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暗躍編
犬神遣い鵯透子の邪悪なる奉仕 1
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「はい、じゃあ四班のみなさんはお掃除が不十分だったので、残ってください。では、日直さん」
帰りのHR。
担任から厳しい沙汰が下ったことで、涌井美桜(わくい‐みお)の気持ちはがくーん、と沈んだ。
日直の号令でクラス全員が立ち上がり、帰りの挨拶をする。
終わるなり、運動部と帰宅部の男子が教室を飛び出していく。
「せんせー、俺、部活あるんですけど」
強羅健蔵(ごうら‐たけぞう)が手を挙げて抗議する。
涌井と同じ四班に所属する、活発な印象を受ける男子だ。
軽く崩した制服の着こなし、清潔感とやんちゃさが同居する風貌。
堅物でも不良でもない、ほどよく軟派なところが、クラスの女子にも人気がある。
「テストで赤点取ったり、掃除を真面目にしなかったりする人は、いくら部活のエースでもダメです」
「えー! そんなの、帰ってもオナニーかゲームしかしない帰宅部のヤツにやらせりゃいいじゃん」
「あんまりしつこいと、バスケ部顧問の籠目先生に報告するよ。ほら、行った行った」
「意味わかんねぇし」
不貞腐れていることを訴えるゾンビみたいにな挙動で、強羅は教室を出る。
意味わかんねぇし、は私のセリフだ、と涌井はその背を睨む。
掃除がやり直しになったのは、他ならぬ強羅が掃除の時間にふざけていたからだ。
強羅、涌井を含む二年D組四班の六人は、ぞろぞろと掃除場所へと向かった。
北校舎三階東トイレ。
そこが、涌井たち四班に割り振られた掃除場所だ。
「おっす。来たなぁ、掃除をサボった悪ガキどもめ」
ニカッと歯を見せて笑うのは、来栖(くるす)くるみという二十代の女教師。
教科は家庭科、テニス部の顧問をしている。
肩口で切り揃えた髪と、あどけなさを残した童顔。歳も近く、生徒にとって親しみやすい部類の教師だ。
小柄でありながら出るところは出ているスタイルゆえ、お盛んな男子生徒には特に人気が高い。
そんなオカズ教師が四班を待っていたのは、このトイレの見回り担当だからだ。
掃除の時間には、学生がきちんと管轄で掃除をしているか、教師が巡回して監督する。
つまりこの教師が強羅に不真面目判定を下したせいで、四班は掃除をやり直すことになった。
連帯責任、という因習によるものだ。
「せんせー、マジで部活あるから勘弁してくださいよぉ」
「無駄口叩いてないで、さっさと終わらせて部活行きなさい。エースなんだから。ね」
いやに親しげに、強羅の肩に手を置いて密着する来栖。
とても罰を受ける学生と、その監督にあたる教師の間柄には見えない。
涌井が他の女子班員と顔を見合わせる。
不審に思ったのは、涌井だけではなかったようだ。
今に限らず、来栖が監督の名の下に男子トイレにいるときは、やけに楽しそうな声が女子トイレまで聞こえてくるのだ。
美男美女がひとつ所に集えば、そういう雰囲気になるものだろう。
決して派手な顔立ちではない涌井は心を無にして、いつも掃除をしてきた。
羨ましかったからだ。
強羅に特別な執着があるわけではないが、顔のいい男子と男子トイレという特殊な空間で親密になれる来栖の立場が、羨ましかった。
意識してしまうと、自分が惨めになるから涌井はその妬みに蓋をしてやり過ごしてきた。
このやり直し掃除も、無論そのつもりだ。
「うんうん、女子は真面目。えらいねぇ、不良男子と違って」
掃除も終盤に差し掛かり涌井がホースで放水していると、来栖が女子トイレに入って来た。
男子を下げて女子を上げるようなことを言っているが、心が籠っているとは思えなかった。
無視して、ホースの口を潰し、水圧を上げる。押し流される洗剤の泡が、排水溝へと流れる。
涌井は、来栖にホースを向けたい衝動に駆られる。
トイレを洗う用の水で来栖を水浸しにしたら、どうなるのだろう。
来栖は怒るのだろうか。
