離縁した元夫が毎日のように押しかけてきますが、もう私は辺境伯家の妻です

なつめ

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最終話 もう私は辺境伯家の妻です

 北の春は、突然花開くものではなかった。

 王都の春なら、ある朝目覚めた時には街路の花屋に淡い色が並び、貴族街の窓辺には薄絹のカーテンが揺れ、誰かが昨日から春でしたという顔で新しいドレスを着る。香水も、茶会の菓子も、招待状の文面も、季節の変わり目を器用にまとってしまう。

 けれどノルヴァイルの春は、もっと不器用だった。

 まだ雪は残っている。

 屋敷の北側の陰には、冬の名残が固く白く積もったままだ。森の木々も葉を出すには早く、枝は黒く細い線のまま空へ伸びている。朝の空気は冷たく、窓を開ければ頬に針のような冷気が触れる。

 それでも、春は来ていた。

 屋根の雪が、昼の陽に溶けて雫を落とす。

 ぽたり。
 ぽたり。

 その音が、朝の静かな廊下に響くようになった。

 庭の石畳の端に、濡れた土の匂いが戻ってきた。

 厩舎の前では、馬丁たちが冬用の厚い覆いを少しずつ片づけ始めている。

 厨房では、ベッタが保存食ばかりではなく、春先に採れる若い香草の話をするようになった。

 そして、イリディアの書斎の窓辺では、雪明かり草の小さな鉢に、青い蕾がついていた。

 まだ咲いてはいない。

 けれど、確かに蕾だった。

 小さく、固く、淡い青を内側に秘めている。

 イリディアはその蕾を見つけた朝、しばらく声が出なかった。

 書斎の窓辺に膝をつくようにして、鉢を両手で包み、息を殺して眺めていた。王都から戻った日、庭師が「春に咲かせます」と言ってくれた株だ。あれから毎朝、水の量を確かめ、窓辺の冷えを気にし、火に近すぎないよう何度も鉢の位置を調整した。

