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第14話 戻ってきてほしい理由が、全部あなたのためじゃない
フェルゼン伯爵家の朝は、昔から見た目だけは美しかった。
玄関へ続く石畳はきちんと掃かれ、冬枯れの庭にさえ白い霜が均等に降りたように見える。正面の窓は曇りなく磨かれ、薄曇りの朝でもガラスの面は冷たく整っていた。食堂へ置かれた花瓶には季節外れの白薔薇が数輪だけ差されている。温室で無理に咲かせたものだ。香りは弱いが、遠目には十分上等に見える。
そういう家だった。
中がどうであれ、外から見えるものだけは整えておく。
足りないところは、誰かに黙って埋めさせる。
綻びは見つけた者が縫えばいい。
縫う人間の指が血をにじませていようと、表に皺が出なければそれでいい。
今、その皺が、とうとう表へ浮き始めていた。
朝食の食堂で、フェルゼン伯爵は三通目の書状を読み終えたところで、とうとう銀のペーパーナイフを机へ叩きつけた。乾いた高い音が、磨かれた食器の間を走る。向かいに座っていた伯爵夫人が肩を揺らし、ミレナが匙を落としかける。
「またか」
伯爵の声は低かったが、怒鳴る一歩手前の硬さを帯びていた。
「今度は何ですの」
と、伯爵夫人が訊く。だがその口調には、夫を案じる優しさより先に、これ以上悪い知らせを聞きたくないという拒否の色がにじんでいる。
伯爵は封書をひらひらと振った。
「南の織元だ。支払いが予定より遅れている、今月中に整理できなければ次季分の優先を外すと」
伯爵夫人の顔色が変わる。南の織元は、社交用の上質な布を融通してくれる数少ない取引先だった。値は張るが、見栄えだけは良い。娘たちのドレスも、伯爵夫人自身の装いも、節目ごとの見映えはその織元にかなり頼ってきた。
「そんなはずありませんわ。あそこは毎年」
「毎年は、毎年だ。今は今年の話をしている」
ぴしゃりと言い捨てる父の声に、ミレナがびくりと肩を縮めた。淡い藤色の朝用ドレスの袖口を、細い指がきゅっと握る。その仕草だけ見れば、叱られた小鳥のようにか弱い。だが伯爵は今朝、その可憐さを愛でる余裕がなかった。
彼の前には封書だけでなく、帳場から持ち上がってきた数字の控えが何枚も並んでいる。借入れの返済日。支払い繰り延べの期限。社交費の残高。寄付名目で外へ出した金の穴。どれもひとつひとつなら、まだ何とか誤魔化せた。だが問題は、それらをいつも最後に丸く収めていた手が、今はないことだった。
ユーディトがいなくなってから、書類はただの紙ではなくなった。
紙のまま、問題になった。
誰も、勝手に整えてくれない。
「昨日の帳面はどうした」
伯爵が食堂の入口に控えていた家令へ声を飛ばす。
「はい、こちらに」
「なぜ、織元の支払いがこの位置まで落ちている」
「その、他の支払いを優先したためで」
「何を優先した」
「馬車の修繕と、王都の家の暖炉、それに……」
家令の声が弱くなる。伯爵は舌打ちした。
「だから何を優先しろと」
「以前は、ユーディト様が月内で」
「その名を朝から出すな!」
反射的に怒鳴った声が、食堂の空気を凍らせた。
伯爵自身も一瞬、呼吸を荒くしたまま黙る。だが言われた側より、言った本人のほうがその名前に苛立っているのは明らかだった。ユーディト。長女。しっかり者。帳簿を読み、返礼の順を覚え、誰へ何をどの程度返すべきかを頭に入れていた娘。
娘、と言ってよいのか、伯爵は今や少し躊躇う。
いや、正確には、そう感じる自分に腹が立つのだ。
今までは、自分の言葉ひとつで動いた。
家のためだと言えば、顔色を曇らせながらも引き受けた。
それが今は違う。
出て行き、戻らず、沈黙し、困るこちらをよそに気配すら寄越さない。
その事実を、伯爵はまだ「裏切り」のように感じたがっていた。
だが心の底では知っている。
裏切ったのがどちらかを、本当は薄々わかっているからこそ、苛立つのだ。
「お父様」
ミレナがようやく小さな声を出した。
「そんなにお困りなら、また少し待っていただけば」
