6 / 44
第5話 最後の朝食
その朝、澄乃は目覚ましが鳴るより先に目を開けた。
まだ暗い。
天井の隅に沈んだ影は、夜の名残を色濃く残していて、ロールスクリーンの向こうにも朝の気配はほとんどなかった。枕元の時計を見ると五時十三分。いつもより少し早い。だが、二度寝をする気にはなれなかった。
胸の奥が、妙に静かだった。
ざわついているのではない。落ち着いている、とも少し違う。冷たい水を張った器を両手で持っているみたいな感覚だった。こぼさないようにしなければと思うほど、逆に水面は揺れない。そんな不思議な静けさが、目を覚ました瞬間から胸の真ん中にあった。
今日が、この家で最後の朝になる。
その事実を頭の中で言葉にしてみても、涙は出なかった。喉の奥も熱くならない。ただ、長いあいだ肩へかかっていた目に見えない布を、ようやく降ろす日の朝なのだと、そんなふうに思った。
隣を見る。
昌親は眠っていた。眉間に浅い皺を寄せたまま、仰向けで、規則正しい呼吸をしている。寝息は小さい。昨夜も特に会話らしい会話はなかった。引き継ぎのファイルを見たあと、彼は気まずそうに夕食を食べ、入浴を済ませ、何か言いたげな顔をしながらも結局何も言わずに寝室へ入った。自分の妻が本気で出ていくと、まだ完全には信じていない顔だった。
信じていなくても、もう構わなかった。
澄乃は布団から身を起こした。足を床へ下ろすと、板の冷たさが足裏を刺した。春先の朝特有の、芯の残る冷えだ。けれどその冷たさが心地よかった。皮膚から頭の奥まで、余計な甘さを削ぎ落としてくれる気がしたからだ。
音を立てないように寝室を出る。廊下は静まり返っていて、家全体がまだ深く眠っていた。階段の下からは、冷蔵庫の低い作動音だけがかすかに聞こえる。誰も起きていない時間の家は、いつもより輪郭が大きい。壁も床も扉も、昼間より少しだけ遠く感じる。
台所へ入ると、澄乃はいつものように照明を点けた。
温かい色の灯りが、白い天板と磨いたステンレスをやわらかく照らす。整えられた空間だった。洗い終えた鍋はきちんと伏せられ、布巾は乾いて畳まれ、包丁もまな板も定位置にある。昨夜、寝る前に最後まで手を抜かずに片づけたのは、今日の朝を少しでも綺麗な形で始めたかったからかもしれない。
最後の朝食。
そう胸の内で呟くと、ようやく少しだけ現実味が増した。
澄乃は冷蔵庫を開けた。ひやりとした空気が顔へ触れる。棚の中には昨夜のうちに整えておいた食材が並んでいた。卵、豆腐、下茹でした大根、薄揚げ、青菜、白身魚、刻み葱、小さな保存容器に分けた出汁。どれをどの順番で使うか、考えるまでもなく手が知っている。
今日は最後だからといって、特別豪勢にするつもりはなかった。
ただ、久世家の朝らしいものを、きちんと作ろうと思った。
昌親が好きだった出汁巻き卵。甘さは控えめで、出汁を多めに含ませたもの。少しだけ焦げ目がつくくらいに焼くと、彼は何も言わずに箸を進める。
義父好みの薄味の煮物。大根と人参と高野豆腐。塩気は抑えめで、出汁の味を前に出す。胃の調子が揺れやすい朝でも、これなら食べやすい。
義母の前では必ず褒められるくせに、自分ではうまく作れない味噌汁。昆布と鰹で丁寧に引いた出汁に、豆腐と薄揚げ、葱を落とすだけの、ごく普通の味。けれど義母は、人が来た朝などに一口啜ってから「やっぱり澄乃さんの味噌汁は違うわね」と言う。その言い方の中に、本心と見栄のどちらが多かったのかは、最後までよく分からなかった。
鍋に水を張る。昆布を沈める。炊飯器に米を入れる。指の間をすり抜ける水は相変わらず冷たい。台所の静けさの中で、流れる水の音だけが透明に響いた。
火をつける。
小さな青い炎が鍋底を舐める。湯が温まり、やがて昆布の匂いが立ち始める。出汁がゆっくり目を覚ます瞬間の香りが、澄乃は昔から好きだった。海の気配と木の気配が、きわめて静かなところで混ざり合うような匂いだ。朝の暗い台所にその香りが立つと、それだけで一日が始まる気がした。
