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番外編1 元夫は、空席の意味を知る
レーヴェニア侯爵邸の朝は、以前よりも静かになった。
静か、というより、音が足りなかった。
夜明け前から厨房で湯が沸く音はする。廊下を拭く使用人の足音もある。厩舎の方から馬の鼻を鳴らす音も届く。庭師が石畳に落ちた枯れ枝を掃く音も、窓の外からかすかに聞こえる。
けれど、どこか整っていない。
音の順番が違う。
以前は、朝の屋敷には流れがあった。
厨房の火が入る。
玄関ホールの花が替えられる。
食堂の銀器が磨かれる。
執務室へ最初の書類が運ばれる。
ダリオンの部屋へ朝の茶が届く。
家令が必要な報告をまとめる。
その少し後、イリディアが食堂へ降りてくる。
彼女は大きな声を出す女ではなかった。
使用人たちへ細かく命じる時も、声は静かだった。誰かを叱責する時ですら、廊下の端まで響くような怒鳴り方はしない。けれど、彼女がいる朝は、不思議と屋敷全体の針が同じ方向を向いていた。
今は、その針がばらばらになっている。
朝食の時間になっても、食堂の扉は重く感じられた。
ダリオンは廊下を歩きながら、ふと足を止めた。
空気が冷たい。
冬の終わりとはいえ、王都の屋敷でここまで廊下が冷えることはなかった。以前なら、イリディアが暖房係へ指示して、食堂へ続く廊下だけは朝に冷えすぎないよう火を入れさせていた。
ダリオンは、そのことを最近知った。
いや、正確には、失ってから知った。
家令が言ったのだ。
「以前は奥様が、旦那様が朝食の前に通られる廊下の火を、季節に応じて調整するようお命じでした」
奥様。
その呼び名は、今のレーヴェニア侯爵邸では宙に浮いている。
ここに奥様はいない。
離縁した。
再婚した。
ノルヴァイル辺境伯夫人になった。
それでも使用人たちは、ふとした瞬間にイリディアを「奥様」と呼びそうになる。そして、途中で言葉を飲み込む。そのわずかな沈黙が、ダリオンの耳に刺さる。
食堂の扉が開かれた。
中は暖かい。
だが、以前とは違う匂いがした。
焼きたてのパンと、薄いスープと、少し焦げた卵の匂い。料理そのものが悪いわけではない。厨房の者たちは職務を果たしている。けれど、献立にまとまりがなかった。
以前なら、朝は重すぎず、しかし執務が長引いても空腹になりにくいものが出た。
ダリオンが前日に酒を少し飲みすぎた時は、胃に優しいものが出た。
午前に来客がある日は、香りの強い料理を避けていた。
ダリオンはそれを、厨房がよくできているのだと思っていた。
違った。
イリディアが、前夜に確認していた。
客の顔ぶれ、ダリオンの予定、天候、使用人の体調、厨房の食材の残り。すべてを見て、料理長へ短く指示していた。
ダリオンは、自分の席へ向かった。
長卓の上座。
そこは変わらない。
そして、その右手側。
かつてイリディアが座っていた席。
椅子は、そのまま置かれている。
誰も座らない。
リゼリットが座ったこともあった。
以前の晩餐会で、ダリオンがそうさせた。リゼリットは人が多い場が苦手だからと。イリディアはしっかりしているから平気だろうと。何の疑いもなく言った。
今、その椅子を見るたびに、ダリオンは喉の奥が苦くなる。
イリディアはあの夜、別の席へ移った。
微笑んでいた。
ダリオンは、その微笑みを「分かってくれている」と読んだ。
今なら分かる。
違った。
あれは、痛みを表に出さないための微笑みだった。
椅子の背に、淡い光が落ちている。
窓から差し込む朝日が、空席の上だけを静かに照らしていた。
使用人が、迷うようにその椅子へ手を伸ばしかけた。
椅子を少し下げるか、上座との距離を変えるか、そう考えたのだろう。
ダリオンは、反射的に言った。
「そのままでいい」
使用人の手が止まる。
「かしこまりました」
そのまま。
何をそのままにしたかったのか、ダリオン自身にも分からない。
席を残しておけば、彼女が戻るわけではない。
裁定の場で、彼女ははっきり言った。
復縁を求める言葉は、今後一切受け取りません。
門前でも言った。
謝罪は受け取ります。けれど、あなたの元へは戻りません。
そして、あの言葉。
