余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ

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第3話 飾りの妻



 その日の朝、空は久しぶりに晴れていた。

 数日ぶりに雲が切れ、東の空から差し込む光が屋敷の窓という窓に淡く満ちている。冬の名残を引きずった冷たい光ではあるけれど、雨上がりの庭を洗い立てのように見せるには十分だった。枝だけになっていた薔薇の株にも、よく見れば小さな芽吹きがいくつか覗いている。まだ春とは言いがたいが、冬だけでもない、そんな季節の境目の朝だった。

 リュゼリア・ディルクレイドは窓辺に立ち、その庭をしばらく見ていた。

 喉の調子は、完全ではないにせよ少し落ち着いている。熱もここ二日は高くならず、咳も薬で抑えられていた。とはいえ、胸の奥には相変わらず薄い不穏が沈んでいる。深く息を吸えば、見えない棘がどこかに触れるような感覚が残るし、長く立ち仕事をすると背骨の内側から力が抜けていく。

 それでも今日は、公爵夫人として人前へ出なければならなかった。

 王都の名家ばかりが集う、小規模ながら格の高い昼の茶会。主催は王家とも近しいルーデンベルク侯爵夫人。そこで春の慈善行事の顔合わせと、貴婦人たちの非公式な情報交換が行われる。招待客の顔ぶれを見れば、それがただの華やかな茶会ではなく、王都の空気を左右する社交のひとつであることは明らかだった。

 本来なら、こうした場にヴィルレオが同席する必要はほとんどない。だが今回は、王都にいる若手貴族たちとの挨拶も兼ねるという名目で、夫婦揃って出席することになっていた。

 公爵夫妻として。

 その響きに、リュゼリアは胸の内で静かに指先を丸めた。

 夫婦。

 たしかに法の上ではそうだ。家名も、立場も、外から見えるすべてがそう告げている。けれど、誰も見ていない寝室や食卓の沈黙まで知っている自分にとって、その言葉はきれいに磨かれた器のように感じられる。美しく、冷たく、空っぽだ。

「奥様、お支度を始めてもよろしいでしょうか」

 背後でアイダが声をかけた。

「ええ、お願い」

 振り返って椅子へ向かうと、すでに若い侍女たちが衣装や装身具を整えて待っていた。今日のために用意されたドレスは、薄青と銀灰の中間のような繊細な色合いで、歩くたび水面のように光を流す生地が使われている。胸元は上品に閉じ、袖口と裾にだけ細かな銀糸の刺繍が入っていた。公爵夫人としては控えめすぎず、かといって主催者より目立ちすぎもしない、見事に計算された装いだ。

 アイダが髪に櫛を通していく。蜂蜜色の髪は今日の光の中ではやわらかな金に見えた。

「頬のお色は少し明るめにいたします」

「まだ顔色が悪いかしら」

「悪い、というほどではございません。ただ、本日はいろいろなお方が奥様をよくご覧になりますから」

 その言い方に、リュゼリアは小さく笑った。

「飾りとして、きちんと磨いておかないといけないものね」

 冗談のつもりで口にしたのに、部屋の空気がわずかに止まった。

 アイダの手が、ほんの一瞬だけ髪を梳く動きを緩める。

「奥様」

「冗談よ」

「そのようには聞こえませんでした」

 鏡越しに目が合う。アイダの眼差しは静かだが、咎めるような、哀しむような色を帯びていた。

 リュゼリアは視線を逸らし、膝の上の指先をそっと重ねる。

「……でも、たぶん間違ってはいないでしょう」

「奥様がそのように仰ること自体が、間違っております」

「そうかしら」

「ええ」

 きっぱりと言われ、少しだけ胸が痛んだ。アイダは自分を大切にしてくれる。ありがたいと思う。けれど、こういう場に出るたび、リュゼリアはどうしても思い知らされてしまうのだ。自分がひとりの女として求められているのではなく、“美しい公爵夫人”という役割として置かれているのだと。

 それは誰かに明言されたことではない。

 けれど視線や声色や、場の空気の運び方が、それを何度も何度も教えてくる。

 支度が整うころには、鏡の中に見慣れた公爵夫人がいた。

 淡い青のドレスに包まれ、蜂蜜色の髪は高すぎない位置でまとめられ、薄青の瞳には控えめな光が宿っている。頬に足された柔らかな血色と、真珠を中心に組まれた銀の髪飾りが、顔立ちの儚さをいっそう引き立てていた。

 病を抱えた女ではない。

 体の内側で何かが少しずつ削れているのを知る女でもない。

 ただ、王都の社交界で称賛されるにふさわしい、公爵家の妻。

 鏡の中の自分は完璧だった。

 完璧であるほど、ひどく遠かった。

     ◇

 馬車へ向かう廊下で、ヴィルレオと合流した。

 彼はすでに外出用の正装に身を包んでいた。深い黒に近い濃紺の上着は体躯をいっそう引き締めて見せ、肩章や袖口に施された控えめな銀の意匠が、冷ややかな威厳を際立たせている。黒髪はいつも通り隙なく整えられ、その青灰色の瞳は朝の光の下でもなお冷たい金属のようだった。