涌井を生徒指導室に連れて行くのだろうか、それとも、ぶりっこ全開の態度で「めっ」されるのだろうか。
あるいは、濡れて肌に服が張り付いた来栖に、男子たちが色めき立つだけだろうか。
「涌井さん」
来栖に声をかけられて、涌井は我に返った。
見れば、天井に向かって放水していた。
濡れた天井からは、雫がぽたぽたと垂れては落ちる有り様。
「もう、どうしたの? どっか具合悪いの?」
首を横に振って、体調不良を否定する。
これ以上、来栖に近くにいられると、万全なはずの体調を崩しそうだったから。
「じゃあ、女子は解散。お疲れ様」
この天井の後始末をしなくていいのか、と涌井は耳を疑った。
男子に媚びているわけでなく、本当に優しい先生なのかと涌井は思いかけた。
「ただし涌井さんは職員室でモップを借りてきて。それで天井を拭いて、モップを返してから解散ね」
「はい」
自分のせいなのでさほど不服ではなかったとはいえ、涌井の淡い期待が裏切られたのに変わりはなかった。
涌井の中で、来栖はやはり男に媚びる淫行教師というイメージが強化された。
他の女子班員と別れ、ひとり、中央校舎一階の職員室へ向かう。
モップを借りて戻ると、来栖がトイレの前で待っていた。
どこかそわそわしているようにも見える。
「ちゃちゃっ、と終わらせて帰ろ」
嘘の笑顔に寒気がする。そう感じるのは、涌井が来栖の容姿を妬んでいるからだろうか。
一人、女子トイレへ入り天井をモップで拭く。
電灯に水が掛からなかったのは奇跡だなと思いながら、その周囲も慎重に涌井は水を拭き取った。
自分の不注意の後始末も終わり、涌井は解放感を覚えた。
トイレを出ると、既に外に来栖の姿はなかった。
男子も、掃除を終えて帰ったのだろうか。男子トイレから掃除をしている気配は感じられない。
連帯責任で付き合わされたのに、一人で掃除場所から帰ることに涌井は謎の理不尽さを感じた。
ただ学習性無力感を形成するだけの、悪習。連帯責任なんか、さっさとなくなればいいのに。
涌井は肩を落とし、自分の荷物を持って階段を降りて行った。
「あ」
昇降口で外靴に履き替えた直後だった。
涌井はうんざりすることを思い出した。
「モップ返してない」
また三階まで上らなければならないのがあまりに億劫で、思わずその場で座り込んでしまう。
「私の人生って、この先もこんなことばっかりなのかな」
刺激の乏しい中学生活が私をぼんやりさせるのだし、すべてそれが悪い。
高貴な身分のイケメンに愛されて、クラスのギャルとキモオタを足蹴にして顎で使い、棚ぼたで金やモノが手に入る幸福がないのが悪い。
一分ほど塞ぎ込んだ後に、涌井は内履きへと履き替え直した。
「だいたい、なんでモップだけ職員室で管理してるわけ」
トイレの掃除道具入れには、モップを絞るバケツは置いてあるのだ。
確かにタイルを水で流すから、モップにカビが生えるなどの理由は涌井でも思いつく。
しかし、モップのカビにそこまで神経質にならなければいけないだろうか?
モップを絞るのは、運動部でもない涌井にとってはことさらに重労働だ。
涌井は三階まで戻る道すがら、処刑されるために妹の結婚式から走って戻るメロスもこんな気持ちだったのかな、と思った。
「え?」
掃除したトイレまで帰って来た涌井は、目を瞬かせた。
男子トイレに「使用禁止」と書かれた張り紙がされていたのだ。
天井を拭き終えたときには、男子も帰っていたようだったし、そのときにも張り紙はなかった。
男子がトイレを壊すか詰まらすかして、後から来栖が張り紙をしたのだろう。
それくらいに考え、涌井はモップを絞りにトイレに入ろうとしたときだった。
「おっきいね」
「先生の胸がおっきいから」
「もう」
「先生、しゃぶって」
「このエロガキ」
「中学生とこんなことしてる先生こそ、どうなんだよ」
「んふふ、えいっ」
「あー、やばい、やばいって」
「ひょっろ、ひぬはひひははいひょ」
涌井の耳はダンボになった。
使用禁止のはずの男子トイレから、強羅と来栖の声がしてきたからだ。
不潔!