 それが、蕾をつけた。

 まだ花ではない。

 でも、これから咲く。

 その事実が、イリディアの胸を静かに満たした。

「奥様」

 ミラが書斎の扉を開けた時、イリディアはまだ窓辺にいた。

 ミラは一瞬驚き、それからすぐに鉢へ視線を落とした。

「もしかして」

「蕾が」

 イリディアは囁くように言った。

「蕾がついているの」

 ミラの顔がぱっと明るくなった。

「まあ」

 彼女は盆を机へ置くことも忘れ、窓辺へ近づいた。二人で小さな鉢を覗き込む。まるで、そこに宝石より大切なものが眠っているかのように。

「本当ですね。青い蕾です」

「庭師さんに知らせなければ」

「はい。ネリーにも」

「ベッタさんにも」

「ベッタさんは、蕾の日の献立を考え始めると思います」

 ミラが真面目に言ったので、イリディアは思わず笑った。

「蕾の日の献立」

「きっとあります」

「ありそうね」

 笑いながら、イリディアは蕾をもう一度見た。

 北の春は、こうして来るのだ。

 大きな花束ではなく、小さな蕾で。

 誰にも急かされず、まだ寒い窓辺で、少しずつ。

 その朝、セヴラードが書斎に来た時、イリディアはすぐに蕾のことを話した。

「雪明かり草に蕾がつきました」

 彼は暖炉の火を確認する前に、窓辺を見た。

 珍しいことだった。

 いつもなら火を先に見る。

 けれど、その日はイリディアの声の明るさにつられたのか、真っ先に鉢の方へ向かった。

 彼は蕾をしばらく見下ろし、低く言った。

「小さいな」

「小さいです」

「これで咲くのか」

「咲きます」

 イリディアは迷わず答えた。

 セヴラードが少しだけ彼女を見る。

「詳しいのか」

「詳しくはありません」

「なら、なぜ言い切る」

「咲くと思いたいからです」

 セヴラードは少し黙った。

 それから、短く答える。

「なら咲く」

 あまりに当然のように言われて、イリディアは笑ってしまった。

「それでよいのですか」

「庭師も咲くと言っていた」

「そうでした」

「なら咲く」

 セヴラードの声はいつも通り低く、無愛想だった。

 けれど、そこにほんの少し柔らかさがあった。

 イリディアは、その声を聞きながら、窓辺の小さな蕾に視線を戻した。

 かつて自分の人生に、春の兆しが来るとは思っていなかった。

 流産の夜、冷たい廊下と痛みの中で失ったもの。

 翌朝の「また授かればいい」という言葉で、心の中の何かが完全に途切れたこと。

 離縁届にインクが乾いていくのを見つめた手。

 王都を出る朝、悲しみすら浮かばず、ただ眠ってしまった馬車。

 あの頃の自分は、春を待つ力すらなかった。

 けれど今、窓辺で蕾を見ている。

 咲くと思いたいと言える。

 それが、どれほど大きなことか。

 イリディアは、静かに胸元の銀の鍵飾りへ触れた。

 王都から戻ってから、日々は少しずつ落ち着いていった。

 メルシュタイン家とレーヴェニア家からの連絡は、すべてハルトヴィンを通す形になっている。直接の手紙は届かない。父の怒鳴るような文面も、母の涙に濡れたような言葉も、リゼリットの甘えた訴えも、ダリオンの後悔も、イリディアの部屋へ勝手に入ってくることはなくなった。

 私財の返還も、続いている。

 銀の茶器は一部が戻り、一部は補償となった。

 真珠の髪飾りは、修繕のため王都の職人へ預けられた。

 祈祷書は、書斎の棚に置かれている。祖母の首飾りは、黒い宝石箱に戻したまま、同じ棚の中で眠っている。文箱は机の端に置かれ、今はイリディア自身の手紙と帳面の控えを入れている。

 失われたものが全部元に戻ったわけではない。

 傷が消えたわけでもない。

 夜、ふと目が覚めることはまだある。

 王都の香水の匂いを思い出して、胸が苦しくなる日もある。

 夢の中で、母の泣き声や父の足音を聞くこともある。

 それでも、朝になれば書斎の窓辺に蕾がある。

 食堂へ行けば、自分の席がある。

 セヴラードは、相変わらず「食べろ」と言う。

 ベッタは、今日の体調に合った献立を勝手に考えている。

 ミラは、夜中に起きたことを隠そうとするとすぐ見抜く。

 ハルトヴィンは、返還品の処理と領地の帳簿を、きっちり分けて報告してくれる。

 オルガは、屋敷の修繕予定の中に、いつの間にか「奥様書斎の窓枠補強」を入れていた。

 ネリーは、蕾を毎朝見に来る。

 それらが、少しずつイリディアを日常へ戻していった。

 そしてその日、イリディアはセヴラードと共に領地を歩くことになっていた。

 春の兆しが見え始めたため、冬の間に傷んだ道や、領民たちの家屋の状態を確認するためだ。大掛かりな視察というより、屋敷に近い集落と市場を見て回る短い外出だった。

 オルガは厚手の外套を用意し、ミラは手袋と膝掛けを念入りに確認した。

 ベッタは、小さな包みを持たせた。

「歩く日は、途中で食べられるものが必要です」

「今日は長旅ではありませんよ」

「外に出ます」

「はい」

「なら必要です」

「……はい」

 イリディアは、もう逆らわなかった。

 包みの中には、塩気のある小さな焼き菓子と、蜂蜜を挟んだ薄いパンが入っていた。

 セヴラードはそれを見て短く言った。

「正しい」

「セヴラード様まで」

「外は冷える」

「知っています」

 イリディアが答えると、セヴラードは一瞬だけ彼女を見た。

 かつて北へ帰る馬車の中で交わした言葉。

 寒いぞ。

 知っています。

 それを思い出したのだろう。

 イリディアも、少しだけ笑った。

 屋敷の外へ出ると、空気はまだ冷たかった。

 けれど、冬の鋭さは少し和らいでいる。雪の表面は昼の光で柔らかくなり、道の端には水が細く流れていた。遠くの森からは、鳥の声が聞こえる。屋敷の煙突から上がる煙も、真冬より軽く見えた。