 ただ、その視線がリュゼリアを捉えたとき、ごくわずかに止まった。

 ほんの一拍。

 それだけで、彼の目が衣装の全体を見ているのだとわかった。

「……問題ない」

 やや間を置いて言ったのは、それだけだった。

 問題ない。

 たぶん、装いとして。公爵夫人として。今日の茶会へ連れて出して恥ずかしくない姿だという意味だ。

 けれど、少しでも別の意味がないかと探してしまう自分に、リュゼリアはすぐ気づいた。きれいだとか、似合っているとか、そういう言葉がこの人の口から出ることはない。それを知っているくせに。

「ありがとうございます」

 微笑んで答える。するとヴィルレオの眉間に、ほんの小さな皺が寄った。

 礼を言われるたび足りなさを突きつけられる。

 数日前に聞いたあの言葉を思い出し、リュゼリアは一瞬だけ喉の奥で息を止めた。だから今は、ありがとうと言わないほうがよかったのかもしれない。けれど、彼に何かを向けられたと感じたとき、礼を言わずにいるほうが不自然に思えてしまう。

「馬車の中は冷える。膝掛けを」

 ヴィルレオは後ろに控える従者へ短く命じた。

「かしこまりました」

 それだけでも、彼なりの気遣いだとわかる。わかるから苦しい。

 言葉にならない優しさは、言葉がほしいと願う心にはときどき毒になる。

 並んで歩くあいだ、二人の会話はほとんどなかった。廊下の端で一礼する使用人たち、玄関ホールへ差し込む白い光、磨かれた大理石の床に映る自分たちの姿。外から見れば、よく揃った美しい夫妻なのだろう。歩幅すら自然に揃っているのだから。

 馬車へ乗り込むと、厚い座席の布地から微かな革と木の匂いが立った。従者が外から扉を閉め、車輪が石畳を転がり始める。膝に掛けられたブランケットの温もりが、遅れて足元へ広がった。

 馬車の中は静かだった。

 向かい合うでもなく、横並びでもない斜めの配置。互いの顔は見えるのに、目を合わせようとしなければ合わない絶妙な距離である。社交の場へ向かう道中としてはちょうどよいのかもしれないが、夫婦としてはあまりにも象徴的で、リュゼリアはときどきこの座席の配置すら皮肉に思える。

「体調は」

 揺れの合間に、ヴィルレオが言った。

「今のところ大丈夫です」

「無理はするな」

「はい」

「顔色が悪くなったら、すぐ下がれ」

「茶会の途中でも?」

「ああ」

 彼は窓の外を見たまま答えた。石造りの街路を流れていく王都の景色が、その横顔に短い影を落とす。

「あなたのお隣で、途中で席を外せば、かえって目立ちますわ」

「構わない」

「公爵家としては困るのではありませんか」

「お前が倒れるよりましだ」

 あまりに即座の返答だったので、リュゼリアは一瞬、彼の顔を見た。けれどヴィルレオは視線を寄越さない。

 そういうところなのだ、と思う。

 この人は、本音らしいものをさらりと落とすくせに、相手に受け取る準備をさせてくれない。思わず掴みたくなるものを置いて、すぐに手の届かないところへ離れてしまう。

「……承知しました」

 それ以上、何も言えなかった。

     ◇

 ルーデンベルク侯爵家の屋敷は、王都の中心からやや外れた高台にある。

 春先の光を受けて白い壁がほの明るく輝き、正面の長い階段の両脇にはまだ季節の早い花々が温室から移され、彩りよく並べられていた。玄関ホールへ足を踏み入れれば、磨き抜かれた大理石に高窓の光が落ち、二階まで吹き抜けた空間に楽士たちの弦の音が静かに流れている。香の匂いは強すぎず、けれど上質だった。どこを見ても、招く側の格と余裕が行き渡っている。

 夫婦で名を告げると、待ち受けていた使用人たちの視線がいっせいに柔らかくなった。

「ディルクレイド公爵閣下、リュゼリア公爵夫人様、ようこそお越しくださいました」

 恭しく頭を下げられ、応接の広間へ通される。そこにはすでに何組もの貴族たちが集まり、花と銀器と絹の衣擦れの中でゆるやかな会話を交わしていた。

 そして、自分たちが姿を現した瞬間、いくつもの視線がこちらへ集まるのがわかった。

 ああ、始まるのだ、とリュゼリアは思う。

 公爵夫妻としての時間が。

「まあ……」

「本当にお似合いですこと」

「ディルクレイド公爵夫人は、今日もなんてお美しいの」

 さざめきはすぐ、笑顔を伴う歓迎へ変わった。侯爵夫人自身が進み出て、二人を迎える。

「お待ちしておりましたわ、閣下、夫人。お二人が揃ってくださると、場が一気に華やぎますこと」

「お招きありがとうございます、侯爵夫人」

 リュゼリアが微笑んで礼を述べると、横でヴィルレオも短く頭を下げた。その無駄のない所作だけで、周囲の婦人たちが小さく息を呑むのがわかる。彼は寡黙で近寄りがたいぶん、こうして外へ出た時の存在感が際立つのだ。

