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第38話 レナック家に、婚姻の申し入れが届く
王都から戻って、三日が過ぎた。
レナック家の屋敷には、いつもの音が戻り始めていた。
朝は薪がはぜる音で始まり、台所ではサナが鍋を火にかける音がする。ミレは薬草飴の包み紙を切るたびに、今日こそ真っすぐ切れました、と小さく報告してくる。マルティナさんは膝掛けを整えながら、食堂の椅子に座って茶を飲む。
エルネスタは、食料庫の鍵を手にして、棚の前に立っていた。
冬の保存食は、今のところ足りている。
豆、干し野菜、干し肉、蜂蜜、粉、薬草。
王都へ行く前には、これらを見ても心がどこか落ち着かなかった。けれど今は、棚札の文字を見ると少し息が整う。
ここには役割がある。
ここには、自分が触れていいものがある。
ここには、鍵を預けられた理由がある。
王都で親族たちの前に立った日、エルネスタは確かに言った。
私は、戻りません。
その言葉は、まだ完全には身体から抜けていない。夜になると、父の怒声や母の涙が夢の縁に滲むこともある。ヴィルドリックが廊下で二人きりで話そうと迫った時の声も、ふいに耳の奥で蘇る。
だが、そのたびに思い出すものもあった。
オズヴァルドの声。
離縁した女を、まだ所有物のように呼ぶな。
その言葉は、今でも胸の奥に残っている。
誰かが自分のために怒ってくれた。
自分を物ではないと言ってくれた。
その事実は、エルネスタの中で消えない火のように灯っていた。
そして、もうひとつ。
帰りの馬車で、目覚めた時にかけられていた外套。
雨と革と、冬の外気の匂い。
あの温かさを思い出すたび、胸が少しだけ苦しくなる。
好きです。
その言葉は、まだ言えない。
言うつもりも、まだない。
けれど、もう完全に見ないふりはできなかった。
オズヴァルドの足音が廊下から聞こえると、少しだけ顔を上げてしまう。食堂で彼が向かいに座ると、椀を持つ手に意識が向く。彼が「怒っていない」と付け加えるたびに、胸の奥が温かくなる。
感謝だけではない。
安心だけでもない。
その気持ちに名前をつけることは、まだ怖い。
それでも、今日のエルネスタは以前より少しだけ、その怖さを抱えられるようになっていた。
その日の午後、食堂には柔らかな陽が入っていた。
冬の光は弱いが、雲の切れ目から差すと、古い木のテーブルに淡い金色を落とす。エルネスタは、そのテーブルでヴァルディーン家へ送る実務記録の写しを整えていた。
茶葉の好み。
冬の贈答。
母ロザリアの薬草茶。
姉ベアトリスの衣装小物の箱。
実家で自分がしていたことを、淡々と事実だけにして渡す。
戻るためではない。
自分がやってきたことを、なかったことにしないため。
そして、もう黙って全部を背負わないため。
エルネスタは、紙を一枚ずつ重ねていた。
その向かいで、ミレが封筒の紐を用意している。
「エルネスタ様、本当に字がきれいですね」
「ありがとうございます」
「私も練習したら、こうなりますか?」
「なります。少しずつ」
「トマよりは早く上手くなれますか?」
「比べる相手が限定的ですね」
サナが台所から静かに言った。
「トマは勢いのある字ですから」
ミレが笑った。
エルネスタも、少し笑った。
その時、玄関の方で馬車の音がした。
笑いが、すっと止まる。
エルネスタは、紙を持つ手を止めた。
馬車。
この町で聞き慣れた荷馬車の音ではない。
車輪が重すぎない。馬の足音も整っている。王都の貴族家ほど大げさではないが、町の商人のものではなかった。
ミレが立ち上がる。
「私が見てきます」
サナがすぐに言った。
「私も行きます」
マルティナさんは食堂の椅子で膝掛けを直しながら、眉をひそめた。
「嫌な音だね」
エルネスタの胸も、同じことを言っていた。
嫌な音。
父でも母でも姉でもヴィルドリックでもないかもしれない。
でも、王都から来るものは、最近いつも何かを連れてくる。
命令。
涙。
責任。
不義理。
妻だった事実。
