に座っていた。
セヴラードは、触れなかった。
聞き出そうともしなかった。
ただ火を足した。
その日々が、王都では誘惑という言葉に変えられている。
イリディアは、膝の上で手を握った。
手袋をしていない指先が、少し冷たい。
「出どころは」
声は、思ったより静かに出た。
ハルトヴィンは答えた。
「複数の書簡から判断する限り、メルシュタイン侯爵家とレーヴェニア侯爵家の双方です。正確には、両家の周辺から同じ文言が流れているようです」
「同じ文言」
「はい。『誘惑』『計画的な再婚』『病弱な妹を捨てた姉』『辺境伯を利用した女』という言い回しが、複数の方から届いた書簡に一致しております」
同じ言葉。
つまり、偶然広がった噂ではない。
誰かが形を整えた。
噂として流しやすいように。
イリディアの離縁と再婚を、彼女の不実に見せるために。
メルシュタイン家は、家の評判を守るため。
レーヴェニア家は、元夫側の傷を軽くするため。
そしておそらく、リゼリットの縁談への影響を薄めるため。
全部、イリディアのせいにすればよい。
そういうことなのだろう。
かつて父の手紙に書かれていた。
お前の離縁と再婚で家の評判が落ちた。
リゼリットの縁談にも響く。
一度王都へ戻れ。
イリディアが戻らなかったから。
拒絶の返書を書いたから。
次に彼らは、王都の空気を使って彼女を引き戻そうとしているのだ。
いや、引き戻せなくてもいいのかもしれない。
彼女が悪い女だと社交界に思われれば、メルシュタイン家もレーヴェニア家も、被害者になれる。
胸の奥に、冷たい疲労が広がった。
ハルトヴィンが静かに言う。
「奥様。旦那様は執務室でお待ちです。無理に今すぐ向かわずとも」
「行きます」
イリディアは立ち上がった。
少し膝が重い。
だが、立てる。
「これは、私のことです。ですが、ノルヴァイル家にも関わることですね」
ハルトヴィンの目がわずかに動いた。
「はい」
「なら、聞かなければ」
イリディアは、机の上の鍵に一度だけ触れた。
書斎の鍵。
自分の部屋の鍵。
そして、逃げ込むだけではなく、出ていくためにも扉はあるのだと、今日初めて思った。
執務室へ向かう廊下は、いつもより長く感じられた。
ミラはすぐに呼ばれ、イリディアのそばにいた。何も聞かない。だが、顔は白い。噂の内容を知らされたのかもしれない。あるいは、知らなくても空気で察しているのだろう。
廊下の途中で、ベッタとすれ違った。
彼女はいつものように大きな盆を持っていたが、イリディアの顔を見るなり立ち止まった。
「奥様」
「ベッタさん」
「温かいものを、あとでお持ちします」
内容を聞いていないはずなのに、彼女はもう分かっている顔だった。
イリディアは、少しだけ笑おうとした。
「今日は何の作法ですか」
ベッタは、真剣な目で答えた。
「嘘を聞いた日は、甘いものと塩気の両方です」
イリディアは、胸の重さの中で、ほんの少し呼吸が楽になった。
「では、あとでお願いします」
「必ず」
ベッタは力強く頷いた。
執務室の扉の前に立つと、ハルトヴィンが低く声をかけた。
「旦那様。奥様をお連れしました」
「入れ」
セヴラードの声。
低く、いつも通り。
しかし、奥に明らかな怒りがあった。
扉が開く。
執務室には、数通の書簡が並べられていた。
セヴラードは机の前に立っていた。椅子に座っていない。濃い上着の袖口がわずかに乱れ、机に置かれた手は固く握られている。
部屋にはオルガもいた。
彼女の表情は普段通り落ち着いているが、目元は冷たい。
ハルトヴィンが机の横へ進み、書簡を整える。
セヴラードはイリディアを見る。
「聞いたか」
「一部は」
「座れ」
いつもの言葉。
イリディアは椅子に座った。
ミラが後ろに控える。
セヴラードはしばらく彼女の顔を見ていた。震えや顔色を確認しているのだろう。やがて、低く言った。
「全部読む必要はない」
「読みます」
「読まなくても対処はできる」
「分かっています。でも、どんな嘘が流れているのか、私は知りたいです」
セヴラードの眉が少し動いた。
イリディアは続ける。
「知らないまま想像すると、きっともっと大きくなります」
少し前の自分なら、噂という言葉だけで十分に傷つき、詳細から逃げていただろう。だが今は、逃げないと決めた。
北で得たものは、温かい部屋だけではない。
自分の席を守る感覚。
書斎の鍵。
返書を書く手。
帳簿を見抜く目。
泣いている妹を怖がらずに見る力。
それらを持って、噂の中身を見たい。
セヴラードは一度だけ頷いた。
「分かった」
ハルトヴィンが、最初の書簡を差し出した。
