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第4話 崩れる音
その夜、リュゼリアは寝室へ戻ったあと、しばらく鏡の前から動けなかった。
ルーデンベルク侯爵家から帰還したのは夕刻を少し回ったころだったが、そこから衣装を解き、髪飾りを外し、頬にのせた薄い化粧を落とすまでの時間が、いつもの何倍も長く感じられた。鏡の中の自分は相変わらず整っている。蜂蜜色の髪は丁寧に結い上げられ、薄青の瞳は少し疲れて見えるものの、まだ公爵夫人としての輪郭を保っていた。
けれど、衣装を一枚外すたび、その輪郭の内側から別の現実が滲み出してくる。
肩が重い。胸の奥はじくじくと痛み、喉には茶会で飲み込んだ甘さと香の匂いがまだ薄く残っている。コルセットを緩めた瞬間、呼吸が少し楽になったはずなのに、今度は全身から一気に力が抜けて、膝が笑いそうになった。
「奥様、座ってくださいませ」
アイダの声が、いつもより近く聞こえた。
「立っていらっしゃるだけでもおつらいのでしょう」
「……少し、疲れただけよ」
「その“少し”が、もう信用できないことはご承知のはずです」
返す言葉がなく、リュゼリアは鏡台の前の椅子へ腰を下ろした。ビロード張りの座面はやわらかいのに、背骨へ触れる感触だけが妙に硬く感じる。若い侍女たちが気を遣って部屋の出入りを控えているせいか、寝室には静けさが濃かった。暖炉の火がぱちりと小さな音を立て、そのたび、今日の茶会で交わされた笑い声や賛辞が、遠い別世界のもののように思える。
飾りの妻。
窓辺で口をついて出たあの言葉が、まだ胸の奥にひっかかったままだった。社交の場では完璧に微笑めた。公爵夫人として一分の隙もなく振る舞えた。それなのに、ひとたびドレスを脱ぎ始めると、自分が美しく飾られていたぶんだけ、内側が空っぽだったことを思い知らされる。
ヴィルレオは「終わっていない」と言った。
あれは本心なのだろうか。社交の場で切り上げざるを得なかった話を、あとでちゃんと続けるつもりなのだろうか。それとも、あの場ではそう言うしかなかっただけなのだろうか。
期待したくない。けれど、あの一言をまるごと無かったことにもできない。
「奥様」
アイダがそっと呼ぶ。
「夕食はお部屋にお持ちいたします。旦那様へもそのようにお伝えしてあります」
「旦那様は?」
「書斎にお戻りになりました。北方から来た書状の返答があるとのことで」
やはり、と思う。
馬車の中であのような言葉を交わしたあとでも、彼はすぐ公爵の務めへ戻る。戻れる。戻らなければならないのだろうし、それが彼の在り方なのだとわかっている。わかっていても、胸のどこかがひどく静かに冷える。
「そう……」
短く返したつもりだったのに、声にわずかな掠れが混じった。アイダは気づいたはずだが、何も言わない。ただ、指先を冷やさぬようにとリュゼリアの肩へショールをかけてくれた。
「本日はもう何もお考えにならないでくださいませ」
「考えないというのは、案外むずかしいわね」
「そうでしょうとも。ですから、せめて体だけでも休めていただきたいのです」
その言い方があまりにも切実で、リュゼリアは小さく笑った。
「本当に、わたくしは皆に心配をかけてばかりね」
「“皆”ではございません」
アイダは即座に言った。
「心から案じている者がどれだけいるか、奥様はよくご存じのはずです」
やわらかな口調なのに、その言葉だけは少し厳しかった。
リュゼリアは目を伏せる。知っている。誰が本気で自分を案じてくれているかくらい、本当はちゃんと知っている。アイダや、ごく近しい使用人たち。それから、最近のヴィルレオ。最近の、という不安定な注釈付きで。
