夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜行き先は老舗旅館。追いかけてきても、もう遅いです〜 

なつめ

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第34話 水篝館を買うつもりですか


 その日、水篝館の空気は朝からどこか乾いていた。

 梅雨に入る直前の、雲は薄いのに陽射しだけが妙に強い日だった。川の音はいつも通りなのに、光が石に当たって跳ね返るたび、館の廊下まで白く明るくなる。風はある。けれど涼しいというより、熱を少しだけかき混ぜる種類の風だった。障子の向こうの若葉は濃くなり始めていて、昼前には庭石の影もくっきり落ちる。

 そんな日の昼下がり、帳場には比較的穏やかな時間が流れていた。

 午前の客の流れはひと段落し、夕食の仕込みが本格的に動き出すまでの短い静けさ。篠田は翌週の予約表を見直していて、若い仲居が客室案内の差し替え分を折り込んでいる。厨房の奥からは、出汁の匂いと少し甘い醤油の香りが細く流れてきていた。澄乃は帳場の脇の小机で、季節膳の新しい案内文を最終確認していた。紙の上に並ぶ文字を追いながら、言葉の強さを一つだけ和らげる。水篝館の文章は、強く押し出すより、少し手前で留めるほうが似合う。それがようやく分かるようになってきた。

 玄関の引き戸が開いたのは、その時だった。

 大きな音ではない。だが、館に出入りする客の開け方とは少し違う、ためらいのない手つきの音だった。篠田が顔を上げ、澄乃も自然に視線を向ける。

 入ってきたのは、黒に近い紺のスーツを着た男だった。

 背筋はまっすぐで、歩幅に迷いがない。玄関の石へ落ちた光の中で、その輪郭が一歩ごとにはっきりしていく。昌親だった。

 澄乃の胸の奥が、ほんの一瞬だけ冷えた。

 あの灯籠まつりの夜以来だった。最後の対決へ向かっていく気配はあった。だから、驚ききることはない。けれど、それでもこうして昼の明るい館の玄関へ、まるで仕事の顔で現れた姿を見ると、胸のどこかがきしむ。あの人は本当に、私的な感情と外向きの体裁を同じ顔で持ってくるのだと、改めて思う。

 ただ、そのきしみは以前のように澄乃の足元まで奪わない。

 ここは水篝館で、自分は今、ここで働く人間として立っている。その事実が、胸の中に細い柱のように通っていた。

「いらっしゃいませ」

 澄乃より先に、篠田が帳場の前へ出る。

 声の温度はいつも通りだ。だが、その一歩分だけ、館の人間としての警戒が混ざっている。昌親がその声に軽く会釈し、視線だけをゆっくり館内へ巡らせた。その視線が澄乃へ触れる前に、澄乃は立ち上がっていた。

「本日はご宿泊でしょうか」

 自分の声が、少しだけ硬いと分かった。だが、それでよかった。客として扱うべき相手へ、余計な温度は入れない。その線を、自分でもはっきり引きたかった。

 昌親は澄乃を見る。

 以前ならその視線だけで息苦しくなったかもしれない。今は違う。見られていることは分かる。だが、自分の輪郭まで持っていかれる感じはしない。ただ、相手の目がひどく静かで、その静けさの奥に別の熱を隠していることだけが分かる。

「宿泊じゃない」

 昌親が言った。

「若旦那と話がある」

 その一言で、帳場の空気が少し変わった。

 篠田の手が、机の端へ置いた帳面の角をそっと押さえる。若い仲居は何も言わず、客室案内の紙束を持ったまま一歩だけ奥へ下がった。館の人間はこういう時、あからさまに顔を変えたりしない。ただ、少しだけ配置を変える。

「どういったご用件でしょうか」

 澄乃が訊くと、昌親はまっすぐこちらを見たまま言った。

「水篝館への投資の話だ」

 その瞬間、澄乃は目を瞬いた。

 投資。

 言葉だけを取れば、旅館にとって悪い話ではないようにも聞こえる。老舗旅館に設備資金や改修費が入るなら、ありがたい場合だってある。だが今、昌親の口からその単語が出た瞬間に、澄乃の胸には嫌なものしか広がらなかった。