差出人は、王都の中立的な貴族夫人だった。ノルヴァイル家と古くから季節の贈答だけを交わしている家の者らしい。文面は遠回しだったが、要するに忠告だった。
王都で、イリディアがレーヴェニア侯爵との婚姻中からノルヴァイル辺境伯へ近づいていたという話が出ている。
離縁前から関係があったのではないか。
病弱な妹を口実に夫婦仲を壊し、同情を買って辺境伯家へ入り込んだのではないか。
王都の一部では、そう囁かれている。
イリディアは読み進めるうちに、手が少し震えた。
誘惑。
同情を買った。
入り込んだ。
自分が北でどれほど怯えていたか、彼らは知らない。
いや、知る気がない。
物語として面白い方を選んでいる。
ハルトヴィンが次の書簡を差し出す。
こちらは商会関係者からのものだった。
もっと直接的だった。
メルシュタイン家の周辺では、イリディアは実家へ不義理を働いた娘とされている。レーヴェニア家の一部では、ダリオンは妻に裏切られた被害者として扱われ始めている。
リゼリットは体調を崩している。
母ヴェリーナは泣き暮らしている。
父オルドリックは、娘の行動に困惑している。
その一方で、イリディアは辺境伯家で幸福に暮らしている。
だから、薄情な女だと。
イリディアは、書簡を机へ置いた。
息を吸う。
胸が痛い。
でも、泣き崩れはしなかった。
「私が流産したことは」
声が少し掠れた。
「噂には出ていないのですね」
室内が静かになった。
セヴラードの目が、さらに冷えた。
ハルトヴィンが低く答える。
「今のところ、確認できる範囲では出ておりません」
「そうですか」
イリディアは手元の便箋を見た。
父も、レーヴェニア家も、そのことは伏せている。
当然だろう。
それを出せば、ダリオンが妻を置き去りにした夜へ話がつながる。彼女がどれほどの状態で離縁を選んだのか、王都が知ることになる。
だから伏せている。
彼らに都合の悪い痛みは隠し、都合のよい物語だけを流す。
誘惑した女。
実家を捨てた娘。
病弱な妹を置いて幸福になった姉。
辺境伯家へ入り込んだ女。
イリディアは、深く息を吐いた。
「出どころは、本当に両家なのですね」
ハルトヴィンが別の書簡を示した。
「はい。メルシュタイン家に近い婦人方からは、奥様が家族の説得に応じず、妹君を見捨てたという話が。レーヴェニア家に近い方々からは、奥様が婚姻中から旦那様へ心を移していたという話が。それぞれ異なる方向から流れておりますが、合流すると一つの物語になります」
「私がすべて悪い、という物語ですね」
イリディアは言った。
声は静かだった。
セヴラードが机に置いた手へ、さらに力を込めた。
「違う」
「はい」
イリディアは頷いた。
「違います」
以前なら、その言葉を誰かに言ってもらわなければ立てなかった。
今も、セヴラードが言ってくれることは支えになる。
でも、今日は自分でも言えた。
違う。
彼らの噂は、違う。
セヴラードは、机の上の書簡を一つにまとめた。
「王都へ行く」
低く言った。
その一言で、部屋の空気が変わった。
ミラが息を呑む。
ハルトヴィンはすでに予想していたのか、静かに頷いた。
「ご出発の準備を進めます」
セヴラードは続けた。
「この噂は、イリディアだけの問題ではない。ノルヴァイル家の評判にも関わる。辺境伯家が婚姻中の女を奪ったという話にされれば、王都との交渉にも響く」
「はい」
「グラナート商会の件にも絡む可能性がある。こちらの契約見直しを潰すために、俺とイリディアの信用を落としに来ている可能性もある」
ハルトヴィンは頷いた。
「十分考えられます」
イリディアは、その言葉を聞いて顔を上げた。
ただの感情的な噂ではない。
商会の件。
王都との取引。
ノルヴァイルの信用。
すべてがつながっているかもしれない。
自分への嘘は、自分一人を傷つけるだけでは終わらない。
この家の火にも、届こうとしている。
セヴラードは言った。
「王都で、正式に抗議する。メルシュタイン家、レーヴェニア家、必要なら王宮筋にも。噂の出どころを確認し、撤回させる」
彼の声は低く、冷静だった。
怒っている。
だが、怒りだけで動くのではない。
辺境伯として、家を守るために動こうとしている。
イリディアは、その姿を見て胸の奥が震えた。
頼もしい。
怖い。
そして、置いていかれるような不安が、一瞬だけ生まれた。
セヴラードが王都へ行く。
自分は北で待つのか。
守られるように。
噂の中心にいるのに、遠くで結果だけを待つのか。
それは、安全かもしれない。
王都は怖い。
父がいる。
母がいる。