 そして、その隣に立つ自分は。

 彼の冷ややかな美しさを和らげる、やわらかな花。

 たぶん皆にはそう見えている。

 最初の挨拶を済ませると、たちまち何人もの令嬢や夫人たちに囲まれた。話題は春の慈善行事、最近王都へ入った絹織物の話、北方の寒さ、王太子妃の体調、今季の温室薔薇の出来栄え。どれも社交の表層を彩るのにふさわしい話ばかりだった。リュゼリアは微笑みを崩さず、ひとつひとつへ過不足なく応じていく。

「リュゼリア様のところの温室では、今年は白薔薇がとても美しいと伺いましたの」

「ええ、去年の冬に剪定の方法を少し変えましたの。寒さに耐えられるよう、枝の残し方を工夫して」

「まあ、さすがですこと。閣下も、お庭のことは夫人にお任せなのではなくて?」

 向けられた問いに、リュゼリアは一瞬だけヴィルレオを見る。彼は少し離れた位置で若い伯爵たちと言葉を交わしていたが、こちらを完全に無視しているわけではないとわかった。話しながらも、周囲への注意は切っていない。

「旦那様はお忙しい方ですから」

 やわらかく答えると、侯爵夫人がくすりと笑った。

「でも、夫人のお話をされる時の閣下は、案外丁寧でいらっしゃるのよ」

 その言葉に、周囲の婦人たちが目を輝かせる。

「まあ、本当ですの?」

「氷の公爵が?」

「なんて素敵でしょう」

 リュゼリアも笑みを作った。上手に。ごく自然に。

「それは光栄ですわ」

 けれど胸の内では、薄い硝子が一本、静かにひび割れたような音がした。

 夫人のお話をするときは丁寧。

 たぶんそれは事実なのだろう。ヴィルレオは外向きの礼節を欠く人ではないし、妻について公の場で軽んじるような真似も決してしない。むしろ必要以上に整った扱いをしてくれる。家名に傷をつけないために。公爵家にふさわしい夫であるために。

 でもそれは、愛情とは違う。

 そうわかっているのに、周囲の口から「素敵なご夫婦」と囁かれるたび、自分だけが知らない幸福な結婚生活がどこかに存在しているような錯覚に襲われる。

 しばらくして、侯爵家の若い令嬢がヴィルレオへ直接話しかける機会を得た。彼女は薄紅のドレスに身を包んだ、まだ二十にも届かない可憐な娘で、明らかに緊張しながらも目を輝かせていた。

「ディルクレイド閣下、本日はお目にかかれて光栄です。以前、北方の税制改革について父が大変感銘を受けたと申しておりました」

「それは貴殿の父君が柔軟だったからだ」

 ヴィルレオはいつもの低い声で答える。愛想はないが、言葉自体は礼を欠いていない。

「まあ……そのようなお言葉をいただければ、父も喜びますわ」

「伝えるといい」

 そこで会話が切れた。令嬢はなお何か話したそうだったが、ヴィルレオが自分から話題を広げることはない。周囲の婦人たちは、その無骨ささえ魅力のひとつとして受け取っているようだった。

「閣下は本当に寡黙でいらっしゃるのね」

「でも、だからこそ一言が重いのでしょうねえ」

「夫人はきっと、あの沈黙も全部わかっていらっしゃるのね」

 誰かがそう言って、笑いが起きる。

 リュゼリアも笑う。

 わかっているか、と問われれば、たしかに誰よりも長く彼の沈黙を見てきたのは自分だろう。けれど、その沈黙の中身を本当に知っているかと問われれば、答えはひどく曖昧だった。

 ただ忙しいから黙っているのか。

 気遣いをどう言葉にしてよいかわからないからなのか。

 それとも、自分へ向ける言葉など本当はほとんど何もないのか。

 そのどれもがあり得るから、いつまでも足元が定まらない。

     ◇

 茶会の席へ案内されると、中央の円卓のひとつに夫婦で並んで座ることになった。純白のクロスの上には、薄い磁器のティーセットと小ぶりな花器、銀皿に整然と並べられた焼き菓子や果実の砂糖煮。窓辺にはやわらかな音色の弦楽が流れ、会話のざわめきがその上を薄く漂っている。

 座る位置は完璧に計算されていた。

 侯爵夫人からよく見える場所であり、なおかつ他家の視線も集まりやすい席。公爵夫妻はこの場のひとつの飾りとして、もっとも美しく見える位置へ置かれているのだと、リュゼリアは静かに理解した。

「リュゼリア様、こちらのお菓子をぜひ召し上がって。侯爵家の菓子職人が新しく考えたものだそうですの」

 隣席の伯爵夫人が皿を勧めてくる。小さなタルトの上に、春先の苺を薄く煮たものが乗っていた。鮮やかな赤が白いクリームに映えて、美しかった。

「ありがとうございます」

 フォークを取る。ひと口分を切り分ける。香りは甘く、焼きたてのバターの匂いも心地よい。けれど口へ運ぶ直前、胸の奥がわずかにざわついた。ここ数日の体調の揺れを考えると、無理に甘いものを食べるのは少し怖い。

