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第12話 さよなら、公爵家
出立の朝は、ひどく静かだった。
まだ夜の名残が空の底へ薄く沈み、東の端だけが水で溶いた銀のように明るみ始めたころ、ディルクレイド公爵家の屋敷ではすでにいくつもの灯りが入っていた。玄関ホールの燭台、厩舎へ続く回廊の壁灯、裏口の荷運び口に吊るされた小さなランプ。風は冷たいが、真冬のような刺す冷たさではない。春の手前で足踏みする季節特有の、湿り気を含んだ冷えだった。
庭の土は昨夜の露を吸い、まだ眠そうな匂いを立てている。薔薇の枝は黒く細く、葉のないまま朝を迎えていたが、先端にだけふくらんだ芽がいくつも見えた。あと少し、あとほんの少し暖かさが足りれば、彼らは迷いなく次の季節へ進むのだろう。
リュゼリアは窓辺に立ち、その庭を見ていた。
肩には淡い灰青のショール。身体を締めつけないやわらかな旅用のドレス。髪は飾りをほとんど使わず、後ろで低くまとめられている。鏡の中の自分を見たとき、あまりにも軽い姿だと思った。公爵夫人が旅立つにしては、身につけるものも少なすぎる。真珠の耳飾りひとつ。細い腕輪ひとつ。指には、公爵夫人としての家紋入りのリングだけ。婚礼の指輪は、結局屋敷に置いたままだ。
持っていく荷は最低限だった。
衣装箱は二つだけ。書物を入れた小箱が一つ。薬や身の回りのものをまとめた革鞄。刺繍道具の小さな包み。母からもらったレースのハンカチの束。少女時代から持っていた文箱の中から、どうしても手放せなかった紙片だけを抜き取って、薄い封筒に移し替えたもの。
それだけで、三年間暮らした公爵家を出るのだと思うと、奇妙な気分だった。
少なすぎる、と感じる一方で、これ以上持っていくべきものが何なのか、自分でもよくわからない。豪奢な夜会服も、季節ごとの扇も、来客用の装身具も、温室の記録帳も、屋敷内の細かな台帳も、何も持っていかない。公爵夫人として必要だったものの大半は、この屋敷に置いていくことにしたのだ。
それはつまり、自分がこの家に残していくものと、持ち出せるものの線引きでもあった。
「奥様」
背後からアイダの声がする。
「お体は、いかがですか」
「……少し重いわ」
正直に答えると、アイダは寝台の上に用意していた薬湯を差し出した。
「出立の前にもう一度、先生のお薬を」
「ええ」
器を受け取る指先が、少しだけ冷えている。湯気の向こうに立つアイダの顔は、いつも通り整っているつもりなのだろうが、目の周りだけが少し赤かった。昨夜も、たぶんほとんど眠っていないのだ。
リュゼリアは苦い薬を飲み下し、ゆっくりと息を吐く。薬草の匂いが喉の奥へ残り、そのあとへぬるい白湯を流し込むと、胸の奥の重さがほんの少しだけ和らいだ。
「侯爵様と侯爵夫人様は」
「すでにお支度を整えておいでです。お見送りだけなさると」
「そう」
父と母は、昨日のうちに何度も娘の顔を見に来た。母は泣きたくてたまらない顔をしながら、それでも最後にはきちんと微笑んでみせた。父はいつもより口数が少なかったが、出立の段取りや医師の手配については妙に細かく確認していた。二人とも、これが単なる静養への旅立ちではないかもしれないことを、すでにどこかで悟っているのだろう。
けれど誰もその言葉を口にしない。
口にした瞬間、本当に「さよなら」になってしまいそうだからだ。
リュゼリアは窓辺から離れ、部屋を見渡した。