包丁を取る。
大根を輪切りにし、面取りをする。刃が白い繊維へ入るたび、こく、こく、と小さな抵抗が返ってくる。人参の皮を剥き、高野豆腐を戻し、煮物用の鍋へ移す。調味料は少しだけ。義父は濃い味を続けると、あからさまに顔色が悪くなる。若い頃は平気だったらしいが、ここ数年は朝の胃が追いつかないのだと、義母がある時こぼしていた。
その義母は、きっと今日も食卓につき、味噌汁を飲み、煮物を食べ、当たり前みたいな顔をするのだろう。
昌親も同じだ。
スマートフォンを見ながら、出汁巻きを食べる。おそらく機嫌が悪いわけでもなく、感謝していないわけでもなく、ただ当然だと思っている。その当然の中に、自分が何年もいた。
卵を割る。
黄身がつるりと落ちて、白身と混ざる。箸先で静かに溶き、出汁と少しの塩を加える。卵液の表面に淡い泡が浮かぶ。四角い卵焼き器を温め、薄く油をひいた。じゅ、と小さく鳴く音。油の匂いがほんのり立つ。
最初の一層を流す。黄色い液体が広がり、鍋肌でふつ、と細かい泡を立てる。箸で端を持ち上げ、手前に巻く。さらに流し、巻く。何度も何度も繰り返した動作だった。体が覚えている。どれくらい火を強めれば、内側にじゅわりと出汁を残したまま形を保てるか。どのタイミングで返せば破れないか。手首の角度も、箸先の力加減も、もう意識しなくてもできる。
結婚してすぐの頃、出汁巻きは何度か失敗した。巻く途中で破れたり、火が強すぎて乾いたり、逆に出汁が多すぎてまとまらなかったりした。昌親はその頃、別に怒りもしなかったが、何も言わずに半分残した。義母は横から「卵はね、焦らずに火を見るの」と笑った。嫌味だったのか、単なる助言だったのか、それももう分からない。ただ、その次から澄乃は何度も練習した。失敗しないものを出したかった。褒められたいというより、食卓に沈黙が落ちるのが嫌だったからだ。
巻き上がった卵焼きは、今朝も綺麗だった。薄い焼き色が表面に走り、端はきちんと整っている。巻きすに取って形を落ち着かせながら、澄乃はふと考える。
ありがとう、を、この家で自分は十分にもらったことがあっただろうか。
考え始めると、すぐには答えが出なかった。
まったくなかった、とは言い切れない気がする。義父が食後に「薄味でいい」と言ったこと。義母が人前で「うちの味噌汁は澄乃さんがいちばん上手」と笑ったこと。昌親が会食続きの夜、何も言わずに二杯目の雑炊を食べたこと。年末、来客が続いたあとに義母が「助かったわ」とだけ漏らしたこと。そういう細かな瞬間はあった。
けれどそれは、ありがとう、だったのだろうか。
評価や、確認や、便利さへの反応ではなく、ひとりの人間が差し出した手間や時間へ向けられた、温度のある礼だっただろうか。
味噌汁の鍋へ味噌を溶き入れながら、澄乃はそのことを考えた。味噌の匂いが立ち、湯気が眼鏡のない頬をなでる。豆腐を静かに落とし、薄揚げを加え、最後に葱を入れる。こういう動作を、何千回しただろう。毎朝、毎夕、当たり前みたいに。好きとか嫌いとか、得意とか不得意とかを通り越して、生活の骨みたいになっていた。
煮物が火にかかる。鍋の中で大根が小さく躍る。蓋の縁から、ほのかな湯気と醤油の匂いが漏れる。外では空が少しずつ明るくなっていた。窓の向こうの枝垂れ桜は、昨夜の雨で落ちた花びらを足元に散らしながら、まだ静かに揺れている。灰色から薄青へ移っていく空の色を見て、澄乃は今日の天気を考えた。午後には晴れるだろうか。荷物を運ぶなら、雨でないほうが助かる。そんな実務的なことが、涙より先に頭へ浮かぶ。
七時前、義父が先に起きてきた。
スリッパの音で分かる。少し重くて、ゆっくりしている。年齢のせいだけではなく、朝は身体がまだ固いのだと知っていた。ダイニングへ入ってきた義父は、いつも通り新聞を片手に椅子へ座り、食卓を見る。