 でも、ここで手を止めるわけにはいかない。

 公爵夫人が主催者の菓子に手もつけないなど、いらぬ憶測を招くだけだ。

 リュゼリアは微笑んだままそれを口に入れた。甘さと苺の酸味が広がる。美味しい。けれど飲み込んだ瞬間、喉の奥がほんの少しだけひりついた。

「いかがです?」

「とても上品なお味ですわ。苺の火加減が絶妙で」

 自然に答えながら、そっとティーカップへ手を伸ばす。紅茶の温度で喉を落ち着かせようとした時、向かい側の侯爵夫人が笑みを深めた。

「お二人をご一緒に拝見しておりますと、本当に絵のようですこと。閣下の凛々しさと、夫人のやわらかさがちょうど良くて」

「ええ、本当に」

「まるで公爵家の紋章そのもののよう」

「氷と花、という感じですわね」

 いくつもの同意が重なる。

 氷と花。

 そのたとえは悪くなかった。むしろ、あまりにも的確で少し可笑しいくらいだった。氷のように冷たい夫と、花のように配置される妻。並べた時にもっとも美しく見える組み合わせ。けれど花は、花瓶の水が替えられなくなれば簡単に萎れる。

「そのように仰っていただけて光栄です」

 リュゼリアはやわらかく応じた。すると別の夫人が、何気ない口調で続ける。

「閣下はお忙しいでしょうに、こうして夫人をきちんとお伴にされるのですもの。大切になさっているのがよくわかりますわ」

 その瞬間、紅茶の香りがふっと遠のいた気がした。

 大切にしている。

 外から見ればそう映るのだろう。公の場へ連れ出し、礼を尽くし、名前に傷をつけないよう扱い、見苦しい姿は決して晒させない。

 けれど、そこにあるのが「大切にする」という行為であっても、「愛する」とは限らない。

「妻として当然の務めを果たしているだけです」

 横からヴィルレオがそう答えた。

 広間の空気が、ごくわずかに華やいだ。皆がそれを照れ隠しや不器用な愛情表現として受け取ったのがわかる。実際、彼の声音はそっけない。だからこそ、「それでも公の場で妻をそう評するなんて」と好意的に解釈される。

 リュゼリアの心だけが、その言葉をまっすぐ受け止めてしまった。

 妻として当然の務め。

 ああ、やはりそうなのだ、と。

 彼にとって自分は、“務めを果たしている妻”なのだ。その言葉自体は称賛ですらある。だが、それがすべてでもある。

 あなたは公爵夫人として不足なく役割を果たしている。

 だから隣に置いておける。

 だから外へ見せられる。

 だから家名にふさわしい。

 リュゼリアはにこやかな表情のまま、ティーカップを持つ指先に少しだけ力を込めた。陶器が指にひんやりと吸いつく。

「まあ、閣下ったら」

「そういうところですわよねえ」

「夫人がお気の毒なくらい愛情表現がお下手」

 笑いが起きる。

 リュゼリアも、その輪から外れないように小さく笑った。

「旦那様は、昔から言葉が少ないのです」

 そう言うと、場はいっそう和やいだ。皆が安心するのがわかる。そうだ、この夫婦はうまくいっているのだ、と。夫は不器用、妻は寛容。それは社交界において非常に好まれる構図だった。

 けれど、その構図を成り立たせるために、誰がどれだけ胸を削っているのかまでは、誰も考えない。

     ◇

 茶会のあと半ば公式な立食の場へ移ると、会話はより自由に広がった。貴婦人たちは小皿を手に集まり、若い貴族たちは窓辺でワインを傾け、年長の侯爵たちは春以降の王都の動向について低い声で語り合う。楽士の音も少しだけ華やかになり、笑い声が高窓へ反響した。

 リュゼリアは何人もの婦人と会話を交わしながら、何度か人波の向こうのヴィルレオを見た。彼は常に会話の中心にいるわけではない。むしろ自分から話を回すことは少なく、必要な相手と必要なだけ話し、あとは黙して場を見渡していることが多い。

 だが、その在り方自体が彼の価値なのだと周囲は知っている。軽々しい愛想はなくとも、存在そのものが家と権力を背負っている男。だから人は寄ってくるし、寄ってきた人々の視線の先には、当然その妻である自分も置かれる。

「リュゼリア様」

 声をかけてきたのは、以前何度か会ったことのある若い子爵夫人だった。彼女は淡黄のドレスに身を包み、どこか気の弱そうな笑みを浮かべている。

「先日は、孤児院への毛織物の件で本当にありがとうございました。夫が予算を渋っておりましたのに、ディルクレイド公爵家からも後押しいただけたおかげで話が進みました」

「そうでしたの。お役に立てたならよかったです」

「本当に、リュゼリア様はお優しいから……。閣下もきっと、そのようなお人柄に惹かれていらっしゃるのでしょうね」

 その一言に、リュゼリアは瞬きすらほとんどせず微笑んだ。

「そうでしたら、光栄ですわ」

 お手本のような返答だった。誰にも引っかからない。誰にも不穏を感じさせない。

 けれどその直後、胸の奥に鈍い息苦しさが広がる。咳ではない。ただ、空気の通り道が少しだけ狭くなるような感覚。背筋を伸ばし、ゆっくり息を整えながら、リュゼリアは視線を伏せた。