夕食は部屋へ運ばれたが、ほとんど喉を通らなかった。温かいスープは飲めたものの、柔らかく煮た肉にフォークを入れたところで、胃の底がきゅうと縮んでしまった。無理に飲み込めばまた咳が出そうな気がして、リュゼリアはスプーンを置いた。
「少しだけでも召し上がってくださいませ」
「ごめんなさい。いまは、どうしても」
「では、あとで果物だけでも」
「ええ」
約束したものの、あとで本当に食べられるかはわからなかった。
夜が深まるにつれ、熱がじわじわと上がっていくのがわかった。額ではなく、骨の内側が熱を帯びるような感覚。まぶたが重いのに、横になっても眠りはなかなか来ない。喉の奥には乾いたかすれが残り、胸へ耳を澄ませば、呼吸のたびにかすかな濁りがあるような気がした。
もう少しで眠れそう、と思ったころ、寝室の扉が控えめに叩かれた。
こんな時間に、と一瞬だけ身を起こしかけたが、アイダが先に動いた。
「どなたです」
「俺だ」
ヴィルレオの声。
リュゼリアの心臓が、熱とは別の理由でひとつ強く打つ。
「どうぞ」
入ってきたヴィルレオは、昼の正装ではなく、濃い色の室内着に着替えていた。髪も少しだけほどけていて、そのぶん昼間より年若く見える。けれど表情は硬く、いつものように感情をしまいこんだ顔だった。
「まだ起きていたのか」
「少し熱っぽくて、寝つけないだけです」
「熱があるのか」
低い声が一段沈む。アイダが代わりに答えた。
「先ほどからお体が温かく、薬を追加で飲んでいただいたところです」
ヴィルレオはすぐ寝台のそばへ来た。そして躊躇いのあと、今度は迷わずリュゼリアの額へ手を当てた。
大きな掌は思っていたより少し冷たく、そのひんやりした温度が火照った皮膚に触れた瞬間、リュゼリアは思わず目を閉じた。ほんの数秒。たったそれだけの接触なのに、喉の奥で何かが細く震える。
「……熱いな」
彼は呟くように言った。
「大したことはございません」
「お前の“大したことはない”は信用しない」
きっぱりした口調だった。以前なら、そんなふうに言われれば少し傷ついたかもしれない。けれど今は、その不器用な断定の中にある焦りがわかってしまう。
「旦那様、本日はもうお休みになったほうが」
アイダが促すように言う。
「夜分に奥様のお部屋に長くいらっしゃると、使用人たちが落ち着きません」
それは半分は本当で、半分は嘘だった。アイダはたぶん、二人に必要以上の刺激を与えたくないのだ。熱のある夜に、解決できない話を深めさせたくない。
ヴィルレオもそれを理解したらしく、短く頷いた。
「明日、午前の予定はすべて外せ」
「でも、明日は屋敷で春の慈善縫製会の打ち合わせが」
リュゼリアが言うと、彼の眉が寄る。
「それが何だ」
「主催側が公爵家ですの。ルーデンベルク侯爵夫人も、視察を兼ねて少しお立ち寄りになると仰っていました」
「断れ」
「前日の茶会であれだけ顔を合わせたあとですもの、わたくしが突然寝込んだとなれば、余計な憶測が立ちます」
「憶測より体のほうが先だ」
「旦那様」
「明日も人前へ出るつもりか」
その言葉の鋭さに、リュゼリアは一瞬だけ言葉を失った。
責められているわけではない。わかっている。けれど、彼の口調はいつも心配を心配らしく聞かせてくれない。胸に刺さるのは、言葉の形ではなく、その奥にある焦れのほうだ。
「……少し顔を出すだけなら」
「駄目だ」
「わたくしは公爵夫人です」
「だから寝ていろと言っている」
寝台の脇で交わされる低い言葉の応酬に、寝室の空気が少しずつ張りつめていく。暖炉の火の音だけが、その隙間を埋めるように小さく爆ぜた。