「今日は早いな」
「少し目が覚めるのが早かったので」
「そうか」
それだけだった。だが義父は、味噌汁の湯気へ鼻先を少し向けてから、小さく頷いた。煮物の器へも一瞬視線をやる。表情の薄い人だが、食べる前のその僅かな目線で機嫌の良し悪しは分かった。
次に義母が来る。髪を丁寧に整えた顔には、もう外向きの表情が貼り付いている。家の中でも、人に見せられる姿でいたい人だ。義母は椅子へ座る前に、食卓の全体を一瞥した。皿の位置、器の組み合わせ、花の向きまで見ているのが分かる。
「今日は煮物もあるのね」
「お義父さまの胃が昨日少し重そうでしたので」
「そう」
それで終わる。感心したのか、当然だと思ったのか、判別しづらい声音だった。
最後に、昌親が降りてくる。
寝起きの無愛想な顔のまま、ワイシャツの袖口を整えながら席につく。その手にはもうスマートフォンがある。朝の光より先に、画面の白さが彼の指先を照らしていた。澄乃はその姿を見て、胸のどこにも波が立たないことに自分で気づく。前なら、少しでもこちらを見てほしいと思ったかもしれない。今はもう、画面を見ている彼の横顔すら遠い。
食卓が整う。
湯気の立つ味噌汁。切り口に出汁が滲む出汁巻き。薄味の煮物。焼いた魚。炊き立てのご飯。漬物。いつもの久世家の朝だ。きっと誰が見ても、穏やかで手入れの行き届いた家庭の朝に見えるだろう。
義母が箸を取る。
義父が味噌汁を啜る。
昌親はスマートフォンをテーブルの脇へ置き、片手で出汁巻きを口へ運ぶ。
その光景を見ながら、澄乃は自分の席についた。
食卓の上には、箸の触れ合う小さな音と、器の縁へ汁椀が当たる音、時折新聞を折る義父の紙の擦れる音がある。沈黙はあるが、険悪ではない。ただ、長年使い込まれて形を変えた沈黙だ。会話がないこと自体に誰も違和感を持たなくなった食卓の静けさ。
「味噌汁、いいわね」
義母が一口飲んで言った。
「やっぱりこういう出汁の取り方、私にはできないのよ」
その言葉に、澄乃は一瞬だけ義母を見た。義母は本気で言っているのか、あるいは「私はこういう細かなことはしない人間なの」という自負を滲ませているのか、どちらともつかない顔をしていた。
「ありがとうございます」
いつもの返事が口から出る。
義父は煮物を食べてから、短く言った。
「薄味でいい」
「そうですか」
それもまた、いつものやり取りだ。
昌親は何も言わなかった。ただ出汁巻きを食べ、味噌汁を飲み、スマートフォンへ目を落とす。画面を覗くその一瞬の角度で、相手が仕事ではないのだろうと、澄乃はもう自然に分かった。昔なら胸の奥がざらついたかもしれない。今は、ただ観察の延長みたいな感覚しかない。
ありがとう、を十分にもらったことがあるだろうか。
その問いが、また静かに胸へ戻ってくる。
義母の「いいわね」は礼ではない。義父の「薄味でいい」も同じだ。では、昌親は。彼がこの出汁巻きを好きだったことは知っている。具合の悪い朝でも、これだけは食べる日があった。けれど「好きだ」と言われたことがあっただろうか。そういえば、はっきり口にされた記憶は薄い。何も言わずに食べる。その食べ方で察していただけだ。察することばかりが上手くなり、言葉を受け取ることにはずっと飢えていたのかもしれないと、澄乃はふと思う。
「土曜の宮ノ脇さんのところの手土産、決まってるの」
義母が箸を置きながら尋ねた。
その問いかけの自然さに、澄乃は少しだけ可笑しさを覚えた。この人は今日も、いつものように自分へ用件を投げる。明日も明後日もそうできると思っている顔だった。
「候補は二つあります」
澄乃は答える。
「和菓子の詰め合わせと、個包装の焼き菓子です。お孫さんのことを考えると、卵の強いものは避けたほうがよろしいかと」