 投資の話をしに来た顔ではない。

 居場所へ楔を打ち込むための顔だ。

「少々お待ちください」

 篠田がきっぱり言い、奥へ下がる。伊織を呼びに行ったのだろう。澄乃はその背中を目で追ってから、改めて昌親を見る。彼は相変わらず落ち着いた顔をしている。あくまで business の顔だ。だが、そのbusinessの仮面をかぶってここへ来たこと自体が、澄乃には何より卑怯に思えた。

「どういうつもりですか」

 思わず、そう口にしていた。

 昌親の眉が、ごくわずかに動く。

「どういうつもり、とは」

「水篝館への投資なんて、久世の会社が今まで一度でも検討してきたことですか」

 声が少し冷えるのを、自分でも止めなかった。

「いい話なら、もっと前から誰かを通して正式に来るはずです。今日みたいに、いきなり個人で来るものじゃない」

 昌親は一瞬だけ黙り、それから低く言った。

「正式な提案として持ってきている」

「私的な感情が一つも入っていないと、本気で言えますか」

 その問いに、昌親は今度こそ返事をしなかった。

 それが答えだった。

 水篝館への投資ではない。投資のかたちを借りて、水篝館という澄乃の居場所へ手をかけに来たのだ。自分を取り戻せないなら、場所ごと奪えばいい。あるいは揺さぶればいい。そういう発想が、あの人の中でここまで具体的なかたちになっていたことに、澄乃はぞっとした。

 その時、奥の廊下から足音がした。

 伊織だった。

 昼の明るさの中でも、彼の歩き方は相変わらず無駄がない。作務衣のままではなく、客と話すために羽織をきちんと重ねている。顔つきは穏やかだが、目元だけがひどく静かだった。怒っているのだと、澄乃は一目で分かった。大声を出す人ではない。むしろ、本当に怒っている時ほど声は低くなる。

「話があるそうですね」

 伊織は帳場の前で立ち止まり、澄乃の半歩前へ出るでもなく、横へ立つ。その位置がすでに、余計なものを通さない壁になっていた。

 昌親は伊織へ視線を移した。

「少し時間をもらいたい」

「内容によります」

「投資の相談だ」

 昌親はあらかじめ用意していたらしい薄い革のファイルを取り出した。そこには簡単な資料が入っているのだろう。旅館の改修、温泉街の活性化、地域協業。そういう耳障りのいい単語が並んでいるに違いない。

「久世側で温泉街への出資を検討している。老舗旅館としての水篝館は魅力がある。設備投資と宣伝導線をこちらが引き受ければ、もっと大きくできる」

 言葉としては整っている。

 だが伊織は眉一つ動かさない。

「検討しているなら、商工会か旅館組合を通してください」

 短く返す。

「この場で個別にお受けする話ではありません」

「個別の条件もある」

「なおさらです」

 伊織の声は低く、きっぱりしていた。

「正式な商談なら、今日みたいな来方はしない」

 それは澄乃がさっき感じたことと同じだった。だが伊織は、感情の色を一切乗せずにそれをそのまま言う。その静かな拒絶が、昌親の顔色を少しだけ変えた。

「警戒しすぎじゃないか」

「してます」

 伊織は間髪入れずに言う。

「今のあなたに対しては」

 空気が、ぴんと張る。

 帳場の奥で、篠田がそっと若い仲居へ目配せし、彼女は何も言わず客室側へ下がった。もし他の客が来てもここへ近づけないよう、さりげなく動いているのだろう。

 昌親はファイルを持ったまま、わずかに肩の力を入れた。

「俺は純粋にビジネスとして話をしている」

「その言い方をする人ほど、私情を混ぜます」

 伊織はそう言って、初めてほんの少しだけ表情を冷たくした。

「水篝館は売り物じゃない」

 その一言で、澄乃の胸がひどく熱くなった。

 売り物じゃない。

 旅館のことを言っているのに、同時にそれは、自分のことでもある気がした。居場所も、働き方も、自分自身も、金や条件でどうにかできるものではないと、伊織はあまりにもまっすぐに言った。

