姉の代用品のまま結婚するくらいなら、修道院へ行きます

なつめ

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第18話 王弟妃候補という名の逃げ道


 王家の保護を強めると決まった翌朝、王宮の空気は前の日までとほとんど同じ顔をしていた。

 高い窓から差し込む朝の光。白い石床に落ちる細長い影。控えの間に置かれた花瓶の水を替える侍女の手元。紙をめくる音、銀盆の触れ合う小さな音、遠くの回廊を行き交う靴音。どれも変わらない。まるで、昨日自分の人生にひとつ大きな盾が立てられたことなど、王宮の石壁は知らない顔をしているみたいだった。

 けれど、イゼルダの胸の内側だけは、まだ静かに揺れていた。

 正式に保護を強める。
 その言葉の重さは、一晩眠ったくらいでは身体に馴染まない。安心もある。父がもう簡単には手を伸ばせないのだと思うと、胸の奥のどこかが深く息をつく。だが同時に、自分の存在がいっそう公のものになることへの緊張もあった。王家が線を引くということは、王都の目がその線を見るということでもある。

 朝の支度を終え、控えの間へ向かう回廊を歩きながら、イゼルダは窓に映る自分を一度だけ見た。深い青の控えめなドレス。髪はいつも通りきちんとまとめられ、装飾は少ない。王宮で補佐役として働く女の姿だ。誰かの代わりとして借り物の衣装を着せられていた頃とは違う。違うはずなのに、それでも今日は、どこか自分の輪郭が外へ押し出されるような落ち着かなさがあった。

 控えの間へ入ると、セルマとミレーユはすでに仕事を始めていた。リネットが茶器を並べ、朝の文書の束が机に振り分けられている。王宮は、どれほど個々の人間の内側が揺れていても、仕事の朝を止めない。

「おはようございます」

 イゼルダが声をかけると、セルマが顔を上げた。

「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか」
「……ええ、少しは」
「それなら結構です」

 いつも通りの短さだ。だが、その「少しは」をそのまま受け取って、無理に明るい顔を求めないところがセルマらしかった。

 イゼルダが机へ向かい、文書の束へ手を伸ばしかけた時、隣の執務室へ続く扉が開いた。オドランが出てくる。深い紺の上着に銀灰の留め具、今日も無駄のない装いだ。顔にはいつもと変わらぬ静けさがある。けれどイゼルダは、彼の視線が自分をひと目見た時、その静けさの底に「昨夜の続き」を持っていることを感じた。

「セルマ」

「はい、殿下」
「午前のうちに、王妃殿下付きの女官長と一度、打ち合わせの場を」
「かしこまりました」

 王妃付きの女官長。

 その名が出た瞬間、イゼルダの胸が小さく揺れた。王家の保護を強める話は、やはり王妃側とも共有されるのだろう。そう考えれば当然だ。王宮内で明確な立場を与える以上、王妃の居住棟や女官たちの統制にも影響が出る。理解はできる。けれど、その理解と緊張は別だった。

 オドランはそれ以上説明しなかった。いつものように必要なことだけを告げ、執務室へ戻る。だが、その扉が閉まったあと、リネットがわずかに声を落として言った。

「また、少し忙しくなりそうですね」
「ええ」
 ミレーユが淡々と返す。
「王妃殿下側が動くなら、噂も少しは整理されるでしょうし」
「整理」
「放っておけば好き勝手に膨らみますから」

 その会話に、イゼルダはペン先を紙へ置いたままわずかに息を詰めた。

 噂。

 王都の社交界だけではなく、王宮の中でも、その言葉はもう珍しくない。イゼルダとオドランの名が並べられていることくらい、誰もがうっすら承知しているのだろう。表立って言わないだけで。

「……何か、具体的なお話が出ているのですか」

 訊くつもりはなかったのに、口をついて出た。リネットが目を丸くし、ミレーユは一瞬だけ目録から顔を上げる。セルマはその短いやり取りを聞いていたはずだが、何も言わずに文書の仕分けを続けている。