エルネスタは、手袋の葉の刺繍を握った。
今日は生成りの手袋をつけている。
書き物には少し不便だが、王都から戻って以来、落ち着かない時には自然と身につけるようになっていた。
玄関で、控えめな応対の声が聞こえる。
ミレの声。
低い男の声。
それから、サナが何かを確認する声。
しばらくして、ミレとサナが戻ってきた。
ミレの顔には、困惑と怒りが混じっていた。
サナは手に封筒を持っている。
上質な紙。
知らない紋章。
だが、封の隅に、ヴァルディーン伯爵家を通じて、という小さな添え書きがあった。
エルネスタは、その文字を見た瞬間、胸が冷えた。
「どちらからですか」
声が少し掠れた。
サナは、封筒を机へ置いた。
「王都のラウゼン子爵家からです」
ラウゼン。
聞いたことはある。
大きな家ではないが、王都ではそこそこの付き合いを持つ家だったはずだ。父の遠い知人にいた気がする。
エルネスタは、封筒を見つめた。
「私に、でしょうか」
「宛名は、エルネスタ・ヴァルディーン様」
ヴァルディーン。
その名が、胸の奥に冷たく落ちる。
レナック家にいる自分へ届いた手紙なのに、宛名はヴァルディーン家の娘としての名だ。
マルティナさんが低く言った。
「開けるかい」
エルネスタは、少しだけ息を吸った。
以前なら、怖くてすぐ誰かに開けてもらいたいと思ったかもしれない。
けれど、これは自分宛ての手紙だ。
開けるかどうかも、自分で決める。
「開けます」
エルネスタは封を切った。
紙の音が食堂へ静かに響く。
手紙は、とても丁寧だった。
丁寧すぎて、最初の数行だけでは意味が掴めなかった。
季節の挨拶。
ヴァルディーン伯爵家との親しい縁。
グランセル侯爵家との離縁後のご心労への配慮。
今後の生活の安定。
双方の家にとって望ましい結びつき。
エルネスタは、目を滑らせる。
そして、ある一文で手が止まった。
ラウゼン子爵家次男、ギルベルト・ラウゼンとの婚姻について、ヴァルディーン伯爵家より前向きなお話を頂戴しております。
婚姻。
文字が、そこだけ黒く沈んで見えた。
エルネスタの呼吸が止まる。
ミレが不安そうに顔を覗き込んだ。
「エルネスタ様?」
エルネスタは、続きを読もうとした。
けれど、目がうまく動かない。
紙を持つ指が震える。
ラウゼン子爵家次男。
婚姻。
ヴァルディーン伯爵家より前向きなお話。
前向きなお話。
誰が。
いつ。
自分に、聞いたのか。
王都の親族会議で、はっきり言ったはずだった。
私は再婚を望んでいません。
私の今後について、私の意思を抜きに決めないでください。
その言葉は、また聞かれなかったことにされたのか。
エルネスタの胸の中で、恐怖が最初に膨らんだ。
体が冷える。
父の声が蘇る。
再婚先を探す。
家の都合。
娘の処遇。
次に、怒りが来た。
ゆっくりと。
最初は小さな火だった。
けれど、手紙の文字を追うほどに、その火は静かに広がっていった。
勝手に。
また、勝手に。
自分の人生を、また誰かが決めようとしている。
それをはっきり認識した瞬間、エルネスタの背筋に冷たい震えが走った。
怖い。
でも、それだけではない。
嫌だ。
強く、はっきり、嫌だ。
エルネスタは、紙を机へ置いた。
自分でも驚くほど、丁寧な動きだった。
破り捨てたかった。
握り潰したかった。
けれど、手紙は証拠だ。
自分の意思を無視された証拠。
だから、丁寧に置いた。
「婚姻の申し入れです」
声は静かだった。
ミレが息を呑む。
サナの表情が硬くなる。
マルティナさんの目が、すっと細くなった。
「誰の」
「ラウゼン子爵家の次男、ギルベルト様との」
言ってから、エルネスタは唇を結んだ。
知らない人ではない。
おそらく夜会で一度か二度、遠くに見たことはある。線の細い男性だったような気がする。特に悪い評判は聞かなかった。
だが、今は相手が誰かではなかった。
問題は、勝手に話が進められていることだった。
「ヴァルディーン家より、前向きなお話を頂戴している、と」
エルネスタは読み上げた。
声が震えた。
怒りで。