二人を詰る言葉が涌井の脳裏をよぎる。
でも、そのやり取りに耳を立てずにはいられなかった。
生唾を飲み込む。
涌井とて中学二年生。抵抗感や拒否感がありつつも、どこかで性的なものを求めてしまう。
涌井自身は、自分がイケメンに抱かれる妄想を仮託するような作品よりも、BL的な作品を好んでいると思っていた。
しかし、ナマの男女の営みというコンテンツには、どうしようもなく好奇心をかき立てられる。
顔が、身体が熱くなる。
強請ったらどれくらいお金取れるんだろう、などという邪念とともに、乳繰り合う教師と生徒の姿を涌井は想像する。
「先生、もうダメ、もうイク」
「ひひひょ、へんふはひへ」
「あ、うっ……!」
「ひょっほ、ふほひ……んっ、ふほひ」
当事者でもないのに涌井の心臓は早鐘を打ち、呼吸は乱れていた。
涌井は理解した。
強羅が射精したらしいことを。
来栖のおかしなしゃべり方から察するに、来栖が強羅の男性器を咥えて、口で精液を受け止めたことも。
あの二人はデキていたのだ。
とてつもなく背徳的な関係に思えて、涌井は興奮でどうかしてしまいそうだった。
「先生」
「……なぁに?」
「次はいつ、シテくれる?」
「機会があれば、ね」
「機会? 作ってよ、機会」
「ダメよ。バレたら大変なんだから」
「バレないよ」
「ダメ。ね、いい子だから。部活、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃいのキスしてよ」
「え~? 君の精子受け止めた口で、キスしていいの?」
「いいよ、キスしてほしいもん」
「かわいいなぁ、もう……んっ」
「……うぇっ、舌まで入れるなし」
「へへっ。君の味を、おすそ分け」
「変態かよ」
「じゃあ、先生も行くね。まだ仕事、あるから」
「うん、がんばって。先生大好き」
「もう、そこはくるみって呼んでよ」
「くるみ、愛してる」
「~~~~~~っ! 仕事行けなくなるだろ、ばかっ!」
個室の扉が開く音がして、涌井はパニックになる。
二人の秘め事を盗み聞きすることに夢中で、本来の目的であるモップ絞りが済んでいないのだ。
どうする。
しれっと女子トイレに入り込んで、何事もなかったかのようにモップを絞るか。
聞いたことを悟られぬように、この場を全速力で走って逃げるのか。
逃げるのは、無理だ。
強羅に追いかけられたら、絶対に追いつかれる。涌井は自他共に認めるほどに、足が遅い。
迷った末に、涌井は音を立てぬように女子トイレの扉を惹き、素早く中へと滑り込んだ。
男子トイレからは、水を流す音や金属の擦れる音がする。
おそらく、来栖がうがいをして、強羅がベルトを締め直しているのだろう。
しまった、逃げるべきだった。
涌井は自分の判断ミスを呪ったが、もはや改めて逃げるには遅い。
じきに、来栖と強羅が男子トイレから出てくるはずだ。
もし、来栖が念のために女子トイレを覗き込んで来たらどうするか。
個室に隠れるか、それとも掃除道具入れに隠れるか、はたまた逆にこのまま隠れずにいるか。
掃除道具入れに隠れるのを、涌井は却下する。
涌井はまだモップを絞っていない。
中を覗き込んだ来栖がそれを絞るために、いら立ちながらバケツを掃除道具入れに取りに行く可能性がある。万が一それで鉢合わせたら涌井は、放課後のかくれんぼの最中です、で通すしかなくなる。
罰掃除の後始末が完遂してないのにその言い訳をするのは、まずい。
個室に隠れようと決めた涌井は、最奥の個室へと向かう。
「まだ帰ってなかったの」
背中へ掛けられた声に、涌井は飛び上がった。
来栖だ。
「ダメじゃない。トイレを使うときは、トイレ用のスリッパに履き替えないと」
放水によって濡れたスリッパに、律義にも履き替えたのだろう。