寝台。天蓋。暖炉。鏡台。読みかけの本の積まれた小机。使い慣れた香水瓶。衣装部屋へ続く扉。すべてが見慣れたものだ。ここへ嫁いできた日から、少しずつ自分のものになっていった部屋。最初はよそよそしくて、どこへ何を置けばいいのかもわからず、夜になるたび他人の寝室へ紛れ込んだような心地がした。なのに三年も経てば、ここにある物の重さや軋む音まで体が覚える。
見慣れてしまったものを離れるのは、思っていたより静かに痛い。
アイダがそっと言う。
「お時間でございます」
リュゼリアは頷いた。
それで終わりにしたかった。だが、扉へ向かう前にふと足が止まる。鏡台の上へ置かれた小さな陶器の花入れに、昨日温室から取ってこさせた白い蕾が一輪だけ挿してあった。まだ開いていない。今日か明日には花びらをほどくはずだった。
リュゼリアはその花入れへ手を伸ばし、蕾の先端へ指を近づけた。触れはしない。ただ、ごく近くへ。
「……咲くところ、見たかったわね」
誰にともなく呟くと、アイダが息を飲む気配がした。
「南の別邸にも、薔薇はございます」
「ええ。知っているわ」
けれど、ここで咲くこの花を見るのは、もう叶わないのかもしれない。
その事実が、ひどく小さくて、ひどく残酷だった。
◇
寝室を出ると、廊下にはすでに数人の使用人が控えていた。
皆、必要以上に顔を上げない。だが視線の気配だけはわかる。奥様が今朝も立って歩いていることへの安堵と、その歩みが本当に「去る」人のそれに見えることへの恐れが、同時に漂っていた。
リュゼリアはゆっくりと歩く。
一歩ごとに胸の奥が少し痛む。大丈夫。まだ歩ける。薬が効いているうちは何とかなる。呼吸の間隔を乱さぬよう意識しながら、壁に並ぶ肖像画や、磨き上げられた欄干や、朝の光を受けた長窓をひとつずつ目に焼きつける。別れを惜しんでいるように見せたくなくて、表情だけは穏やかに整えた。
階段を下りる前に、ホールの手前で父母が待っていた。
「リュゼリア」
母がすぐに近寄り、けれど強く抱きしめることはせず、両手をそっと取る。病んだ身体へ負担をかけぬようにという配慮だろう。その手はよく温められていたが、掌の奥だけが小さく震えていた。
「おはよう、お母様」
「ええ……おはよう」
母は笑おうとした。だがうまくいかず、目尻だけが先に濡れる。侯爵夫人としての体面もある。ここで取り乱せば屋敷じゅうの空気が崩れることもわかっている。だから、唇の端を少しだけ上げて、泣きそうなまま娘を見つめるしかない。
父は少し離れた位置に立ち、いつもより硬い顔で言った。
「別邸の環境は整ったと聞いた。医師も信頼できる者だ」
「ええ。旦那様がよく手配してくださいました」
その名前を口にすると、父の目の奥に何かが動く。娘の夫をどう受け止めるべきか、いまだ決めかねている顔だった。余命を告げられたあと急に娘へ執着を見せ始めた男。だが、その執着が嘘ではないことも、侯爵はこの数日で理解してしまったのだろう。
「……無理はするな」
最終的に父が言えたのは、それだけだった。
「はい」
「言いたいことがあれば、何でも書状を送れ」
「ええ」
「どんなことでもだ」
その一言に、リュゼリアは少しだけ目を伏せた。どんなことでも。もし、自分が戻らぬ覚悟をさらに固めたとしても、という意味なのだろうか。そこまでは読み切れない。けれど父なりに、娘の決意の深さを感じ取っているのだとわかった。
母が手を強く握る。
「寒かったらすぐお言いなさい。薬を飲んでも咳が続くなら我慢してはだめ。夜、眠れなかったら……」
「お母様」
リュゼリアはやわらかく笑う。
「ちゃんとします」
その言い方があまりにも昔と同じで、母の目からついに涙がこぼれた。けれど彼女はすぐ扇で顔を隠し、「困ったわね」とだけ小さく言った。
◇
玄関ホールには、最小限の荷がすでに運ばれていた。
