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肥後の国
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やがて梅雨が明けると猿彦は宮本武蔵が通るのを期待し、ウキウキと魚を売り始めた。しかしこの夏はやけに暑くて、それに加えて雨が全く降らない。
あまりの暑さに通りを歩く人がいなくなり、魚を買う人もいない。それどころか売る魚も手に入らない。浜次郎が言うには、海に魚がいないのだそうだ。あの冬の大漁で獲り尽くしたのだろうか?有明海から魚が消えた。その上、タイをはじめとした女たちが浅瀬で作っている海苔も海水温の上昇で例年のようにはできない。
農家の不作もひどいもので、野菜も稲穂も育たない。そんなんだから猿彦の稼いだ銭はたっぷりあるが米を分けてもらえない。冬に獲った魚の干物を細々と食べて過ごすしかない。
夏でも涼しい森の中で生きてきていた猿彦は、この暑さに参った。城下町へ行かずに家でぐったりする日々。しかし暑さに参っていたのは浜次郎一家も同じ。あんなに騒がしかった子どもたちも、くたっと寝転がっている。そしてあの騒がしい海太郎が遊びに来ることもない。
誰もが日中は、家の中で暑さが過ぎるのをただじっと待つしかない。
どうにか暑さを和らげようと、手拭いを水で濡らして首に巻いたりしたが、すぐに乾いてしまう。タイは根気よく子どもたちの手拭いを濡らしては首に巻いてやっていた。しかしそんな努力もむなしく、暑さと乾燥で末の子どもが死んでしまった。
浜太郎の赤ん坊も死んだ。村では年寄りと子どもを中心に多くの人たちが死んだ。世に言う「寛永の大飢饉」の始まりである。
子どもを失ったタイの気の落としようは尋常ではなかった。あんなに明るく前向きだったのに、
「おいがもっと気を付けてみてやれば死ななんだと」
と愚痴るようになり、
「おまえはようやっとっと。なんも悪くなかと」
と浜次郎が慰めるも、
「おいがおいが、おいのせいと」
と泣くのだ。
そんな家の中で、猿彦は居心地の悪さを感じている。生の希薄な猿彦は自分が死ねばよかったと思わずにはいられない。
空前の酷暑が終わると今度は大雨の秋が来た。夏に降らなかった分も含めて、天をひっくり返したように雨が降り続く。
食べるものはなくなっていく一方で、新しく得られるものもない。大雨のせいで清正公が統制した白川も、水が溢れるところがでてきた。生きることへの不安が広まる中、それでも藩の年貢の取り立ては来た。
生きているだけで息苦しい。
猿彦は海太郎が話した、あの人物のことを思うようになった。それは益田四郎。三年前の島原の乱で三万人もの農民を率いて過酷な年貢の取り立てをする藩と戦った英雄だ。
ちょうど海太郎が漁に出た時、益田四郎が天草から島原へ渡る舟に出くわしたそうだ。青白い顔で前を見据えて舳先に立ち、微動だにしていなかったそうだ。
「やけに色が白かったと。普通の小僧やった。サルと変わらんと」
驚いたことに、山を逃げ出した時の猿彦と同じ十六歳だったというのだ。
(すごいと!)
