「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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番外編5 帰る家に、春が来る

 春は、突然やってくるものではなかった。

 ある朝、窓を開けたら庭じゅうの花が咲いていた、というわけではない。

 冬の終わりは、もっと控えめだった。

 レナック家の庭の端に残っていた霜が、少しずつ薄くなる。

 朝の井戸水が、手を刺すような冷たさから、少しだけ丸い冷たさへ変わる。

 暖炉に入れる薪の量が、一束ぶん減る。

 台所の窓を開けても、サナがすぐに閉めなさいと言わなくなる。

 マルティナさんが膝をさすりながらも、「今日は少し楽だね」と言う。

 町の子どもたちが、厚い外套の前を開けたまま走る。

 そういう小さな変化が、毎日少しずつ積み重なって、ある日ようやく気づくのだ。

 春が来ている、と。

 エルネスタは、庭の薬草畑の前にしゃがみ込んでいた。

 冬の間、藁をかぶせ、冷たい風を避けるように守っていた土から、小さな芽が出ている。

 カミツレ。

 薄荷。

 ラベンダー。

 膝痛に使うために植えた薬草。

 騎士団の擦り傷に使う軟膏用の葉。

 町の子どもたちが楽しみにしている薬草飴のための草。

 そして、薬草だけでは寂しいからと、ミレがこっそり混ぜた花の種。

 その花の芽も、いくつか顔を出していた。

 まだ名前も分からないほど小さい。

 薄い緑の双葉が、土の上で震えるように開いているだけだ。

 それなのに、エルネスタは胸がいっぱいになった。

 この庭は、最初は荒れていた。

 土は硬く、雑草は伸び放題で、古い石がいくつも埋もれていた。庭というより、屋敷の裏に忘れられた余白のようだった。

 そこへ、薬草を植えたいと言った。

 騎士団の怪我に役立つから。

 マルティナさんの膝に使えるかもしれないから。

 保存しておけば、冬にも薬草茶を作れるから。

 そういう実用的な理由を並べた。

 けれど、本当はそれだけではなかった。

 あの頃のエルネスタは、まだこの家にいていい理由を探していた。

 役に立てば、いてもいいのではないか。

 何かを育てれば、この場所に少し根を下ろせるのではないか。

 そんな不安と願いが、土の中に混ざっていた。

 オズヴァルドは、何も言わずに土を耕し始めた。

 大きな手で鍬を持ち、硬い土を崩し、石を取り除き、黙々と畝を作った。

 会話は少なかった。

 でも、土の匂いと、近くにいる体温と、彼が同じ作業をしてくれる安心があった。

 あの日、エルネスタは初めて、自分がその日の夕食を楽しみにしていることに気づいた。

 その庭に、今、春が来ている。

 エルネスタは、そっと芽の横の土を指で整えた。

 爪の間に黒い土が入る。

 少し湿っていて、冬の間に眠っていた匂いがする。

 冷たさの中に、温かさを待つ気配があった。

「出てきましたね」

 彼女は小さく言った。

 隣に立っていたオズヴァルドが、低く答える。

「ああ」

 彼は庭仕事用の上着を着ていた。

 騎士団の時の厳しい服ではなく、少し袖口の擦れた濃い色の上着。手には手袋をしているが、指先には土がついている。

 以前なら、彼がそんな姿で隣に立っているだけで、エルネスタは落ち着かなくなっただろう。

 今も胸は少し鳴る。

 けれど、その音は不安ではない。

 夫が隣にいる音だ。

 好きだと言っても壊れなかった日々の音だ。

「これは、カミツレでしょうか」

「お前がそう言うなら、そうだろう」

 エルネスタは笑った。

「オズヴァルド様も、少しは覚えてください」

 オズヴァルドは真剣に芽を見た。

「似ている」

「まだ芽ですから」

「全部同じに見える」

「では、これから一緒に覚えましょう」

 エルネスタがそう言うと、オズヴァルドは少し黙った。

 それから、短く答える。

「ああ」

 その「ああ」が、春の空気に静かに溶けた。

 庭の向こうでは、ミレが洗濯物を干している。風に白い布が膨らみ、陽を受けて柔らかく光っていた。サナは台所の窓から顔を出し、干しすぎると布が飛びます、と注意している。マルティナさんは縁側の椅子に座り、膝掛けを少し薄いものへ替えて、二人を見ていた。

