夫も実家も捨てたはずの私を、どうして今さら取り戻せると思ったのですか?

なつめ

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第26話 好きになってはいけないと思っていた


 その夜、雪は降らなかった。

 だが昼のあいだに緩んだ空気は、日が落ちるとまた容赦なく冷えた。辺境の夜はいつも静かだが、晴れた夜の静けさはとくに深い。窓の外へ目をやれば、庭に残る雪は月明かりを淡く返し、温室のガラスは夜の冷たさをそのまま抱いたように青白く沈んでいる。遠い森は黒く、空だけが薄く冴え、その底に小さな星がいくつか散っていた。

 部屋の中には暖炉の火がある。

 薪がゆっくりと燃え、赤い芯の奥でときおり青い火がひとつだけ揺れる。昼間の評議のあと、エダが少し早めに火を足してくれたのだろう。石壁に残る冷えはまだ完全には消えていないが、それでも部屋は十分にあたたかい。机の上には片づけ終えた帳簿があり、湯気の消えた茶器には、柑橘の薄い香りがまだかすかに残っていた。

 それなのに、ユーディトはなかなか眠る気になれなかった。

 寝台へ入っても、目を閉じるとすぐに昼の光景が浮かぶ。
 長い机。
 並んだ地図。
 王都から来た商人の、あの軽い含み笑い。
 そして、それを切るように静かに響いたセヴレインの声。

 この位置は、報告者の席です。

 寄りかかっているだけ、という言い方を王都でなさる方がいるなら、帳簿が読めないのでしょう。

 さらに、そのあと。
 広間が静まり返った中で、彼が当たり前のように言った一言。

 並んでいただきました。

 その言葉が、暖炉の火のように、胸の奥のどこかへ残って消えない。

 ユーディトは掛け布の上で寝返りを打った。毛織りのやわらかな重みが、肩から腕へゆっくり移る。あたたかいはずなのに、胸の内側だけが少し落ち着かなかった。嫌なわけではない。苦しいとも少し違う。ただ、静かな水面の下へ小石を落とされた時みたいに、輪がひとつ広がり、それがいつまでも消えない。

 好きになってはいけない。

 不意に、その言葉が胸の底から浮かんだ。

 自分で考えたくせに、ひどくはっきりしていて、ユーディトは目を開けた。白い天井の板目が、火の揺れに合わせてごく薄く色を変える。

 どうして、そんなふうに思うのだろう。

 答えは、たぶん最初からわかっていた。

 愛というものを、これまでろくな形で教わらなかったからだ。

 父と母のあいだにあったのは、家と見栄のために互いを使う結びつきだった。そこに情がなかったとは言わない。だが少なくとも、それは子どもへ安心を教える種類の夫婦ではなかった。母は泣いて守られ、父は怒って押し通した。ユーディトはその両方のあいだで、いつも「わかるほう」として立たされた。

 実家で知った愛は、譲るものだった。
 姉だから。
 しっかりしているのだから。
 あなたのほうが理解しなさい。

 婚家で知った愛は、もっと冷たかった。
 愛がないことそのものより、ないくせに役目だけは要求されることのほうがずっと人を削った。夫らしいことは何一つしない男が、必要な時だけ「妻として」と言う。その一言のために、どれだけの帳尻と我慢と体裁を飲み込んだかわからない。

 だからユーディトにとって、誰かを好きになるということは、結局どこかで我慢の差し出しを意味していた。

 自分の気持ちを削る。
 相手の都合を優先する。
 嫌だと思っても飲み込む。
 最後には、それが愛なのだと自分へ言い聞かせる。

 そんなものなら、もう二度といらないと、辺境へ来る前から心のどこかで決めていたのかもしれない。

 なのに、今日、あの席に座ってしまった。
 そして知ってしまった。

 誰かの隣は、飾りとして置かれる場所ばかりではないのだと。
 並ぶことは、寄りかかることとは違うのだと。

 その違いを知ってしまったからこそ、今、余計に怖いのだろう。

 ユーディトは起き上がり、暖炉の前まで歩いた。素足ではなく、夜用の柔らかな室内靴を履いているのに、石床からはまだ少し冷えが上がってくる。火の前へしゃがみ込むと、頬にだけ熱が当たる。薪の燃える匂いが近い。静かな音を聞いていると、少しだけ呼吸が整う気がした。

