余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ

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番外編3 もし、もっと早く



 雨の音がしていた。

 南の別邸の書斎は、夜になると少しだけ王都の本邸に似る。火を落としすぎた暖炉の冷え方や、窓を打つ雨の響きが、昔の記憶を妙に鮮明に連れ戻してくるからだ。

 ヴィルレオは机に肘をつき、閉じたままの本を前にしていた。

 読むつもりで開いたわけではない。

 ただ、そこに何かを置いていなければ、胸の中にある“もし”があまりに生々しく立ち上がりそうだった。

 雨の日の匂いは、いまではもうわかる。

 屋敷の中が少しだけ狭くなるみたいだと、彼女は言った。

 あの頃は意味がわからなかった。いまはわかる。雨の音が外の世界を薄く遠ざけて、灯りの下にあるものだけを静かに浮かび上がらせるからだ。

 だから、今夜もまた、見たくもない“もし”ばかりが浮かぶ。

     ◇

 もし、あの冬の朝。

 頼んでもいない汁物を運ばせた彼女に、ただ一言でも言えていたなら。

「……ちょうどいい」

 そう、素直に。

「喉に通りやすい。助かった」

 その程度でよかったのだ。

 たぶん彼女は、いま思うよりずっと控えめに笑っただろう。大げさに喜ぶのではなく、睫毛を少し伏せて、

「そう。よかった」

 と、あの静かな声で言ったはずだ。

 その日から何かが劇的に変わったわけではないだろう。

 食卓の距離も、寝室の冷たさも、すぐには変わらない。

 それでも、彼女は“何をしても返ってこない”というあの絶望を、ほんの少しだけ先延ばしにできたのではないか。

 ただの一言で。

     ◇

 もし、冬の夜会の前。

 灰青のドレスを着て現れた彼女に、遅い、と言うかわりに、別の言葉を返せていたなら。

「……似合うな」

 たったそれだけでよかった。

 たぶん彼女は、一瞬だけ息を止めただろう。

 それから、あまりに慣れない言葉に戸惑ったように目を見開いて、信じていいのかわからないまま、それでも少しだけ頬を熱くしたはずだ。

「ありがとう、ございます」

 そう返しただろうか。

 それとも、何も言えずにただ俯いただろうか。

 その先の夜会で、誰かが彼女へ視線を向けても、彼はあれほど苛立たなかったかもしれない。もう“自分だけが知っている美しさ”のように隠さずに済んだからだ。

 そして彼女もまた、あの夜の自分を、少しだけ誇らしく思えたのではないか。

 たった一言で。

     ◇

 もし、北方帰りの夜。

 食堂で差し出された薄い汁物を飲み終えたあと、席を立つ前に振り返れていたなら。

「……食べやすかった」

 とか。

「温度がよかった」

 とか。

 そんな、どうでもいいようでどうでもよくない感想を、一つだけでも残せていたなら。

 彼女はきっと、その夜ひとりになってから、小さく息を吐いたはずだ。

 やっと届いた、と。

 自分の手が、少しだけでも届いたのだと。

 彼女が欲しかったのは、たぶんずっとその程度の返事だったのだ。

 豪奢な贈り物でも、甘い言葉でもない。

 いま食べたものが“よかった”と、そういう当たり前の返事だけ。

 その当たり前を、彼は一度も返さなかった。

     ◇

 もし、あの雨の午後。

 書斎へ持ち込まれた茶と焼き菓子を要らないと言わずに、

「置いていけ」

 ではなく、

「飲む」

 と、最初から言えていたなら。

 彼女は、あんなふうに静かに引き下がる顔をしなかっただろう。

 窓の外の雨を見ながら、「屋敷の中が少しだけ狭くなるみたい」と話した時も、彼はもっと早く彼女の内側を知れたのかもしれない。

 彼女は世界を、匂いと光と音で見ていた。

 雨音で空気の広さが変わることを、本当に感じていた。

 花の開く順番にも、床へ落ちる日差しの色にも、いちいち心を留める女だった。

 その繊細さを、愛しいと思ったくせに。