「そうね。あの家は見た目より気をつけることが多いから」
「はい」
会話は成立している。いつも通りに。けれど澄乃の中では、その一つひとつがもう過去形になりつつあった。こうして答えるのも今日で最後かもしれない。そう思うと、不思議なくらい声が穏やかになる。
義父が新聞を畳みながら言った。
「来週の会食の花も、派手すぎないほうがいい」
「承知しました」
条件反射みたいに返しながら、澄乃は思う。
もう、承知しなくてもいいのだ。
この家の朝では、誰かの希望や都合や不機嫌が、次々こちらへ差し出される。そのたびに受け取り、整え、先回りし、波が立たないように磨いてきた。承知しました。かしこまりました。そうですね。ごもっともです。そういう言葉を、どれほど口にしただろう。
それらの言葉は礼儀であり、同時に自分を削る刃でもあったのかもしれない。
昌親がスマートフォンから顔を上げずに言った。
「今日、帰りは遅くなる」
「そうですか」
「飯はいらない」
「分かりました」
それだけ。まるで昨日までと何一つ変わらない夫婦の会話。だが澄乃は、今日その言葉に痛みが混じらないことを知った。要るとか要らないとか、帰るとか帰らないとか。その報告を受ける役目も、もう終わる。
食事は続く。
義母は味噌汁を飲み、義父は煮物をゆっくり食べる。昌親は出汁巻きを食べ、時折画面を見る。窓の外の空はだんだん明るくなり、庭の枝から雫が落ちている。湯気の向こうで、朝日が淡く器の縁を照らす。
この食卓を、自分は何度整えてきただろう。
朝だけではない。昼も夜も。来客の前も、義母が不機嫌な朝も、昌親が二日酔いの夜も、義父の体調が悪い日も、親族が集まる時も。食卓を整えることは、この家の空気を整えることとほとんど同じだった。器の数、料理の温度、話題の選び方、座る順番、誰に先に茶を出すか。そういうものが全部、微妙な均衡の上に乗っていた。
そこにいたのは、妻だったのだろうか。
それとも調整役だったのだろうか。
答えは出ない。けれど少なくとも、もう続けたいとは思わなかった。
義母が食べ終え、口元を軽く押さえる。
「ごちそうさま。やっぱり朝はこうでなくちゃね」
その一言は、澄乃にとってはひどく象徴的に聞こえた。こうでなくちゃ。たしかにそうだ。この家では朝がこうでなくてはいけなかった。誰かが、必ず、こうなるように整えていなければならなかった。そしてその誰かは、ずっと自分だった。
「お粗末さまでした」
義父も箸を置き、立ち上がる前に湯呑みを飲み干した。目立った不満はない顔だ。それだけで、今日はうまくいった朝になる。
昌親は最後まで出汁巻きだけはきちんと食べた。味噌汁も飲み、ご飯も平らげる。だが食べ終わると、すぐにスマートフォンを手に取り、椅子を引いた。何か言うかもしれない、とほんのわずかに思ったのは、習い性の残骸だったのだろう。
けれど彼は結局、いつもと同じように言っただけだった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
それで終わる。
ありがとう、はなかった。
特別な朝だと告げる言葉もない。最後だと気づいているのかどうかすら分からない顔で、昌親はジャケットを手に取り、玄関へ向かう。その背中は、結婚してから何百回と見送ってきた背中だった。幅のある肩。急ぐ時の少しだけ速い歩幅。片手でスマートフォンを持ったまま、もう半分意識が外へ向いている後ろ姿。
澄乃はその背中を見送りながら、胸の中へ静かに問いかけた。
未練はあるだろうか。
答えは、驚くほど早く返ってきた。
ない。
少なくとも、昌親との結婚そのものに対しては、もうほとんど残っていない。
悔しさはある。疲れもある。七年という時間が軽かったわけではない。けれど未練は、違う。あれは「本当はまだ続けたい」と願う感情だ。いま胸の中にあるのはむしろ反対だった。よくここまで来た、という乾いた安堵に近い。ああ、もう戻らなくていいのだという、静かな解放。