 セヴラードは、歩幅をイリディアに合わせて歩いた。

 彼は特に何も言わない。

 速く歩けとも、疲れたかとも、最初から過剰に聞かない。

 ただ、道がぬかるんでいる場所では自然に手を差し出し、雪が固く残る場所では少し先に足を置いて確認する。

 イリディアは、その手を必要な時に取った。

 以前なら、何でも遠慮したかもしれない。

 迷惑ではないか。
 手間ではないか。
 自分で歩けるのだから、助けを借りてはいけないのではないか。

 今は、そう思っても、少しずつ受け取れるようになった。

 手を借りることは、弱さを差し出すことではない。

 隣にいる人と歩くことなのだと、知ったから。

 最初に向かったのは、屋敷近くの集落だった。

 石造りの家々が並び、屋根にはまだ雪が残っている。家の前では、男たちが冬の間に傷んだ柵を直し、女たちが水路の氷を砕いていた。子どもたちは、雪の残る広場で走り回っている。

 イリディアたちが近づくと、子どもの一人が真っ先に気づいた。

「あ、奥様!」

 それは、あの手袋の子どもだった。

 名前はユルカ。

 以前、市場で破れた手袋をイリディアが繕った子だ。王都から帰った日も、その手袋を見せてくれた。

 ユルカは今日も、その手袋をしていた。

 ただし、前より少し傷んでいる。縫い目の近くにまたほつれが出ていた。

 イリディアは思わず微笑んだ。

「ユルカ。その手袋、また少し頑張りすぎたのではないかしら」

 ユルカは慌てて手を後ろに隠した。

「違います。えっと、雪玉を作りすぎただけです」

「それを、頑張りすぎたと言うのでは?」

 セヴラードが低く言った。

 ユルカはびくりとした。

 だが、すぐに笑う。

「旦那様、雪玉は大事です」

「何に」

「戦いに」

「誰と戦う」

「みんなと」

 セヴラードは真面目な顔で黙った。

 イリディアは笑いをこらえた。

「それは大切ね」

「はい!」

 ユルカは胸を張った。

 イリディアは手を差し出す。

「見せてくれる?」

 ユルカは少し迷い、手袋を差し出した。

 イリディアは、縫い目を見た。

「まだ直せます。あとで屋敷へ持ってきてください。余り布を当てれば、春までもつと思います」

 ユルカの顔が明るくなる。

「本当ですか」

「ええ」

「でも、奥様のお仕事が」

「これも仕事です」

 イリディアは言った。

 言ってから、胸が少し温かくなる。

 かつて、彼女は役に立たなければ食べてはいけないような気持ちで生きていた。今は違う。役に立つことが、自分を削ることではなく、誰かの暮らしを少し温かくすることなら、それは喜びにもなるのだと知った。