「お前は黙っていろ」
伯爵の声は容赦がなかった。
「待っていただけば済む段階なら、今こうして書状が三通も並ぶか」
「でも、そんなに大きなことには見えませんわ」
ミレナはほんの少し首を傾げた。自分では父を慰めるつもりなのだろう。だが、その言葉の軽さが、今の伯爵には火へ油を注ぐようなものだった。
「大きく見えないのは、お前が数字を読めんからだ」
「そんな言い方」
「なら読んでみろ」
伯爵は帳面を押しやるようにミレナの前へ滑らせた。
「どこを動かせば今月が回る」
ミレナは紙を見た。見たが、数字の列と項目名を目で追っているだけで、意味はほとんど入っていないのが顔に出ていた。彼女はもともと、こういうものに強い娘ではない。強くなくても許されてきた。刺繍が上手で、笑っていて、社交の場で愛らしく見えるなら、それで十分だと育てられてきたからだ。
「……暖炉を後にすれば」
「今の時期に王都の家の暖炉を?」
「でも、誰か我慢すれば」
「誰が」
伯爵の問いに、ミレナは詰まる。
その「誰か」を、今までなら自動的に引き受けていたのがユーディトだった。暖炉を一つ遅らせるなら、代わりに何をどう整えるか。見栄えを損ねず、機嫌も損ねず、金額だけ静かに動かす方法を、彼女は考えた。いや、考えさせられてきた。
ミレナはそこで初めて、自分が答えられないことを恥じたらしい。唇を噛み、うつむいた。
「意地悪ですわ、お父様」
「意地悪で済めばいい」
伯爵は吐き捨てた。
「お前が少しでも頭を使うべき場面だと言っている」
伯爵夫人がそこで扇を閉じる。
「朝から家族に当たっても何も解決しませんわ」
「では、お前は解決策があるのか」
「少なくとも、娘を泣かせるのは得策ではありません」
「泣いてどうにかなるなら、いくらでも泣かせる」
冷ややかな応酬の中、給仕たちは誰も顔を上げない。空気を読んで足音を消し、皿の触れ合う音さえ最小限に抑える。だが、その静けさが余計に食堂の緊張を際立たせていた。
伯爵夫人は苛立ちを隠さずにパンをちぎった。
「だいたい、帳面の穴だの支払いだの、どうして急にそんなに酷くなるのです。少し前までは、まだ何とか」
「少し前まで“何とか”していたのが誰だと思っている」
伯爵がそう言った時、伯爵夫人は一瞬だけ黙った。
その沈黙自体が答えだった。
彼女もわかっているのだ。
ユーディトがいたからだと。
だがそれを認めることは、そのまま自分たちの怠慢と搾取を認めることにもなる。だから、言いたくない。けれど現実があまりに露骨だと、口の端から真実がこぼれてしまう。
「……あの子が細かすぎただけでしょう」
伯爵夫人はやがてそう言った。
「細かすぎた?」
「ええ。なんでも大げさに帳面を見て、少しのずれでも気にして。わたくしは前から、あそこまで神経質にしなくてもと思っていましたの」
「今さらそれを言うのか」
「だってそうでしょう。確かに、細々したことは片づけていたのかもしれません。けれど妻や娘というものは、それだけでいいわけではありませんわ」
伯爵夫人は視線を逸らさないまま続けた。
「華やかさも、社交の才も、愛嬌も必要です。あの子はそこが足りなかった」
「今その話をしているんじゃない」
伯爵の声は重かった。
「あれが足りないのは知っている。だが足りないなりに、帳面と返礼と支払いは回していた」
その言葉を聞いた瞬間、ミレナの表情がひどく微妙に揺れた。嫉妬とも苛立ちともつかない、幼いころから姉と比べられる時だけ浮かぶあの影だ。ユーディトは可愛くない。華やかでない。愛嬌も薄い。けれど、こういう時だけは必ず「姉のほうができる」が表へ出る。その構図を、ミレナはずっと嫌ってきた。嫌いながら、その能力に守られてもきた。
伯爵夫人は不機嫌そうに言う。
「だったら帳場へ男を増やせば」
「増やせるなら苦労せん」
「若い補佐を」
「今からか? 家の内情も取引先の癖も知らん者に、三年分の皺寄せを一月で飲み込ませるつもりか」