あなたの門の内側に、私はもういません。
私の門の内側に、あなたは入れません。
その言葉を思い出すと、胸の奥が冷たく沈む。
ダリオンは、食卓についた。
使用人がスープを置く。
匙を取る。
香りが薄い。
口に運ぶ。
味がしない。
料理が悪いのではない。
自分の舌が、何かを拒んでいる。
向かいの壁には、以前イリディアが選んだ絵がかかっていた。派手な神話画ではなく、穏やかな庭を描いた絵だ。ダリオンはその絵を気に留めたことがなかった。ある日、廊下から外された古い絵が倉庫へ運ばれていくのを見て、何となく変わったのだと知っただけだった。
今、その絵を見る。
庭の椅子が二つ描かれている。
片方は空いている。
ダリオンは匙を置いた。
「食欲がございませんか」
家令が控えめに聞く。
「いや」
そう言いながら、彼は食べなかった。
以前なら、イリディアが見ていた。
無理に食べろとは言わない。
ただ、朝食後に執務室へ胃に優しい茶を用意していた。
それも、最近になって知った。
あの茶は厨房の気まぐれではなかった。
妻が、夫の状態を見て用意させていた。
自分は、それを一度でも気づいて礼を言っただろうか。
記憶を探しても、見つからなかった。
朝食後、執務室には帳簿が山のように積まれていた。
レーヴェニア家は現在、王都での信用を大きく落としている。主要夜会への出席は控えるよう勧告され、商談のいくつかは保留になり、イリディアの私財返還と補償についても正式な監視が入っている。
家として処理しなければならないことは多い。
だが、机に積まれた帳簿は、ただ量が多いだけではなかった。
乱れている。
表面上は整っているように見える。数字は並んでいる。印もある。家令や会計係も仕事をしている。けれど、細部のつながりが悪い。支払いの時期と納入の記録にずれがある。招待費と交際費の分類が曖昧になっている。メルシュタイン家へ移された品の扱いも、どこかで「家族内貸与」と「贈与」が混ざっている。
以前なら、こんな状態になる前に修正されていた。
イリディアの小さな文字が、余白に入っていた。
『こちらは支払日を確認』
『リゼリット様使用分。貸与扱いのため返却予定を記録』
『旦那様、午前の来客後に確認願います』
『厨房予算、冬季分を前倒し』
『来月の茶会費、実家分との混同に注意』
ダリオンは、古い帳簿を開いた。
そこにはイリディアの筆跡があった。
細く、整っていて、読みやすい字。
昔は、その字を見ても何も思わなかった。
むしろ、便利だと思っていた。
必要なところに印がある。
説明が短く書かれている。
自分が見落としそうな部分がまとめられている。
それだけだった。
今は、その一行一行が、妻の沈黙の重さに見えた。
彼女はここで何度、指を止めただろう。
自分の私物が家族内貸与として処理されるのを見て、どんな気持ちで欄外に「返却予定」と書いたのだろう。
返らないと分かっていたのか。
それでも書いたのか。
記録だけでも残そうとして。
ダリオンは、帳簿の余白に触れた。
紙は乾いている。
インクも古い。
けれど、その文字はまだ残っている。
イリディアの声が、紙の上に残っているようだった。
「返却予定」
小さく呟く。
リゼリットの首元で輝いていた菫色の首飾り。
イリディアの祖母の形見。
自分は言った。
一晩だけ貸してやればいい。
それが、どれほど軽い言葉だったか。
あの一言で、イリディアはどれほど諦めただろう。
ダリオンは目を閉じた。
後悔しても、首飾りは戻った。
だが、それはイリディアが取り戻したからだ。
ダリオンが守ったからではない。
夫として守るべきだったものを、彼は守らなかった。
妻が去り、再婚し、公の場で声を上げ、裁定を経て、ようやく戻った。
その過程のどこにも、自分の誇れる行いはない。
扉が叩かれた。
「入れ」
家令が入ってくる。
「旦那様。午後の面会予定についてですが」
ダリオンは顔を上げた。
「まだあったか」
「三件ございましたが、一件は延期の申し出が。もう一件は、先方より書面で済ませたいとの連絡がございました」
つまり、来ない。
直接会うことを避けられている。