 セヴラードが隣で低く言う。

「屋敷に大量に手袋が持ち込まれるぞ」

「それは困りますか」

「困らない」

「では、よいですね」

「ああ」

 ユルカは、二人を見てにこにこしていた。

 近くにいた母親が慌てて頭を下げる。

「奥様、すみません。この子ったら」

「いいえ。手袋は大事ですもの」

 母親の目が少し潤む。

「王都でのこと、お疲れ様でございました」

 その言葉に、イリディアは一瞬だけ息を止めた。

 王都でのこと。

 領民たちの耳にも、ある程度は届いているのだろう。

 ただし、その声には好奇心ではなく、労りがあった。

 イリディアは静かに頷いた。

「ありがとうございます。もう帰ってきました」

 母親は、柔らかく笑った。

「はい。お帰りなさいませ、奥様」

 その言葉が、また胸へ染みた。

 ただいま。

 お帰りなさい。

 それを何度受け取っても、まだ少し泣きそうになる。

 集落を歩きながら、イリディアはあちこちへ目を向けた。

 冬の間に傷んだ屋根。

 雪解け水が流れ込みやすい小道。

 子どもたちの通学路になる坂。

 独り暮らしの老女の家の前の段差。

 セヴラードは、それらを簡潔に確認し、同行していた管理人へ指示を出す。

「この水路は広げろ」

「東側の柵は冬前に直したはずだ。材が悪かったのか確認しろ」

「老リディの家の薪は足りているか」

 老リディ。

 セヴラードは領民を名前で覚えている。

 それにイリディアは少し驚き、そして納得した。

 彼は不器用だ。

 言葉は少ない。

 愛想もない。

 けれど、見ている。

 必要なものを見ている。

 イリディアは、その横顔を見つめた。

「何だ」

 セヴラードが気づく。

「いいえ」

「言え」

「セヴラード様は、皆のことをよく見ていらっしゃるのですね」

 彼は少し眉を寄せた。

「領主だからな」

「それだけではないと思います」

「他に何がある」

「大切にしているのだと思います」

 セヴラードは黙った。

 少しだけ視線を逸らす。

「必要なことをしているだけだ」

「ベッタさんみたいなことをおっしゃいますね」

「なぜそこでベッタが出る」

「必要なことをしているだけ、とよく言うので」

 セヴラードは、何とも言えない顔をした。

「同類か」

「少し」

「不本意だ」

 イリディアは笑った。

 その笑い声に、周囲の空気が少し柔らかくなる。

 次に二人は、市場へ向かった。

 春前の市場は、王都ほど華やかではない。まだ品数も少なく、冬を越した根菜、干し肉、保存用の豆、厚手の布、修繕用の革紐などが並んでいる。それでも、人々の顔には少しずつ活気が戻っていた。

 雪解けが進めば、道が開く。

 道が開けば、荷が入る。

 荷が入れば、市場が賑わう。

 北の春は、生活の春でもあった。

 イリディアは、市場の一角で布を扱う店に立ち寄った。

「子ども用の手袋に使える余り布はありますか」

 店主の女性が目を瞬く。

「奥様が、ですか」

「屋敷で修繕に使いたいのです。薄すぎず、指先に当てても硬くなりすぎないものを」

 店主は少し考え、奥から小さな布束を持ってきた。

「こちらなら。冬用の外套を仕立てた残りで、丈夫です」

 イリディアは布に触れた。

 少し粗いが、温かい。

「よいと思います」

 セヴラードが横から言った。

「必要な分を屋敷へ回せ」

「はい、旦那様」

 店主が頷く。

 イリディアはすぐに言った。

「代金はきちんと」

「当然だ」

 セヴラードが短く答える。

「領内の商いだ」

 その言葉に、イリディアは少し微笑んだ。

 王都の商会が不利な取引を押しつけていた時とは違う。

 ここでは、必要なものを正しく買う。

 誰かから奪うのではなく、暮らしの中で巡らせる。

 それもまた、家を整えることなのだろう。

 市場の帰り道、イリディアは食堂の献立についてセヴラードに話した。

「ベッタさんが、春になったら若い香草を使ったスープを出したいと言っていました」

「ああ」

「それから、保存食だけに頼らない献立に少しずつ戻すと」

「任せている」

「でも、ベッタさんは私に相談してくださるのです」

「お前が食べるからだろう」

「それだけではないと思います」

 イリディアは少し考えた。

「王都で、食べられない日がありました。けれど、帰ってきてから、食堂の献立を見ると安心するのです。今日は何が出るのか。誰がどれを好きなのか。子どもたちへ配る焼き菓子は何がよいのか。そういうことを考えると、家の中に自分の手が届いているような気がします」

 セヴラードは黙って聞いている。

「昔は、食卓も私の居場所ではありませんでした。誰の席か、誰が何を食べたいか、誰の機嫌を取るか。そういうことばかりで。でも今は」

 少し笑う。

「食堂の献立を考えるのが、嬉しいのです」

「なら考えろ」

「はい」

「食べることも忘れるな」

「忘れません」

「本当か」

「本当です」

 セヴラードは少し疑わしそうだったが、それ以上は言わなかった。

 屋敷へ戻る途中、二人は南棟の外壁を見た。

 冬の風で一部の石が傷み、窓枠にも修繕が必要になっている。オルガがすでに修繕予定をまとめていたが、イリディアも見ておきたかった。

「この窓枠は、春のうちに直した方がよさそうです」

 イリディアが言うと、同行していた管理人が頷いた。

「はい、奥様。冬前に応急処置はしましたが、本格的には雪解け後になります」

「南棟の客室は、王都からのお客様用に使うことが多いのですか」

「以前はそうでしたが、近年はあまり」

 管理人は少し言いにくそうにした。

「北は遠いので」

 イリディアは頷いた。

 王都から見れば、北は遠い。

 寒く、不便で、華やかさに欠ける場所。

 でも、イリディアにとっては帰る家だ。

「では、客室だけでなく、領民の相談を受ける日にも使えるように整えられるでしょうか」

 管理人が目を丸くする。

 セヴラードもイリディアを見る。

 イリディアは少し頬を赤らめた。

「王都のような大きな面会室ではなく、女性や子どもが話しやすい部屋があるとよいのではと思って。困りごとを抱えていても、領主館の執務室へ来るのは緊張するでしょうから」