 好きになってはいけない。

 その言葉は、たぶん「好きになったら奪われる」ではなく、「好きになったら自分から差し出してしまう」が怖いのだ。
 優しくされれば、何か返さなくてはと思う。
 守られれば、応えなくてはと焦る。
 それが恋になれば、きっとまた自分は、相手の望む形へ自分を切ってしまう。

 そう思うから、怖い。

 翌朝、目覚めた時もその感覚は消えていなかった。

 窓の外にはまだ薄い雪が残っていて、空は白く冴えている。エダが持ってきた朝の茶は、いつものようにユーディトが好む少し青い香りのものだった。口をつければ、ちゃんとおいしい。喉も胸も温まる。けれど、その「ちゃんと好きなものが出てくる」こと自体が、今日は少しだけ落ち着かない。

「ユーディト様、少しお疲れですか」
 エダが鏡台の前で髪を整えながら訊いた。
「……わかる?」
「いつもより、考え事をなさっているお顔です」

 その言い方があまりにも素直で、ユーディトは小さく笑った。

「そんな顔をしているのね」
「はい。でも、お加減が悪いわけではなさそうなので」
「ええ、そうね」

 体調は悪くない。
 ただ、胸の内側が落ち着かないだけだ。
 そんな曖昧なことをどう説明すればいいのか、ユーディトにはまだよくわからなかった。

 朝食のあと、帳場へ向かったが、集中は長く続かなかった。数字は追える。指先も冷えていない。けれど、ふとした瞬間に昨日の広間が頭をよぎる。隣の席。静かな声。まっすぐな評価。誰かのための席ではない、と知ってしまった感覚。そのたびに、胸の奥がほんの少しだけざわつく。

 昼近く、帳場を出ると廊下の向こうからセヴレインが来た。

 彼はいつもと変わらなかった。濃い色の上着、無駄のない足取り、こちらを見た時の落ち着いた目。だからこそ、ユーディトのほうが一瞬だけ困ってしまう。

「お疲れですか」
 と彼は言う。
「少しだけ」
 ユーディトは答えた。
「昨日の評議が長かったので」
「そうですか」

 それだけで終わると思った。だが彼は通りすぎず、その場でほんの少しだけ立ち止まった。

「無理に帳面を見なくても」
「無理はしていません」
「そうですか」

 また短い会話。
 なのに、その短さの中で、彼が何かに気づいていることだけはわかる。じっと見つめるわけでも、踏み込んで問うわけでもない。ただ、こちらの言葉と息づかいのあいだにある、少しの不自然さを拾っている目だ。

 ユーディトは逃げるように視線をずらしそうになり、しかしそれもまた不自然だと思って堪えた。

「今日は、外が少し明るいですね」
 と、意味のないことを言ってしまう。
「ええ」
 セヴレインは窓の外へ目を向けた。
「午後は少し緩むかもしれません」

 そのまま、彼は去っていった。

 追いかけてもこない。
 理由を問い詰めもしない。
 それが普段ならありがたいのに、今日は逆に落ち着かなかった。

 なぜなら、こちらが勝手に彼を意識していることだけが、妙に浮き彫りになるからだ。

 昼を過ぎて、ユーディトはついに温室へ逃げ込んだ。

 温室は好きだ。外の寒さと中の湿り気のあいだに、はっきりとした境目がある。ガラス戸を開けた瞬間に、青い匂いと濡れた土の匂いが胸へ入る。葉物の若い色、根菜の重い気配、香草の少し尖った香り。冬の終わりに近づくと、温室の光は少しずつ変わる。まだ真昼でも真冬のような強さはないが、そのぶんやわらかく、葉の縁に落ちる影を淡くする。

 ヤンは奥で若い芽の様子を見ていたが、ユーディトの顔を見ると「今日は静かにしていたほうがよさそうだ」と判断したらしく、余計なことは言わなかった。そういうところがありがたい。