リゼリットがいる。
ダリオンがいる。
社交界がある。
扇の陰の噂、視線、笑い声、花の香り、重たいドレス。
戻りたくない。
心の奥から、そう思った。
でも。
逃げたくない。
別の声が、静かに立ち上がる。
ここは私の家だ。
この家の評判にも関わる。
私の名前が使われている。
私の過去が歪められている。
なら、私は北で震えて待つだけでよいのだろうか。
イリディアは、膝の上で手を握った。
セヴラードがすぐに気づく。
「お前はここにいろ」
先に言われた。
イリディアは顔を上げる。
セヴラードは続けた。
「王都へ戻る必要はない。俺が行く。ハルトヴィンも連れていく。必要な証言は書面で」
「いいえ」
声は、思ったより早く出た。
部屋の全員がイリディアを見た。
彼女自身も、自分の声に少し驚いていた。
でも、止まらなかった。
「私も行きます」
ミラが小さく息を呑む。
セヴラードの眉が、はっきり動いた。
「イリディア」
「怖いです」
イリディアは、まずそう言った。
隠さなかった。
「王都へ戻るのは怖いです。父に会うことも、母やリゼリットに会うことも、ダリオン様に会うことも、社交界の視線も、全部怖いです」
喉が震える。
それでも続けた。
「でも、私の名前で流された嘘です。私が辺境伯家を誘惑したという噂です。私が家族を捨てたという話です。私が黙ったままでは、また誰かが私の代わりに物語を作ります」
セヴラードは黙っている。
イリディアは彼を見る。
「私は、もう私の席を誰かに譲りません」
その言葉が、自分の胸にも響いた。
食堂の椅子。
書斎の鍵。
門。
今度は、王都での自分の名前。
「私の名前の席も、私が守りたいのです」
部屋が静かになった。
セヴラードの目が、深く揺れた。
イリディアは続けた。
「私は、あなたの後ろに隠れるために同行するのではありません。もちろん、一人では怖いです。あなたがいてくださらなければ、足がすくむと思います。でも、隠れるためではなく、隣に立つために行きたいのです」
隣。
その言葉に、胸が熱くなる。
昔、夫の隣の席を譲った。
今度は、自分で隣に立ちたい。
セヴラードの。
ノルヴァイル家の。
そして、自分自身の人生の隣に。
セヴラードは、長く沈黙した。
反対したいのだろう。
守りたいのだろう。
王都へ戻れば、イリディアがどれほど傷つくか分かっているから。
だが、彼は選択を奪わない人だ。
やがて、低く聞いた。
「本当に行くのか」
「はい」
「王都は、お前を傷つける」
「分かっています」
「噂は、ここで読むより汚い形で耳に入るかもしれない」
「分かっています」
「父親も、元夫も、妹も、来るかもしれない」
「分かっています」
「途中で戻りたくなったら」
「戻ります」
イリディアは即答した。
セヴラードの目が少し動く。
「逃げではなく、戻ります。無理をして倒れるまで立つことはしません。でも、行く前から諦めたくありません」
その言葉は、彼女自身にとっても大きかった。
以前のイリディアなら、行くなら最後まで耐えなければと思っただろう。途中で戻ることを、失敗だと思っただろう。
今は違う。
戻る選択も持ったまま、進む。
それが、北で覚えた強さだった。
セヴラードは深く息を吐いた。
「分かった」
その一言で、イリディアの胸に大きな震えが走った。
「ただし条件がある」
「はい」
「体調を隠さない」
「はい」
「眠れない夜は言え」
「はい」
「食事を抜くな」
「はい」
「王都で会う相手は、こちらで整理する。父親でも元夫でも、勝手に会わせない」
「はい」
「会いたくないと言えば、そこで終わりだ」
「はい」
「会うと決めたなら、俺が隣にいる」
イリディアの喉が熱くなった。
「はい」
セヴラードは、少しだけ声を落とした。
「それでも行くか」
イリディアは、自分の手を見た。
震えている。
怖い。
けれど、逃げる震えではない。
「行きます」
はっきり答えた。
セヴラードは頷いた。
「なら、準備する」
ハルトヴィンがすぐに動き始めた。
「王都滞在先は、ノルヴァイル家の旧邸を開けます。使用人を先に送ります。王宮筋への面会申請、主要貴族家への挨拶状、噂に関する抗議文の草案を整えます」
オルガも続ける。
「奥様の衣装は、王都式に寄せすぎず、ノルヴァイル家の色を入れたものを用意いたします。淡い青と銀灰、必要なら深い藍を」
ミラが涙をこらえながら言った。
「私もお供いたします」
イリディアは彼女を見た。
「怖くない?」
「怖いです」
ミラは正直に答えた。
「でも、奥様を一人で王都へは戻しません」
その言葉で、イリディアの目に涙が浮かんだ。