恐怖で。
そして、あまりの虚しさで。
ミレが拳を握る。
「ひどいです」
サナが静かに言った。
「王都で再婚を望まないと明言した直後に、これは意図的ですね」
マルティナさんは椅子の背に手を置きながら、低く息を吐いた。
「父親か。親族の誰かか。どちらにせよ、聞く気がないってことだね」
聞く気がない。
その言葉で、エルネスタの胸が痛む。
王都であれほど言ったのに。
父は怒った。
母は泣いた。
姉は黙った。
ヴィルドリックは納得していなかった。
でも、少なくとも言葉はそこに置いた。
私は戻りません。
私は再婚を望んでいません。
私のことは、私の意思を抜きに決めないでください。
それなのに、もう次の婚姻話が届く。
エルネスタの意思など、最初から通過すべき形式にすぎないとでも言うように。
その時、玄関の方で別の足音が聞こえた。
オズヴァルドが戻ってきたのだろう。
巡回帰りの重い靴音。
エルネスタは、その音を聞いただけで胸が小さく跳ねるのを感じた。
こういう時、彼に頼りたくなる。
同時に、それが怖い。
自分の問題なのに。
自分の人生の話なのに。
彼が怒ってくれることを期待してしまう自分がいる。
好きです、とはまだ言えない気持ちと、助けてほしい気持ちと、迷惑をかけたくない気持ちが、胸の中で絡まる。
オズヴァルドは食堂へ入ってきた。
外の冷気をまとっている。
髪に少し雨の名残があった。今日も空は不安定で、町の外では小雨が降っていたのかもしれない。
彼は食堂の空気を見ただけで、何かあったと分かったようだった。
「何だ」
短く言う。
ミレが口を開きかけたが、サナが目で止めた。
マルティナさんが、机の上の手紙を指で示した。
「王都から、また面倒なのが来たよ」
オズヴァルドの視線が手紙へ落ちる。
それからエルネスタを見る。
彼女の顔色を確認したのだろう。
彼はすぐに言った。
「怒っていない」
その言葉に、エルネスタの喉が詰まった。
彼は続けた。
「お前には」
正確に言い直した。
エルネスタは、小さく頷いた。
「はい」
「手紙を読んでいいか」
彼は勝手に取らなかった。
必ず聞いた。
それだけで、胸の奥の震えが少しだけ変わる。
「お願いします」
エルネスタは手紙を差し出した。
指先が少し触れた。
たったそれだけで、胸がまた揺れる。
オズヴァルドは手紙を受け取り、読み始めた。
表情はあまり変わらない。
だが、読み進めるにつれて、手紙を持つ指に力が入っていくのが分かった。
紙の端が、わずかに歪む。
彼は平静を装っている。
いつものように眉間に皺を寄せ、黙って文字を追っている。
けれど、エルネスタには分かった。
怒っている。
とても静かに。
声を荒げない怒り。
廊下でヴィルドリックに向けた怒りと、似ている。
でも、今はその怒りの奥に、別のものがあるようにも見えた。
オズヴァルドは最後まで読み終えた。
しばらく黙っていた。
食堂には、暖炉の薪がはぜる音だけが響いた。
エルネスタの胸が少し強ばる。
その沈黙に反応したように、オズヴァルドは低く言った。
「怒っている」
正直な言葉。
エルネスタは息を呑む。
彼は、手紙から目を上げた。
「お前にじゃない」
「はい」
「この手紙にだ」
「はい」
「ヴァルディーン家にもだ」
「……はい」
オズヴァルドの手の中で、手紙の端がまた少し曲がった。
彼はそれに気づいたのか、意識して力を緩めた。
それでも、指の節は白い。
「王都で、再婚を望まないと言った直後だ」
「はい」
「本人の意思を抜きに決めるなとも言った」
「はい」
「聞いていないのか」
低い声。
怒鳴ってはいない。
けれど、言葉の奥が冷えている。
エルネスタは、手袋の葉を握った。
「聞こえてはいたのだと思います」
自分で言いながら、胸が痛んだ。
「でも、聞きたい形ではなかったのでしょう」
オズヴァルドの目が彼女へ向く。
エルネスタは続けた。
「父にとって私は、戻すべき娘で、再婚先を決めるべき駒です。私が望んでいないと言っても、冷静ではないとか、今はそう思っているだけだとか、そういうふうに」