革張りの小さなトランク二つ。衣装箱二つ。文箱を入れた細長い包み。薬箱。旅用の毛布。どれも大公爵家の女主人が長期の療養へ移るにしては少なすぎる。使用人たちもそれを見ているからこそ、なおさら胸騒ぎを覚えるのだろう。
リュゼリアはその荷へ目をやり、ほんの短く息をついた。
本当に少ないわね、と自分でも思う。
だがそれでいい。たくさん持っていけば戻ってくる前提になる。戻るつもりがないわけではない。それでも、戻ることを当然として荷を整える気にはなれなかった。
ホールの奥には、クラウスをはじめとした主要な使用人たちが控えていた。侍女頭。料理長。庭師。会計係。長く屋敷を支えてきた者たちの顔が並ぶ。皆、深く頭を垂れているが、その沈黙の中にそれぞれの動揺が透けて見える。
リュゼリアはゆっくりと彼らへ向き直った。
「皆さま」
声を発した瞬間、ホールの空気がひとつに固まる。
「このたびは、しばらくのあいだ留守をいたします」
その言葉は、公爵夫人としては何の変哲もない挨拶だった。療養へ出る女主人が屋敷の者へ告げる、もっとも無難な言い回し。
だが今日の彼女の声には、それ以上のものがあった。
「急なことで、ご迷惑をおかけしますわ。けれど、わたくしがいない間も、この屋敷はいつも通りに呼吸していてほしいの」
クラウスの肩が、かすかに強張る。
「帳簿も、厨房も、庭も、客間も。わたくしが見ていなくても、皆さまならきちんとしてくださると信じております」
そこまでは、女主人として屋敷の者たちを励ます言葉に聞こえる。
だが次の一言が、空気を少しだけ変えた。
「長くお世話になりました」
それは明らかに、留守にする者の挨拶ではなかった。
アイダが横で息を止める。父母も、階段の途中で控えていたヴィルレオも、その一言にわずかに表情を動かした。
料理長の目が赤くなる。侍女頭は奥歯を噛み、庭師は深く頭を垂れたまま動かない。若い侍女のひとりは、堪えきれずに下唇を震わせている。
それでも誰も言葉を返さない。
返せば、この言葉を「さよなら」として受け取ったことになってしまうからだ。
リュゼリアはその沈黙も受け止めるように、穏やかに微笑んだ。
「どうか、旦那様をお支えして」
その時、ホールの奥の空気がまた一段冷えた気がした。ヴィルレオの視線が、ほとんど刺すように彼女へ向く。だがリュゼリアは振り返らない。
「旦那様は、お忙しい方ですから」
その言い方は優しい。優しすぎる。まるで、自分はもうその役目から外れるのだと認めているみたいに。
「……奥様」
とうとう、若い侍女の一人が小さく声を漏らした。
だがその先は続かない。泣けば場が崩れる。だから皆、必死に堪えるしかない。
アイダだけは、ここで泣いてはいけないと何度も自分へ言い聞かせた。昨夜泣いた分、今日はもう泣かぬと決めていた。奥様が最後まで穏やかにいるのなら、自分もそれを支えなければならない。
◇
階段の踊り場から、その一部始終をヴィルレオは見ていた。
止めるべきかと、一瞬だけ思った。
長くお世話になりました、というあの一言を。旦那様をお支えして、という、妻の口から聞くにはあまりにも決定的な響きを持つ別れの言葉を。
だが足は動かなかった。
なぜなら、それを止めてしまえば、いよいよ彼女の本気を真正面から否定することになるからだ。いまさらそれをすれば、彼女はもう二度とこちらを見ないかもしれない。
いや、もうすでに見ていないのかもしれない。
今朝もそうだった。目の前に立っていても、その視線はもう彼を追わなかった。穏やかな声。整った表情。必要な返答。すべてがあるのに、その奥にあったはずの小さな熱だけが、どこか別の場所へ移ってしまっている。