伯爵の言うことは正しかった。問題は単純な人手不足ではない。数字だけなら誰でも読める。だが、どの家に何を返しておけば角が立たず、どの夫人は時期外れの花に敏感で、どの取引先は一週遅れるなら先に甘い言葉を入れておくべきか。その曖昧で厄介な積み重ねを、ユーディトは何年もかけて頭へ入れていた。
しかも彼女はそれを、誰にも大きな顔で誇らなかった。
黙ってやった。
だから、誰もそれが特別な労力だと思わなかった。
いなくなって初めて、その重さだけが露わになる。
食堂の空気は、朝食どころではなかった。
やがて伯爵はナイフとフォークを置いた。
皿には半分以上残っている。
「昼に帳場の書類を全部上げろ」
「全部、ですか」
「全部だ。借用、返済予定、寄付名目の出入り、王都の家への支払い、ミレナの衣装代もだ」
「私の、ですって?」
「他に誰のだ」
ミレナは傷ついたように目を潤ませる。
「そんなふうに言われるなんて」
「言われたくなければ、少しは身の丈に合った動きを覚えろ」
「お父様、酷いわ!」
「泣くな」
「泣いてません!」
だが声はもう震えていた。
そのやり取りを見ていた伯爵夫人が、冷たく息を吐く。
「あなたという人は、本当にこういう時ばかり」
「黙れ」
伯爵は今度は妻を見た。
「見栄ばかりで中身を見なかったのはお前も同じだ」
「見栄ですって?」
「王都の家の壁紙を替え、宴の花を増やし、ミレナのドレスを次々仕立てて、どれだけ金が出たと思っている」
「家の体面を守ってきたのです!」
「その体面の裏帳を、誰が埋めていた」
伯爵夫人の目が、一瞬だけ泳いだ。
誰が。
答えはわかっている。
わかっているからこそ、この夫婦は今、互いを責めながらも、真正面からその名を呼びたくないのだ。
ユーディト。
あの地味で、しっかりしていて、少し言い返せば黙る長女。
頼めば最終的には何とかする娘。
姉なのだから、と言えば、自分のぶんを後回しにする子。
朝の食堂を出たあと、帳場はひどい有様だった。
書類が山になり、控えが重なり、古い封筒の中身が半端に出され、家令と書記が低い声で言い争っている。誰が何を優先すべきか、その線引きがもう曖昧なのだ。ユーディトはそこを、毎回「今はこれ」「これは後」「ここは私が文を入れる」と、ひとつずつ静かに整理していた。
いなくなってみると、その不在はもはや「人が一人いない」という程度では済まない。
流れそのものがいないのだ。
伯爵は机の前へ座り、紙を一枚ずつ叩くように見ていった。
借用証。
返済の催促。
納品遅延の知らせ。
謝礼の不足に対する遠回しな不満。
そして、王都の家から回ってきた、暖炉修繕費と装飾品代の重なり。
「これはどういうことだ」
伯爵がひとつの紙を持ち上げる。
書記が顔をこわばらせた。
「それは……先月の寄付金名目の出金を、いったん王都の家の予備から」
「誰の判断だ」
「以前、ユーディト様が似たような形で」
「以前の話ではない!」
伯爵の怒声が帳場の空気を裂く。
書記は青ざめて黙り込む。彼もまた、悪気があったわけではないのだろう。前に長女がそう整えたなら、今回も似たようにすればいいと思っただけだ。だが違う。ユーディトがやっていたのは、帳尻をごまかすことではなく、影響の出方まで読んで最小限に抑えることだった。表面だけ真似ても、継ぎ当てにはならない。
「お父様」
ミレナが帳場の扉のところで細い声を出した。着替え直したのか、朝より少し華やかな家着になっている。泣きはらした目を可哀想に見せる角度も知っている顔だ。
「少し、お話しても」
「今は忙しい」
「でも大事なお話なの」
「何だ」
伯爵は苛立ったまま言う。ミレナは一瞬、家令や書記たちのほうを見て、言いにくそうに口を開いた。
「今度のティルデ侯爵夫人の茶会、わたし、どういう贈り物を持っていけば」
「そんなこと自分で考えろ」
「だって、お姉様がいつも」
「自分で考えろと言っている!」
伯爵の声は朝よりさらに荒れていた。
ミレナの目に、すぐ涙がたまる。
「どうして皆、お姉様がいなくなったからって、急にわたしにそんなことを」