声が少し震える。
「また、私の言葉が別の形に変えられたのだと思います」
言葉を言いながら、胸がずきずきした。
だが、前より少し違った。
ただ傷つくだけではない。
怒りがある。
はっきりと。
「でも」
エルネスタは、机の上の手紙を見た。
「今度は、私にも分かります」
マルティナさんが、静かに彼女を見る。
「何がだい」
「私の人生を、また誰かが決めようとしているのだと」
言葉にした瞬間、食堂の空気が変わった。
ミレが目を潤ませる。
サナがゆっくり頷く。
オズヴァルドは、手紙を握ったまま、エルネスタを見ていた。
エルネスタは、胸に手を当てた。
昔なら、ここでまず恐怖だけを感じていた。
父が決めたなら、断れるのだろうか。
相手の家に失礼ではないか。
家族が困るのではないか。
世間体はどうなるのか。
そう考えて、自分の嫌だという感情を後回しにした。
でも今は違う。
怖い。
もちろん怖い。
けれど、怒っている。
私の人生を、勝手に決めないでほしい。
その思いが、胸の中にはっきりある。
「私は」
エルネスタは、ゆっくり言った。
「この婚姻を望みません」
食堂に、言葉が落ちる。
「ラウゼン子爵家の方がどういう方かは、今は関係ありません。よい方かもしれません。悪い方ではないかもしれません。でも、私は望んでいません」
オズヴァルドの指が、ほんの少し動いた。
エルネスタは気づかなかった。
マルティナさんは気づいた。
ミレも、たぶん少しだけ気づいた。
サナは、気づいても表情に出さなかった。
「私は再婚を望みません。父が話を進めていたとしても、私は受けません」
エルネスタは、手袋の葉を握りしめた。
「今度は、私から断ります」
言えた。
自分の声で。
レナック家の食堂で。
淡い緑の椀のある場所で。
オズヴァルドは、手紙を机へ置いた。
「書面で返す」
短く言う。
エルネスタは彼を見る。
「はい」
「俺も確認する」
「お願いします」
「いや」
彼はそこで一度言葉を切った。
眉間に深い皺が寄る。
エルネスタは少し不安になった。
すると彼は、すぐに言った。
「怒っていない。言葉を探している」
エルネスタは、ほっと息を吐く。
「はい」
オズヴァルドは、少しだけ視線を落とした。
「俺が断るんじゃない。お前が断る手紙を、利用されないよう確認する」
その言い直しに、エルネスタの胸が熱くなる。
彼は、分かっている。
自分が断ることの意味を。
彼が前に出すぎれば、それはまた「誰かがエルネスタの代わりに決める」ことに近づいてしまう。
だから、彼は確認するだけ。
守る。
でも、奪わない。
「ありがとうございます」
エルネスタの声は、少し震えていた。
オズヴァルドは短く頷く。
「ラウゼン家にも、ヴァルディーン家にも送る」
サナがすぐに言う。
「写しを残しましょう。日時と使者の名も記録します」
「はい」
ミレが拳を握った。
「私、封筒を用意します。すごく強そうな封筒を」
マルティナさんが苦笑した。
「封筒に強いも弱いもあるかい」
「あります。気持ちが」
「気持ちは分かったよ」
少しだけ、食堂に笑いが戻りかけた。
けれど、オズヴァルドはまだ手紙を見ていた。
その横顔は、いつもより硬い。
平静を装っている。
けれど、指に残る力が、彼の内側を隠しきれていなかった。
エルネスタは、それを見て胸が揺れた。
彼は怒ってくれている。
自分の人生を勝手に進めようとする相手に。
けれど、それだけだろうか。
王都からの帰り道、彼の外套に包まれながら気づいた感情が、また胸の奥から顔を出す。
もし、オズヴァルドが自分の再婚話に怒っているのだとしたら。
それは、ただ不当だからなのか。
それとも。
そこまで考えて、エルネスタは慌てて目を伏せた。
だめだ。
期待してはいけない。
オズヴァルドは、誰かの意思が踏みにじられるのを怒っているだけかもしれない。彼はそういう人だ。彼女を物として扱う言葉に怒ってくれたように、今回も本人の意思を無視した手紙に怒ってくれている。
それだけでも十分すぎる。