 答えたのはミレーユだった。

「まだ正式なものではありません」
「ええ」
「ただ、王家が保護を強めるなら、周囲にとって分かりやすい名目が必要だろうという話は……ないわけではないかと」

 分かりやすい名目。

 その言い方に、イゼルダの胸の奥がひやりとした。分かりやすい名目とは何だろう。いや、考えるまでもない。王族が若い女をそばへ置く時、周囲がもっとも納得しやすく、もっとも手を出しにくくなる名目は限られている。

 イゼルダはそれ以上訊かなかった。訊けば、現実の輪郭がはっきりしすぎる気がしたからだ。

 けれど、その輪郭は、午前のうちに容赦なく姿を現した。

 打ち合わせは王妃側の小応接室で行われた。王妃付きの女官長、セルマ、オドラン、そしてイゼルダ。出席者はそれだけだった。華やかな場ではない。茶も飾り程度で、机の上には文書と封蝋の色見本、王宮内の出入り記録の控えが並んでいる。会話のためというより、決定のための席だった。

 王妃付きの女官長は、いつものように背筋の一切ぶれない姿勢で座っていた。年齢はセルマよりやや上だろう。感情を表へ出しすぎない顔つきだが、そのぶん一度口を開けば、相手が何を受け取るべきかはっきり分かる話し方をする。

「では、率直に申し上げます」

 彼女は文書へ目を落としたあと、そう切り出した。

「モンティエール伯爵が直々にいらした以上、今後は伯爵家だけではなく、ロシュフォール侯爵家や、その周辺の縁故筋も動く可能性がございます」
「ええ」

 オドランが短く応じる。

「王家の保護を強めるだけでも効果はあります。ですが、王都の人間は保護という言葉だけではすぐ別の物語を作ります。何故、何のために、どこまで。そうした余白を残すと、むしろ余計な詮索を招く」

 イゼルダは膝の上で手を重ねた。来る。たぶん、あの話だ。そう分かってしまうから、指先だけが少し冷たくなる。

「ですので」

 女官長はまっすぐイゼルダを見た。

「一時的に、王弟妃候補として扱う案が出ております」

 その一言は、部屋の空気をゆっくりと凍らせた。

 やはり、と思う。思うのに、実際に言葉として耳へ入ると、心臓がひどく強く打つ。王弟妃候補。形式だけの保護。名目。どれも頭では分かる。だが、その言葉が自分の上へ落ちてくると、ただの制度や策では済まない重さを持つ。

 イゼルダは一瞬、返事を失った。

「……候補、ですか」

 ようやく出た声は、自分でも少し驚くほど平板だった。驚きすぎると、人はかえって平らな声になるのだと初めて知る。

「ええ」

 女官長は頷く。

「正式な婚約ではありません。あくまで対外的な扱いです。王家が明確に囲っていると周囲へ知らせるには、もっとも分かりやすい」
「伯爵家も侯爵家も、手を出しにくくなるでしょう」
 セルマが淡々と補足する。
「少なくとも、『家に戻れ』『縁談を進める』という圧は表立って掛けにくくなります」

 理屈としては、正しい。
 正しすぎるほどに。

 イゼルダは目の前の文書を見つめた。紙にはまだ何も書かれていない。けれど、自分の胸の内にはすでにたくさんの言葉が湧き上がっていた。

 王弟妃候補。
 誰かの婚約者の“ふり”。
 形式だけの保護。

 それが盾になることも分かる。今の自分に必要な、明確で強い盾だということも。父も、侯爵家も、その名目の前では簡単には手を伸ばせないだろう。社交界もまた、「王家がそう扱っている」以上、軽々しく自分を元の駒に戻すことはできなくなる。

 でも。

 それでも、心は重たく沈んだ。

 誰かの婚約者の“ふり”ですら、自分には重たい。

 それはたぶん、これまでの人生のせいだ。誰かの代わり、誰かのため、家の都合。その中でずっと輪郭を貸し出してきたから、今さら「形式だけだから」と言われても、簡単には頷けない。たとえそれが自分を守るための策であっても、「誰かに選ばれた立場」を演じること自体が、まだひどく怖い。