「ありがとう」
「受け取ります」
ミラがそう返した。
少しセヴラードに似た返事に、イリディアは泣きそうなまま笑った。
その日の午後から、屋敷は静かに忙しくなった。
王都へ向かう準備。
馬車の整備。
護衛の選定。
書類の整理。
噂の出どころを確認するための書簡。
過去の手紙や記録の確認。
イリディアの離縁に関する正式書類。
再婚の届け。
父への返書の写し。
ダリオンから届いた手紙。
白いリボンの燃え残りはないが、リゼリットからの手紙は残っていた。
そして、流産後に老医師が残した記録。
その書類を見た時、イリディアは少しだけ椅子に座った。
胸が痛かった。
セヴラードは何も言わず、隣に立っていた。
「これも、必要になるかもしれませんね」
イリディアは言った。
声は小さかった。
セヴラードは低く答える。
「使うかどうかは、お前が決める」
「はい」
「噂を潰すために、お前の傷を晒す必要はない」
その言葉で、イリディアは顔を上げた。
セヴラードの目は真剣だった。
「使うなら、必要な形で使う。使わないなら、他の手で潰す」
傷を武器にしろとは言わない。
けれど、必要なら守るために使える。
選ぶのはイリディア。
そのことが、胸を支えた。
「考えます」
「ああ」
夕方、ベッタは本当に甘いものと塩気の両方を持ってきた。
蜂蜜をかけた焼き林檎と、塩を少しきかせた薄焼きパン。
「嘘と戦う日は、舌をまっすぐにする必要があります」
彼女は真顔で言った。
「舌をまっすぐに」
「甘いものだけだと甘く流されます。塩気だけだと固くなりすぎます。両方です」
イリディアは小さく笑った。
「分かるような、分からないような」
「食べれば分かります」
ベッタは堂々としていた。
イリディアは焼き林檎を一口食べた。
甘い。
温かい。
次に薄焼きパンを少し食べる。
塩気が、舌を引き締める。
たしかに、少し落ち着いた。
「分かりました」
「でしょう」
ベッタは満足げに頷いた。
夜になり、イリディアは書斎で帳面を開いた。
今日のことを書かなければ、眠れないと思った。
外では、湿った雪がまた降り始めている。
暖炉の火は静かに燃えていた。
セヴラードは隣室ではなく、今日は書斎の椅子に座っていた。王都行きの書類を読んでいる。邪魔をしない距離。けれど、同じ部屋。
イリディアはペンを取った。
『王都で噂が流れていると知った。私が婚姻中からセヴラード様を誘惑し、辺境伯家へ入り込んだという嘘。病弱な妹と実家を捨てたという嘘。出どころは、メルシュタイン家とレーヴェニア家の周辺らしい。』
文字を書く手が震える。
でも、進む。
『最初は怖かった。今も怖い。王都へ戻ることは、雪の下に埋めたはずの古い部屋へ戻るようで、胸が冷える。父も、母も、リゼリットも、ダリオン様もいる。社交界の噂もある。』
そこで一度、息を吸う。
セヴラードが少しだけ顔を上げた。
イリディアは頷いた。
大丈夫。
続ける。
『けれど、私は同行すると決めた。私の名前で流された嘘なら、私が自分の名前の席を守りたい。セヴラード様の後ろに隠れるのではなく、隣に立ちたい。無理なら戻る。でも、行く前から諦めない。』
最後の一文を書く前に、少しだけ窓辺の雪明かり草を見た。
青は淡くなっている。
でも、まだある。
『私は北で、席を守られることを知った。鍵を持つことを知った。泣いている妹を怖がらずに見ることを知った。だから今度は、その強さを持って王都へ戻る。』
書き終えた。
ペンを置く。
手はまだ少し震えている。
けれど、胸の中に細い芯が通っていた。
セヴラードが静かに言った。
「行くのは、数日後だ」
「はい」
「準備する時間がある」
「はい」
「怖くなったら言え」
「言います」
「やめてもいい」
イリディアは彼を見た。
それから、ゆっくり首を横に振る。
「今は、やめません」
セヴラードの目が、ほんの少し柔らかくなった。
「分かった」
その一言で、十分だった。
イリディアは帳面を閉じた。
書斎の鍵に触れる。
ノルヴァイルの家に来てから、彼女はずっと鍵で内側を守ってきた。
今度は、その鍵を持って外へ出る。
扉を閉じるためだけではない。
自分で開けるために。
王都は怖い。
噂は汚い。
人々の目は鋭いだろう。
それでも、彼女はもう、誰かが作った物語の中で黙って微笑む女ではない。
イリディア・ノルヴァイル。
自分の名前で立つために。
北で得た強さを胸に、彼女は王都へ戻る準備を始めた。
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