来栖が涌井の下へ近づいて来る足音には、靴下が水を吸ったとき特有の、湿った音が混じっている。
「聞いてたでしょ」
「何のことですか」
「とぼけないで。強羅くん、まだ待ってるからね」
自らの不祥事、いや犯罪を隠蔽するための脅迫。
まるで別人のように、無表情の来栖は涌井の知らない顔をしている。
暴力をチラつかせる強い物言いに、決して気が強くない涌井は委縮した。
「家庭科で評定1をつけられるのが関の山、受験に関係ないし、とかナメてると痛い目見るよ」
未成年者への性的な行為はともかく、来栖の本性だけは男子に吹聴したくなる。
もっとも、涌井の発言力は弱い上に、それを男子に知ってもらったところで特別意味はない。
涌井の溜飲が降りて、男子の夢が壊れるだけだ。
「黙っておきなさいよ。私、自分が失職するってなったら、何するかわかんないからね」
ゆっくりと涌井は首肯した。
まったく具体性がなかったが、威圧されている状況だけで涌井には過大なストレスなのだ。
この苦痛から逃れるためなら、いかなる要求でも呑んでしまう。
「じゃあ、さっさとモップ絞って帰りなさいよ」
来栖が踵を返し、やがて扉を閉める音が聞こえた。
緊張の糸が切れ、涌井はその場にへたり込む。スカートの裾は濡れてしまうが、それを気にしていられないほどのショックがあった。
自分が悪いことをしているくせに、何たる横暴だろうか。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、などと言うが涌井は喉を火傷したような気分だった。
熱さは忘れても、癒えぬ火傷には文句の一つも言わなければ気が済まない。
八つ当たりに何かを殴ろうとして、拳を下ろす。貧弱な涌井では、いたずらに己の拳を痛めるだけだ。
そのことは十分にわかっている。
ゆえに涌井は立ち上がり、せめていら立ちに任せて地団駄を踏んだ。
ひとしきりやって、改めてモップを絞ることにする。
モップバケツの絞り器に、モップを来栖の大きな胸だと思って挟み、思いっきり絞った。
怒りと憎しみが涌井に力をくれたのだろう。案外、早くそれは終わった。
後片付けを終え、トイレから出る。モップを職員室に返却し、応対してくれた先生にお礼を言って昇降口へ向かう。
途中、強羅に絡まれたりすることもなく、涌井は無事に帰宅した。
◆
北校舎四階東通路。
二年D組の掃除場所である東トイレを上がってすぐの場所である。
涌井と別れた鮫島と鵯は、西側から四階へと回り込んで戻ってきていた。
三階にいた涌井のように、会話の内容までは聞き取れていない。
しかし、だいたいの雰囲気のようなものは掴んでいた。
来栖と強羅、そして涌井もトイレを去った後。
柵ではなく壁になっている階段の手すりに背を預けていた鮫島が、顔を上げる。
「どういうこと」
激しい運動をしたわけでもないのに、肩で息をする鮫島の顔は赤い。
極限まで熟れた、腐りかけの果実のようだ。
右手に握りこんだ三つ編み髪束を突き出して、正面の壁にもたれる鵯を見上げる。
鵯が耳の後ろから出したものを、鮫島は鵯の言いつけ通り持ち歩いていた。
「どうと言われても。既にあるものは、そりゃあ進んでいくでしょう」
「騙したの? 私が、私だけが強羅君を」
「騙してない。鮫島さんは、強羅君と既にデキている女をどうこうしたいとは、言わなかった」
「知るわけないじゃない、そんなの!」
「あなたが知らないなら、私も知らないっての」
「殺してよ。あのババアを呪い殺して!」
「落ち着きなさい。鮫島さんが欲しいのは強羅君の心であって、来栖先生の不幸ではないはず」
「でも、許せない。教師のくせに、私の、私の強羅君を……!」