リュゼリアはシーツの上で指先を絡めた。熱のせいもあるのだろう、いつもなら飲み込める反発が、今夜はうまく飲み込めない。
「わたくしが明日も出れば、皆さまは安心なさいます」
「お前は安心しなくていいのか」
「皆さまが安心なさることが、公爵夫人の務めですもの」
言った瞬間、ヴィルレオの表情が凍った。
その凍り方に、リュゼリアは自分が何を口にしたのかを遅れて思い知る。これは、今日の茶会で感じたことの続きを、そのまま彼へぶつけたに等しい。
「またそういう言い方をする」
低い声。
リュゼリアは目を伏せた。
「……熱のせいで、少し」
「熱のせいにするな」
「では、本音です」
静かな声でそう返すと、今度は自分でも驚くほど胸が痛んだ。
ヴィルレオの喉がわずかに動く。怒っているのではない。ただ、どう受け止めればいいのかわからない顔だった。
結局、その夜の会話はそこで終わった。ヴィルレオはアイダに「夜中に熱が上がったらすぐ知らせろ」と言い残し、寝室を出ていった。扉が閉まったあと、部屋に残ったのは薬と火の匂いと、言葉になりきれなかったものの重さだけだった。
リュゼリアは枕へ頬を埋め、閉じた瞼の裏で小さく息を吐く。
うまくできない。彼も、自分も。
それでも明日、自分はたぶん立つのだろう。公爵家の女主人として、また誰かの前で微笑むのだろう。
その時、自分の体がどこまでついてくるのかは、もう自信がなかった。
◇
翌朝、目を覚ました瞬間から、体は鉛のように重かった。
寝台の天蓋は昨日と同じ位置にあるはずなのに、視界へ入るまでにわずかに時間がかかる。まぶたの裏に薄い痛みがあり、喉は乾き切っていた。胸の奥は熱いのに、指先と足先だけが不自然に冷たい。
「……奥様?」
起き上がろうとした気配で、アイダがすぐ寝台へ寄ってきた。
「お熱がございます」
「どのくらい」
「今すぐ医師をお呼びする程度には」
率直な言い方だった。額に当てられた布は心地よかったが、離れるとすぐ火照りが戻ってくる。喉の奥では咳がくすぶっていて、ひとたび起き上がれば咳き込む予感がした。
それでもリュゼリアは、ゆっくりと上体を起こした。
「お支度を」
「なりません」
「アイダ」
「本日は寝台から動かれませんように」
「縫製会の件があるの」
「クラウスにも他の侍女頭にも指示を出してあります。主催側の奥様が寝込んでいると伝えれば済む話です」
「済まないわ。昨日あれだけ大勢の前へ出ておいて、今日になって突然隠れるように休めば、余計に騒ぎになる」
「騒ぎになっても構いません。奥様のお体のほうが」
「駄目よ」
珍しく強く言った自分の声に、リュゼリア自身が少し驚いた。けれど、驚いたのはアイダも同じだったらしい。
「……奥様」
「お願い。せめて、最初だけでも顔を出させて」
その声音が懇願に近かったのだろう。アイダの瞳に深い苦さが浮かぶ。
「旦那様がお許しになりません」
「旦那様がいらっしゃる前に支度を済ませます」
「そんな子どものような真似を」
「子どもでも結構よ」
言いながら、リュゼリアの胸は苦しかった。無理を通そうとしている自覚はある。わかっている。わかっているのに、寝台の上で今日一日をやり過ごす自分の姿が、どうしても耐え難かった。
昨日の社交の場で、自分は飾りだと思い知った。けれど、では何もしないまま閉じこもっていれば、ますます“ただ守られて置かれるだけの妻”になってしまう気がしたのだ。
それが愚かな反発だとわかっていても。