 レナック家の春。

 豪奢ではない。

 けれど、あちらこちらに命の気配がある。

 エルネスタは立ち上がろうとして、少し膝に土をつけた。

 オズヴァルドがすぐに手を差し出す。

「立てるか」

「はい」

 そう答えた後、エルネスタは少し笑って、手を重ねた。

「でも、手を貸していただいてもいいですか」

「ああ」

 彼は強く引っ張らない。

 必要な分だけ支える。

 エルネスタは、その手を借りて立ち上がった。

 春風が、二人の間を通り抜ける。

 冬の風とは違う。

 まだ少し冷たいが、刺すようではない。湿った土と、洗濯物と、台所から漂う焼きたてのパンの匂いを連れてくる。

 オズヴァルドは彼女の膝元を見た。

「土がついている」

「庭仕事をしているのですから、当然です」

「拭くか」

 エルネスタは少しだけ頬を赤くした。

「あとで自分で拭きます」

「そうか」

 彼はすぐ引いた。

 夫婦になっても、彼はそういうところを変えない。

 触れていいか。

 手を貸すか。

 寒くないか。

 それを必ず確認する。

 エルネスタはそのたびに、自分が自分のままでいていいのだと感じる。

 しばらく二人は、庭を眺めていた。

 薬草畑の隣には、まだ何も植えられていない一角がある。

 冬の間にオズヴァルドが石を取り除き、土を柔らかくしてくれた場所だ。

 エルネスタはそこを見て、少し考える。

「この辺りには、花を増やしてもいいでしょうか」

「薬草ではなく?」

「薬草も植えます。でも、マルティナさんが縁側から見る場所なので、少し明るい花があったらいいと思って」

 オズヴァルドは、縁側のマルティナさんを見る。

 マルティナさんは二人の視線に気づき、何だい、と眉を上げた。

 エルネスタは声を上げた。

「マルティナさん、こちらに花を植えてもよろしいですか。膝の薬に使う薬草の隣に、春から夏まで咲くものを」

 マルティナさんは、少しだけ目を細めた。

「いいね。膝が痛い日に眺める花があるのは悪くない」

 ミレが洗濯物の向こうから言った。

「私、黄色い花がいいです」

 サナが台所から返す。

「手入れがしやすいものにしてください」

「可愛さも大事です」

「生き残ることも大事です」

 マルティナさんが笑う。

「どっちも大事だね」

 エルネスタも笑った。

 家の中から返ってくる声。

 庭にいる自分へ、当たり前のように届く声。

 その一つ一つが、家の音だった。

 オズヴァルドが低く言う。

「花なら、町の花屋に聞く」

「はい。今度一緒に行きたいです」

 そう言ってから、エルネスタは少しだけ照れた。

 一緒に。

 夫婦になってから、その言葉を使う機会が増えた。

 一緒に庭を見る。

 一緒に市場へ行く。

 一緒に薬草を選ぶ。

 一緒に夕食を食べる。

 どれも小さなことなのに、言うたびに胸が温かくなる。

 オズヴァルドは、表情をあまり変えないまま頷いた。

「行く」

 短い返事。

 けれど、彼が少し嬉しそうなのを、エルネスタはもう見分けられる。

 強面の騎士団長が、薬草と花の買い物を楽しみにしている。

 そう思うと、少し笑ってしまった。

「何だ」

 オズヴァルドが聞く。

「いえ」

「笑った」

「はい」

「なぜだ」

「嬉しかったので」