鵯には鮫島がどうして強羅に拘泥するのかわからない。
バスケの上手さを鼻にかけるが、実際には井の中の蛙。軽薄で、学校の成績も良くない。
無論、目的のためとはいえ、馬の骨にしか見えないから恋愛の手助けなどしてやっているのだが。
「ローマは一日にして成らず、って言うでしょ。鮫島さんは、自分の恋に集中して」
「本当に、鵯さんを信じていいの」
「信じなければ、呪術どころか虫刺されの薬だって効かないものよ」
来栖は、鮫島以外からも恨みを買っている。
そのことが観測できただけでも、鮫島の胸騒ぎだの女の勘だのに付き合って戻って来た甲斐があった。
鵯はそう自分を納得させて、鮫島に八つ当たりされた不快感を相殺させる。
「面白いことになりそうだしね」
黒く染まっていく鮫島のオーラを眺めながら、鵯は静かに笑むのだった。
帰りのHR。
担任から厳しい沙汰が下ったことで、涌井美桜(わくい‐みお)の気持ちはがくーん、と沈んだ。
日直の号令でクラス全員が立ち上がり、帰りの挨拶をする。
終わるなり、運動部と帰宅部の男子が教室を飛び出していく。
「せんせー、俺、部活あるんですけど」
強羅健蔵(ごうら‐たけぞう)が手を挙げて抗議する。
涌井と同じ四班に所属する、活発な印象を受ける男子だ。
軽く崩した制服の着こなし、清潔感とやんちゃさが同居する風貌。
堅物でも不良でもない、ほどよく軟派なところが、クラスの女子にも人気がある。
「テストで赤点取ったり、掃除を真面目にしなかったりする人は、いくら部活のエースでもダメです」
「えー! そんなの、帰ってもオナニーかゲームしかしない帰宅部のヤツにやらせりゃいいじゃん」
「あんまりしつこいと、バスケ部顧問の籠目先生に報告するよ。ほら、行った行った」
「意味わかんねぇし」
不貞腐れていることを訴えるゾンビみたいにな挙動で、強羅は教室を出る。
意味わかんねぇし、は私のセリフだ、と涌井はその背を睨む。
掃除がやり直しになったのは、他ならぬ強羅が掃除の時間にふざけていたからだ。
強羅、涌井を含む二年D組四班の六人は、ぞろぞろと掃除場所へと向かった。
北校舎三階東トイレ。
そこが、涌井たち四班に割り振られた掃除場所だ。
「おっす。来たなぁ、掃除をサボった悪ガキどもめ」
ニカッと歯を見せて笑うのは、来栖(くるす)くるみという二十代の女教師。
教科は家庭科、テニス部の顧問をしている。
肩口で切り揃えた髪と、あどけなさを残した童顔。歳も近く、生徒にとって親しみやすい部類の教師だ。
小柄でありながら出るところは出ているスタイルゆえ、お盛んな男子生徒には特に人気が高い。
そんなオカズ教師が四班を待っていたのは、このトイレの見回り担当だからだ。
掃除の時間には、学生がきちんと管轄で掃除をしているか、教師が巡回して監督する。
つまりこの教師が強羅に不真面目判定を下したせいで、四班は掃除をやり直すことになった。
連帯責任、という因習によるものだ。
「せんせー、マジで部活あるから勘弁してくださいよぉ」
「無駄口叩いてないで、さっさと終わらせて部活行きなさい。エースなんだから。ね」
いやに親しげに、強羅の肩に手を置いて密着する来栖。
とても罰を受ける学生と、その監督にあたる教師の間柄には見えない。
涌井が他の女子班員と顔を見合わせる。
不審に思ったのは、涌井だけではなかったようだ。
今に限らず、来栖が監督の名の下に男子トイレにいるときは、やけに楽しそうな声が女子トイレまで聞こえてくるのだ。
美男美女がひとつ所に集えば、そういう雰囲気になるものだろう。
決して派手な顔立ちではない涌井は心を無にして、いつも掃除をしてきた。
羨ましかったからだ。
強羅に特別な執着があるわけではないが、顔のいい男子と男子トイレという特殊な空間で親密になれる来栖の立場が、羨ましかった。