 昔の自分が、父の書斎で声を失ったことを思い出す。

 大きな机。

 父の低い声。

 逃げ場のない部屋。

 もし、もう少し柔らかい部屋があったなら。

 もし、話を聞く人がいたなら。

 そう思った。

 誰かが、自分のように声を飲み込まなくてすむ場所を作れないだろうか。

 セヴラードは、しばらく黙っていた。

 それから管理人へ言った。

「候補を出せ。南棟の小応接室を使えるか確認する」

「はい、旦那様」

 管理人はすぐに頷く。

 イリディアは驚いた。

「よいのですか」

「必要だと思ったんだろう」

「はい」

「なら確認する」

 その返事があまりにも自然だったので、イリディアの胸が熱くなった。

 かつて自分の声は、家の中で何度も消えた。

 今、その声が屋敷の修繕予定を動かしている。

 誰かの帰る場所を、誰かの話せる場所を整えるために。

 それは、とても静かな変化だった。

 けれど、イリディアにとっては大きなことだった。

 屋敷へ戻る頃には、足元が少し疲れていた。

 雪解けの道は思ったより歩きにくく、外套も重い。けれど、心地よい疲れだった。王都で感じた、胸を押し潰すような疲労とは違う。

 玄関では、ミラがすぐに迎えた。

「奥様、お疲れではありませんか」

「少し」

 イリディアは正直に答えた。

 ミラの顔が安心する。

「では、温かいお茶を」

「お願いします」

「食堂へ?」

「少しだけ書斎へ寄ってから」

 ミラは迷った顔をした。

 セヴラードが低く言う。

「長くいるな」

「はい」

「茶は書斎へ」

 ミラが頷く。

「承知しました」

 書斎へ戻ると、雪明かり草の蕾が朝と同じ場所にあった。

 小さな蕾。

 けれど、朝よりほんの少し青が濃く見える気がした。

 気のせいかもしれない。

 それでもよかった。

 イリディアは外套を脱ぎ、椅子に座った。

 窓の外には、まだ白い庭。

 でも、石畳の端には水が光っている。

 春は来ている。

 遅く、静かに。

 ミラが薬草茶を置き、ベッタの焼き菓子も添えてくれた。

「歩いた日は塩気と甘み、両方だそうです」

「本当に何にでも作法があるのね」

「ベッタさんによると、生活には食べる理由がたくさんあるそうです」

 イリディアは笑った。

「素敵な考え方ね」

 ミラが出ていくと、セヴラードが書斎へ入ってきた。

 彼は扉のそばで立ち止まる。

「疲れたか」

「少し」

「休め」

「はい」

 そう答えながら、イリディアはまだ机の上の帳面を見ていた。

 セヴラードはそれに気づく。

「書くのか」

「少しだけ」

「少しだけだ」

「はい」

 イリディアはペンを取った。

 最近、毎日長く書くわけではない。

 けれど、心に残ったことは少しずつ記すようにしていた。

『北に春の兆しが来た。屋根の雪が溶け、土の匂いが戻り、書斎の雪明かり草に蕾がついた。今日はセヴラード様と領地を歩いた。ユルカの手袋はまたほつれていた。春まで持つように直す予定。』

 書きながら、口元が緩む。

『食堂の献立の話をした。春の香草、子どもたちの焼き菓子、屋敷の修繕予定。南棟に、女性や子どもが話しやすい小さな部屋を作れるかもしれない。』

 そこで一度、手を止めた。

 自分が、誰かの話せる場所を考えている。

 誰かの手袋を直すことを考えている。

 食堂の献立や屋敷の修繕を考えている。

 かつて、自分の居場所を失い続けた女が。

 今は、誰かの帰る場所を整えている。

 その事実が、静かに胸を揺らした。

 イリディアは、続けて書いた。

『私はずっと、どこかに置いてもらうことばかり考えていた。娘として、妻として、姉として、誰かが決めた場所に立っていた。けれど今は、この家の中で、誰かが帰ってきた時に温かい火があるように、子どもの手袋が破れても直せるように、怖いことを話せる部屋があるようにと考えている。』