 オズヴァルドは少し黙り、それから視線を庭へ戻した。

「そうか」

 耳が、ほんの少し赤い。

 エルネスタは、それを見てまた笑いそうになったが、今度は胸の中にしまった。

 庭の端には、屋敷の古い壁が見えている。

 ところどころ石が欠け、雨どいの一部も直す必要があった。冬の間に大きな隙間は塞いだが、春から夏にかけて本格的に修繕した方がいい。

 エルネスタは、その壁を見上げた。

「屋敷の修繕も、少しずつ進めたいですね」

「ああ」

「北側の窓は、冬前にもう一度確認した方がよいと思います。私の部屋は直していただきましたが、廊下の角と、古い客間の窓がまだ少し冷えます」

「見ておく」

「屋根も、春のうちに職人さんへ相談した方がいいかもしれません。雨が増える前に」

「呼ぶ」

「費用の見積もりを取って、優先順位をつけましょう」

 オズヴァルドは彼女を見た。

「楽しそうだな」

 エルネスタは、少し驚いた。

「楽しそう、ですか」

「ああ」

 彼は庭ではなく、彼女の顔を見ている。

「屋敷の修繕の話をしている顔が」

 エルネスタは、胸に手を当てた。

 楽しそう。

 自分が。

 屋敷の修繕や費用の見積もりの話で。

 昔なら、そんな話は義務だった。

 侯爵家での帳簿管理も、客間の布の入れ替えも、贈答の記録も、すべて間違えないための仕事だった。誰かに褒められるためではない。失敗しないため。叱られないため。家を乱さないため。

 けれど今、レナック家の修繕を考えるのは苦しくなかった。

 この家を良くしたい。

 寒い場所を減らしたい。

 マルティナさんが歩きやすいように段差を直したい。

 台所の棚を使いやすくしたい。

 将来、子どもたちが読み書きのために集まれる部屋を整えたい。

 そう思うと、胸が自然に前を向く。

「楽しいです」

 エルネスタは、自分でも少し驚きながら言った。

「この家のことを考えるのが、楽しいです」

 オズヴァルドの目元が、柔らかくなった。

「そうか」

「はい」

「なら、頼む」

 頼む。

 それは、押しつけではなかった。

 彼女にすべてを背負わせる言葉でもない。

 この家を一緒に整えるための、信頼の言葉だった。

 エルネスタは、深く頷いた。

「はい。任せてください」

 その言葉を、自分から言えたことが嬉しかった。

 庭の向こうで、町の子どもたちの声が聞こえた。

 まだ屋敷までは来ていないが、道の方で誰かが走っているらしい。

 ニナの声。

 トマの笑い声。

 春になって、集会所の窓も開けやすくなった。

 冬の間は暖を取るのが大変だったが、これからは少し過ごしやすくなる。

 エルネスタは、町の方を見た。

「町の学校も、考えたいです」

 オズヴァルドが彼女を見る。

「学校」

「はい。今は週に何度か集会所で読み書きを教えているだけですが、もう少しきちんとした形にできたらと思って。大きな学校でなくてもいいのです。子どもたちが定期的に来られて、板や石筆を置いておけて、冬には火を入れられるような場所を」

 エルネスタの声は、話すほど少しずつ熱を帯びた。

「ニナさんは手紙を書けるようになりたいと言っています。トマさんは帳面をつけたいと。ミリィさんは薬草の名前を覚えたいそうです。ルカさんは羊の数を間違えないように計算を覚えたいと言っていました」