「大きくできると言ってるだけだ」

 昌親の声が、少しだけ硬くなる。

「この規模の旅館が今後もやっていくなら、資本は必要だろう。老舗というだけでは限界がある。現に、設備だって古い」

「必要なら自分たちで考える」

 伊織は答える。

「他所の人間に『大きくしてやる』前提で来られる筋合いはない」

「感情的になるな」

「なってません」

 声は変わらない。だが、その静けさのほうが怖いくらいだった。

「理屈で断ってるだけです」

 そこで伊織は一歩だけ前へ出た。昌親へ詰め寄るほどではない。だが、玄関の光の中で、その一歩分だけ距離の意味がはっきりする。

「あなたの目的が水篝館そのものじゃなく、ここにいる人間を揺さぶるためのものだと感じるから、お断りしてる」

 澄乃は息を詰めた。

 そこまで言うのか、と思う。けれど、言ってほしかったとも思う。ずっと胸の中で形になっていた嫌な予感を、こうして他人の言葉で外へ出してもらうのは、痛いのに救われる。

 昌親の顔色が、わずかに変わった。

「勝手に決めつけるな」

「では違うと言えますか」

 伊織は引かない。

「ここへ来る前に、商工会へも旅館組合へも一度も話を通していない。いきなり個人で来て、投資だの買収だのを匂わせて、しかもこの場所にいる特定の人間を見ながら話をする。それをどう受け取れと」

 買収。

 その言葉が出た瞬間、澄乃の胸の奥がぎゅっと縮んだ。

 やはりそうなのだ。投資ではない。もっと直接的に、この場所の輪郭へ手をかけようとしている。自分を取り戻せないなら、ここを変えてしまえばいい。経済力で。会社で。正式な顔をかぶって。

「……水篝館を買うつもりですか」

 気づけば、澄乃が口にしていた。

 声は震えていなかった。むしろ驚くほど冷たく、静かだった。

 昌親がこちらを見る。目の奥に、一瞬だけ見られたくないものを見られた人の色が走る。

「そんな極端な言い方を」

「極端ですか」

 澄乃はまっすぐ言う。

「居場所を取り上げようとしてるようにしか見えません」

 その言葉を口にした瞬間、ようやく自分の中でも輪郭が定まった。怖かったのは、ここへ迷惑をかけることだけではない。自分のせいで、水篝館という場所が何か別の論理で揺らされることだった。だから、昌親が経済の言葉を持ち込んだ時に、胸の中へあんなに冷たいものが広がったのだ。

 伊織はその言葉を聞いて、初めてはっきりと昌親を睨んだ。

 声は低いままだ。だが目だけが、もう一切の遠慮を捨てている。

「今後」

 伊織が言う。

「水篝館に対する投資・買収・提携の話を持ち込むなら、正式な窓口を通してください。それ以外の私的な接触は、全部お断りします」

「……脅しか」

「必要なら、法的対応も辞さない」

 その一言は、玄関の白い光を一段冷たくした。

 大声ではない。けれど、その低さには揺るぎがなかった。もし次に同じことをすれば、本当にそうするのだと分かる声だった。

 昌親の唇が、わずかに引き結ばれる。

 会社でも家でも、最近こういう顔を何度もしてきた。反論したいのに、まっすぐ返されると次の理屈が出てこない顔だ。だが今はそれに、別の色が混じっている。澄乃のために怒っている男を、真正面から見てしまったことへの苛立ち。しかもその怒りが、所有や支配ではなく、境界を守るための怒りであることが余計に気に入らないのだろう。