以前なら、レーヴェニア侯爵家の執務室へ来ることは、ある種の栄誉だった。若い侯爵と顔をつなげること。社交的で穏やかな当主と親しくなること。そういう価値があった。
今は違う。
流産の夜に妻を置き去りにした男。
元妻の私財管理を怠った男。
公の場で復縁を迫り、拒絶された男。
そう見られている。
それが、事実から外れていないことが、なお苦しかった。
「残りの一件は」
「グラナート商会の代理人です」
ダリオンの眉がわずかに動く。
グラナート商会。
ノルヴァイル領へ不利な取引を押しつけていた商会。
イリディアが帳簿から気づいた件だ。
レーヴェニア家とのつながりも調査されている。
「断れ」
「よろしいのですか」
「今会えば、さらに疑われる」
家令は一礼した。
「かしこまりました」
彼が出ていこうとした時、ダリオンは思わず呼び止めた。
「待て」
「はい」
「以前、この手の商会との契約は、誰が最終確認していた」
家令は答えを躊躇した。
その沈黙で、ダリオンは分かった。
「イリディアか」
「奥様が、下読みをされておりました」
奥様。
家令は言ってから、わずかに顔色を変えた。
「失礼いたしました」
「いい」
ダリオンは低く答えた。
「続けろ」
「はい。奥様は、商会からの契約書に目を通し、こちらへ不利な条項や曖昧な表現があれば、付箋を付けておられました。旦那様の最終確認前に」
知らなかった。
いや、見ていたはずだ。
机の上に、付箋のついた契約書があった。
自分はそれを読み、必要なら署名した。
付箋がついていて分かりやすいと思った。
誰がそこへ注意を向けたのか、考えなかった。
家令は静かに続けた。
「奥様が離縁なさってから、その確認の精度が落ちております。会計係も努めておりますが、奥様は社交上の背景や親族関係まで踏まえて見ておられたので」
ダリオンは、机の帳簿を見た。
妻は、家の中だけではなく、外との関係も整えていた。
社交も、契約も、財産も。
黙って。
目立たず。
夫の名を立てる形で。
ダリオンはその成果だけを受け取っていた。
彼女がどれほどの時間と神経を使っていたかも知らずに。
「分かった」
それだけ言うのがやっとだった。
家令が出ていくと、執務室に静けさが戻った。
ダリオンは立ち上がった。
机に座っていることが急に耐えられなくなった。
廊下へ出る。
足が自然と、かつての夫人室へ向かう。
イリディアが使っていた部屋。
離縁後、ほとんど手つかずになっている。彼女の私物は整理され、返還されたもの、補償対象になったもの、ノルヴァイル家へ送ったものに分けられた。部屋自体は空に近い。
扉の前で、ダリオンはしばらく立ち止まった。
入っていいのか。
ここはもう、誰の部屋でもない。
だが、だからこそ入るのが怖かった。
彼は扉を開けた。
中は静かだった。
カーテンは開けられている。
窓から光が入る。
机は空。
棚も空。
暖炉には火がない。
ここは、以前からこんなに冷たい部屋だっただろうか。
いや、違う。
イリディアがいた頃、この部屋には小さな温度があった。
彼女の香り。
インクの匂い。
薬草茶の湯気。
整理された便箋。
椅子の背に掛けられたショール。
祖母の祈祷書。
小さな花。
それらはすべて消えていた。
部屋は、ただの空き部屋になっている。
ダリオンは机に近づいた。
天板に、薄い傷がある。
昔、イリディアがペン先を落とした時についたものかもしれない。
彼はその傷に触れた。
ここで彼女は、何度手紙を書いたのだろう。
実家へ。
リゼリットへ。
自分へ渡すための覚書へ。
そして、離縁の準備をする書類へ。
離縁届は静かに乾いていく。
あの時、自分は何をしていた。
おそらく、リゼリットの体調か、社交の予定か、家の面子か。
妻が自分の人生を畳み始めていたことに、気づきもしなかった。
ダリオンは、椅子へ座ろうとしてやめた。
座れなかった。
ここに座る資格がないと思った。
部屋を出る。
廊下を歩く。
使用人たちが視線を下げる。
以前と同じ礼。
けれど、その下にある空気が違う。
敬意はある。
職務上の忠誠もある。
だが、信頼は薄くなった。
それは当然だった。
この屋敷の使用人たちは、見ていたのだ。
イリディアがどれほど働いていたか。
彼女がどれほど譲らされていたか。