そこに、自分の願いを勝手に重ねてはいけない。
好きです、とはまだ言えない。
そして、好きでいてほしいなどと思ってしまったら。
そんな願いは、この居場所を壊すかもしれない。
エルネスタは、深く息をした。
今考えることは一つ。
婚姻を断ること。
自分の人生を、また誰かに決めさせないこと。
マルティナさんは、そんな二人を見比べていた。
オズヴァルドは手紙を静かに睨んでいる。
エルネスタは自分の感情を押し込めるように手袋を握っている。
二人とも、相手のことを見ているようで、肝心なところを見ようとしていない。
マルティナさんは、深く、長くため息をついた。
「まったく」
食堂の全員が彼女を見る。
ミレが首を傾げる。
「マルティナ様?」
「いや、何でもないよ」
何でもなくはない声だった。
マルティナさんは、茶を一口飲み、また二人を見た。
「王都の馬鹿どもにもため息だけどね」
そこで一度切る。
「こっちの二人にも、まあ、ため息だよ」
エルネスタは、意味が分からず瞬きをした。
オズヴァルドは眉を寄せる。
「何の話だ」
「分からないならいい」
「よくない」
「分かるようになったら言うよ」
マルティナさんは、さらりと言った。
ミレは何かを察したように口元を押さえた。
サナは静かに目を逸らした。
エルネスタは、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
何かを見透かされた気がする。
でも、何をとは言えない。
オズヴァルドは、まだ不服そうだったが、手紙の方へ意識を戻した。
「返事を書く」
「今すぐですか」
エルネスタが聞く。
「早い方がいい」
彼は言った。
それから、少し言い直す。
「ただし、お前が今書けるならだ」
エルネスタは、胸の奥でその言い直しを受け取った。
彼は、急かさないようにしてくれている。
彼女が自分の意思で書くのを待とうとしている。
「書けます」
エルネスタは言った。
声は震えた。
でも、確かだった。
「今、書きたいです」
机の上に、新しい紙が置かれた。
サナがインクと筆を用意する。
ミレは封筒を持ってくる。確かに、少し厚手で強そうな封筒だった。
マルティナさんは、食堂の椅子で腕を組み、見守る。
オズヴァルドはエルネスタの隣ではなく、斜め向かいに座った。
手紙を奪わない距離。
でも、必要ならすぐ確認できる距離。
エルネスタは筆を持った。
手が震える。
最初の一文が、なかなか出ない。
断る。
婚姻を断る。
それだけなのに、家のしがらみ、相手への礼儀、父への恐怖、世間体が、一斉に筆先へまとわりつく。
失礼ではないか。
角が立つのではないか。
父が怒るのではないか。
でも、エルネスタはもう知っている。
角を立てないために、自分の人生を差し出す必要はない。
深く息を吸う。
新しいドレスを着た日に、鏡の前で確認した呼吸を思い出す。
言葉は、静かに出てきた。
ラウゼン子爵家御中。
このたびの婚姻のお申し入れについて、書面にてお返事申し上げます。
私、エルネスタ・ヴァルディーンは、現在いかなる再婚も望んでおりません。
よって、ギルベルト・ラウゼン様との婚姻について、お受けする意思はございません。
ヴァルディーン伯爵家より前向きな話があったとのことですが、本件について私本人の同意はございません。
今後、私の婚姻に関する話は、私本人の意思確認なく進めないようお願い申し上げます。
筆が止まる。
短い。
けれど、足りている。
言い訳はない。
謝罪もない。
相手を悪しざまに言うこともない。
ただ、自分は望まないと書いた。
エルネスタは、紙を少し引いて見た。
「これで、どうでしょうか」
オズヴァルドが受け取る。
目で追う。
また少し黙る。
すぐに言った。
「怒っていない。確認している」
「はい」
彼は読み終えた。
「いい」
短く言う。
サナも目を通し、頷いた。
「明確です。余計な弁明がなく、利用されにくいと思います」
マルティナさんが満足そうに言った。
「上等だよ」
ミレが、小声で言う。