 オズヴァルドは、黙って聞いている。

 その沈黙は、怖くない。

 彼は言葉を待っている。

「子どもたちが字を覚えれば、親御さんの仕事も少し助けられます。町の記録も整えやすくなります。騎士団への連絡も、もう少し正確になるかもしれません」

「いい」

 オズヴァルドは短く言った。

 エルネスタは目を瞬いた。

「よろしいのですか」

「ああ」

「まだ費用も場所も」

「考えればいい」

 彼は彼女を見る。

「お前がやりたいなら、考える」

 胸が、静かに熱くなった。

 やりたいなら。

 その言葉は、昔の彼女にはほとんど与えられなかったものだった。

 何をすべきか。

 どうあるべきか。

 家のために何が必要か。

 そういう問いばかりだった。

 でも今は、やりたいなら、と言われる。

 自分の意思が、物事の出発点に置かれる。

 エルネスタは、目元が少し熱くなるのを感じた。

「ありがとうございます」

「礼を言うことじゃない」

 いつもの返事。

 エルネスタは笑った。

「それでも、嬉しいので」

 オズヴァルドは、少しだけ視線を逸らした。

「そうか」

 庭の縁側から、マルティナさんが声をかけた。

「学校の話かい」

「聞こえていましたか」

「年寄りは耳がいいんだよ」

 マルティナさんは、膝をさすりながら笑った。

「いいじゃないか。子どもが字を覚える町は強いよ。書ける子は、遠くへ行っても自分の場所を忘れにくい」

 その言葉に、エルネスタは少しだけ胸を打たれた。

 自分の場所を忘れにくい。

 かつての自分は、帰る場所が分からなかった。

 だからこそ、子どもたちには、自分の名前を書けるようになってほしい。

 自分の家への手紙を書けるようになってほしい。

 困った時に助けを求める言葉を書けるようになってほしい。

「はい」

 エルネスタは頷いた。

「きちんと考えます」

 マルティナさんは満足そうに目を細めた。

「頼もしい奥様だね」

 その呼び方に、エルネスタはまだ少し頬を赤くする。

 けれど、もう嫌ではない。

 レナック家の奥様。

 町の子どもたちが好きだと言ってくれる奥様。

 オズヴァルドの妻。

 それは役目だけではなく、彼女が自分で選んだ場所にある名前だった。

 マルティナさんが膝を軽く叩いた。

「それより、膝の薬はいつできそうだい」

 エルネスタは笑って、薬草畑へ視線を戻した。

「芽が出たばかりですから、まだ少しかかります。でも、冬の間に乾燥させておいた分で軟膏を作れます。今日の夜、温め直してみますね」

「助かるよ。春先は楽な日もあるけど、雨が来る前がねえ」

「雨の日の前に痛むのですね」

「そうだよ。昔からだ」

 エルネスタは、すぐに頭の中で予定を組み立てた。

 乾燥薬草。

 蜜蝋。

 油。

 温める時間。

 容器の残量。

 マルティナさん用と、騎士団用を分ける必要がある。

 すると、オズヴァルドが低く言った。

「無理はするな」

 エルネスタは彼を見る。

「はい。夜更かしはしません」

「本当か」

「本当です」

 マルティナさんが縁側から言った。

「そこは見張っておやり。エルネは夢中になると、自分の疲れを忘れるからね」

「見張る」

 オズヴァルドが即答した。

 エルネスタは慌てる。

「見張るほどでは」

「見張る」

「オズヴァルド様」

「夜更かししないなら問題ない」

 マルティナさんが笑い、ミレも洗濯物の影で笑った。

 サナは台所から静かに告げる。

「見張り役がいるなら、薬草用の油を夕食前に出しておきます」

「サナさんまで」

 エルネスタは困ったように言ったが、胸の奥は温かかった。

 誰かが、自分の疲れを見てくれる。

 昔なら、疲れていても、できるまでやるしかなかった。

 いくらでも仕事はあった。

 終わらせて当然だった。

 でも今は違う。

 無理はするな、と言われる。

 見張る、とまで言われる。

 それは少し過保護で、少し恥ずかしくて、でも泣きたくなるほど優しかった。

 庭に春の風が吹く。

 芽が揺れる。

 エルネスタは、まだ何も植えられていない一角を見つめながら、ふと声を落とした。

「子どものことも」

 言ってから、少し止まった。

 オズヴァルドが彼女を見る。

 急かさない。

 ただ待っている。

 エルネスタは、自分の胸の奥にある小さな震えを感じた。

 子ども。

