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第10話 朝の支度は、誰のためでもなく
目を覚ました瞬間、澄乃は少しだけ戸惑った。
どこだろう、と思ったのではない。むしろ逆だった。体のほうが、あまりにも深く眠ってしまっていたことに驚いていた。目を閉じていたはずの時間が、いつものように細く途切れず、一枚の布みたいにつながったまま朝へ来ている。夜中に何度も意識が浮いて、玄関の音や通知音を探した記憶がない。耳のどこかだけ起きたまま、まぶたの裏で朝を待っていた感覚もない。
ただ眠って、ただ朝になった。
そのことがあまりにも久しぶりで、澄乃は仰向けのまま天井を見つめた。
障子の向こうは、もう白んでいる。夜の深い青ではなく、朝の手前の、まだ何色とも言い切れない淡い明るさだ。川の音がする。昨夜より少し軽い。虫の声は消えて、その代わりに鳥の細い声がどこか遠くで二度、短く鳴いた。
布団の中はほどよく温かい。枕には自分の髪の匂いと、乾いたシーツの匂いが残っている。畳の青い匂いもまだ薄くあった。澄乃は胸の前で重なっていた掛け布団を少しだけ押し下げ、深く息を吸う。
呼吸が、ちゃんと胸の底まで入る。
久世家にいた頃の朝は、目が覚めた瞬間からすでに何かへ遅れているような気がしていた。時計を見る前から、頭の中で手順が走り出す。朝食。義父の薬。義母への声かけ。昌親の機嫌。会食の有無。クリーニング。花。電話。そういうものが、まぶたを開くより先に胸の中で一斉に立ち上がり、まだ横になっている自分を責めるように押してきた。
けれど今朝は、それがない。
もちろん、何も考えなくていいわけではない。自分は昨日、水篝館に来たばかりだ。この先どうするかも決まっていない。今日、伊織と話をしなければならない。身の置き方も、働かせてもらえるかどうかも、何一つ確定していない。それなのに、不思議なくらい頭の中は静かだった。静かなまま、ただ朝が来ている。
川の音が、また聞こえる。
澄乃は布団の中で小さく瞬きをして、それから身を起こした。浴衣の襟元を整え、膝を揃えて布団を抜ける。足裏に触れる畳はまだ少しひんやりしていたが、不快ではなかった。障子を少しだけ開けると、朝の空気が細く流れ込んでくる。夜の湿り気を残しながらも、もう冷えすぎてはいない。川の表面には薄い靄がかかり、その向こうで旅館の庭木が静かに揺れていた。
空はまだ低い色をしている。薄青と白の境目が曖昧で、山の稜線はやわらかく霞んでいた。対岸の建物の屋根が少しずつ明るくなり始めている。川沿いの石灯籠には夜の水気が残っていて、ひとつひとつが淡く濡れた色をしていた。
綺麗だと思った。
そして、その綺麗さを一度も誰かのために言い換えなくていいことに、澄乃はふと気づいた。今日は晴れそうだから洗濯が捗る、でもない。義母の気分も少しは上がるだろう、でもない。客が喜ぶ景色だろう、でもない。ただ綺麗だと、自分が思うだけでいい。
そのことが、ささやかなのにひどく新鮮だった。
澄乃は部屋を振り返った。布団はまだ敷かれたままだ。いつもなら起きた瞬間に畳みたくなる。きちんと端を揃えて、皺を伸ばして、部屋の見た目を整えたくなる。だがここは客室で、自分は客だ。篠田や誰かが後で片づけに来るのだろう。
そう思って手を止めかけたのに、結局、澄乃は布団の端を指でつまんでいた。
折り目を揃え、枕を軽く整え、掛け布団の皺を撫でてならす。全部畳んでしまうほどではないが、目についた乱れを直さずにはいられない。半ば習慣のように動く手を見て、澄乃は少し苦笑した。
「本当に、染みついてるのね」
誰もいない部屋で呟く。声は朝の空気に吸われて、すぐ消えた。
洗面を済ませて廊下へ出ると、水篝館の朝はもう始まっていた。
障子の向こうを、控えめな足音が行き交う。布団を抱えた若い従業員が会釈して通り過ぎ、奥のほうでは食器の触れ合う小さな音が絶えず響いている。どこかで急須の蓋がかすかに鳴り、板場のほうからは出汁の匂いが流れてきた。昆布と鰹の澄んだ香りに、焼き魚の気配と炊き立ての米の甘さが混じる。旅館の朝の匂いだ。昔、祖母の付き添いで何日もここにいた時、廊下へ出た瞬間に腹の虫が鳴きそうになったことを思い出す。
澄乃は何となくその匂いに引かれて、帳場のほうへ歩いた。