「……わたくしは」

 イゼルダはやっと声を出した。喉が少し乾いている。

「理解はできます。たしかに、その名目があれば、家も侯爵家も……簡単には」
「ええ」
「ですが」

 そこで一度、息を整える。ここで曖昧に濁せば、また流される気がした。

「わたくしにとっては、形式だけでも軽い話ではありません」

 王妃付きの女官長は、表情を大きくは変えなかった。だが、その目が「続けなさい」と促しているのは分かる。

「王弟妃候補として扱われることは、王宮の外では『選ばれた女』として見られるということですよね」
「そうなります」
「わたくしは、まだ」

 言葉が一瞬詰まる。だが、飲み込まなかった。

「そういう立場に、自分が並ぶことに慣れておりません。形式でも、名目でも、たぶん簡単には」

 簡単には耐えられない、と言いたかったのかもしれない。だが、その弱さをそのまま口にする前に、オドランが静かに言った。

「だから、急がせません」

 その一言で、室内の空気が少しだけ和らいだ。

 イゼルダは顔を上げる。オドランは彼女を見ていた。いつもの静かな目で。答えを早く出せとは促さず、戸惑っていること自体を否定しない目で。

「嫌なら、別の方法を探す」

 低い声が続く。

「王弟妃候補という名目がもっとも手っ取り早いというだけで、唯一ではない」
「……別の方法」
「ええ。例えば、王妃殿下付きの女官補佐として配置替えを強める案もある。王家の文書管理職として、より制度的に囲うやり方も」
「ですが、それでは」
「時間はかかります」

 オドランは頷く。

「だから案として出ている。だが、あなたが重たいと感じるものを、形式だからと押しつけるつもりはありません」

 その言葉が、どれほどありがたかったか分からない。

 手っ取り早い。
 もっとも有効。
 守るために必要。

 そう言われたら、頷くしかない気がしていた。守られるために、自分の心の重さを後回しにするのが当然だと、またどこかで思いかけていた。けれどオドランは違う。効率のよい盾を差し出しながら、それが重たいなら別の盾を探すと言う。

 急がせない。
 押しつけない。
 選ばせる。

 その三つがそろっているから、初めて自分の気持ちをそのまま見つめられる気がした。

 王妃付きの女官長がそこで口を開く。

「イゼルダ」

 名で呼ばれたことに、彼女は少しだけ驚いた。これまでは「モンティエール嬢」としか呼ばれていなかったからだ。女官長はその小さな驚きも見逃しただろうに、そこへ触れずに続けた。

「王宮では、策が必要な時がございます。ですが、策に使う人間を壊しては意味がありません」
「……」
「ですから、これは命令ではなく相談です。あなたがどうしても耐え難いなら、そのまま伝えなさい」

 命令ではなく相談。

 その言葉に、イゼルダの胸の奥で何かが少しほどけた。ここへ来てから、何度かそういう扱いを受けてきた。けれど、こうした王宮の内輪の決め事の場でも、それをはっきり言葉にされると、やはり救われる。

 彼女は膝の上で組んだ手に、少しだけ力を込めた。

「……恐ろしいのです」

 静かな部屋の中で、その言葉は思っていたよりも小さく響いた。

「何が」
 女官長が問う。

「誰かの婚約者の“ふり”ですら、自分には重たいことが」

 言葉を探しながら、イゼルダは少しずつ自分の中を確かめる。

「わたくしは、これまで選ばれる時はいつも……家の都合の中で、何かの代わりでした」
「……」
「ですから、たとえ形式だけでも、王弟妃候補として見られることが、また別の形で『誰かに選ばれたもの』として扱われるようで」

 そこまで言ってから、少しだけ目を伏せた。自分の言葉がひどく生々しく感じられたからだ。だが、それを誰も笑わない。誰も「大げさですね」とも「案に過ぎません」とも言わない。そのことが、かえって続きを言わせた。