意識してしまうと、自分が惨めになるから涌井はその妬みに蓋をしてやり過ごしてきた。
このやり直し掃除も、無論そのつもりだ。
「うんうん、女子は真面目。えらいねぇ、不良男子と違って」
掃除も終盤に差し掛かり涌井がホースで放水していると、来栖が女子トイレに入って来た。
男子を下げて女子を上げるようなことを言っているが、心が籠っているとは思えなかった。
無視して、ホースの口を潰し、水圧を上げる。押し流される洗剤の泡が、排水溝へと流れる。
涌井は、来栖にホースを向けたい衝動に駆られる。
トイレを洗う用の水で来栖を水浸しにしたら、どうなるのだろう。
来栖は怒るのだろうか。
涌井を生徒指導室に連れて行くのだろうか、それとも、ぶりっこ全開の態度で「めっ」されるのだろうか。
あるいは、濡れて肌に服が張り付いた来栖に、男子たちが色めき立つだけだろうか。
「涌井さん」
来栖に声をかけられて、涌井は我に返った。
見れば、天井に向かって放水していた。
濡れた天井からは、雫がぽたぽたと垂れては落ちる有り様。
「もう、どうしたの? どっか具合悪いの?」
首を横に振って、体調不良を否定する。
これ以上、来栖に近くにいられると、万全なはずの体調を崩しそうだったから。
「じゃあ、女子は解散。お疲れ様」
この天井の後始末をしなくていいのか、と涌井は耳を疑った。
男子に媚びているわけでなく、本当に優しい先生なのかと涌井は思いかけた。
「ただし涌井さんは職員室でモップを借りてきて。それで天井を拭いて、モップを返してから解散ね」
「はい」
自分のせいなのでさほど不服ではなかったとはいえ、涌井の淡い期待が裏切られたのに変わりはなかった。
涌井の中で、来栖はやはり男に媚びる淫行教師というイメージが強化された。
他の女子班員と別れ、ひとり、中央校舎一階の職員室へ向かう。
モップを借りて戻ると、来栖がトイレの前で待っていた。
どこかそわそわしているようにも見える。
「ちゃちゃっ、と終わらせて帰ろ」
嘘の笑顔に寒気がする。そう感じるのは、涌井が来栖の容姿を妬んでいるからだろうか。
一人、女子トイレへ入り天井をモップで拭く。
電灯に水が掛からなかったのは奇跡だなと思いながら、その周囲も慎重に涌井は水を拭き取った。
自分の不注意の後始末も終わり、涌井は解放感を覚えた。
トイレを出ると、既に外に来栖の姿はなかった。
男子も、掃除を終えて帰ったのだろうか。男子トイレから掃除をしている気配は感じられない。
連帯責任で付き合わされたのに、一人で掃除場所から帰ることに涌井は謎の理不尽さを感じた。
ただ学習性無力感を形成するだけの、悪習。連帯責任なんか、さっさとなくなればいいのに。
涌井は肩を落とし、自分の荷物を持って階段を降りて行った。
「あ」
昇降口で外靴に履き替えた直後だった。
涌井はうんざりすることを思い出した。
「モップ返してない」
また三階まで上らなければならないのがあまりに億劫で、思わずその場で座り込んでしまう。
「私の人生って、この先もこんなことばっかりなのかな」
刺激の乏しい中学生活が私をぼんやりさせるのだし、すべてそれが悪い。
高貴な身分のイケメンに愛されて、クラスのギャルとキモオタを足蹴にして顎で使い、棚ぼたで金やモノが手に入る幸福がないのが悪い。
一分ほど塞ぎ込んだ後に、涌井は内履きへと履き替え直した。
「だいたい、なんでモップだけ職員室で管理してるわけ」
トイレの掃除道具入れには、モップを絞るバケツは置いてあるのだ。
確かにタイルを水で流すから、モップにカビが生えるなどの理由は涌井でも思いつく。
しかし、モップのカビにそこまで神経質にならなければいけないだろうか?