朝の帳場は昨日より光が多く、木の色がやわらかく見える。生け花は昨夜と同じ白い椿だったが、朝の明るさの中では花弁の白が少し青みを帯びていた。帳場の向こうでは篠田が帳面をめくりながら、別の従業員へ何かを指示している。低い声が行き交っていても、不思議と空気は張り詰めすぎていない。忙しいのに、怒鳴る声がしない。
それだけで、澄乃の体はまだ少し戸惑う。
忙しい朝には、誰かの苛立ちが混じるものだと思い込んでいたのだと気づく。家でも会社でも、朝はたいてい誰かの余裕が削られていた。だから自分が先に動いて、少しでもその棘を減らさなければならなかった。ここではそういう種類の棘がまだ見当たらない。
「おはようございます」
篠田が先に澄乃へ気づいて、頭を下げた。
「お目覚めはいかがでしたか」
「おはようございます。……驚くくらい眠ってしまって」
そう返すと、篠田の目元が少しやわらいだ。
「それは何よりです。朝食はお部屋へお持ちしますか。それともお食事処へ」
問われて、澄乃は一瞬だけ迷う。部屋で静かに食べることもできる。けれど、いま廊下や帳場を流れている朝の気配の中へ、もう少し身を置いていたかった。
「もしご迷惑でなければ、お食事処でいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。川側の席へご案内します」
「ありがとうございます」
そこで、帳場の奥から少し急いだ足音がした。若い仲居が顔を出し、篠田へ小声で言う。
「すみません、三番のお部屋、卵を使わない朝食に変えるお話、板場にまだ伝わっていなくて」
篠田がすぐに表情を引き締める。
「昨日のうちに伝票は差し替えたはずだけど」
「夜番との引き継ぎで抜けたみたいで……」
「分かった、今から」
そのやり取りを聞いた瞬間、澄乃の体が先に反応していた。
「あの」
気づけば口が開いている。
「もしよろしければ、伝票を見せていただけますか」
篠田と若い仲居が同時にこちらを見る。その目の中に、客からそう言われるとは思っていなかった驚きがあった。澄乃も、自分がいま何を言ったのかを一拍遅れて理解した。泊まり客が、朝の帳場へ口を挟むような真似は本来しない。出しゃばりに見えるかもしれない。
けれど、耳に入ってしまった以上、頭が動いてしまった。卵が使えない客なら、出汁巻きも茶碗蒸しも変更が必要だろう。焼き物の照りに卵が使われている可能性は。箸置きの位置より先に、そういうことが頭へ浮かぶ。
「昔、少しだけこちらで手伝わせていただいたことがあって」
澄乃は急いで言葉を継ぐ。
「もちろん、私が口を出すことではないのですが、配膳前に差し替えるだけなら、何かできるかもしれません」
篠田は驚いたように澄乃を見たが、その驚きの中に拒む色はなかった。数秒ののち、彼女は小さく頷く。
「では、こちらだけ確認していただけますか」
差し出された伝票には、家族連れの名前と「卵アレルギー」の文字。子ども用の朝食が卵を避ける形で必要らしい。澄乃は伝票を見ただけで、頭の中に朝食膳の構成が立ち上がった。出汁巻きの代わりに焼き魚を半身増やすか、温豆腐に変えるか。茶碗蒸しがあるなら、それも差し替えなければいけない。小鉢に卵を使った和え衣が入っていないかも確認が要る。
「今からなら、焼き物はそのままで、小鉢と汁物の内容を変えたほうが早いかもしれません」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「お子さんなら甘いものが一つ減ると寂しいので、果物を少し足せると……」
「果物なら今朝の仕込み分が」
若い仲居が頷く。
「あります」
「じゃあ、それを」
澄乃は伝票を返し、そこでようやく我に返った。
「すみません、勝手なことを」
篠田は一瞬、澄乃の顔を見つめたあと、ふっと息を緩める。
「いえ、助かります。正直、板場はいま手が離せないので」
その「助かります」が、澄乃の胸へまっすぐ落ちた。
ありがとうではない。けれど、いま自分の手が必要なところへ、必要な分だけ届いた感覚がある。しかもそれは、誰かの機嫌を損ねないための先回りではなく、目の前の流れを整えるための具体的な仕事だ。その違いが、こんなにもはっきりと身体へ伝わることに、澄乃は少し驚いた。
「じゃあ、私、板場へ行ってきます」
若い仲居が伝票を持って駆けていく。