 惹かれている。

 その言葉ひとつに、いまだ胸が揺れる自分がいる。

 体調を崩してから、ヴィルレオは以前より明らかにこちらを見るようになった。言葉も増えた。飴を持ってきてくれた。医師の手配もした。髪にも触れた。

 あれは何だったのだろう。

 不器用な気遣いか、義務感か、それとも。

 いや、とリュゼリアは心の中で自分を止める。

 それ以上考えてはいけない。いま外の空気に乗せられて夢を見るのは、あまりにも危うい。

「少しお顔色が」

 子爵夫人が心配そうに声を潜めた。

「大丈夫ですか?」

「ええ。少し暑く感じただけです」

 実際、広間には人が多く、熱気がこもっていた。香水、紅茶、ワイン、焼き菓子、花、蝋燭、衣装の香。さまざまな匂いが重なり、やわらかい音楽の中で少しずつ空気を濃くしていく。体調の万全でない今のリュゼリアには、その濃さがわずかに堪えた。

「窓辺へ参りますわ。風に当たれば落ち着くと思います」

「どうかご無理なさらず」

 礼を言って人の輪から離れる。表情は崩さない。足取りも乱さない。ただ胸の奥だけがじわじわ重く、喉の深いところで何かが小さく引っかかっていた。

 広間の端、窓辺の近くは人が少なかった。開け放たれた細い隙間から、まだ冷たい外気が入り込んでくる。レースのカーテンが風にわずかに揺れ、そのたび、屋敷の外の湿った土の匂いが香水の層を破って届いた。

 リュゼリアはそっと窓枠に指を置く。

 冷たい石の感触が、火照った指先に心地よい。

「……飾りの妻、か」

 思わず声になっていた。

 誰に聞かせるつもりもない呟きだったのに、背後で低い声が返る。

「何の話だ」

 心臓が跳ねた。

 振り向くと、いつの間に来たのか、ヴィルレオがすぐ後ろに立っていた。人のざわめきから少し離れた窓辺で、彼だけがひどくくっきり見える。青灰色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。

「……独り言です」

「独り言にしては、聞き捨てならない」

 逃げ場を失ったような気がして、リュゼリアは一度だけ目を伏せた。

「大した意味はありませんわ」

「なら、言い直せ」

「旦那様」

「何だ」

「そのように問い詰めるお顔をなさらないでくださいませ。周囲から見れば、夫婦喧嘩に見えてしまいます」

 ヴィルレオはわずかに視線を動かし、広間を見渡した。確かに数人がこちらへちらりと目を向けていたが、すぐに視線を逸らす。社交界の人間は好奇心が強く、そのくせ露骨に覗き見ていると悟られるのを嫌う。

 ヴィルレオは一歩だけ位置をずらし、外からは二人が穏やかに語らっているように見える角度へ立った。肩の影がわずかに重なる。

「これでいいか」

「……はい」

「それで、何の話だ」

 結局逃がしてはくれないらしい。

 リュゼリアは唇の裏をほんの少し噛んだ。痛みはない。ただ、言葉を慎重に選ぶための癖だった。

「皆さまが、あまりに『素敵なご夫婦』と仰るものですから」

「事実と違う、と?」

 あまりにも真っ直ぐな問いで、息が詰まりそうになる。

「そうは申しません」

「だが、飾りの妻だと思った」

「……そう聞こえましたの」

「違うなら否定しろ」

「違わないから困っておりますの」

 ぽろりと出た本音は、自分でも驚くほど静かだった。責める調子でも、泣きそうな声でもない。ただ、冷えた事実のように口をついて出た。

 ヴィルレオの表情が変わる。大きくではない。けれど、何かを見落としていた人の目になる。

「あなたのお隣に立って、皆さまへ微笑みかけ、何を問われても綺麗に答える。そうしている時のわたくしは、きっととても“正しい妻”なのでしょう」

 リュゼリアは窓の外を見たまま続けた。顔を見てしまうと、言えなくなりそうだった。

「公爵家にふさわしい装いで、失言もなく、社交の場で恥をかかせず、あなたの冷たさを柔らかく見せるための役目をきちんと果たす。……それなら、たしかに飾りとしては上出来ですわ」