 手が少し震えた。

 でも、今の震えは悲しみだけではない。

 感情が満ちた時の震えだった。

『ここは、私の家だ。私はこの家を、私も誰かも息ができる場所にしたい。』

 書き終えると、セヴラードが近くに来ていた。

 彼は帳面を覗き込まない。

 ただ、イリディアの隣へ立つ。

「書けたか」

「はい」

「休め」

 いつもの言葉。

 イリディアは微笑んだ。

「はい。今日は素直に休みます」

「いつもそうしろ」

「努力します」

「努力ではなく、しろ」

 少し強めの声に、イリディアは笑った。

 セヴラードは、窓辺の蕾を見た。

「咲いたら、庭師が騒ぎそうだな」

「ネリーも」

「ベッタも献立を増やす」

「蕾の日の次は、開花の日の献立ですね」

「面倒だ」

「でも、食べますよね」

「食べる」

 即答だった。

 イリディアはまた笑った。

 笑い終えた後、二人の間に静かな時間が落ちた。

 暖炉の火が、ぱち、と音を立てる。

 窓の外で雪解け水が軒から落ちる。

 ぽたり。

 ぽたり。

 春の音。

 イリディアは、その音を聞きながら、ふとセヴラードを見上げた。

「セヴラード様」

「何だ」

「私、ここへ来たばかりの頃、自分がこの家に何かを返せるとは思っていませんでした」

 セヴラードは黙って聞いている。

「食べていいと言われても戸惑いました。部屋を与えられても、使っていいのか分かりませんでした。妻になることも怖くて、また失敗するかもしれないと思っていました」

「ああ」

「でも今は、少しだけ思います」

 イリディアは、窓辺の蕾を見る。

「この家のために、何かをしたいと。役に立たなければいけないからではなく、この家が好きだから」

 好き。

 その言葉が、胸の奥で静かに響いた。

 ノルヴァイルの寒さも。

 石造りの屋敷も。

 暖炉の火も。

 食堂のざわめきも。

 不器用な夫も。

 涙ぐむ侍女も。

 厳格な家令も。

 大きな声の料理長も。

 押し花を飾る少女も。

 手袋を見せる子どもも。

 全部、少しずつ好きになっていた。

 セヴラードは、しばらく黙っていた。

 やがて、低く言った。

「ここはお前の家だ」

 その言葉は、何度も聞いた。

 王都へ行く前にも。

 帰ってきた日にも。

 書斎で泣いた時にも。

 けれど、今日はまた違う響きだった。

 ここはお前の家だ。

 だから守られるだけでなく、整えていい。

 鍵を持っているだけでなく、扉を開けていい。

 席に座るだけでなく、食卓の献立を考えていい。

 暖炉に温められるだけでなく、誰かのために火を足していい。

 イリディアは、静かに息を吸った。

 そして、穏やかに答えた。

「はい」

 声は震えなかった。

「もう、私は辺境伯家の妻です」

 セヴラードの目が、ほんの少し動いた。

 その言葉を、彼は黙って受け取った。

 イリディアも、胸の中でその言葉をもう一度繰り返す。

 もう、私は辺境伯家の妻です。

 誰かの代わりに嫁がされた妻ではない。

 便利な駒として扱われる妻ではない。

 夫の隣の席を妹へ譲る妻ではない。

 謝罪と後悔に引き戻される元妻でもない。

 自分で選び、自分で帰り、自分の席に座る妻。

 ノルヴァイル辺境伯家の妻。

 セヴラードの隣に立つ妻。

 そして、この家の火を、誰かのために守っていく人。

 セヴラードは、少しだけ手を伸ばした。

 途中で止まる。

 いつものように、待つ。

 イリディアは、その手を見て微笑んだ。

 そして、自分から重ねた。

 彼の手は温かかった。

「寒いか」

 セヴラードが聞く。

 イリディアは首を横に振る。

「いいえ」

「本当にか」

「本当にです」

「ならいい」

 イリディアは、少しだけ彼の手を握り返した。

「でも、寒くなったら言います」

「言え」

「はい」

「火を足す」

 その言葉に、イリディアは目を細めた。

 最初の夜。

 眠れず暖炉の前にいた自分へ、彼は何も聞かずに薪を足した。