篠田は帳場の上に置かれた名簿と部屋割りの紙へ目を落とし、それから澄乃へ向き直った。
「本当はお客さまにこんなことをお願いするものではないのですが」
「いえ」
澄乃は首を振る。
「じっとしているより、少しだけ動いているほうが落ち着くので」
その言葉は本心だった。部屋で静かに朝を味わうこともできる。けれど、流れのある場所へ立つと、自分の体が別の呼吸を始めるのが分かる。しかもここでは、その呼吸が誰かに搾り取られる前提ではない。
その時、奥の廊下からまた足音がした。
今度の足音は昨日も聞いた、迷いのない低い歩幅だ。伊織だった。帳場へ出てくるなり、場の気配を見て何かあったと悟ったらしい。目が一度だけ伝票の置かれた台へ行き、次に篠田、最後に澄乃へ向く。
「どうした」
篠田が簡潔に説明する。
「三番のお部屋のアレルギー対応が夜番から板場へ落ちていなかったんです。杠さんが気づいてくださって」
伊織の目が澄乃へ戻った。
その視線は責めるものではなかったが、少しだけ呆れたようでもあり、困ったようでもある。
「客だろ」
低く言われる。
澄乃は思わず小さく肩をすくめた。
「すみません。聞こえてしまって」
「聞こえても手ぇ出すなって言いたいところだけど」
伊織はそこで短く息を吐いた。
「今のは助かった」
素直ではない。だが、隠してもいない。助かったなら助かったと、そのまま言う。澄乃はその言葉に少しだけ胸の奥があたたかくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「礼言う話でもない」
「でも」
「無理はするな」
伊織はそれだけ言った。
短いのに、不思議とちゃんと境界線が引かれている言い方だった。助かった。でも無理はするな。やれることはあるかもしれないが、それを当然とはしない。そこが久世家と決定的に違う。あちらでは、役に立つと分かった瞬間から、それは黙っていてもその人間の役目になる。できるのだからやるべきだという空気が、言葉の外側にすぐ生まれる。ここでは少なくとも、いま目の前にいる伊織は、そうしない。
「はい」
澄乃は頷いた。
だが、そのすぐあとで、廊下の向こうから別の声が飛んできた。
「篠田さん、五番のご家族、お子さんの汁物だけ少し冷ましたものがいいって」
さらにその向こうから、「二番の席、今お茶足りますか」と別の声も重なる。朝の旅館は、静かでも確実に慌ただしい。声を荒げる人はいないが、あちこちで細かな調整が走っている。
それを聞いた途端、澄乃の足が半歩動いていた。
「五番はお子さん連れでしたら、先に冷ました汁を小さな器でお出ししたほうが」
また、口が勝手に言っている。
伊織が目を細めた。
「……じっとしてるの、無理か」
その言い方に、篠田が少しだけ口元を緩める。澄乃は自分でも可笑しくなって、けれど笑うほどの余裕はなくて、ただ少しだけ息を吐いた。
「昔から、こういう時間帯は」
「知ってる」
伊織は短く言う。
知ってる。その三文字の中に、昔の澄乃を覚えている響きがあった。祖母の付き添いで来ていた頃、手が足りないと見ると黙って動き出した自分のことを、彼はちゃんと見ていたのかもしれない。
「だったら、廊下側の配膳手伝って」
伊織は少しだけ声を低くして続けた。
「客の前に出る時は、無理そうならすぐ引け。今日はあくまで臨時だ」
「はい」
澄乃はすぐに返事をした。
胸の奥で何かが軽く跳ねる。それは緊張でもあるが、不思議と嫌なものではなかった。目の前の流れへ、自分の手がひとつ差し込まれる。そのことに、久しぶりに体が前向きに反応している。
そこから先は、考えるより先に身体が動いた。
湯呑みを温めて並べる。部屋番号ごとの膳の並びを確認する。子ども用に冷ました汁物を別の小椀へ移し、箸置きをずらし、食事処の窓際へ朝の光が強すぎないよう障子を少し調整する。昔の記憶と、長年の生活で身についた段取りが、思っていた以上に自然に繋がっていた。
厨房の前を通ると、湯気と出汁の匂いがさらに濃くなる。炊きたての米の甘い匂い、味噌の香り、魚の皮が焼ける匂い。板場には料理長らしい年配の男と、若い調理人が二人、無駄のない動きで手を動かしていた。誰も大声を出さない。ただ、必要な声だけが飛ぶ。
「三番、卵抜き済みます」
「五番の汁、冷まし中」