 風がレースを揺らし、冷たい空気が頬に触れる。少しだけ頭が冴える一方で、言葉を止める理性も薄くなっている気がした。

「皆さまは、わたくしたちをご覧になって、美しいと仰るでしょう。きっと本当にそう見えているのです。けれど、そう見えることと、そうであることは別です」

「リュゼリア」

「わたくしは、あなたの隣で美しく立つことには慣れました」

 その一言を言ってしまった瞬間、自分の胸がどれほど冷えていたのか、ようやくわかった気がした。

 慣れた。

 それはつまり、諦めたということだ。

 期待を持たず、傷つくことに慣れ、外から与えられる役割を受け入れることに慣れた。

 ヴィルレオはしばらく黙っていた。広間では笑い声が上がり、誰かのグラスが軽く触れ合う音がした。こちらだけが別の季節にいるようだった。

「俺は、お前を飾りとして扱ったつもりはない」

 やがて彼はそう言った。

 リュゼリアは小さく笑う。悲しいからではなく、その言葉があまりにも彼らしかったからだ。

「ええ、でしょうね」

「信じていない顔だな」

「信じております。ただ」

 そこでようやく彼を見た。ヴィルレオの瞳は思っていた以上に近く、思っていた以上に揺れていた。

「あなたがどういうつもりでいらしたかと、わたくしがどう感じてきたかは、別のことです」

 その瞬間、ヴィルレオの喉がわずかに動いた。

「……そうだな」

 低く落ちたその声は、否定ではなかった。彼はそこで初めて、彼女の感じ方そのものを退けなかった。

 それだけのことが、なぜこんなにも胸へ響くのだろう。

「お前を隣に置くのは、公爵家のためだけではない」

 ヴィルレオは言葉を探しながら続ける。いつもなら一息で言い切るはずの人が、今日はひどく遅い。

「だが、それをお前に伝わる形で示せていなかったなら、意味がない」

 リュゼリアは目を見開いた。風が吹き、耳元の髪が一房揺れる。

 意味がない。

 その言葉を、彼が自分で口にするとは思わなかった。

「……旦那様」

「何だ」

「そういうことを、こんなところで仰るのは少しずるいですわ」

「なぜだ」

「皆さまの前では、余計に本当かどうかわからなくなるからです」

 ヴィルレオは答えられなかった。

 その沈黙が、何より雄弁だった。彼もまた、社交の場というものの性質を知っている。ここで交わされる言葉は、どれだけ本音を装っていても、外から見れば美しい夫婦のやり取りの一部にしか見えない。

 つまり、この場では何を言っても“演出”に取り込まれてしまうのだ。

 リュゼリアはそっと目を伏せた。

「ごめんなさい。……少し疲れているのかもしれません」

「戻るか」

「いいえ。今、抜ければ本当に騒ぎになりますもの」

「構わない」

「あなたはそう仰るけれど、構う人はいくらでもおります」

 その時だった。

 広間の中央から誰かがこちらへ近づいてくる気配がある。侯爵家と親しいらしい年配の夫人が、にこやかな笑みを浮かべたまま二人へ歩み寄っていた。

「まあ、お二人ともこちらに。ひそひそお話しされているところを見ると、こちらまで頬が緩みますわ」

 一瞬で、世界が切り替わる。

 リュゼリアは唇にいつもの微笑みをのせた。ヴィルレオも表情を薄く整える。ほんの少し前まで、窓辺にあった張りつめた静けさは、何事もなかったかのように覆い隠された。

「失礼いたしました、夫人」

「いいえいいえ。仲のよろしいご夫妻を拝見するのは、目の保養ですもの」

 その言葉に、リュゼリアは完璧な角度で微笑み返す。

「そのように仰っていただけるなんて」

「まあ、本当に絵になりますこと。閣下は夫人をご覧になるときだけ、少し目元が違いますわね」

 夫人は楽しそうにそう言って、また別の客のほうへ去っていった。

 あとに残された沈黙は、先ほどまでのものとは別種の重さを帯びていた。

 見られていたのだ。

 窓辺で並び、低く言葉を交わし、距離を保ちながらも他人には親密に見えるその姿を。たぶん今夜のうちに、社交界のどこかで「ディルクレイド公爵夫妻は今日も麗しかった」と話されるのだろう。夫は相変わらず無口だが、夫人を大切にしている様子だった、と。

 その一部始終を、自分たちは演じていたわけではない。少なくともリュゼリアにとっては本気の痛みだった。

 でも外から見れば、それさえ美しい夫婦の一場面にされてしまう。

「……戻りましょう」

 リュゼリアが先に言った。

 もうこれ以上ここにいては危ない。気持ちが崩れてしまいそうだった。

 ヴィルレオは何か言いたげにしたが、結局短く頷くにとどまった。

「ああ」

     ◇

 そのあとも茶会は滞りなく続いた。

 リュゼリアは最後まで公爵夫人であり続けた。誰かの噂話に上品に笑い、慈善活動への賛同を取りまとめ、主催者へ賛辞を述べ、若い令嬢の緊張を和らげ、年配の婦人へ席を譲る。どの瞬間も、非の打ちどころなく整っていたと思う。

 だがそのぶん、帰路の馬車に乗り込んだ時には、背筋の奥から力が抜けていた。

 扉が閉まり、外のざわめきが遠のく。厚い座席へ体を預けた途端、体のどこかが音もなく沈んだような感覚があった。窓の外では夕方の街路が流れていく。暮れかけた空は薄い金色を帯び、石畳には長い影が伸びていた。