「急にではない。今まで全部あちらへ流れていただけだ」
その言葉は、伯爵が意図した以上に本質を突いていた。
今まで全部あちらへ流れていた。
社交の綻びも。
帳面の穴も。
妹の判断不足も。
母の見栄も。
父の強引な金の動かし方も。
全部が、ユーディトへ流れ、ユーディトの手で薄められ、飲み込まれてきた。
だから家は「まだ大丈夫」に見えていたのだ。
ミレナはついに声をあげて泣き出した。帳場の入口で泣かれるのは、伯爵にとって最悪だった。仕事は止まるし、使用人たちは余計に動きづらくなる。けれどミレナは、そういう場面で泣くことに慣れていた。泣けば誰かが庇う。泣けば話が止まる。泣けば自分へ向いていた責任が一時的にぼやける。
今までは、その「誰か」はたいていユーディトだった。
だが今日は違う。
伯爵夫人が駆け寄り、娘の肩を抱く。
「もうよいでしょう。これ以上責めても仕方ありませんわ」
「責めているんじゃない」
「なら何です。家じゅうを凍りつかせて」
「凍りついているのは今さらだ」
伯爵は深く息を吐き、額を押さえた。
「お前たちは、まだわからんのか」
「何がですの」
「この家は今、あいつが抜けた穴で崩れかけている」
伯爵夫人の顔が険しくなる。
「あの子一人がそんな大層な」
「大層だ」
伯爵は言い切った。
「少なくとも、ここまで回らなくなる程度には」
その断定に、部屋がしんとした。
使用人たちも、書記も、家令も、顔を上げないまま聞いている。誰もが同じことを薄々感じていたのだろう。だからこそ否定できない。
伯爵夫人は唇を引き結んだ。
「……では、どうしろと」
「連れ戻す」
その一言は、あまりにも自然に出た。
まるで、なくした鍵を探す時みたいな調子だった。
連れ戻す。
娘ではなく。
傷つけた相手でもなく。
家を回していた手を。
ミレナが涙の残る顔で顔を上げる。
「お姉様を?」
「他に誰がいる」
「でも、お姉様、怒ってるわ」
「怒っていようが関係ない」
伯爵の声はもう、ほとんど実務のそれだった。
「家へ戻させる。戻って帳面を見させる。王都の家とのやりとりも、贈答も、全部あいつの手に戻せばいい」
「そんな、簡単に」
「簡単でなくともやらせる」
伯爵夫人がそこで初めて、本当に嫌そうな顔をした。
「あなた、それは」
「何だ」
「まるで、あの子を娘ではなく帳場の道具みたいに」
「道具でも何でも、今は必要だ」
その言葉を聞いた瞬間、帳場の空気がわずかに動いた。
使用人たちは当然、顔には出さない。
だが、その沈黙には薄い嫌悪が混じっていた。
あまりにも露骨だったからだ。
娘を連れ戻す理由が、どこを探しても本人のためではない。
心配でもない。
責任でもない。
ただ、便利な者がいなくなって不便だから。
それだけなのだと、伯爵自身が言ってしまった。
だが、本人はその醜さに半分も気づいていない。
「お父様」
ミレナがしゃくり上げながら言った。
「お姉様が戻ってきたら、また怖い顔するわ」
「お前が余計なことをしなければいい」
「でも……」
「黙れ。今はお前の機嫌を見ている時ではない」
伯爵夫人はミレナの背を撫でながら、低く言う。
「本気で行くおつもりですの」
「当然だ」
「それであの子が素直に戻ると?」
「戻させると言っている」
「どうやって」
「家族だと言えばいい。責任だと言えばいい。婚家での面倒も、実家が引き受ける姿勢を見せれば」
言いながら、伯爵は自分の言葉の薄さに気づいていないようだった。家族。責任。引き受ける。どれも今さら差し出すには遅すぎる札だと、本当は誰より本人が知っているはずなのに。
伯爵夫人は長く黙り、それから冷たく言った。
「愛では動かないでしょうね」
「愛?」
伯爵は鼻で笑った。
「今さら何を夢みたいなことを」
「では、何で動くと」
「家のためだ」
その返答があまりにも潔くて、帳場にいた誰もが内心で同じことを思っただろう。
違う。
家のためですらない。
あなた自身が困っているだけだ。
だがそれを口にできる者は、この家にはいなかった。