ホールの下でリュゼリアが「旦那様をお支えして」と言った時、ヴィルレオは胸の内側で何かが鈍く軋むのを感じた。
それは、妻が夫のために言う言葉ではない。
去っていく者が残る者へ向けて託す言葉だ。
なのに彼女は、そんな顔で微笑む。最後まで美しく、穏やかに、公爵夫人の形を崩さず。
そのことが、たまらなく腹立たしく、たまらなく痛い。
「旦那様」
クラウスが階段の下から小さく呼ぶ。
ヴィルレオは一拍遅れて動き、ゆっくりと階段を下りた。
リュゼリアがその気配にようやく振り向く。淡い色の旅装に包まれたその姿は、華やかではない。だが余計なものを削ぎ落としたぶんだけ、かえってはっきりと目へ焼きつく。細く白い首。まとめた髪のうなじ。肩へ掛かった灰青のショール。少なすぎる荷物。これがこの屋敷を出る妻の姿なのだと、いまさら思い知らされる。
「準備はできたか」
声は平静だった。少なくとも、自分ではそう思いたかった。
「ええ」
リュゼリアもまた、何もなかったように答える。
「では、出る」
「はい」
たったそれだけ。
夫婦の最後の朝にしては、あまりにも簡素だった。
もちろん、本当に最後かどうかなどまだ誰にもわからない。療養へ向かうだけだ。そう言い張ることもできる。けれど、ホールに満ちる空気はもうその建前だけでは支えきれなくなっていた。
ヴィルレオは視線を少しだけ下げ、荷を見た。
「……これだけか」
思わず口をついて出た。
リュゼリアは目を伏せるでもなく、ただ静かに答える。
「十分でしょう」
「足りない」
「向こうで要るものは限られますもの」
「それでも少なすぎる」
「少ないほうが楽だわ」
その言い方に、ヴィルレオはそれ以上何も言えなくなった。
少ないほうが楽。
たしかに、病んだ身体で多くを運ぶのは負担だ。だから理屈では正しい。けれど今は、その正しさの奥にある別の意味が見えてしまう。
たくさん持っていけば、この家へ戻る前提になる。
彼女はそれを選ばなかった。
「参りましょうか」
リュゼリアが言う。
その一言で、出立の時が本当に動き出した。
◇
玄関扉が開かれると、朝の冷たい空気が一気にホールへ流れ込んだ。
外では馬車が待っていた。大きすぎない、療養用に内部を柔らかく整えた馬車だ。窓には薄い布が二重に下ろされ、座席にはクッションと毛布が用意されている。後ろには荷馬車が一台だけ。これまで公爵家の夫婦が王都の夜会へ向かう時なら、もっと華やかで、もっと人も多かっただろう。だが今日は静かだった。必要な者だけが控え、必要な音だけが鳴る。
玄関前の石段へ出た途端、風が頬を撫でた。湿り気を含んだ冷たさが肺の奥まで入り、リュゼリアは息を整えるために一度だけ立ち止まる。すぐ傍へヴィルレオが来た。
「無理をするな」
低い声。
「大丈夫」
「顔色が」
「大丈夫です」
そう返したものの、ほんの少し眩暈がした。アイダがさりげなく肘を支え、反対側にはヴィルレオの手が待つ。リュゼリアはその手を見た。
長い指。少し骨ばった大きな手。公の場では何度もそこへ自分の手を重ねてきた。馬車へ乗る時。階段を下りる時。夜会でホールへ出る時。いつも完璧な角度と力加減で差し出される手。妻としてのエスコートを何ひとつ欠かさなかった人の手。
今はその手が、以前よりずっと個人的な重みを帯びて見える。
それがつらかった。
けれど、ここで拒めばまた場が崩れる。リュゼリアは静かに自分の手を重ねた。触れた瞬間、ヴィルレオの指先がほんの僅かに強くなる。支えるというより、離すまいとする力だった。
石段を下りる。