「頭では理解しております。守るための案だと。けれど心が、まだ追いつきません」

 沈黙が落ちる。

 その沈黙の中で、窓の外の風が少しだけ強くなった。高い窓のどこかが微かに鳴り、遠くで鳥の声が一つした。春の昼の気配が、薄い静けさとして部屋の隅にたまる。

 最初に答えたのは、オドランだった。

「追いつく必要はない」

 イゼルダは顔を上げる。

「いま、無理に」
「……」
「守るために必要だからといって、心まで同じ速度で追いつけとは言いません」

 その言い方が、ひどく彼らしいと思った。優しい。だが、その優しさを感傷の中へ落とさない。あくまで現実のまま、相手の心の遅れを認める。追いつかないなら、追いつかないままでいいと。

「選択は急がなくていい」

 オドランは続ける。

「今日ここで決める必要はありません」
「ですが、伯爵家や侯爵家が」
「動くでしょう」

 彼は頷く。

「だからこちらも策を用意する。ですが、最初から一つに絞る必要はない」
「……」
「王弟妃候補という案はひとつの逃げ道です」
「逃げ道」
「ええ」

 その一語が、イゼルダの胸に残った。

 逃げ道。
 檻でもなく。
 義務でもなく。
 逃げ道。

 つまり、それは飛び込まなければならない場所ではなく、逃げ込んでもよい場所として提示されているのだ。必要なら使えばいい。嫌なら別の道を探す。逃げ道である以上、そこへ入るかどうかも自分で決めてよい。

「ただ」

 オドランの声が少しだけ低くなる。

「私は、あなたに無理をさせてまでその案を選びたくはない」
「……」
「たとえ守るためであっても」

 その言葉に、イゼルダは思わず息を詰めた。

 そこまで言うのか、と。
 王宮の、王弟の、しかも一番有効かもしれない策を前にして。
 守るためなら多少の無理は当然だと、そう言われる覚悟もしていたのに。

 だが彼は、無理をさせてまで選びたくはないと言う。
 その優しさが、いよいよ重いほどだった。

 女官長がそこで話を整えるように口を挟む。

「ではこうしましょう」
「はい」
 セルマが応じる。
「まずは現行の保護を維持しつつ、外向きの説明文案を二種類作ります。一つは王弟妃候補として扱う場合。もう一つは王家の文書管理職として立場を明確化する場合」
「承知しました」
「比較できる形にして、イゼルダにも見せる。利点と欠点を並べたうえで、最終的にどうするかを決めましょう」

 それは、ひどく王宮らしい進め方だった。感情の波をそのままにせず、紙と制度と文言の形へ置き換えていく。だが今日のイゼルダには、その冷静さがありがたかった。何もかも感情だけで決めなくていい。重たいなら、重たいまま、比べて、見て、考えてよいのだ。

「それでよろしいですか」

 女官長に問われ、イゼルダは深く息を吸った。

「はい」
「急がせません」
「ありがとうございます」

 会話はそこで一度区切られた。

 部屋を出たあと、セルマはすぐに別棟の文書係へ指示を飛ばしに行き、女官長も王妃のもとへ戻った。回廊には午後の光が静かに満ちている。いつもなら人の気配を多く感じる王宮が、いまは少しだけ遠く、白い光の中へ置かれているようだった。

 オドランは、イゼルダと同じ歩幅で回廊を進んだ。無言だった。だがその無言は気まずいものではなく、考えるための余白みたいだった。

 しばらく歩いてから、イゼルダは窓辺で足を止めた。中庭の木々が風で揺れ、若い葉が光を受けて白っぽく瞬く。どこかで水の音がした。噴水だろうか。

「……殿下」

 声をかけると、オドランが振り返る。

「はい」
「先ほどは」
「ええ」
「ありがとうございました」

 何に対する礼なのか、自分でも一つに絞れなかった。案を押しつけなかったこと。重たいと口にする前に、それを軽いものとして扱わなかったこと。逃げ道と呼んだこと。全部だ。

 オドランは彼女を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。

「礼には及びません」
「ですが」
「あなたが嫌なら別の方法を探す。それだけです」

 やはり、あまりにもあっさりしている。けれど、その「あっさり」が彼の優しさの形なのだと、イゼルダはもう知っていた。大仰に守ると誓わない代わりに、選択肢を減らさない。