殺されてしまったとは言え、若くして藩を相手に戦った益田四郎の勇猛さに憧れずにはいられない。
長雨の秋が終わると、今度は激しく冷え込む冬が来た。ほとんど食べるものはなく餓死する者が出始めた。巡る季節はどれも容赦なく命を奪っていく。それはこの熊本だけのことではない。九州、そして本州のいたるところが同じように飢えていた。
元々あまり食べなかった猿彦だったが、浜次郎一家への遠慮も出て何も口にしなくなった。しかし、そんな猿彦に気付く者はいない。タイはもちろん浜次郎でさえ、猿彦を気遣う余裕などなくなっている。
どうしようもない状態の中、空腹で体の中は虚ろ。そして生来の陰気に輪をかけるように心も虚ろ。何もできない猿彦は、現状を打破するために悪政の領主に反乱を実行した益田四郎のことを考えている。
憧れは募る一方で、春になると同時に猿彦は家を出た。島原の乱後、島原藩と同様に天草藩も農民が激減して植民を遂行している。猿彦は入植を希望し、益田四郎のいた天草藩へと移住したのだ。猿彦、十八の春である。
つづく
あまりの暑さに通りを歩く人がいなくなり、魚を買う人もいない。それどころか売る魚も手に入らない。浜次郎が言うには、海に魚がいないのだそうだ。あの冬の大漁で獲り尽くしたのだろうか?有明海から魚が消えた。その上、タイをはじめとした女たちが浅瀬で作っている海苔も海水温の上昇で例年のようにはできない。
農家の不作もひどいもので、野菜も稲穂も育たない。そんなんだから猿彦の稼いだ銭はたっぷりあるが米を分けてもらえない。冬に獲った魚の干物を細々と食べて過ごすしかない。
夏でも涼しい森の中で生きてきていた猿彦は、この暑さに参った。城下町へ行かずに家でぐったりする日々。しかし暑さに参っていたのは浜次郎一家も同じ。あんなに騒がしかった子どもたちも、くたっと寝転がっている。そしてあの騒がしい海太郎が遊びに来ることもない。
誰もが日中は、家の中で暑さが過ぎるのをただじっと待つしかない。
どうにか暑さを和らげようと、手拭いを水で濡らして首に巻いたりしたが、すぐに乾いてしまう。タイは根気よく子どもたちの手拭いを濡らしては首に巻いてやっていた。しかしそんな努力もむなしく、暑さと乾燥で末の子どもが死んでしまった。
浜太郎の赤ん坊も死んだ。村では年寄りと子どもを中心に多くの人たちが死んだ。世に言う「寛永の大飢饉」の始まりである。
子どもを失ったタイの気の落としようは尋常ではなかった。あんなに明るく前向きだったのに、
「おいがもっと気を付けてみてやれば死ななんだと」
と愚痴るようになり、
「おまえはようやっとっと。なんも悪くなかと」
と浜次郎が慰めるも、
「おいがおいが、おいのせいと」
と泣くのだ。
そんな家の中で、猿彦は居心地の悪さを感じている。生の希薄な猿彦は自分が死ねばよかったと思わずにはいられない。
空前の酷暑が終わると今度は大雨の秋が来た。夏に降らなかった分も含めて、天をひっくり返したように雨が降り続く。
食べるものはなくなっていく一方で、新しく得られるものもない。大雨のせいで清正公が統制した白川も、水が溢れるところがでてきた。生きることへの不安が広まる中、それでも藩の年貢の取り立ては来た。
生きているだけで息苦しい。
猿彦は海太郎が話した、あの人物のことを思うようになった。それは益田四郎。三年前の島原の乱で三万人もの農民を率いて過酷な年貢の取り立てをする藩と戦った英雄だ。
ちょうど海太郎が漁に出た時、益田四郎が天草から島原へ渡る舟に出くわしたそうだ。青白い顔で前を見据えて舳先に立ち、微動だにしていなかったそうだ。
「やけに色が白かったと。普通の小僧やった。サルと変わらんと」
驚いたことに、山を逃げ出した時の猿彦と同じ十六歳だったというのだ。
(すごいと!)
殺されてしまったとは言え、若くして藩を相手に戦った益田四郎の勇猛さに憧れずにはいられない。
長雨の秋が終わると、今度は激しく冷え込む冬が来た。ほとんど食べるものはなく餓死する者が出始めた。巡る季節はどれも容赦なく命を奪っていく。それはこの熊本だけのことではない。九州、そして本州のいたるところが同じように飢えていた。
元々あまり食べなかった猿彦だったが、浜次郎一家への遠慮も出て何も口にしなくなった。しかし、そんな猿彦に気付く者はいない。タイはもちろん浜次郎でさえ、猿彦を気遣う余裕などなくなっている。
どうしようもない状態の中、空腹で体の中は虚ろ。そして生来の陰気に輪をかけるように心も虚ろ。何もできない猿彦は、現状を打破するために悪政の領主に反乱を実行した益田四郎のことを考えている。
憧れは募る一方で、春になると同時に猿彦は家を出た。島原の乱後、島原藩と同様に天草藩も農民が激減して植民を遂行している。猿彦は入植を希望し、益田四郎のいた天草藩へと移住したのだ。猿彦、十八の春である。
つづく
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