玄関のドアが閉まり、少し遅れて車のエンジン音が遠ざかる。義父も義母もそれぞれ自室へ戻り、家の中から人の気配が薄れていく。食卓の上には、空になった器だけが残された。
澄乃は立ち上がり、一つずつ片づけ始めた。
箸を揃える。茶碗を重ねる。汁椀を持つと、まだわずかに温かい。流しへ運び、水を流す。器の内側についた味噌の痕が水でほどけていく。出汁巻きを焼いた卵焼き器の底には、うっすら油が残っていた。布巾で拭いながら、澄乃は思う。
これが最後なのだ。
この家で、この人たちのために、こうして朝食の後始末をするのは。
そう思っても、手は止まらない。むしろいつも以上に丁寧だった。雑に終わらせたくなかったのだろう。嫌になったから放り出したのではない、自分で区切りをつけて手放すのだと、最後まで自分に示したかった。
洗い終えた器を伏せ、流し台を拭き上げる。台所はすぐに、何事もなかったような顔へ戻った。さっきまで四人分の朝食が並んでいた痕跡はほとんどない。整えられた空間は、いつもこうして痕跡を飲み込む。
その無慈悲さを、澄乃は初めて少し愛おしく思った。
全部、なかったことになるわけではない。だが、消えたように見える。この家はそうやって何年も自分の労力を飲み込んできた。ならば最後も、きれいに飲み込ませて出ていけばいい。
キッチンの窓を開けると、朝の空気が流れ込んできた。雨上がりの匂いはもう薄まり、代わりに日差しを受け始めた土の匂いが少しだけ温かくなっている。庭の桜は、今朝もまだ散りきらずに咲いていた。濡れていた花びらが乾き始めて、光を細く反している。
澄乃は窓辺に手を置いた。
指先に木枠のさらりとした感触が伝わる。
この家での朝は、いつも忙しかった。息をつく隙もなく、人の好みを思い出し、機嫌を読み、予定を組み、食事を整える。けれど今日初めて、その忙しさの向こう側に自分の感情を置いて眺めることができた気がする。
ありがとうを、十分にもらえたか。
答えは最後まで出なかった。
けれど、もうそれを確かめる必要はないのだとも思う。足りなかったのだろう。おそらく。だからこんなにも、今の自分は静かに乾いている。もし十分にもらえていたなら、たぶんもう少し迷った。もう少し痛んだ。だが実際には、昌親の背中を見送った瞬間、胸の奥は驚くほど軽かった。
未練は、なかった。
それだけで充分だ。
澄乃は窓を閉め、エプロンを外した。布の結び目を解く指先が、ひどく軽い。いつもの朝と同じように始まって、いつもの朝と同じように食事を作って、いつもの朝と同じように見送ったのに、その実、まるで違う朝だった。
最後の朝食は、思っていたより静かに終わった。
泣きもせず、縋りもせず、怒鳴りもしないまま。
ただ、もう何も残っていないことを知るために必要な、たった一度きりの朝だった。
あなたにおすすめの小説
死にゆく私に「愛さない」と誓った旦那様。約束通り、私は貴方を愛したまま、貴方の知らない場所で死んであげます。
しょくぱん
恋愛
「君を愛することはない」冷酷な公爵の言葉に、余命僅かなエリスは安堵した。愛されなければ、私の死で彼を傷つけることはない。彼女は彼を深く愛したまま、その心を隠して彼から逃亡する。一人静かに息を引き取るために。しかし彼女の死は、公爵の狂おしい後悔と執着を呼び覚ましてしまう。決して交わらない二人の、結末。
愛人と暮らすために私と結婚した伯爵子息、皇帝宮の夜会で本音を喋る魔道具を使ったらすべて暴露されました
あきくん☆ひろくん
恋愛
愛人と暮らすために私と結婚した伯爵子息。その本性を知ったのは、結婚した後でした。
私は子供を産むためだけの妻。生まれた子は愛人が育て、私は屋敷に閉じ込められる運命だという。
絶望する私が思い出したのは、大魔導士から渡された魔道具。「心に思ったことを言葉にしてしまう」もの。