「そこまで言う必要があるか」

 昌親が低く言う。

「あります」

 伊織は一歩も引かない。

「うちの従業員と宿を、同じやり方で揺さぶられるのが一番迷惑だから」

 その「うちの従業員」という言葉に、澄乃の胸がひどく熱くなる。

 ここでは、自分は守られる側にいていいのだと、頭では何度も知り始めていた。疲れた時に止められ、名前で呼ばれ、仕事を返され、ここにいていいと言われた。それでも心のどこかに、守られることへの罪悪感はまだ残っていた。自分のために誰かが怒ると、「そんなことまでさせてしまっている」と思ってしまう癖があった。

 けれど今、伊織が怒っているのは、単に澄乃を庇うためだけではない。水篝館という場所と、その中で働く人間の境界を守るために怒っている。そこへ自分も含まれている。含まれていいのだと、目の前で示されている。

 それが、思っていた以上に心を軽くした。

 守られることに、少しだけ罪悪感が薄れる。

 ここでは、自分は守られていい側にいていい。

 そんな当たり前が、胸の奥へ静かに落ちていく。

「……帰ってください」

 澄乃は自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。

「あなたがここへ来る理由は、もうありません」

 昌親はその言葉に一瞬だけ目を細めた。

 怒るかと思った。あるいは、もっと柔らかい声で何か言うかもしれないと思った。だが実際には、昌親は何も言い返さなかった。言い返せないのだろう。正当な投資話なら正式な窓口を通せという伊織の理屈は崩せない。私的な感情が混ざっていないと証明する言葉も持っていない。

 ただ、その沈黙の中で、昌親の目だけがひどく濁っていくのが分かった。

 愛ではない。執着だ。しかも、拒まれれば拒まれるほど、自分の中の何かが傷ついたように感じる種類の執着。だがその傷は、澄乃の心を傷つけたことへの理解ではなく、自分の所有感が通じないことへの苛立ちでしかない。

「……分かった」

 やがて昌親が低く言った。

 その声には納得も謝罪もなかった。ただ、いったん引くしかない時の硬さだけがある。

「正式な窓口を通す」

 それが捨て台詞のように聞こえる。けれど伊織は表情を動かさなかった。

「どうぞ」

 短く返す。

「その場合も、お受けするとは限りません」

 最後の最後まで線を曖昧にしない。その姿を見て、澄乃は胸の内に残っていた小さな不安が、少しずつほどけていくのを感じた。もしここで伊織が、曖昧に受け流していたら。商売だからと笑って引いていたら。澄乃の中にはまた別の罪悪感が根を張ったかもしれない。自分のせいで面倒を引き寄せてしまった、と。

 だが違う。

 伊織は、面倒だからではなく、通してはいけない線だから怒っている。

 その違いが、あまりにも大きかった。

 昌親は結局、そのまま玄関を出ていった。

 背中はまっすぐだ。だが、去り際に一度だけ水篝館の玄関を振り返った顔には、焦りと苛立ちと、どうにかしてまだ入り込める隙を探している目だけが残っていた。その目を見て、澄乃は逆にひどく冷静になった。あの人は本当に、自分の意思ではなく、自分の焦燥の出口としてここを見ているのだ。

 玄関の引き戸が閉まる。

 外の光が一段落ち着く。

 しばらく誰も何も言わなかった。帳場の奥で、篠田が小さく息を吐く音だけがした。若い仲居も、手元の紙束を握りしめていたらしく、いまようやく指を緩めている。

「大丈夫ですか」

 篠田が静かに訊く。

 その声で、澄乃はようやく自分の呼吸が少し浅くなっていたことに気づいた。怖かったのだろう。怒鳴られたわけでもないのに、居場所ごと揺さぶられそうになった恐怖はたしかにあった。

「……はい」

 答えた声は少しかすれた。

 その瞬間、伊織が何も言わず、帳場の奥へ歩いていく。数十秒後、戻ってきた手には湯呑みが二つあった。片方を澄乃の前に置く。ほうじ茶だ。まだ湯気が立っていて、香ばしい匂いが静かにのぼる。