モップを絞るのは、運動部でもない涌井にとってはことさらに重労働だ。
涌井は三階まで戻る道すがら、処刑されるために妹の結婚式から走って戻るメロスもこんな気持ちだったのかな、と思った。
「え?」
掃除したトイレまで帰って来た涌井は、目を瞬かせた。
男子トイレに「使用禁止」と書かれた張り紙がされていたのだ。
天井を拭き終えたときには、男子も帰っていたようだったし、そのときにも張り紙はなかった。
男子がトイレを壊すか詰まらすかして、後から来栖が張り紙をしたのだろう。
それくらいに考え、涌井はモップを絞りにトイレに入ろうとしたときだった。
「おっきいね」
「先生の胸がおっきいから」
「もう」
「先生、しゃぶって」
「このエロガキ」
「中学生とこんなことしてる先生こそ、どうなんだよ」
「んふふ、えいっ」
「あー、やばい、やばいって」
「ひょっろ、ひぬはひひははいひょ」
涌井の耳はダンボになった。
使用禁止のはずの男子トイレから、強羅と来栖の声がしてきたからだ。
不潔!
二人を詰る言葉が涌井の脳裏をよぎる。
でも、そのやり取りに耳を立てずにはいられなかった。
生唾を飲み込む。
涌井とて中学二年生。抵抗感や拒否感がありつつも、どこかで性的なものを求めてしまう。
涌井自身は、自分がイケメンに抱かれる妄想を仮託するような作品よりも、BL的な作品を好んでいると思っていた。
しかし、ナマの男女の営みというコンテンツには、どうしようもなく好奇心をかき立てられる。
顔が、身体が熱くなる。
強請ったらどれくらいお金取れるんだろう、などという邪念とともに、乳繰り合う教師と生徒の姿を涌井は想像する。
「先生、もうダメ、もうイク」
「ひひひょ、へんふはひへ」
「あ、うっ……!」
「ひょっほ、ふほひ……んっ、ふほひ」
当事者でもないのに涌井の心臓は早鐘を打ち、呼吸は乱れていた。
涌井は理解した。
強羅が射精したらしいことを。
来栖のおかしなしゃべり方から察するに、来栖が強羅の男性器を咥えて、口で精液を受け止めたことも。
あの二人はデキていたのだ。
とてつもなく背徳的な関係に思えて、涌井は興奮でどうかしてしまいそうだった。
「先生」
「……なぁに?」
「次はいつ、シテくれる?」
「機会があれば、ね」
「機会? 作ってよ、機会」
「ダメよ。バレたら大変なんだから」
「バレないよ」
「ダメ。ね、いい子だから。部活、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃいのキスしてよ」
「え~? 君の精子受け止めた口で、キスしていいの?」
「いいよ、キスしてほしいもん」
「かわいいなぁ、もう……んっ」
「……うぇっ、舌まで入れるなし」
「へへっ。君の味を、おすそ分け」
「変態かよ」
「じゃあ、先生も行くね。まだ仕事、あるから」
「うん、がんばって。先生大好き」
「もう、そこはくるみって呼んでよ」
「くるみ、愛してる」
「~~~~~~っ! 仕事行けなくなるだろ、ばかっ!」
個室の扉が開く音がして、涌井はパニックになる。
二人の秘め事を盗み聞きすることに夢中で、本来の目的であるモップ絞りが済んでいないのだ。
どうする。
しれっと女子トイレに入り込んで、何事もなかったかのようにモップを絞るか。
聞いたことを悟られぬように、この場を全速力で走って逃げるのか。
逃げるのは、無理だ。
強羅に追いかけられたら、絶対に追いつかれる。涌井は自他共に認めるほどに、足が遅い。
迷った末に、涌井は音を立てぬように女子トイレの扉を惹き、素早く中へと滑り込んだ。
男子トイレからは、水を流す音や金属の擦れる音がする。
おそらく、来栖がうがいをして、強羅がベルトを締め直しているのだろう。
しまった、逃げるべきだった。
涌井は自分の判断ミスを呪ったが、もはや改めて逃げるには遅い。
じきに、来栖と強羅が男子トイレから出てくるはずだ。
もし、来栖が念のために女子トイレを覗き込んで来たらどうするか。
個室に隠れるか、それとも掃除道具入れに隠れるか、はたまた逆にこのまま隠れずにいるか。