昼を過ぎるころには、家族会議という名目のものが居間で開かれた。
だが会議というより、答えは最初から決まっていた。伯爵が正面の肘掛け椅子に座り、伯爵夫人が硬い顔で隣に座り、ミレナは少し離れた長椅子に身を縮めている。火の入った暖炉は赤く燃えているが、部屋の空気は朝より冷たい。
「結論は一つだ」
伯爵が言う。
「ユーディトを連れ戻す」
「……誰が行くのです」
伯爵夫人が訊く。
「まずは書状を送る。返答がなければ、王都の家から探らせる。必要なら私が行く」
「お父様が直々に?」
ミレナが目を丸くした。
「それだけ事が大きいということだ」
大きい。
たしかに家の綻びは大きい。
だが、その大きさの正体が愛情の欠如ではなく、便利な手を失った不便さでしかないことが、部屋の誰の目にも明らかだった。
伯爵夫人は手袋越しに指先を重ねる。
「戻ってきてほしい理由が、全部あの子のためではないと、わかってしまうわ」
「わかったところで、今さらだ」
「そうね」
母はそこで、ひどく小さく息を吐いた。
「本当に、今さらですわね」
その声音には後悔より疲れがあった。彼女もまた、自分がユーディトを便利に使ってきたことは知っている。だが、だからといって深く悔いるほど素直ではない。惜しいのだ。戻ってこないことが。埋めていた穴が、今、自分の足元まで見えてしまうことが。
ミレナだけが、まだ少し別の感情を抱いていた。
「……お姉様が戻ったら、また全部、お姉様が正しいみたいになる」
小さな呟きだった。
だが静まり返った部屋では、はっきり聞こえた。
伯爵は即座に言う。
「正しいとか間違っているとかの話ではない」
「でも、皆そういう顔をするもの」
「だったら、お前が少しは自分で考えて動け」
「無理よ」
ミレナはほとんど開き直ったように言った。
「わたし、そういうの苦手だもの。お姉様みたいにはできない」
その言葉に、伯爵夫人は目を閉じそうになった。
それこそが、すべての答えだった。
ミレナは守られる前提でしか動けない。
父は帳面の穴を埋められない。
母は社交上の礼を取り繕えない。
だからユーディトを戻す。
家族会議の結論は、結局そこに尽きる。
愛ではない。
責任でもない。
心配でもない。
ただ便利な娘を失った不便さしかない。
居間の暖炉がぱち、と鳴った。
伯爵は立ち上がり、窓辺へ歩く。冬の曇り空の下で、庭はひどく白い。そこに長女の姿はもうない。
「書状を用意しろ」
振り返らずに言う。
「まずは穏当にだ。家族なのだから戻って来いと」
「穏当に、で戻るかしら」
伯爵夫人が冷たく返す。
「戻らなければ、次を考える」
「次、とは」
「こちらが困っていることをはっきり言えばいい」
その一言に、伯爵夫人はとうとう何も言わなくなった。
もう取り繕うのも馬鹿らしくなったのだろう。
この人は隠す気すらない。
ユーディトを娘としてではなく、穴を塞ぐ手としてしか見ていない。
そして、自分もまた、それを止められるほど潔白ではない。
ミレナは暖炉の前で膝を抱え、鼻をすすった。
「お姉様、来るかしら」
「来させる」
と伯爵が言う。
「だって、あの子はそういう時、結局断れないもの」
その断言は、何年も娘を便利に使ってきた父親だからこそ出る声だった。
だが、彼はまだ知らない。
ユーディトはもう、以前のユーディトではない。
断れないと決めつけられた女が、いったん本当に家を捨てた後で、同じ言葉にもう一度従うとは限らない。
それでもフェルゼン伯爵家の居間には、そんな発想はなかった。
あるのはただ、困る、足りない、回らない、戻せ、だけだ。
その夜、伯爵が書かせた最初の書状には、こう記された。
『家族として、今こそ戻るべき時である』
その一文を、家令は乾いた目で見つめた。
そして胸の内で、ひどく冷ややかに思った。
戻ってきてほしい理由が、全部あなたのためじゃない。
それをいちばん理解していないのは、たぶんこの家の人間たち自身だった。
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