一段ごとに風が強い。庭の湿った匂いがする。背後では使用人たちが深く頭を下げていた。誰も大きな声を出さない。だが、沈黙の重さだけで、この場がただの静養への見送りではないことがわかる。
「奥様」
若い侍女が、とうとう堪えきれずに小さく呼んだ。
リュゼリアは振り返った。
その一瞬、ホールの奥に並ぶ顔がすべて目に入る。料理長。侍女頭。クラウス。庭師。若い侍女たち。下働きの娘まで、扉の陰からこちらを見ている。皆、泣くまいとしている顔だった。
リュゼリアはゆっくり微笑んだ。
「行ってまいります」
ありふれた言葉だ。
本来なら、数日か数週間の旅へ出る時の軽い挨拶にすぎない。
けれど今日、その一言はどうしようもなく儚く響いた。
「……行ってらっしゃいませ」
かすれた声があちこちから返る。何人かはもう泣いていた。だがそれでも、皆がその言葉を返した。帰ってくる人へ向ける言葉だからだ。それを口にすることでしか、誰もこの朝に耐えられなかった。
リュゼリアはその声を背に受けながら、馬車へ向き直った。
◇
乗り込む直前、ヴィルレオが彼女の名を呼んだ。
「リュゼリア」
石段の下、馬車の扉の前。風の音。遠くの鳥の声。厩舎のほうで馬が鼻を鳴らす気配。そうしたものが一瞬だけ薄れて、その呼び声だけが近く響く。
リュゼリアは顔を上げた。
「何でしょう」
ヴィルレオは何か言いかけた。青灰色の瞳が、真正面から彼女を見る。その目の中には、これまで見たことのないほど露骨な迷いがあった。止めたいのだろう。あるいは何か決定的な言葉をここで言ってしまいたいのかもしれない。だが、それを口にした瞬間にこの見送りの形が完全に壊れてしまうことも、彼はわかっているのだ。
結局、彼が言えたのは別の言葉だった。
「寒くないか」
あまりにも彼らしくて、あまりにも遅い問いだった。
リュゼリアはほんの少しだけ目を細めた。泣きたいのか笑いたいのか、自分でもわからない顔になっただろう。
「ええ。少し」
正直に答えると、ヴィルレオは自分の外套を外しかける。けれどリュゼリアは首を振った。
「いりません」
「だが」
「ご自分がお風邪を召しては困ります」
「そんな話を」
「お願いします」
その言い方に、ヴィルレオは動きを止めた。彼の手の中で、外套の布地がかすかに軋む。
「……わかった」
低い声。
「向こうへ着いたら、すぐ書状を」
「ええ」
「医師の言うことを聞け」
「はい」
「無理はするな」
「わかっています」
「何かあれば、すぐに」
そこでヴィルレオの声がわずかに掠れた。言葉の続きが見つからないように、ほんの一拍だけ沈黙する。
「……すぐに知らせろ」
「ええ」
それが限界だったのだろう。
愛しているとも、行くなとも、離縁は認めないとも、この場では言えない。言えば壊れる。周囲の前で、夫婦としての最後の形すら失ってしまう。だから彼は、いつものように必要な言葉だけを差し出す。それしかできない。
リュゼリアはその不器用さを見つめた。そして、静かに頭を下げる。
「行ってまいります、旦那様」
その呼び方が、胸へ痛いほど沁みた。
旦那様。
最初から最後まで、自分は彼をそう呼ぶのだろう。たとえ心の内で離れたいと願い、離縁を望んだとしても、この朝のかたちの中では、まだそう呼ぶしかない。
アイダが先に馬車へ乗り込み、内側から手を差し伸べる。リュゼリアは今度はそちらへ手を預け、ゆっくりと足を上げた。胸が少し苦しい。視界が揺れないよう気をつけながら、柔らかな座席へ身体を沈める。毛布の温かさと、革の匂いと、閉ざされた空間の静けさが一気に身を包んだ。
外で扉が閉じられる。
音は思ったよりも軽かった。
それだけで、ひどくはっきりと区切られた気がした。