「すごく、エルネスタ様の手紙です」
エルネスタは、少し笑った。
「私の手紙」
「はい。静かで、でも強いです」
その言葉に、胸が温かくなる。
次に、ヴァルディーン家へ向けた手紙を書く。
こちらは、少し手が重かった。
父へ送る手紙。
また怒られるかもしれない。
だが、書く。
ヴァルディーン伯爵家御中。
ラウゼン子爵家より、婚姻申し入れに関する書面を受け取りました。
本件について、私は事前に説明も意思確認も受けておりません。
王都での会議においても申し上げた通り、私は現在再婚を望んでおりません。
私の婚姻に関する話を、私本人の同意なく進めないでください。
今後同様の話があった場合も、私は受けません。
以上。
最後の二文字を書いた瞬間、指先から少し力が抜けた。
短い。
とても短い。
でも、エルネスタには十分だった。
説明し続けない。
納得させる必要はない。
拒絶は、相手が理解した時だけ有効になるものではない。
その言葉が、紙の上に乗っている気がした。
オズヴァルドが確認する。
サナも確認する。
マルティナさんが頷く。
「いいね。余計な扉を開けてない」
エルネスタは、息を吐いた。
余計な扉。
たしかに、弁明や謝罪を書き始めれば、そこから父は入り込むだろう。
なぜ望まないのか。
なぜ家の判断に従わないのか。
なぜ娘として。
なぜ家族なのに。
その扉を、今回は開けない。
封筒に入れ、封をする。
ミレの選んだ厚手の封筒は、本当に少し強そうに見えた。
エルネスタは、封蝋を押した。
自分の紋章は持っていない。
だから、ただ無地の封でいい。
それが、今の彼女にはむしろ相応しく思えた。
家の紋章ではなく、自分の筆で断る。
そのことに意味がある。
手紙の準備が終わると、食堂の緊張が少しだけ緩んだ。
ミレが薬草茶を淹れ直し、サナが小さな焼き菓子を出した。王都から戻った後の疲れがまだ抜けきっていないのに、また大きな手紙が届いたせいで、エルネスタの顔色は少し悪くなっていたらしい。
マルティナさんは、当然のように言った。
「今日はもう、記録の続きはやめ」
「でも」
「やめ」
強い。
エルネスタは、小さく頷いた。
「はい」
オズヴァルドも言う。
「休め」
それから、少し考えて付け足した。
「怒っていない。疲れているように見える」
マルティナさんがまたため息をつく。
「そこは少し上達してるのにねえ」
「何がだ」
「何でもないって言っただろう」
オズヴァルドはさらに眉を寄せた。
エルネスタは、二人のやり取りを聞きながら、胸の奥にある不安と、別の温かさが同時に揺れるのを感じていた。
彼が怒っていた。
自分にではなく。
手紙に。
ヴァルディーン家に。
勝手に婚姻を進めようとしたことに。
それが嬉しい。
でも、嬉しいと思うことが怖い。
その怖さをどう扱えばよいのか、まだ分からない。
夜、自分の部屋へ戻ると、新しいカーテンの向こうで冬の夜が静かに沈んでいた。
机の上には、いつもの紙が置かれている。
マルティナさんの字。
勝手に人生を決められそうになった人は、今日は早く寝ること。
その下に、ミレの丸い字。
エルネスタ様の手紙、すごく強かったです。
サナの整った字。
短く断ることは、冷たさではなく境界です。
そして、オズヴァルドの角ばった字。
お前の返事だった。
エルネスタは、その一行を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
お前の返事だった。
彼が断ったのではない。
マルティナさんが守ったのでもない。
サナが整えたのでもない。
ミレが封筒を強くしただけでもない。
自分の返事。
自分の拒絶。
自分の人生を勝手に進めるなという、自分の言葉。
エルネスタは紙を胸に当てた。
少し泣いた。
今日は怒っていた。
怖かった。
でも、書けた。
帳面を開く。
感情の頁へ、ゆっくり書く。
ラウゼン子爵家から婚姻の申し入れが届いた。
ヴァルディーン家が、私の同意なく前向きな話をしていた。
怖かった。
怒った。
私の人生を、また誰かが決めようとしているのだとはっきり分かった。