 あの時、恋ではなく信頼の芽が生まれた。

 今、その芽は静かに根を張っている。

 大きな花束ではない。

 北の春のように、少しずつ。

 イリディアは、窓辺の雪明かり草へ視線を向けた。

 蕾はまだ開いていない。

 でも、咲く。

 きっと。

 その日の夕食は、ベッタの宣言通り、春の兆しを祝う献立になった。

 若い香草の試し摘みを少しだけ入れたスープ。冬を越した根菜の煮込み。塩気のある焼き立てパン。蜂蜜をかけた林檎。子どもたちへ配る試作品だという小さな焼き菓子。

 食堂には、いつもの席があった。

 イリディアはセヴラードの隣に座る。

 ハルトヴィンが給仕の流れを見ている。

 ミラが控えている。

 ベッタが満足げに料理を運んでくる。

 外はまだ寒い。

 けれど、食堂は温かい。

 イリディアはスープを一口飲み、微笑んだ。

「春の味がします」

 ベッタが胸を張った。

「当然です」

 その言葉に、皆が少し笑った。

 夜、寝室へ戻る前に、イリディアは書斎へ寄った。

 雪明かり草の蕾を見るためだった。

 ミラは何も言わず、灯りを持ってついてきた。セヴラードも、少し離れて廊下で待っている。

 書斎の中は暖かい。

 窓の外は夜の雪。

 鉢の蕾は、昼間と同じように静かにそこにあった。

 イリディアは、その小さな青にそっと指を近づけた。

 触れはしない。

 ただ、見守る。

「咲いたら」

 ミラが小さく言った。

「屋敷中が大騒ぎですね」

「そうね」

 イリディアは微笑んだ。

「でも、咲く前からもう嬉しいわ」

「蕾ですものね」

「ええ」

 蕾。

 まだ花ではない。

 けれど、未来を持っている。

 イリディアはその蕾を見つめながら、静かに思った。

 自分も、まだ途中なのだと。

 すべての傷が癒えたわけではない。

 過去を思い出せば痛む。

 流産の夜の記憶は消えない。

 父母の声も、リゼリットの涙も、ダリオンの後悔も、時には夢に出るだろう。

 でも、それでも未来はある。

 春は、完璧な花として突然来るのではない。

 小さな蕾として来る。

 少しずつ開く。

 寒さの中で。

 それでいい。

 イリディアは、胸元の鍵飾りに触れた。

 そして、書斎の灯りを少し落とす。

「おやすみなさい」

 蕾へ向けて、小さく言った。

 部屋を出ると、セヴラードが廊下で待っていた。

「見たか」

「はい」

「咲いていないだろう」

「まだ」

「なのに毎回見るのか」

「見ます」

「そうか」

 セヴラードはそれ以上何も言わなかった。

 ただ、手を差し出した。

 イリディアは笑って、その手を取る。

 廊下の窓には、夜の雪が映っている。

 遠くで薪が爆ぜる音がした。

 屋敷のどこかで、使用人たちが片づけをしている気配がある。

 食堂の火は、まだ完全には落とされていない。

 明日の朝には、またスープの匂いがするだろう。

 子どもの手袋を直す布も届くだろう。

 南棟の小応接室の修繕案も上がってくるだろう。

 雪明かり草の蕾は、少しだけ膨らむかもしれない。

 そんな明日がある。

 イリディアは、セヴラードの隣を歩きながら思った。

 帰る家があるというのは、きっとこういうことなのだ。

 ただ眠る屋根があることではない。

 ただ名を置く屋敷があることでもない。

 明日の火を誰かと気にかけ、誰かの手袋を直し、食卓の献立を考え、蕾が開くのを待つこと。

 ただいまと言えて、お帰りなさいと返ってくること。

 そして、自分も誰かにそう返せる場所であること。

 イリディアは、静かに息を吸った。

 北の夜の冷たい空気と、屋敷の暖かい匂いが混じっている。

 その匂いの中で、彼女はもう一度、心の中で言った。

 ここは私の家。

 私は、この家の妻。

 もう、私は辺境伯家の妻です。

 その言葉は、雪の夜に溶けることなく、胸の奥で静かに灯り続けた。


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