 馬車が動き出してしばらく、二人とも何も言わなかった。

 社交の場を終えた直後の沈黙はいつもある。だが今日は、その沈黙がやけに密だった。窓辺での会話が、まだどこかに張り付いている。

「喉は」

 やがてヴィルレオが低く訊く。

「大丈夫です」

「顔色が悪い」

「いつものことですわ」

「いつものことにするな」

 その声音はきつくなかった。けれど、返す力も残っていなくて、リュゼリアは目を伏せる。

「……はい」

 馬車が大きな石の継ぎ目を越え、小さく揺れた。その拍子に胸の奥で詰まっていたものが少しだけ動き、リュゼリアは唇を押さえた。咳をしたくない。今ここで咳き込めば、ヴィルレオの表情がまた固くなるのがわかっていた。

 だが喉は言うことを聞かない。

「っ、……げほ」

 小さく漏れた一声に続いて、二度、三度と咳が出る。以前ほど激しくはないが、胸の深いところを擦るような咳だった。

 ヴィルレオがすぐ手を伸ばす。躊躇いもなく、座席脇に備えてあった水差しからコップへ水を注ぎ、差し出してきた。

「飲め」

 リュゼリアは受け取り、少しずつ喉を潤した。冷たすぎない水が通り、咳はようやく収まる。

「……ありがとうございます」

 言うと、ヴィルレオの目が一瞬だけ翳る。また礼を言わせてしまった、という顔だった。

 リュゼリアは小さく息を吐く。

「でも、これは礼を申し上げます。助かりましたもの」

「そうか」

「ええ」

 短い会話だった。けれど、それだけで少しだけ空気がやわらいだ気がした。

 ヴィルレオはコップを受け取ると、そのまましばらく指先で縁を押さえたまま黙っていた。馬車の中に、車輪の音だけが続く。

「……あの窓辺での話だが」

 不意に、彼が言った。

 リュゼリアの指先が膝掛けの上で止まる。

「はい」

「俺は、お前を“置き物”として隣に置いていたわけではない」

 飾り、という言葉をそのまま繰り返さないのは、彼なりの不器用な配慮なのかもしれなかった。

「……そうでしょうね」

「だが、それと同じように感じさせていたのなら、結果は同じだ」

 リュゼリアは視線を上げた。

 夕方の光が馬車の窓から差し込み、ヴィルレオの横顔の線を淡く照らしている。いつもなら鋼のように冷たい印象のその顔が、今はどこか疲れて見えた。

「なぜ、そう思う」

 彼は問いながらも、半分は答えを知っているような顔をしていた。

 リュゼリアは少し考えた。けれど、本当は考えなくても答えは胸の中にたくさん沈んでいた。ただ、それを口にすることに慣れていないだけで。

「……あなたは、いつもきちんとしてくださいます」

「何を」

「外に対して。家名に対して。妻であるわたくしに対しても、体面のうえでは何一つ不足なく扱ってくださる」

「それの何が悪い」

「悪くはありません」

 首を振る。

「でも、それだけなのです」

 言いながら、自分の声が少しずつ薄くなっていくのがわかった。

「わたくしが具合を悪くしていないか。寂しくしていないか。笑っている時に本当に笑っているのか。そういうことを、あなたは……」

 言葉が続かない。咎めたいわけではないのだ。責める声にしたいわけでもない。ただ、ずっと胸の中にあった形のない寂しさへ、ようやく輪郭を与えているだけで。

 ヴィルレオは静かに言った。

「見ていなかった、と」

「……見ていても、届かなかったのでしょうね」

 その答えに、彼は目を伏せた。

 短く息を吐く。その仕草ひとつに、どうしようもない苛立ちと自己嫌悪が滲んでいる気がして、リュゼリアは胸の奥が痛んだ。責めたいわけではないのに、こうして彼が傷つく顔を見ると、自分のほうが悪いことをしているような気がする。