「二番、食後のコーヒーは八時十分」
音の粒がきれいに流れていく。そこへ澄乃も自然に乗る。
「七番のご夫婦、奥さまだけお粥でしたよね。先に茶をお持ちします」
言いながら、少し驚いた。自分はまだ名簿を完全に覚えたわけではない。けれど帳場で目にした文字と、配膳の流れと、部屋番号の印象が、頭の中で勝手に繋がっていく。こういうことは久世家でも散々やってきた。ただ違うのは、ここでのそれが誰かの機嫌を取るためではなく、流れを滞らせないための純粋な仕事だということだ。
客のいる食事処へ膳を運ぶ。
朝の食事処は、静かなざわめきに満ちていた。障子越しの光、湯気、器の音、旅行中の低い会話。昨夜のうちにここへ着いて、早朝の露天風呂へ入ったのだろうか、髪を軽くまとめた婦人が窓の外の川を見ながら味噌汁を啜っている。子どもが箸袋をいじり、年配の夫婦が静かに頷き合う。誰も急いでいないように見えるのに、裏側では分刻みで段取りが組まれている。その二重の時間が、旅館の朝なのだと改めて思う。
「こちら、冷ましてございますので、お子さまはこちらからどうぞ」
澄乃が小椀を置くと、若い母親がほっとしたように顔を上げた。
「ありがとうございます。いつも熱いと食べられなくて」
「少し足りなければ、お声がけください」
そう言う自分の声が、思っていたより自然だった。作り笑いではない。だが、客へ向ける柔らかさはきちんとある。長いこと、人に合わせた声色を使ってきたからだろうか。けれど今のそれは、自分を削る感じがしない。ただ目の前の人に必要な温度を渡しているだけだ。
その違いが、こんなにも大きい。
配膳の合間に、伊織と何度か廊下ですれ違った。彼は手が足りないところへ無駄なく入っていき、重い鍋を運び、急な電話を取り、外の送迎の確認まで一人でこなしている。若旦那というより、旅館全体の骨組みそのものみたいな動き方だ。忙しいのに、苛立ちをむき出しにしない。黙っている時間のほうが長いが、必要なことは短く正確に言う。
「杠さん」
一度、食事処から戻ってきた澄乃を、伊織が呼び止めた。
「座ってる客が見える位置ばっか行くな。ふらついたら危ない」
「そんなに顔に出ていますか」
「出てる」
即答だった。
澄乃は思わず少し笑ってしまう。
「気をつけます」
「あと、今の客、塩分控えめの件、助かった」
「覚えていたわけではなくて、伝票が目に入って」
「それでもだ」
ぶっきらぼうに言って、伊織はすぐ別の用へ向かった。褒めるために立ち止まる人ではない。だが、必要なことはきちんと口にする。その短さが、かえって嘘のなさを際立たせていた。
朝食の波が少しずつ引いていくのは、八時半を回る頃だった。
食事処の席が空き始め、厨房の前の往復が少しだけ減る。湯気の量も落ち着き、廊下に漂う匂いが出汁から茶へゆるく移っていく。最後の膳が下がり、篠田が帳場で名簿を閉じた時、ようやく全体の呼吸が一つ深くなるのが分かった。
「……終わった」
若い仲居が小さく呟き、その場で肩を落とす。隣の別の従業員が「まだ片づけが残ってる」と笑って返す。その何気ないやり取りに、澄乃の胸の中で何かがふっとやわらいだ。
うまく回った。
誰かの機嫌を損ねずに済んだ、ではなく。
目の前の仕事が、ちゃんと流れた。
その感覚が、久しぶりにこんなにも嬉しい。
役に立てたことが嬉しいのではない。役に立てる自分でいないと価値がない、という焦りに追い立てられていないことが嬉しいのだと、澄乃はそこで初めてはっきり分かった。ここでの手伝いは、今この場で必要だったからこそ意味がある。でも、それが永遠に自分の義務として貼りつくわけではない。伊織も篠田も、そこを曖昧にしない。だからこそ、体を動かしても苦しくならない。
それはほとんど衝撃だった。
「はい、お疲れさま」
篠田が近づき、澄乃へ湯呑みを差し出す。中には濃いめのほうじ茶が入っていた。湯気が香ばしい。
「本当に助かりました」
「勝手に手を出してしまって、すみません」
「勝手に、ではありませんよ。こちらがお願いした形になっていますし」
篠田は少しだけ笑う。
「それに、正直申しまして、かなり助かりました」
その言葉へ添えられた視線には、お世辞の曇りがなかった。澄乃は湯呑みを受け取り、掌に伝わる熱を感じる。
「ありがとうございます」