窓の薄布越しに、外の輪郭がぼんやり見える。石段の前に立つヴィルレオの影。少し後ろに控える父母。頭を下げる使用人たち。玄関ホールの闇。すべてが薄い膜の向こうへ遠ざかっている。
馬車がまだ動かないうちに、リュゼリアはそっと窓の布を指先で持ち上げた。
外気が細く入り込む。
ヴィルレオがこちらを見ていた。
たぶん、自分も見ている。見てしまっている。もう彼の視線を追うまいと思っていたのに、最後の最後で、それはやはり癖のように体へ残っていた。
彼の目は遠くてもよくわかった。何も言えないまま、ただ強くこちらを見ている。言えないことが多すぎる目だ。離すつもりはないと、いまだにそう言っている目。けれど、もう届かないところへ行きかけているものを必死で見つめるしかできない目。
リュゼリアはその目を見て、胸の奥がひどく静かに痛んだ。
嫌いではないのだ。
いまも。
だからこそ、さよならと言わずにいられない。
唇は動かなかった。ただ、布越しにほんの少しだけ微笑んだ。届くかどうかもわからない微笑みだった。
やがて御者の掛け声が響き、馬がゆっくりと動き出す。車輪が石を擦り、屋敷の前庭を抜ける。揺れが身体へ伝わり、肺の奥がかすかに軋んだ。けれどリュゼリアはまだ窓の外を見ていた。
玄関ホールが遠くなる。
石段が遠くなる。
父母の姿が小さくなる。
使用人たちは頭を下げたままだ。
そして最後に、ヴィルレオだけがいつまでも顔を上げたまま立っていた。
その姿が、門を曲がる直前まで視界に残る。
「……さよなら」
小さく呟いたのは、アイダにも聞こえないほどの声だった。
公爵家へ向けてなのか。
その屋敷で過ごした三年間へ向けてなのか。
それとも、自分を追っていたはずの視線を失ったまま立ち尽くす、あの人へ向けてなのか。
リュゼリア自身にも、もうわからなかった。
ただ確かなのは、馬車が門を出た瞬間、ディルクレイド公爵家はもう「帰る場所」ではなく、「去ってきた場所」へ変わったことだった。
屋敷の屋根が遠ざかる。高い窓が、朝の光を受けて白く光る。薔薇の庭も、温室も、長い廊下も、食堂も、寝室も、全部が少しずつ風景の中へ沈んでいく。
リュゼリアは窓の布をそっと下ろした。
馬車の中は静かだった。揺れに合わせて薬瓶がかすかに触れ合い、車輪の規則的な音が床下から響いてくる。アイダは向かいの席で、泣くまいと唇を噛んでいた。
「アイダ」
呼ぶと、彼女が顔を上げる。
「はい」
「もう泣いていいわ」
その言葉に、アイダの目から大粒の涙が落ちた。彼女は急いでハンカチを押しあてるが、間に合わない。いままで必死にこらえていたぶんだけ、涙は次々と溢れた。
リュゼリアはそれを見て、自分も泣きたいのだとようやく知った。けれど涙はまだ出ない。ただ胸の内だけが、じくじくと痛み、あまりにも静かに削れていく。
公爵家を出た。
持っていく荷は少ない。
けれど置いてきたものは、思っていたよりずっと多い。
役目。肩書き。日常。待つことに慣れた心。言えなかった言葉。受け取り損ねたもの。もっと早く欲しかったもの。そして、最後の最後まで捨てきれなかった、あの人への想い。
馬車は揺れながら王都の街路を進んでいく。
薄布の向こう、朝の空は少しずつ明るくなっていた。春へ向かう空だ。残酷なほどまっさらで、美しい空だった。
リュゼリアは背を深く預け、目を閉じた。
さよなら、公爵家。
その言葉をもう一度、心の中だけで静かに繰り返す。
それは終わりの響きでありながら、同時に、ようやく自分の人生を自分の足で歩き始めるための、最初のひと息でもあった。
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