私は、婚姻を断る手紙を書いた。
理由を長く説明しなかった。
謝らなかった。
私は望みません、と書いた。
オズヴァルド様が手紙を読んだ時、平静にしていたけれど、手に力が入っていた。
怒ってくれていた。
それが、嬉しかった。
でも、嬉しいと思うことが怖い。
そこまで書いて、筆が止まった。
好きです。
まだ書けない。
帳面の上ですら、その言葉は怖かった。
エルネスタは、少しだけ迷ってから、代わりに書いた。
私は、あの方の怒りを、怖いと思わなかった。
そして、あの方に怒ってもらえることを、嬉しいと思ってしまった。
今日は、それだけ書いておく。
筆を置く。
涙を押さえる。
胸の中の感情に、今日もまだ名前はつけない。
それでも、なかったことにはしない。
扉に内側から鍵をかける。
かちり。
その音は、今夜も彼女の部屋を守った。
レナック家の廊下は静かだった。
けれど別の部屋で、オズヴァルドもまた、眠れずにいた。
机の上には、ラウゼン家から届いた手紙の写しが置かれている。
本人の同意なく、婚姻の話が進められていた。
それだけで十分に腹立たしい。
だが、彼の怒りはそれだけではなかった。
エルネスタに再婚の申し入れが届いた。
その事実を見た瞬間、胸の奥に鋭いものが走った。
怒り。
それは確かだ。
彼女の意思を無視したことへの怒り。
また物のように扱おうとしたことへの怒り。
だが、それだけではない。
他の男の名が、彼女の婚姻相手として書かれていた。
ギルベルト・ラウゼン。
顔もよく知らない男。
相手がどんな人物かは関係ない。
それでも、紙の上で彼女の隣に別の男の名が置かれているだけで、手に力が入った。
その感情に、オズヴァルドは目を閉じた。
嫉妬だ。
認めない方が難しい。
彼女が誰かのものになるなど、考えたくなかった。
だが、その考え自体が危ういことも分かっている。
誰かのもの。
彼は、ヴィルドリックに言ったばかりだ。
離縁した女を、まだ所有物のように呼ぶな。
自分が同じことをしてはならない。
エルネスタは誰のものでもない。
父のものでも、元夫のものでも、レナック家のものでも、オズヴァルドのものでもない。
彼女自身のものだ。
だからこそ、彼は手紙を握り潰すのを堪えた。
彼女の代わりに断ることも堪えた。
お前が断れ、と言うこともしなかった。
彼女が自分で書くのを待った。
お前の返事だった。
そう書いた。
それが、今できる精一杯だった。
好きだ。
心の中で、また言葉になる。
けれど、まだ言わない。
今日、彼女は自分の人生を勝手に決められようとして、恐怖と怒りを覚えたばかりだ。
そこへ自分の感情を置くことは、できない。
彼女が自由に選べるようになるまで待つ。
いや、自由に選べるようになっても、自分が選ばれるとは限らない。
それでもいい。
そう思えるほど、彼はまだ立派ではなかった。
だが、そうでなければならないとは思う。
オズヴァルドは、手紙の写しを伏せた。
深く息を吐く。
明日、使者へ返事を持たせる。
それで終わりではないだろう。
ヴァルディーン家は、また別の手を考えるかもしれない。
グランセル家も、まだ諦めないかもしれない。
それでも、今日の手紙には、エルネスタ自身が返した。
私は望みません。
その一文は、彼にとっても大切だった。
廊下の向こうに、エルネスタの部屋がある。
新しいカーテン。
北風を塞いだ窓。
内側から鍵をかけられる扉。
彼女がその部屋で、今夜も自分の人生を守って眠れるなら。
今は、それでいい。
冬の夜は深く、屋敷の外では風が低く鳴っていた。
けれど、エルネスタの部屋の窓から北風は入らない。
そして、レナック家の食堂で書かれた二通の断り状は、明日の朝、王都へ向けて出されることになっていた。
それは、小さな手紙だった。
けれど、エルネスタにとっては、自分の人生の扉に、自分の手で鍵をかけるための手紙だった。
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