 温室の片隅の木の椅子へ座り、ユーディトはしばらく何もせずにいた。

 何もせずにいることは、前より少しだけ上手くなった。
 それでも、心がざわついている時には、やはり難しい。

 好きになってはいけない。

 また、その言葉が浮かぶ。

 違う、とも思う。
 好きになってはいけないのではない。
 好きになった時に、自分がどうなってしまうかわからないのが怖いのだ。

 その時、温室の戸が軽く鳴った。

 振り向くと、セヴレインがいた。
 彼は珍しく、一人だった。護衛も、家令もいない。外套の肩にわずかに冷気を連れているが、雪粒はもうついていなかった。

「ここでしたか」
「……ええ」
「探していたわけではありません」
 と彼は先に言った。
「ただ、ヤンに“温室のほうへ”と」

 その前置きが、なんだか彼らしくて、ユーディトは少しだけ肩の力を抜いた。

「お仕事では」
「今は一区切りです」

 彼はそれ以上近づかず、温室の入り口に近いところで立ち止まる。外の冷気が少しだけ彼の周りに残っていた。ユーディトはその距離に、ありがたさと居心地の悪さを同時に覚える。

「何か、してしまいましたか」

 その問いに、ユーディトは一瞬返事を失った。

 責める響きではない。
 むしろ逆だ。
 こちらが避けていることに気づいて、それが自分のせいなら引くつもりでいる人の声だった。

「……どうしてそう思うの」
「今日は、こちらを見る前に言葉を選んでおられた」
「そんなにわかりやすい?」
「ええ」

 彼は平然と頷く。
「私が原因であれば、改めます」

 その言い方に、胸の奥が痛いほど揺れた。

 改めます。
 つまり、負担なら引くということだ。
 自分の好意や都合を押しつける前に、相手がどう感じているかを先に置く。その当然さが、今のユーディトにはひどく眩しい。

「違うの」
 気づけば、すぐに言っていた。
「あなたが何かしたわけじゃない」
「では」
「私が」

 そこまで言って、喉が少し詰まる。

 こんなことを口にしていいのだろうか。
 まだ自分でも整理しきれていないのに。
 けれどここで黙れば、彼はたぶん本当に引いてしまうだろう。そしてそれは、たぶん嫌だった。

 ユーディトは膝の上で指を組み直した。
 手袋は外している。指先は少し冷えていたが、震えてはいない。

「私が、少し……困っているの」

 セヴレインは急かさなかった。
 温室の中には、葉の匂いと土の匂いと、曇った午後の光がある。外から聞こえる風の気配は遠い。だからこそ、その沈黙は痛くなかった。

「優しくされると」
 ユーディトは言葉を探す。
「困る、の」
「……」
「好きな茶葉を覚えていてくれたり、冷える前に暖炉を入れてくれたり、苦手な話題になる前に切り上げてくれたり」
 声は少しずつ小さくなった。
「そういうことを、されると」

 好きになってしまうから。

 そこまで言い切るのは、まだ怖かった。
 だが言葉は、もう半分以上その形をしていた。

 セヴレインの目が、ほんのわずかに揺れたように見えた。驚いたのかもしれない。だがそれも一瞬で、すぐにいつもの静かな表情へ戻る。

「困るのは」
 と彼が低く言う。
「なぜですか」

 ユーディトはそこで、笑うような、泣くような気持ちになった。

 なぜ。
 それをちゃんと問われるのは、ひどく久しぶりだった。
 責めるためでもなく、結論を急ぐためでもなく、ただその感情の形を一緒に見ようとする問いだった。

「好きになるって」
 ユーディトはゆっくりと言った。
「私にとって、ずっと怖いことだったの」

 温室のガラスに、午後の白い光がやわらかく落ちている。
 その光の中で、自分の声が少しだけ他人のものみたいに聞こえた。

「愛って、結局は我慢と引き換えにするものだと思っていたから」
「……」
「父と母のあいだでも、実家でも、婚家でも、好きとか家族とか夫婦とか、そういう言葉のあとに来るのは、いつも我慢だったの。譲ること。黙ること。理解すること。飲み込むこと」
 胸の奥に古い痛みが触れる。
 けれどもう、昔のようにそれへ飲まれはしない。
「だから、誰かを好きになるなら、またきっと自分から差し出してしまう気がして」