支度は簡素なものになった。体を締めつけるコルセットはいつもより緩く、ドレスも軽い素材のものが選ばれた。髪は高く結い上げず、やわらかく後ろへまとめるだけ。病人に見えない程度に血色を足しながら、アイダは終始無言だった。その沈黙は怒りではなく、止められないことへの諦めに近く、かえってリュゼリアの胸に重くのしかかった。
立ち上がると、視界が一瞬だけ白く揺れる。
「ほら、ご覧くださいませ」
「大丈夫」
「大丈夫ではありません」
「歩けるわ」
「歩けることと、人前へ出てよいことは違います」
その言葉をやり過ごしながら、リュゼリアは扉へ向かった。廊下へ出た瞬間、屋敷の朝の空気が思いのほか冷たく、肺の奥へ細い刃のように入ってくる。思わず足を止めたところへ、前方から重い足音が近づいてきた。
ヴィルレオだった。
彼は朝食のため食堂へ向かう途中だったのだろう。濃い色の上着をきちんと着込み、すでに公爵の顔になっている。だが、ドアの前に立つリュゼリアを見た瞬間、その顔から一切の温度が消えた。
「何をしている」
ひどく静かな声。
「……おはようございます」
「挨拶を聞いているのではない」
青灰色の瞳が、彼女の顔色と衣装と、廊下に立っているという事実のすべてを瞬時に測っていくのがわかった。
「部屋へ戻れ」
「少しだけ、縫製会の最初に顔を出すだけです」
「戻れ」
「旦那様」
「聞こえなかったか」
低い声なのに、階下へまで落ちる氷のような響きがあった。近くにいた使用人たちが一斉に息を潜める気配がする。
リュゼリアは唇を引き結んだ。ここで言い争えば、かえって目立つ。わかっている。わかっていても、引けなかった。
「公爵家の奥方が、今日の集まりをまるごと欠席するわけにはまいりません」
「お前の体調のほうが優先だ」
「公爵夫人としては、そうは申しません」
ヴィルレオの眉が寄る。
「またそれか」
「また、ではありません」
熱のせいだろうか、いつもより口が軽い。頭の奥では警鐘が鳴っているのに、言葉だけが止まらない。
「あなたはそうやって、わたくしを大事だと仰る。休めと。寝ていろと。でも、それはわたくしが“公爵夫人として倒れると困る”からなのか、“リュゼリアだから”なのか、わたくしにはまだ……」
そこまで言った瞬間、喉がひどく掠れた。咳が込み上げる。手を口元へやるが、一度で収まらない。
「げほっ……、っ、げほ」
「部屋へ戻れ」
ヴィルレオが一歩踏み出す。だがリュゼリアは首を振った。
「嫌です」
使用人たちの前で、こんなふうに言ったことなど一度もなかった。
その一言に、廊下の空気が凍る。アイダが青ざめ、近くの侍女たちが目を伏せる。ヴィルレオだけが微動だにしない。
「……嫌、だと」
「はい」
熱が頬を焼く。心臓が速い。呼吸も浅い。けれど、いまここで折れたら、自分は本当にただ置かれるだけの存在になってしまう気がした。
「わたくしは、ただ守られて寝台に置かれるだけの人形ではありません」
「人形にしているつもりはない」
「でしたら、わたくしに決めさせてくださいませ」
「熱のある女に何を決めさせる」
「自分の務めくらい」
ヴィルレオの顔が、見たこともないほど固くなる。怒っている、というより、もはや余裕がなかった。
「……お前は今、自分で何を言っているかわかっていない」
「わかっております」
「わかっていない」
「わかっております!」
声を張った瞬間、喉の奥が裂けるように痛んだ。激しい咳が込み上げ、体が前へ折れる。アイダが慌てて支えようとするが、その前にヴィルレオの腕が伸び、リュゼリアの肩を強く抱きとめた。
「いい加減にしろ」
耳元で落ちた声は低く、掠れていた。
「倒れたいのか」
その言葉に、リュゼリアは息を呑む。