「飲め」

 それだけ言う。

 澄乃はその湯気を見つめ、どうしようもなく胸が熱くなった。

 まただ、と思う。いつもそうだ。大丈夫かと先に言わない。かわいそうだとも言わない。まず温かいものを置き、椅子を寄せ、境界を引き、必要なら怒る。そういう順番でしか、この人は優しくしない。だからこそ、自分はようやく受け取れるのだろう。

 湯呑みを持つ。掌へ熱が移る。その熱を受け取った瞬間、胸の奥に残っていた硬さが少しだけほどけた。

「……ありがとうございます」

 小さく言うと、伊織はほんの少しだけ肩の力を抜いた。

「礼はあと」

 短い返事。だが、その声もさっきより少しだけやわらかい。

「怖かったか」

 今度はそう訊かれて、澄乃は少しだけ目を伏せた。

「居場所にまで手をかけられるのかと思って、少し」

「手をかけさせない」

 その返しは、迷いなく早かった。

「水篝館は、そういうの通す場所じゃない」

 澄乃はそこで、ふっと息を吐いた。気づかないうちに、肩へ力が入りすぎていたらしい。吐いた息の分だけ、背中の張りも少し落ちる。

「私……」

 言いかけて、少し迷う。

「守られてしまっている、って思う時が、まだあって」

 伊織が黙ってこちらを見る。責めない沈黙だ。

「自分のせいで、誰かに怒らせてしまうのが、申し訳ないというか」

 そう言うと、伊織は目を細めた。

「お前のせいじゃない」

「でも」

「でもじゃない」

 いつになく、少しだけ強い声だった。

「自分の都合で人の場所に手をかけようとしたのは向こうだ。怒るべきところだから怒ってる」

 その言葉に、澄乃は何も言えなくなる。

 そうなのだ。自分のために怒っているのではなく、怒るべきことだから怒っている。その中に、自分も含まれている。それだけのことが、どうしてこんなにも救いになるのだろう。

「ここでは」

 澄乃は湯呑みを両手で包んだまま、小さく言った。

「私、守られていいんですね」

 伊織は、その問いにすぐ答えた。

「いい」

 短く、揺るぎなく。

「むしろそういう時に守れないなら、何のためにここにいる」

 その言い方に、澄乃は思わず笑いそうになる。何のためにここにいる、なんて大げさなことを、こんなふうにさらりと言う人だっただろうか。けれど今は、その言葉のひとつひとつが胸の深いところへ静かに落ちていく。

 守られていい。

 ここでは。

 その感覚を、ようやく罪悪感なしに少しずつ受け取れる気がした。支えられること、怒ってもらうこと、境界を引いてもらうこと。全部を「申し訳ない」で塗りつぶさなくてもいいのだと、目の前のこの人は、言葉と態度の両方で教えてくれる。

 湯呑みから立つ香ばしい匂いが、玄関の白い光の中で少しずつ薄まっていく。外では川の音が変わらず流れ、若葉が風に一度だけ揺れた。水篝館は、先ほどまでの緊張をゆっくりほどきながら、またいつもの昼へ戻っていく。

 だが澄乃の中だけは、少し前とは違っていた。

 守られていい側にいていい。

 その言葉は、思っていた以上に大きかった。今までずっと、自分は役に立つ側にいなければならないと思っていた。守られるためには、まず何かを返さなければならないと思っていた。けれどここでは違う。先に人として守られる。その上で、自分の手が必要なら伸ばせばいい。順番が逆なのだ。

 それを知るだけで、胸の内の景色が変わる。

 伊織はもうそれ以上何も言わなかった。帳場の脇で立ったまま、外の気配に耳を向けている。次の客が来ればいつでも動けるように。そういう横顔を見ながら、澄乃は湯呑みを一口含んだ。

 温かい。

 それだけで、さっきまで胸に貼りついていた恐怖の薄膜が、少しずつ溶けていく。

 ここは売り物じゃない。

 水篝館は、そういう場所ではない。

 そして、自分もまた、金や条件でどうにかされていいものではないのだと、今の澄乃はもう知っていた。

 そのことを、ようやく疑わなくてもよくなり始めていた。

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