 そこまで言い終えた時、温室はしばらく静かだった。

 セヴレインはすぐには口を開かなかった。
 その沈黙は、考えている時のものだ。言葉を選ぶ時の。
 そして彼は、こういう時に軽い慰めを言わない。

「……そう思うのは、無理もありません」

 やがて彼は言った。
「そういう形でしか、これまで見てこなかったのであれば」
「ええ」
「ですが」
 彼は一度だけ間を置く。
「それを恋と呼ぶのなら、私は違います」

 ユーディトは顔を上げた。

 外の白い光を背にして立つ彼の輪郭は、やわらかくはない。相変わらず静かで、どこかぶっきらぼうで、甘いことを言う男には見えない。けれど、その静けさの中に、今はひどく真面目なものがあった。

「私はあなたを好ましく思っています」
 と、セヴレインは言った。
 声は変わらず低い。
 けれど、その低さの奥に迷いはない。
「大切にも思っています」

 ユーディトは息を止めた。

 それは華やかな告白ではなかった。
 けれど、だからこそ逃げ場がないほど真っ直ぐだった。

「ですが」
 彼は続ける。
「あなたには、応える義務はありません」

 その一言が、温室の空気そのものを変えた気がした。

 応える義務はありません。

 ユーディトは、たぶん数秒、何も言えなかった。

 義務。
 その言葉は、これまで何度も自分を縛ってきた。姉としての義務。娘としての義務。妻としての義務。どれも重く、曖昧で、息苦しかった。けれど今、その言葉を否定する形で差し出されるとは思わなかった。

 「私は」
 セヴレインは、こちらが息をするのを待つようにゆっくりと言う。
「あなたに今すぐ答えが欲しいわけではありません。好きになってほしいとも、応えてほしいとも、義務としては思いません」
「……」
「回復を急ぐつもりもありません」

 好きになってほしいとも、応えてほしいとも、義務としては思いません。

 その言葉の一つ一つが、胸の中へ落ちていく。
 あまりにも自分が知らない種類の愛で、どう受け取ればいいのか一度にはわからない。

「待つつもりですか」
 ユーディトは、ようやくそれだけ言えた。
「必要なら」
「ずっと?」
「ずっとかどうかは、その時の私にしかわかりません」
 セヴレインは正直に答える。
「ですが、少なくとも、今ここで奪う気はありません」

 奪う気はない。

 その言葉に、ユーディトは胸の奥が熱くなるのを感じた。
 恋というものは、もっと乱暴に来るものだと思っていた。欲しい。そばに来い。こちらを見ろ。そういうふうに、どこか相手の呼吸を奪うものだと。
 けれど今、目の前にあるのは違う。
 選ばせる。
 待つ。
 急がせない。
 応える義務はないと言う。

 それは恋というより、ひどく忍耐強い光のようだった。
 目を焼く強さではなく、暗い部屋の隅へそっと置かれる灯りみたいな。

 ユーディトはそれが嬉しかった。
 けれど、嬉しいと思うほど怖くもなる。

「……そんなふうに言われたら」
 かすれた声が出た。
「どうしていいかわからないわ」
「わからなくて構いません」
 セヴレインは言う。
「今は、それで十分でしょう」

 十分。

 彼はいつも、そこで止める。
 もっと先へ行ける場面でも、無理に行かない。
 今日の分はここまでだと、ちゃんと線を引く。

 ユーディトは膝の上で手を握りしめた。
 温室の中はあたたかいのに、胸の奥だけが熱くて苦しい。泣きたいわけではない。逃げたいわけでもない。ただ、長いこと凍っていた場所へ、急に優しい熱が入った時の痛みに似ていた。

 好きになってはいけないと思っていたの。
 ぽつりと、今度ははっきり口にする。
「ええ」
「でも、いけないというより」
 ユーディトは自分で言葉を探しながら笑った。
「怖かったのね。たぶん」
「そうでしょう」
「あなたのことを、少しずつ……」

 そこまで言って、頬が熱くなる。
 言い切る勇気はまだない。
 けれど、もう誤魔化しきれもしない。

 セヴレインはそれ以上聞かない。
 聞かないまま、ただ静かに頷いた。

「それ以上は、今は言わなくて結構です」

 その返答に、ユーディトはほとんど泣きそうな気持ちになった。

 追わない。
 急がない。
 言葉を奪わない。

 そこにあるのは、本当に待つ愛なのだと、ようやくわかった気がした。

 しばらくして、温室の外で風が少しだけ強くなった。ガラスの向こうを、細かな雪がまた斜めに流れていく。白い午後は、夕方へ向かうにつれて少しずつ青く沈んでいくのだろう。