「……王弟妃候補という言葉だけで、胸が苦しくなるなんて」

 イゼルダは苦く笑った。

「わたくし、やはりまだ、ずいぶん幼いのでしょうか」
「違います」

 オドランは即座に否定した。

「重たいものを重たいと感じるのは、幼さではありません」
「……」
「むしろ、自分の心の重さを分かっているということです」

 その言葉が、窓から吹き込む風より静かに胸へ落ちる。自分の感覚を自分で軽んじなくていいのだと、またひとつ教えられる。

「候補という名目が必要なら、いずれ使うかもしれない」
 オドランは続ける。
「ですが、それを使うなら、あなたが自分の足でその位置へ立てると思えた時にしたい」
「わたくしが、自分の足で」
「ええ」
「“ふり”でも」
「ふりだからこそ」

 その一言に、イゼルダは少しだけ息を止めた。

 ふりだからこそ、自分で立てなければならない。
 それはたしかに、そうだ。
 誰かに押し込まれて立たされた候補など、また別の代用品になるだけだ。
 もしその位置を盾として使うのなら、それは自分が選んで立つ場所でなければいけない。

 そう考えると、ただ重たいだけだった言葉が、少しだけ違う形に見えてくる。まだ受け入れられはしない。けれど、檻ではない。誰かの代わりとして押し込まれる名でもない。自分で選べるなら、それはたしかにひとつの逃げ道なのだ。

「……考えます」

 イゼルダはゆっくり言った。

「すぐには無理でも、ちゃんと、自分で」
「それでいい」

 オドランの返事は短い。だが、その短さがいまは心地よかった。

 回廊の先では、セルマがすでに文書係へ話をつけているらしい。紙束を抱えた従者が行き交い、白い廊下へ小さな影を落としている。王宮はこうして、誰かの人生に関わる重たい案でさえ、文書と手続きと日々の仕事の中へ静かに落とし込んでいく。冷たいといえば冷たい。けれど、そこに感情だけで押し流されない救いもある。

 イゼルダは窓の外をもう一度見た。

 誰かの婚約者の“ふり”ですら重たい。
 その気持ちは嘘ではない。
 けれど、それを重たいと言える場所に今自分がいることもまた、本当だった。

 昔なら、そんな重さを訴える前に「家のためでしょう」で終わっていた。
 いまは違う。
 重たいなら別の方法を探す、と言われる。
 急がなくていい、と言われる。
 そのことが、まだ信じられないほどありがたい。

「……殿下は」
 ふと、口をついて出た。
「何ですか」
「やはり、少しだけ優しすぎると思います」

 言ってから、自分で少し驚いた。前にも心の中でそう思ったことはある。けれど、それを口にしたのは初めてだった。

 オドランはほんの一瞬だけ目を細め、それからいつもの平坦な声で言う。

「そうでしょうか」
「ええ」
「困りましたね」
「困らないでください」

 思わずそう返して、イゼルダはやっと少しだけ笑えた。ほんの小さな笑みだ。けれど、この数日で抱えた重たいものの間に、初めて自然に差し込んだ笑みだった。

 オドランはその笑みを見て、何も言わなかった。ただ、目元の緊張がほんの少しだけ和らいだ気がした。

 回廊の向こうから、セルマが戻ってくる。

「文書係へ伝えました。夕刻までには草案を二種類まとめられるとのことです」
「ありがとう」
「いえ」

 王宮の午後は、そのまままた仕事の流れへ戻っていく。文書、面会、控え、記録。だがイゼルダの胸の中には、さっきの話が静かに残り続けていた。

 王弟妃候補という名の逃げ道。
 まだ重たい。
 まだ怖い。
 けれど、それを「嫌なら別を探す」と言われたことで、初めて本当に逃げ道として見られるようになった気がする。

 もし、いずれその名を盾にする日が来るのなら。
 それはきっと、また誰かの都合で押し込まれる時ではない。
 自分で選んで、自分の足で立つ時だ。

 そのことを、午後の白い光の中で、イゼルダは静かに胸へ刻んでいた。


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