 その言葉には、まだいろいろなものが混じっている。

 未来への希望。

 不安。

 自分が母になれるのだろうかという怖さ。

 自分の母との記憶。

 家族という言葉に傷ついた過去。

 けれど、今は逃げずに考えたいと思った。

「いつか」

 エルネスタはゆっくり言った。

「いつか、この家に子どもが生まれたら、どんなふうに育てたいか、考えることがあります」

 オズヴァルドは黙っていた。

 顔は真剣だった。

 エルネスタは、土の上の芽を見る。

「私は、家族という言葉が少し怖かったです。今も、完全に怖くないわけではありません。親子という言葉も。母という言葉も」

 風が、彼女の髪を少し揺らす。

「でも、もし、いつか子どもがこの家に来たら」

 声が少し震える。

「帰ってこいと命じる親ではなく、おかえりと言える親になりたいです」

 オズヴァルドの目が、深く揺れた。

 エルネスタは続けた。

「泣いた時に、泣くなと怒るのではなく、布巾を差し出せる人になりたいです。寒いと言えるように。嫌だと言えるように。好きな味を、自分で見つけられるように」

 言葉にするほど、胸の中が柔らかく痛む。

「うまくできるかは分かりません。怖いです。でも、過去があったから、私は同じことを繰り返さないように考えることはできます」

 オズヴァルドは、しばらく黙っていた。

 そして、低く言った。

「俺も、うまくできるかは分からない」

 エルネスタは彼を見る。

「父親がどんなものか、分かっているとは言えない。騎士団では人を守る。指示も出す。だが、子どもは命令で育てるものじゃない」

「はい」

「だから、間違えるかもしれない」

 彼は、少しだけ苦い顔をした。

「その時は言ってくれ」

 エルネスタの胸が、じんと熱くなった。

「私も、言ってください」

「ああ」

「二人で、覚えていきたいです」

 オズヴァルドは、静かに頷いた。

「二人で」

 その言葉が、春の庭に落ちる。

 二人で。

 屋敷の修繕も。

 町の学校も。

 マルティナさんの膝の薬も。

 子どものことも。

 未来のことも。

 すべて、すぐに完璧な答えを出す必要はない。

 考えて、相談して、間違えたら言って、また直していけばいい。

 過去は消えない。

 父の声も、母の涙も、ヴィルドリックの食堂も、離縁状の白さも、実家の閉ざされた扉も、完全には消えない。

 でも、未来を選ぶことはできる。

 どんな家を作るか。

 どんな言葉を渡すか。

 誰と並んで歩くか。

 何を植えるか。

 その一つ一つを、これから選んでいける。

 エルネスタは、薬草畑の芽を見下ろした。

「過去は、消えませんね」

 ぽつりと言った。

 オズヴァルドは、すぐには答えなかった。

 それから、低く言う。

「ああ」

「時々、まだ思い出します。父の声も、母の涙も、ヴィルドリック様の言葉も。離縁状が置かれた朝の食堂も。実家の扉も」

「ああ」

「でも、今は」

 エルネスタは顔を上げた。

 春の空は、冬より高くなっている。

「その記憶だけではありません」

 オズヴァルドが彼女を見る。

「豆のスープもあります。黒パンも。内側から鍵をかけられる部屋も。食料庫の鍵も。冬祭りの火も。暖炉の前の口づけも。町の子どもたちの字も。今日出てきた芽も」

 言葉を重ねるほど、胸が温かくなる。

「過去は消えません。でも、未来を選ぶことはできます」

 オズヴァルドは、しばらく彼女を見ていた。

 それから、静かに頷いた。

「選んだな」

「はい」

「ここを」

「はい」

「俺も」

 短い言葉。

 けれど、十分だった。

 エルネスタは、そっと彼の手に触れた。

 土のついた手袋越しではない。

 今日は彼が手袋を外していたので、指先が直接触れた。

 春の空気で少し冷えた手。

 でも、手のひらは温かい。

 オズヴァルドは、彼女の手を包む。

 庭の真ん中で、二人はしばらくそのまま立っていた。

 派手な言葉はいらなかった。

 春の芽と、家の音と、互いの手の温度で十分だった。

 午後になると、町の子どもたちがやってきた。

 ニナが真っ先に薬草畑へ駆け寄りそうになり、サナに「走るなら庭の外です」と止められた。トマは芽を見て「これが飴になるのか」と真剣に聞き、ミリィは小さな花の芽にしゃがみ込んだ。ルカは、学校の話を聞きつけたのか、「本当に作るの」と目を輝かせた。