倒れたいわけがない。倒れるのが怖いから、今こうして立っていようとしているのだ。立っていられるうちに立ち、笑えるうちに笑い、公爵夫人として自分の輪郭を保っていたいのだ。
だが、その思いをうまく言葉にできないまま、咳だけが続く。
「……っ、げほ、……ごほっ」
喉を押さえた指の隙間に、ほんのわずかな温かさが滲んだ気がした。ぞっとして手を見る余裕はなかったが、血の気が引く。
「もう十分です、奥様!」
アイダの声が、半ば悲鳴のように響いた。
その時、玄関ホールの向こうから新たな来客の声がした。予定より早く到着したらしいルーデンベルク侯爵夫人と、その随伴の婦人たちだった。
「まあ、公爵様? 夫人? お早うございます――」
明るい声が、途中で止まる。
視線が、廊下の中央でヴィルレオに支えられているリュゼリアへ集まる。公爵家の使用人たちも、到着した客人たちも、一斉に息を呑んだのがわかった。
最悪だった。
こうなりたくなくて立っていたのに、いちばん見られたくない形で、人前の中心へ引きずり出されてしまった。
「ご、ごめんなさ……」
謝ろうとした途端、咳がまた喉を引き裂いた。
「げほっ、げほっ……っ」
口元を押さえるハンカチへ、今度ははっきりと赤が落ちた。それを見たアイダが息を止める。ルーデンベルク侯爵夫人の顔からも色が引いた。
「リュゼリア!」
ヴィルレオが初めて、呼び捨てるような勢いで名を呼んだ。
次の瞬間、床が遠くなった。
視界の端から光が抜けていく。大理石の床も、玄関ホールの高い天井も、誰かの驚いた顔も、全部が急速に薄れていく。足先から力が消え、膝が折れる。ヴィルレオの腕が支えようとした感覚だけが最後に残ったが、それさえもすぐ白い闇へ溶けた。
崩れる音がした。
それが何の音だったのか、リュゼリアにはわからなかった。誰かが落とした銀盆の音だったのか、自分の体が支えを失った音だったのか。それとも、胸の内で長く保ってきた何かがとうとう砕けた音だったのか。
◇
どれくらい意識がなかったのかはわからない。
遠くで声がしている。幾重にも重なった声。誰かが走る足音。扉が開閉する気配。どれも水の底から聞いているみたいにくぐもっていた。
「医師を、いますぐ!」
「馬車を回せ、王都の内科医もだ!」
「熱が高すぎます、冷水を!」
「奥様、奥様、聞こえますか」
その中で、いちばん近くにあるのはヴィルレオの声だった。
いつものように低いが、今は明らかに整っていない。焦りを押し殺す余裕すらなく、呼吸の端が乱れている。
「リュゼリア」
また名前を呼ばれる。
その響きが、深い闇の底へ沈んでいた意識を少しだけ引き上げた。
まぶたは重かった。けれど、なんとか薄く開く。最初に見えたのは、見慣れた寝室の天蓋ではなく、応接用の客間の白い天井だった。玄関からいちばん近い青の間だと、遅れてわかる。緊急時に人を横たえるため、手近な客間へ運び込まれたのだろう。
視界がまだ霞んでいる。その中心に、ヴィルレオの顔があった。
髪が少し乱れている。上着の襟元も、いつもよりわずかに崩れていた。彼がこんなふうに取り繕う暇もなく誰かの寝台脇に立つ姿など、リュゼリアは見たことがない。
「……だん、なさま」
声は掠れて、ほとんど空気に近かった。それでもヴィルレオはすぐ身をかがめる。
「喋るな」
言いながら、その声はひどく震えていた。
「ごめん、なさ……」
「謝るな」
それは二人の間で何度も繰り返された言葉だった。だが今、この瞬間の「謝るな」は、今までとまるで違う重さを持っていた。命令ではなく、懇願に近い。
リュゼリアはうまく息が吸えず、また小さく咳き込む。今度は血の味がはっきりした。鉄錆のような、熱いような、冷たいような味。
「水を」