 セヴレインは最後に、ひどく自然な声で言った。

「部屋へ戻る前に、少し歩きますか」
「……ええ」
「冷えますから、外套を」

 その言い方が、先ほどまでの言葉と同じ人のものとは思えないくらい、いつもの生活の調子へ戻っていて、ユーディトは思わず小さく笑った。

「あなた、本当に」
「何でしょう」
「甘いことを言ったあとでも、すぐに薪とか外套の話をするのね」
「必要ですから」

 その答えに、今度はちゃんと笑えた。

 好きになってはいけないと思っていた。
 けれど今は、少し違う。

 好きになっても、すぐに何かを差し出さなくていいのかもしれない。
 応える義務はないと、先に言われる恋もあるのかもしれない。
 待たれることは、追い詰められることと同じではないのだと、ようやく知り始めている。

 外へ出ると、空はもう夕方の色だった。白さの底へ群青が少しずつ沈み、雪の上に落ちる光も朝よりやわらかい。吐く息はまだ白い。けれど、その白さは今のユーディトには少しだけ軽く見えた。

 セヴレインは並んで歩く。
 近すぎず、遠すぎず。
 こちらが寒くないように風上へ半歩だけ回るくせに、それを言葉にはしない。

 ユーディトはその横顔を見ずに、ただ前を向いて歩いた。
 まだ受け入れられないものはたくさんある。
 まだ怖い。
 まだ、自分の中の感情へ名前を与えるには少し時間がいる。

 でもきっと、それでいいのだ。

 奪う恋ではなく、待つ愛があるのなら。
 その前で、自分は急いで答えを差し出さなくてもいいのだから。

 その夜、部屋へ戻ってからも、ユーディトはしばらく灯りを落とせなかった。

 机の上には開きかけの本がある。刺繍枠も、半分まで縫った布巾も、窓辺の椅子にかけた外套も、みな朝とほとんど同じ場所にあるのに、自分だけが朝とは少し違う人間になってしまったような心地がした。

 暖炉の火は、今夜も先に入れられていた。水盆の水は少しだけ揺れ、火の気で部屋が乾きすぎないよう整えられている。そういう小さな気遣いの一つ一つが、今はもう、ただの習慣ではなく彼の手つきに見えてしまう。

 好きになってはいけないと思っていた。

 その言葉を、ユーディトは胸の中でもう一度繰り返した。

 けれど今、その続きには別の言葉がある。

 好きになっても、すぐに失うわけではないのかもしれない。
 好きになっても、すぐに差し出さなくていいのかもしれない。
 好きになっても、応えられなくて責められるとは限らないのかもしれない。

 そんなふうに思えること自体が、彼女にはほとんど奇跡のようだった。

 窓辺に立つと、外には白い庭が広がっている。昼間ついた足跡は、夕方のあいだにまた薄く雪を被っていた。物事はすぐには消えない。けれど上から静かに降るものがあれば、傷んだ跡の輪郭も少しずつ和らいでいく。そういう景色だった。

 ユーディトはそっと、自分の胸へ手を当てた。

 まだ怖い。
 まだ、完全には信じきれない。
 それでも、今日、セヴレインの言葉はたしかにここへ届いた。

 応える義務はありません。

 その一言があるだけで、恋はこんなにも違う形になるのかと、今さら知る。
 奪われる前提の感情ではなく、待たれてもよい感情。
 急かされる前提の答えではなく、育つまで保たれてよい沈黙。

 それを愛と呼んでいいのか、ユーディトにはまだわからない。
 けれど少なくとも、それは今まで知っていた我慢の名前ではなかった。

 灯りを落とし、寝台へ入る頃には、胸の奥のざわめきはまだ消えていなかった。
 ただ、そのざわめきは朝のものより少しだけやさしかった。

 好きになってはいけないと思っていた。
 けれど今は、好きになってしまうことを、ただ恐れるだけではいられない。

 そう思いながら目を閉じた時、暖炉の奥で薪が小さくひとつ鳴った。
 その音はまるで、凍った場所へようやく小さな春が触れた合図みたいに、静かに夜の中へ残った。


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