夫がそれに気づかなかったことも。
そして、気づいた時には遅かったことも。
午後、社交関係の書状が届いた。
封を切る前から、内容はだいたい分かった。
茶会の延期。
夜会招待の見送り。
商談の再調整。
親族からの遠回しな苦言。
ダリオンは、一通ずつ読んだ。
以前なら、こうした書状への返事はイリディアが草案を書いていた。
相手の家格、過去の付き合い、失礼にならない断り方、こちらの余地を残す言い回し。すべて、彼女が整えていた。
彼はその草案に少し手を入れて署名していただけだった。
今、白紙の便箋を前にして、ダリオンは言葉に詰まった。
何を書いても、こちらの弱さが滲む気がする。
何を書いても、嘘になる気がする。
ペン先が止まる。
インクが乾いていく。
ふと、イリディアの離縁届を思い出した。
彼女は、どんな気持ちでインクが乾くのを見ていたのだろう。
その時、自分はどこにいたのだろう。
同じ屋敷にいながら、どれほど遠くにいたのだろう。
夕方、食堂へ戻ると、空席はまだそこにあった。
誰も座らない。
使用人がその席の前にも一応皿を置きかけて、途中で気づいて下げた。
ダリオンは、それを見て胸が痛んだ。
「置かなくていい」
彼は言った。
使用人は頭を下げる。
「失礼いたしました」
しかし、皿がなくても椅子はある。
空席は消えない。
食事が始まる。
向かい合う者はいない。
ダリオンは、一人で食べる。
以前も、イリディアが実家へ行っていたり、リゼリットの看病で不在だったりする日はあった。けれど、その時は「帰ってくる」と思っていた。
今は違う。
帰ってこない。
ノルヴァイルへ帰った。
自分の家へ。
あの門の内側へ。
ダリオンは、空席を見た。
この席は、イリディアがただ座っていた場所ではなかった。
食卓を整えていた人の席だった。
家の空気を読んでいた人の席だった。
沈黙しながら痛みに耐えていた人の席だった。
夫に見てもらえるかもしれないと、どこかで待っていた人の席だった。
そして、最後にはその期待を殺した人の席だった。
あなたの妻だった私は、あの夜に死にました。
その言葉が、また胸を抉る。
妻だったイリディアは死んだ。
今生きているのは、ノルヴァイル辺境伯夫人イリディア。
自分の空席に戻る女ではない。
ダリオンは、食事を途中でやめた。
使用人が心配そうにしたが、何も言わない。
彼もまた、何も言わなかった。
夜になり、侯爵邸はさらに静かになった。
以前なら、イリディアの部屋に明かりが残っていることがあった。遅くまで書類を見ていたのだろう。あるいは、リゼリットからの手紙に返事を書いていたのだろう。ダリオンはその灯りを見ても、仕事熱心だと思うだけだった。
今、その窓は暗い。
暗いまま。
彼は自室へ戻らず、食堂へもう一度行った。
灯りは落とされている。
使用人が片づけを終えた後で、広い食堂には冷えた空気が戻り始めていた。長卓の上には何もない。銀器も皿も下げられ、燭台だけが残っている。
そして、椅子。
イリディアの席。
闇の中でも、その輪郭が見えた。
ダリオンは、ゆっくり近づいた。
椅子の背に触れる。
冷たい。
ここに彼女がいた。
何年も。
自分の隣で。
彼女は声を荒らげなかった。
泣きつかなかった。
責めなかった。
だから、ダリオンは何も起きていないと思った。
違った。
何も起きていなかったのではない。
彼女の中で、毎日何かが削れていた。
椅子を譲るたび。
首飾りを奪われるたび。
実家から「強い子でしょう」と言われるたび。
夫が妹を優先するたび。
痛みを伝えられない夜が増えるたび。
そして、流産の夜。
最後に残っていたものまで砕けた。
ダリオンは椅子の前に立ったまま、目を閉じた。
復縁したいと、ずっと思っていた。
最初は本気で、まだやり直せると思っていた。
謝れば戻ると。
花を持っていけば会えると。
思い出を語れば、彼女も昔を思い出すと。
どれほど愚かだったか。
彼女が覚えている昔は、自分の記憶とは違ったのに。
自分が幸福だと思っていた場面は、彼女が我慢していた場面だったのに。
空席の意味を、今ようやく知る。
この席は、戻るために空いているのではない。
失ったものの形として、空いている。