ヴィルレオが言うと、すぐそばからアイダが差し出した。彼は自分の手でリュゼリアの肩を少し起こし、コップの縁を唇へ寄せる。その動作が驚くほど慎重で、リュゼリアは朦朧としながらも、そのことだけは鮮明に感じた。
「少しずつだ」
言われるまま、ほんのひと口飲む。水が喉を通ると、痛みがわずかに和らいだ。
部屋の隅にはルーデンベルク侯爵夫人がいた。彼女は顔色を失いながらもきちんと姿勢を正し、こちらへ近づきすぎない位置で立っている。公爵家の女主人が自分の前で倒れた以上、無責任に去るわけにはいかないのだろう。彼女の後ろには青ざめた若い婦人たちと、使用人たちの影も見えた。
全員が見ている。
自分が人前で倒れた、そのあとを。
それがひどく惨めで、リュゼリアは目を閉じたくなった。
「視線を気にするな」
まるで心を読んだように、ヴィルレオが低く言った。
リュゼリアはゆっくりと視線を上げる。彼は真っ直ぐこちらを見ていた。青灰色の瞳の奥には、怒りでも冷たさでもなく、むき出しの焦りと、どうしようもない後悔の色があった。
「……みっともない、ところを」
「誰がそう言った」
「でも……」
「誰が」
言い切る声の強さに、部屋にいる誰もが息を潜める。
ルーデンベルク侯爵夫人が、そっと一歩前へ出た。
「閣下、わたくしたちは――」
「お気遣いは感謝します、侯爵夫人」
ヴィルレオは彼女へ向けて短く頭を下げた。公の礼を失わないまま、しかし明確な線を引く口調だった。
「本日の集まりは中止としてください。責はすべてこちらが負います」
「そのようなこと、責だなどと……。むしろ、夫人をお休みさせるべきと進言すべきでしたのに」
侯爵夫人の声には本気の悔恨が滲んでいた。彼女もまた、華やかな社交の場で倒れぬよう微笑み続ける女たちの無理を知っているのだろう。
ヴィルレオはそれに答えず、再びリュゼリアへ意識を戻した。その時、医師が到着したという知らせが廊下から届く。
「通せ」
診察は慌ただしかった。
年配の医師が呼吸の音を聞き、脈を取り、喉と胸の状態を確かめる。追加で呼ばれた若い助手が薬箱を開き、布や器具を並べる。熱は高い。呼吸は浅い。出血がある。少なくともこのまま屋敷内で様子を見るだけでは危険だと、医師の険しい顔を見ればわかった。
「すぐに静かな部屋へお移しし、絶対安静です」
「それだけで済む状態か」
ヴィルレオが低く問う。
医師は一瞬だけ言葉を選んだ。
「本日倒れたこと自体が、かなり無理を重ねておられた証です。肺の奥で強い炎症を起こしている可能性もございます。詳しい診察を行わねば断定はできませんが……」
「最悪を言え」
公爵らしい、容赦のない問いだった。
医師は目を伏せる。
「放置すれば、命に関わります」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が完全に変わった。
使用人たちの息遣いが止まり、アイダがハンカチを握る手を強くする。ルーデンベルク侯爵夫人も顔を伏せた。誰も口を開かなかった。
命に関わる。
ごく当然の医師の言葉が、信じられないほど鋭く胸へ刺さる。リュゼリア自身でさえ、その現実をうまく飲み込めない。倒れた。熱がある。血を吐いた。けれどそれでも、命という言葉だけはまだ遠かったのに、いま急に輪郭を持って迫ってきた。
ヴィルレオはしばらく何も言わなかった。沈黙が長すぎて、誰も動けないほどだった。
やがて彼は、抑えた声で告げる。
「必要な医師をすべて呼べ。王都でも領地でも構わない。金も時間も惜しむな」
「かしこまりました」
「今日からこの部屋への出入りは最小限にする。使用人の選別はアイダ、お前がやれ」