 彼はその愛しさへ、自分の手で蓋をした。

     ◇

 もし、もっと早く。

 もっと早く、恋だと認めていたなら。

 白い小花を抱えて廊下を歩く、あの夜の後ろ姿に胸を奪われた時。

 あれはもう十分すぎるほど恋だった。

 ただ美しいからではない。気遣いがちょうどいいからでもない。ただ、そこにいるだけで視界が変わるような、どうしようもなく個人的な感情だった。

 その時に彼が、せめて立ち止まって、

「今夜は、持ってきてくれ」

 と言えていたなら。

 温かいものを。

 あるいは、少しだけ話を。

 たったそれだけでも、二人の夜は変わったのだろうか。

 彼女は驚いて、それから少しだけうれしそうに微笑んだだろうか。

 書斎の扉の前で立ち尽くし、追いかけたい衝動を飲み込んだあの瞬間が、分かれ道だったのだろうか。

 だが、どれだけ考えても、答えはない。

     ◇

 もし、もっと早く。

 朝の汁物に礼を言って。

 夜会のドレスをきれいだと言って。

 食卓の工夫に気づいたと伝えて。

 疲れた日に薄い茶が助かったと返して。

 雨の日の音の話を、おもしろいと思ったと認めて。

 彼女がそこにいると落ち着くのだと、たった一度でも口にしていたなら。

 あの離縁の言葉は、少し違うものになっただろうか。

 余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します。

 あの痛い宣告を、彼女は言わずに済んだだろうか。

 あるいは、言ったとしても、あそこまで静かに壊れてはいなかっただろうか。

 たぶん、彼女は最後まで同じように体を蝕まれたのかもしれない。

 病は、彼の言葉一つで消えるようなものではなかったのだから。

 それでも。

 それでも、彼女が最後に“ようやく愛を知った”と、そんな遅いことを言わずに済んだ未来はあったのではないかと、どうしても思ってしまう。

     ◇

 雨が少し強くなる。

 窓を打つ音が、書斎の空気をさらに狭くする。

 ヴィルレオは目を閉じた。

 もし、もっと早く。

 その“もし”の中では、彼女はまだ生きている。

 長い食卓の端で、静かに茶を注ぐ。

 窓辺の花瓶の位置をほんの少しだけ直す。

 灰青のドレスの裾を灯りの下で揺らす。

 白い小花を抱えて夜の廊下を歩く。

 そして彼の、あまりにも遅い一言に、ほんの少しだけ目を見開いて、信じてよいのかわからない顔で微笑む。

 その顔を、彼はついに一度も本当に見ることができなかった。

 見られたはずの顔だったのに。

 自分の臆病さのせいで。

 受け取れば返さなければならなくなると怯えたせいで。

 結局、彼女が欲しかった当たり前の言葉さえ、最初の冬には一つも渡せなかった。

 ヴィルレオは机の上の本へ手を置いた。

 その表紙は、彼女が好きだった装丁に少し似ている。淡い色で、花の模様が細く押されているだけの、控えめな本だ。

「……もし、もっと早く」

 声に出してみると、その言葉は驚くほど空虚だった。

 もっと早く。

 もっと早く愛していたのではない。

 愛していたのに、もっと早くそれを渡せなかったのだ。

 だからこの“もし”は、希望ではなく、ただの後悔だ。

 救いのない、短い後悔。

 それでも、彼はその後悔を捨てないだろうと思う。

 あの半年が愛だったのなら。

 その前の冷たすぎた季節もまた、彼の恋が始まっていた証なのだから。

 窓の外では、雨の向こうに白い花が揺れている。

 少し遅れて青も揺れる。

 彼はその順番をもう知っている。

 知ってしまったのに、彼女へそれを教わりながら生きる時間は、あまりにも短かった。

 ヴィルレオはようやく本を開いた。

 字は目に入らない。

 それでも、頁をめくる。

 もし、もっと早く。

 その痛い言葉を胸の奥へ置いたまま、それでも彼は今日を生きていくしかないのだと、雨音の中で静かに思った。

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