そこに誰かを座らせれば、失った事実が消えるわけではない。
リゼリットを座らせても、埋まらなかった。
新しい誰かを座らせても、きっと埋まらない。
なぜなら、この空席は「妻の席」ではなく、イリディアという一人の人間が黙って支えていた日々の跡だから。
ダリオンは、椅子から手を離した。
「すまなかった」
誰もいない食堂で、そう言った。
その謝罪は、彼女には届かない。
届けてはいけない。
門前で、彼はすでに謝罪した。
彼女は受け取った。
そして、戻らないと言った。
これ以上、謝罪を差し出して彼女の平穏に触れてはいけない。
だからこの謝罪は、空席へ落ちるだけでいい。
自分が忘れないために。
取り返しがつかないことを、毎日見るために。
翌朝、ダリオンは家令を呼んだ。
「奥様の席を」
言いかけて、言葉が止まった。
奥様。
もう、この屋敷の奥様ではない。
だが、別の言い方が見つからない。
家令は黙って待った。
ダリオンは、言い直した。
「イリディアが座っていた席を、片づける必要はない」
家令がわずかに目を上げる。
「よろしいのですか」
「ああ」
ダリオンは食堂の方角を見た。
「誰も座らせるな」
「かしこまりました」
「ただし、戻る席として残すのではない」
家令は黙っていた。
ダリオンは続けた。
「私が忘れないための席だ」
家令の表情が、ほんの少しだけ変わった。
同情ではない。
許しでもない。
ただ、言葉の意味を受け取った顔だった。
「承知いたしました」
家令は一礼し、部屋を出ていった。
その後、ダリオンは執務室の窓を開けた。
冷たい空気が入る。
王都の朝の匂い。
石畳、馬車、遠くの花屋、湿った土。
机の上には、まだ処理すべき書類が山のようにある。
私財返還の確認。
補償額の算定。
噂撤回の文書。
商会関係の整理。
社交辞退の返信。
彼は椅子へ座った。
以前なら、どこかでイリディアが整えてくれていたもの。
今は、自分で向き合わなければならない。
彼女のいない日々を。
彼女がいた日々の重さを。
そして、自分が失ったものを。
ダリオンはペンを取った。
最初の書類は、ノルヴァイル家へ送る返還品確認書だった。
宛名を書く。
ノルヴァイル辺境伯家代理人殿。
イリディアへ直接送らない。
裁定通りに。
約束通りに。
それが、今の彼にできる唯一の守り方だった。
ペン先が紙を滑る。
文字は少し硬かった。
それでも、書き続けた。
昼になり、食堂へ行く。
空席は、やはりそこにある。
誰も座らない。
ダリオンは上座に座る。
そして初めて、空席に向かって小さく頭を下げた。
使用人は見ていないふりをした。
それでよかった。
これは誰かに見せるための後悔ではない。
王都の社交界に語るための懺悔でもない。
イリディアへ届くべき謝罪でもない。
ただ、彼がこの屋敷で生きていく限り、毎日向き合うべき空白だった。
食事が運ばれる。
今日のスープは、昨日より少し味がした。
おそらく、料理長が工夫したのだろう。
ダリオンは匙を取った。
空席を見ながら、一口飲む。
温かい。
しかし、その温かさの中に、以前のような整った安らぎはない。
それも当然だった。
イリディアが整えていた日々は、もう戻らない。
彼女は北で、別の食卓に座っている。
自分の席に。
奥様の席に。
お帰りなさいと言われる家で。
そのことを想像すると、胸は痛んだ。
だが、その痛みを理由に彼女を呼ぶことは、もうしない。
できない。
してはいけない。
ダリオンは、空席から目を逸らさなかった。
ようやく、知ったからだ。
妻が去った屋敷の崩れ方を。
黙って整えられていた日々の重さを。
誰かが座っていた席が空くということの意味を。
そして、取り返しのつかない後悔は、泣いても謝っても、誰かが戻ってきて埋めてくれるものではないということを。
食堂の窓の外で、王都の春の光が揺れていた。
薄く、明るく、美しい光。
けれどダリオンの隣の席は、今日も空いたままだった。
その空席が、これから先も彼に教え続ける。
彼が何を見ずにいたのか。
何を当然だと思い込んでいたのか。
そして、誰を失ったのかを。
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