「はい、旦那様」
「ルーデンベルク侯爵夫人」
彼は立ち上がり、客人へ向き直る。その顔はもう泣きそうな夫ではなく、公爵としてすべてを捌く男の顔に戻っていた。だが、戻っていてもなお、その目の奥の色だけは消えていなかった。
「本日の件、ご迷惑をおかけしました」
「そのようなことは」
「社交上の取り計らいは後日改めてこちらから致します。夫人には、お詫びと感謝を」
侯爵夫人は深く一礼した。
「どうか、夫人のお命がつながりますよう」
その祈りのような言葉に、リュゼリアは薄く目を閉じた。
◇
その後、リュゼリアは自室へ移された。
青の間から寝室まで運ばれるわずかな距離ですら、揺れが胸にひどく響いた。寝台へ戻った時にはもう、話すだけの力も残っていなかった。医師の薬で熱が少し落ち着くまで、時間の感覚はほとんどなかった。
目を開けると夕方で、閉じれば夜になり、次に開けばまた灯りの位置が変わっている。夢と現実の境目が曖昧なまま、人の声だけが断片的に耳へ入る。
「まだ熱が」
「水を替えて」
「咳が続いたらすぐ」
「旦那様は?」
「書状の返事を終え次第こちらへ」
そのたび、ヴィルレオがどこかで動いているのだと知る。医師の手配をし、客人への対応をし、屋敷の出入りを制限し、それでも折に触れて寝室へ顔を出しているのだろう。公爵としても夫としても、今の彼は休む場所を持たない。
夜更け近く、ふと目が覚めると、寝台のそばの椅子に人影があった。
ヴィルレオだった。
ランプの明かりは絞られ、部屋は薄い金の光に沈んでいる。彼は肘を膝へついたまま、珍しく前かがみの姿勢で座っていた。いつもならどんな時も背筋を崩さない人が、今は誰にも見せる気のない疲れをそのまま落としている。
リュゼリアが微かに身じろぎすると、彼はすぐ顔を上げた。
「起きたか」
声は低く、少し掠れていた。自分も休んでいないのだろう。
「……はい」
「喉は」
「痛みますけれど、先ほどよりは」
「そうか」
短い問答。けれど、その短さの中へ今は妙な安堵がある。お互い、余計な言葉を探す体力がないのかもしれなかった。
しばらく沈黙が続く。寝室には、外の風が窓をかすめる音と、暖炉の火の小さな爆ぜる音だけがあった。
「旦那様」
リュゼリアが呼ぶと、ヴィルレオはすぐ視線を寄越す。
「なんだ」
「……皆さまの前で、申し訳ありませんでした」
言った途端、彼の表情がきつくなる。
「また謝るのか」
「でも……倒れてしまって」
「倒れたことを謝るな」
低く、だが強い声。
「お前は謝るべきことをしていない」
「わたくしが無理をしたから」
「それは俺も同じだ」
リュゼリアは目を瞬いた。
ヴィルレオは視線を逸らさず、ゆっくりと言葉を続ける。
「止めればいいと思っていた。命じれば従うと思っていた。だが、お前があそこまで無理を通そうとした理由を、俺はちゃんと見ていなかった」
その言い方は、不器用で、苦かった。
「……お前が人形のように守られるだけではいたくないことも。立っていたい理由が、お前の矜持にあることも」
リュゼリアはシーツの上で指先をわずかに動かした。熱で鈍った頭の奥へ、その言葉がゆっくり染みていく。
「見ていなかったのは俺だ」
ヴィルレオがそう言って、唇を結ぶ。
「だから、お前が人前で倒れた瞬間、俺は」
そこで初めて、彼は言葉を失った。
青灰色の瞳がかすかに揺れる。あの玄関ホールの光景が、彼の中でまだ終わっていないのだとわかった。人々の視線、血のついたハンカチ、崩れ落ちる体、それを自分の腕で受け止めた感覚。その一部始終が、まだ彼の中で生々しいのだろう。
「……怖かった」
絞るように落ちたその一言に、リュゼリアの呼吸が止まる。