 エルネスタは笑って言った。

「まだ考えているところです。でも、皆さんが来られる場所を、きちんと作れたらと思っています」

 子どもたちは歓声を上げた。

 オズヴァルドはその声に少し眉を寄せたが、怒っているわけではない。

 ニナがすぐに言った。

「団長、顔怖いけど嬉しいんでしょ」

 オズヴァルドはニナを見た。

 ニナは少し後ずさったが、逃げなかった。

 エルネスタが笑う。

「皆さん、よく見ていますね」

 トマが得意げに言う。

「奥様が笑うと、団長ちょっと嬉しそうだもん」

「トマさん」

「本当だもん」

 オズヴァルドは、低く言った。

「薬草畑を踏むな」

 話を変えた。

 子どもたちは一斉に笑った。

 レナック家の庭に、春の声が満ちる。

 芽吹いたばかりの薬草。

 子どもたちの笑い。

 マルティナさんの叱る声。

 ミレの慌てる声。

 サナの落ち着いた注意。

 そして、オズヴァルドの低い声。

 エルネスタは、そのすべてを胸にしまった。

 夕方になると、空は淡い橙色に変わった。

 子どもたちは町へ帰り、洗濯物も取り込まれ、台所からは夕食の匂いが漂っている。庭の薬草畑には、斜めの光が落ち、小さな芽の影が土の上に伸びていた。

 エルネスタは、まだ庭にいた。

 今日一日、何度も見たはずなのに、芽から目が離せない。

 小さな緑。

 冬を越えて出てきたもの。

 まだ弱い。

 守らなければならない。

 でも、確かに生きている。

 オズヴァルドが隣に立った。

「冷えてきた」

「はい」

「まだ見るか」

 エルネスタは、少しだけ考えた。

 もっと見ていたい気持ちもある。

 けれど、夕食の匂いがする。

 マルティナさんが待っている。

 ミレが皿を並べている。

 サナが鍋を温めている。

 帰る場所は、庭だけではない。

 食卓もまた、帰る場所だ。

 オズヴァルドが、低く言った。

「帰るぞ」

 その言葉に、エルネスタは胸が熱くなった。

 雨の街道から連れてこられた日。

 王都からの帰り道。

 親族会議の後。

 何度も、彼は帰るぞと言ってくれた。

 けれど今の「帰るぞ」は、どこかへ連れて戻す命令ではない。

 同じ家へ、一緒に戻る声だった。

 夕暮れの庭で、家の灯りを背に聞くその言葉は、こんなにも温かい。

 エルネスタは、オズヴァルドを見上げた。

 彼の横顔は、夕暮れの光で少し柔らかく見えた。

 強面の騎士団長。

 不器用で、言葉が短くて、けれどいつも待ってくれる人。

 彼女が選び、彼女を選んでくれた人。

 エルネスタは笑った。

「はい」

 短く答える。

 けれど、その一言には、たくさんのものが入っていた。

 はい、帰りましょう。

 はい、ここが私たちの家です。

 はい、明日もまた庭を見ましょう。

 はい、未来を一緒に選びましょう。

 オズヴァルドが手を差し出す。

 エルネスタは、その手を取った。

 二人は、春の庭を後にした。

 薬草と花の小さな芽が、夕暮れの中で静かに揺れている。

 屋敷の扉が近づく。

 中から、マルティナさんの声がする。

「遅いよ。夕食が冷める」

 ミレの声。

「奥様、今日のパンはうまく焼けました」

 サナの声。

「手を洗ってから食卓へ」

 エルネスタは笑った。

 玄関の前で一度だけ振り返る。

 庭には春が来ている。

 帰る家にも、春が来ている。

 そしてその春は、これから毎日、少しずつ育っていくのだろう。

 エルネスタは、オズヴァルドと並んで扉をくぐった。

「ただいま戻りました」

 そう言うと、家の中からいくつもの声が返ってきた。

「おかえり」

 その声に包まれて、エルネスタはもう一度、心の中で思った。

 過去は消えない。

 けれど、未来は選べる。

 そして私は、この家で春を迎える未来を選んだ。


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