そして皇帝宮の夜会で――伯爵子息は皇太子の前で、自分の本音をすべて喋ってしまいました。
この作品は、「僕に仕えるメイドは世界最強の英雄です」シリーズの外伝です。
リリアーナは、第1作目の第3部のおまけ、のお話にでてくる子爵令嬢です。
「親友の兄と結婚したら、親友に夫を取られました。離婚します」
柴田はつみ
恋愛
誰も、悪くない。
だから三年間、笑っていた。
親友の兄と結婚したエルミラ。
でも夫が振り向くのは、いつも親友が夫を呼ぶときだけ
「離婚しましょう、シオン様」
「絶対に、ダメです」
逃げようとするたびに、距離が縮まる。
知るほどに、好きになってしまう。
この男を捨てるには、もう少しだけ時間が必要みたいです。
妻を信じなかった皇帝の末路ーあの日の約束を覚えていますか?ー
きぬがやあきら
恋愛
不遇な境遇で育った王女スフィアは、停戦の代償に帝国へと嫁いだ。
レグナシア帝国皇帝ヴィクターと政略結婚を結ぶが、結婚初夜、ヴィクターが冷たく告げる。
――俺はお前を愛するつもりはない。
愛を望みながらも義務に徹する皇妃と、愛を拒む冷酷な皇帝。
すれ違いのまま始まる“白い結婚”。
しかし皇帝はやがて、その約束を後悔することとなる。
妻を信じなかった皇帝の“末路”とは。
不器用な2人が織りなすラブロマンスファンタジー。
初夜に放置された花嫁は、不誠実な男を許さない~不誠実な方とはお別れして、誠実な方と幸せになります~
明衣令央
恋愛
初夜に新郎は元婚約者の元へと走り、放置された侯爵令嬢セシリア。
悲しみよりも屈辱と怒りを覚えた彼女は、その日のうちに父に連絡して実家に帰り、結婚相手に婚姻無効叩きつけた。
セシリアを軽んじた新郎と元婚約者は、社交界の制裁を受けることになる。
追い詰められた元婚約者の男爵家が放った刺客に襲われそうになったセシリアを救ったのは、誠実で不器用な第三騎士団副隊長レオン。
「放置どころか、一晩中、離すつもりはないよ」
初夜から始まったセシリアの物語は、やがて前回とは違う初夜へと辿り着く――。
『「ママは我慢してればいいんでしょ?」と娘に言われた日、私は妻をやめた』~我慢をやめた母と、崩れていく家族、そして再生~
まさき
恋愛
私はずっと「いい妻」でいようとしてきた。
夫に逆らわず、空気を読み、波風を立てないように生きる。
それが、この家を守る唯一の方法だと思っていた。
娘にも、そうであってほしかった。
けれど──
その願いは、静かに歪んでいく。
夫の言葉をなぞるように、娘は私を軽んじるようになった。
そしてある日、夕食の後片付けをしていた私に、娘は言った。
「ママはさ、我慢してればいいんでしょ?」
その一言で、何かが壊れた。
我慢することが、母である証だと思っていた。
だがそれは、私自身をすり減らすだけの“呪い”だった。
──もう、我慢するのはやめる。
妻であることをやめ、母として生き直すために。
私は、自分の人生を取り戻す決意をした。
その選択は、家族を大きく揺るがしていく。
崩れていく夫婦関係。
離れていく娘の心。
そして、待ち受ける“ざまぁ”の行方。
それでも私は問い続ける。
母とは何か。
家族とは何か。
そして──私は、どう生きるべきなのか。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
私は不要とされた~一番近くにいたのは、誰だったのか~
ゆめ@マンドラゴラ
恋愛
彼の幼馴染は、いつも当然のように隣にいた。
「私が一番、彼のことを分かっている」
そう言い切る彼女の隣で、婚約者は何も言わない。
その沈黙が、すべての答えのように思えた。
だから私は、身を引いた。
――はずだった。
一番近くにいたのは、本当に彼女だったのか。
「不要とされた」シリーズ第三弾。