言葉が素直に出る。礼を言われて、礼を返す。それだけのやり取りが、こんなにもまっすぐでいいのかと不思議になる。
その時、背後から伊織の声がした。
「朝飯、まだだろ」
振り向くと、彼は食事処の一角を顎で示している。
「従業員用でよければ、残してある」
「でも、私は」
「今は客でもあるし、手伝った人間でもある」
伊織は言った。
「どっちでもいいから、とにかく食え」
その乱暴でも親切でもない言い方に、澄乃はまた少し笑ってしまった。言われるまま、食事処の隅に座る。ほどなくして運ばれてきたのは、少しだけ遅い朝食だった。焼き魚、味噌汁、ご飯、漬物、ほんの少しの煮物。豪華ではない。けれど朝の湯気をまだちゃんと残している。
座った途端、どっと空腹が押し寄せてきた。さっきまで忙しさに押されて忘れていたのだろう。味噌汁を口へ運ぶと、出汁の味がじんわり広がる。澄乃は一口食べて、思わず目を伏せた。
「おいしい」
小さく漏れた言葉に、近くを通りかかった若い仲居が笑った。
「よかったです。うちの板場、朝ごはんだけは妙に自信あるので」
「朝ごはんだけ、じゃないでしょう」
篠田がすぐ後ろからたしなめるように言い、場が少しだけ和む。
伊織はそのやり取りを少し離れたところで聞いていたらしい。帳場の柱へ半身を預けるように立ちながら、こちらを見るでもなく言った。
「そのうち昼も夜も食えば分かる」
「宣伝ですか」
澄乃が何気なく返すと、伊織はほんの一瞬だけ口元を動かした。
「事実だ」
短い。それだけなのに、少しだけ場が軽くなる。昔の伊織より、言葉の角が僅かに丸くなっている気がした。たぶん旅館を回すうちに、必要な硬さと必要な柔らかさを身につけたのだろう。
朝食をゆっくり食べながら、澄乃は食事処の外へ目をやった。川が光っている。朝の忙しさがひと段落したあとの館内は、まだ少しだけ熱を持ちながらも、すでに次の支度へ向かう静けさへ戻りつつあった。障子越しの光、湯気の残り香、器の乾いた音。すべてが整っていて、どこにも怒った声がない。
これが、仕事なのだと思う。
誰かを支えることも、流れを整えることも、自分にはたぶん向いている。昔からそうだったし、今朝それを改めて思い出した。けれど向いているからといって、そこへ自分の全部を差し出していいわけではない。差し出さなければ価値がないわけでもない。今朝の数時間で感じた軽さは、そこがはっきり分かれているから生まれたのだ。
役に立てることが嬉しいのではない。
役に立っても、ここではそれがそのまま搾り取られることに直結しない。
助かった、と言われる。
無理はするな、と言われる。
食え、と言われる。
その順番がちゃんとしている。
久世家では、それがなかった。役に立てば、それは次から当然になり、少しでも足りなければ責められるか、自分の胸の中で責めるしかなかった。ここでは少なくとも、今目の前にいる人たちは違う。
朝の支度は、誰のためでもなく。
ただ、目の前の仕事がうまく回るためにある。
そのことが、澄乃の胸へ静かに広がっていく。
食べ終えて箸を置いた時、胃の底がしっかり温まっているのが分かった。眠れた夜のあとに食べる朝食は、こんなにも素直に身体へ入るのだと、あらためて思う。
伊織が帳場から戻ってくる。
「食ったか」
「はい。ごちそうさまでした」
「なら、少し休め」
また同じように言う。命令ではなく、確認のように。
「それから、話は昼すぎでもいい」
「……ありがとうございます」
澄乃はそう言って、ほんの少しだけ迷ったあと続けた。
「私、朝の支度が好きだったんですね」
自分でも、言ってから少し驚いた。けれど本心だった。好きだったのだ。ただ、それが長いあいだ、好きという感覚を持つ余地のないものに変わっていただけで。
伊織は一瞬だけ澄乃を見て、それから短く答えた。
「そう見えた」
その言い方が、妙に嬉しかった。
見えていたのだ。昔も、今朝も。誰かの機嫌を取るために笑っている時の顔ではなく、流れがうまく噛み合った時の自分の手つきが。
澄乃は湯呑みの残りを飲み干し、静かに息をついた。
朝の支度は、今日、誰のためでもなかった。
それなのにこんなにも満ち足りている。
その事実が、胸の中で新しい居場所の形を、まだ小さく、けれど確かに描き始めていた。
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