 でも、では黙っていればよかったのかと言えば、それも違う。

 言わなければ、何もなかったことにされてしまうから。

「俺は」

 ヴィルレオが言いかけて、止まる。

 それから、言葉を選び直すようにして続けた。

「……お前が何でもこなすから、平気なのだと思っていた」

 リュゼリアは瞬きをした。

 あまりに率直で、あまりに愚かな告白だった。

「平気なわけ、ないでしょう」

 少しだけ、笑ってしまう。怒りではない。呆れと、どこか泣きたいような気持ちが混ざった笑いだった。

「そうだな」

 ヴィルレオも否定しない。

「だが、お前はいつも笑っていた」

「笑うしかありませんもの」

「なぜだ」

「公爵夫人だからです」

 即答だった。

「あなたの隣で、しかめ面や泣き顔ばかり見せて、何になりますの」

「夫婦だ」

 その一言は、思ったよりずっと強く響いた。

 リュゼリアは息を止める。

 夫婦だ。

 あの言葉を、彼はどんな思いで口にしたのだろう。義務としてか、立場としてか、それとも。

「……夫婦、ですか」

 問い返した声は、自分でも驚くほど静かだった。

「そうだ」

「でしたら」

 リュゼリアは膝の上で指を組み、窓の外を見た。夕暮れの街並みが流れていく。人々の暮らしの灯りが、一つまた一つと通り沿いに灯り始めていた。

「少しだけでも、そう思える時間がほしかったです」

 ヴィルレオは何も言わない。

「外の方々がいないところで。誰の視線もない食卓で。夜の寝室で。そういう場所でも、わたくしがあなたの妻であると思える時間が」

 言ってしまえば、ひどく幼い願いだ。だが、それこそがずっと欲しかったものだった。豪奢な贈り物でも、派手な愛の言葉でもない。ただ、二人きりのときにも、自分がこの人の隣にいてよいのだと感じられる瞬間が。

 ヴィルレオの手が、膝の上でゆっくり握られるのが見えた。

「……俺は、うまくできなかった」

 低く絞るような声だった。

「それは知っています」

「知っていて、ずっと何も言わなかったのか」

「言っても困らせるだけだと思っていました」

「困らせればよかった」

 あまりにも即座で、リュゼリアは思わず彼を見る。

 彼もまた、こちらを見ていた。青灰色の瞳の奥に、いつもの冷たさとは違う、焦れたような熱がある。

「お前は、俺が気づかないまま耐えれば済むと思ったのかもしれないが」

 ヴィルレオは低く続ける。

「気づいた時には、もっと困る」

 その言葉に、胸の奥で何かが静かに震えた。

 気づいた時には、もっと困る。

 それはつまり、彼にとっても、もう見過ごせないところまで来ているということなのだろうか。

 けれど、そこへ希望を見てはいけないと、理性が強く告げる。遅い。遅すぎる。そういう物語ならどれほどよかっただろうと思う一方で、現実はいつだって、その手前で人を止める。

「……困らせてしまっておりますね、いま」

 リュゼリアがそう言うと、ヴィルレオは眉を寄せた。

「またそういう言い方をする」

「でも、事実です」

「違う」

「旦那様」

「違う」

 彼は二度言った。

「困っているのは、お前に言われたからじゃない」

 そこで言葉を切る。続きは言えないらしい。けれど、その切れ方がひどく生々しくて、リュゼリアは息をするのも慎重になる。

 馬車が公爵家の門をくぐった。車輪が石畳の質を変え、揺れがやわらかくなる。まもなく停車するだろう。

 この話もここまでだと、二人とも同時に理解した気がした。

 外では使用人たちが出迎えの準備を整え、扉が開けばまた公爵と公爵夫人へ戻らなくてはならない。屋敷に入った瞬間、個人の会話はすべて役目の中へ飲み込まれる。

「……着きますわね」

 リュゼリアが小さく言う。

「ああ」

「先ほどの話は」

 そこでヴィルレオが先に口を開いた。

「終わっていない」

 リュゼリアは目を見開いた。

 扉の外では従者の足音が止まる。馬車が静かに停まり、ノックの音が響く。

「閣下、到着いたしました」

 ヴィルレオは一度だけ目を閉じたあと、元の公爵の顔へ戻った。

「わかっている」

 その声は、外へ向けた時のいつもの声だ。冷静で、揺らがず、隙がない。

 扉が開く。夕方の冷たい空気が流れ込んだ。

 ヴィルレオが先に降り、手を差し伸べる。公の場でも屋敷の玄関前でも変わらない、完璧な夫の所作。リュゼリアはその手へ自分の手を重ねた。

 大きく、硬い手。

 指先の力は強すぎず弱すぎず、誰が見ても理想的な導き方だった。

 理想的であるほど、胸が痛んだ。

 彼は自分を落とさぬよう支えてくれる。だが、それが“自分だけのための手”なのか、“公爵夫人を正しく扱うための手”なのか、いまだにわからない。

 馬車から降りると、玄関ホールへ続く石段の上で使用人たちが一斉に頭を下げた。夕暮れの空は紫を帯び、屋敷の窓には内側の灯りがともり始めている。いかにも整った、帰還の光景だった。

「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」

 その声の中を、リュゼリアはヴィルレオの隣で歩いた。

 美しい公爵夫妻として。

 誰の目にも、完璧に見えるように。

 だがその胸の内では、窓辺で交わした言葉と、馬車の中で途切れた話が、まだ静かに疼いていた。

 飾りの妻。

 そう思い知らされた一日の終わりに、彼は「終わっていない」と言った。

 その一言が救いになるのか、さらに深い傷の始まりになるのかは、まだわからない。

 ただ確かなのは、今日、社交の場で美しく微笑み続けたぶんだけ、リュゼリアの心は外見よりずっと深く疲れ切っていたことだった。

 夜の支度のために自室へ戻る廊下で、胸の奥がひどく静かに軋む。

 飾りでいることには、もう慣れたと思っていたのに。

 慣れていたのは、痛みに目を逸らすことだけだったのかもしれない。


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