怖かった。
この人が、そんなふうに言うとは思わなかった。
「お前が、あのまま目を開けなかったらどうしようかと」
次の言葉は、ほとんど囁きだった。けれど、部屋の静けさの中では痛いほどはっきり聞こえる。
「俺は、何をしていたのかと」
リュゼリアは胸の奥がひどく熱くなるのを感じた。熱のせいではない。涙に似た、しかしもっと苦い熱だった。
「旦那様……」
「だから、もう謝るな」
彼は言う。
「お前が倒れたことを、お前の罪にするな。俺にも止められなかった」
それは慰めでも美辞麗句でもなかった。ただ、事実として自分の非も引き受けようとする声だった。
リュゼリアは喉の奥の痛みを堪えながら、そっと息を吐く。
「……わたくし、怖かったです」
今度は自分が言う番だった。
「立っていられると思っていたのに、急に何も見えなくなって……皆さまの前で、わたくし、あんなふうに」
涙が出そうになる。けれど涙を流すと咳き込むのがわかっていて、目元へ力を入れた。
「飾りにすら、なれなかった」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィルレオの顔が変わった。
彼は椅子から立ち上がり、寝台の脇へ来る。そして一瞬ためらったあと、今度は明確に、リュゼリアの手を取った。
大きく、あたたかい手だった。
公の場で差し出される完璧なエスコートの手ではない。力加減も少しだけ不器用で、指先に緊張が残っている。それでも、これは明らかに“自分のための手”だとわかった。
「そういうことを、二度と言うな」
低い声が落ちる。
「お前は飾りではない」
リュゼリアは彼を見上げる。ヴィルレオの瞳はいつもより近く、いつもよりずっと痛みを帯びていた。
「俺がそう思わせてきたとしても、違う」
握られた手が、少しだけ震えている。
「お前がいなくなれば、家がどうとか、社交がどうとか、そんな話では済まない」
そこで彼は一度息を止める。次に出てきた声は、低いまま、けれどひどく生々しかった。
「……俺が、困る」
リュゼリアの瞳がゆっくり見開かれる。
家のためではなく。
公爵家の体面のためでもなく。
俺が困る。
そのあまりにも不器用な本音に、胸の奥が痛いほど締めつけられる。今さらだと思う自分と、ようやく聞けたと思う自分が、同時に涙ぐんでいた。
「そんな言い方では……」
声が震える。
「わかりにくいですわ」
「知っている」
ヴィルレオは珍しく自嘲するように口元を歪めた。
「だが、これがいま言える限界だ」
「本当に、不器用でいらっしゃるのね」
「お前にだけは言われたくない」
その返しがあまりに彼らしくて、リュゼリアは泣きたいのに、少しだけ笑ってしまった。笑うと胸が痛む。それでも、笑ってしまった。
握られた手は離れない。
ただその温度だけが、崩れてしまった一日の終わりに、かろうじて現実をつなぎ留めていた。
人前で倒れたことは消えない。血を吐いたことも、命に関わると言われたことも、何ひとつ消えない。
けれど、その崩れる音のあとに残ったのは、ただ惨めさだけではなかった。
もう隠しきれないほど悪化した体と、隠しきれないところまで追い詰められた心。そのどちらも、とうとう見過ごされない場所まで来てしまったのだ。
それが救いなのか、もっと残酷な始まりなのかは、まだわからない。
ただ確かなのは、崩れた瞬間を見たのが他人ではなく、ヴィルレオでもあったこと。
そして彼が、その音を聞いてなお、目を逸らさなかったことだった。
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