掃除道具入れに隠れるのを、涌井は却下する。
涌井はまだモップを絞っていない。
中を覗き込んだ来栖がそれを絞るために、いら立ちながらバケツを掃除道具入れに取りに行く可能性がある。万が一それで鉢合わせたら涌井は、放課後のかくれんぼの最中です、で通すしかなくなる。
罰掃除の後始末が完遂してないのにその言い訳をするのは、まずい。
個室に隠れようと決めた涌井は、最奥の個室へと向かう。
「まだ帰ってなかったの」
背中へ掛けられた声に、涌井は飛び上がった。
来栖だ。
「ダメじゃない。トイレを使うときは、トイレ用のスリッパに履き替えないと」
放水によって濡れたスリッパに、律義にも履き替えたのだろう。
来栖が涌井の下へ近づいて来る足音には、靴下が水を吸ったとき特有の、湿った音が混じっている。
「聞いてたでしょ」
「何のことですか」
「とぼけないで。強羅くん、まだ待ってるからね」
自らの不祥事、いや犯罪を隠蔽するための脅迫。
まるで別人のように、無表情の来栖は涌井の知らない顔をしている。
暴力をチラつかせる強い物言いに、決して気が強くない涌井は委縮した。
「家庭科で評定1をつけられるのが関の山、受験に関係ないし、とかナメてると痛い目見るよ」
未成年者への性的な行為はともかく、来栖の本性だけは男子に吹聴したくなる。
もっとも、涌井の発言力は弱い上に、それを男子に知ってもらったところで特別意味はない。
涌井の溜飲が降りて、男子の夢が壊れるだけだ。
「黙っておきなさいよ。私、自分が失職するってなったら、何するかわかんないからね」
ゆっくりと涌井は首肯した。
まったく具体性がなかったが、威圧されている状況だけで涌井には過大なストレスなのだ。
この苦痛から逃れるためなら、いかなる要求でも呑んでしまう。
「じゃあ、さっさとモップ絞って帰りなさいよ」
来栖が踵を返し、やがて扉を閉める音が聞こえた。
緊張の糸が切れ、涌井はその場にへたり込む。スカートの裾は濡れてしまうが、それを気にしていられないほどのショックがあった。
自分が悪いことをしているくせに、何たる横暴だろうか。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、などと言うが涌井は喉を火傷したような気分だった。
熱さは忘れても、癒えぬ火傷には文句の一つも言わなければ気が済まない。
八つ当たりに何かを殴ろうとして、拳を下ろす。貧弱な涌井では、いたずらに己の拳を痛めるだけだ。
そのことは十分にわかっている。
ゆえに涌井は立ち上がり、せめていら立ちに任せて地団駄を踏んだ。
ひとしきりやって、改めてモップを絞ることにする。
モップバケツの絞り器に、モップを来栖の大きな胸だと思って挟み、思いっきり絞った。
怒りと憎しみが涌井に力をくれたのだろう。案外、早くそれは終わった。
後片付けを終え、トイレから出る。モップを職員室に返却し、応対してくれた先生にお礼を言って昇降口へ向かう。
途中、強羅に絡まれたりすることもなく、涌井は無事に帰宅した。
◆
北校舎四階東通路。
二年D組の掃除場所である東トイレを上がってすぐの場所である。
涌井と別れた鮫島と鵯は、西側から四階へと回り込んで戻ってきていた。
三階にいた涌井のように、会話の内容までは聞き取れていない。
しかし、だいたいの雰囲気のようなものは掴んでいた。
来栖と強羅、そして涌井もトイレを去った後。
柵ではなく壁になっている階段の手すりに背を預けていた鮫島が、顔を上げる。
「どういうこと」
激しい運動をしたわけでもないのに、肩で息をする鮫島の顔は赤い。
極限まで熟れた、腐りかけの果実のようだ。
右手に握りこんだ三つ編み髪束を突き出して、正面の壁にもたれる鵯を見上げる。
鵯が耳の後ろから出したものを、鮫島は鵯の言いつけ通り持ち歩いていた。
「どうと言われても。既にあるものは、そりゃあ進んでいくでしょう」
「騙したの? 私が、私だけが強羅君を」
「騙してない。鮫島さんは、強羅君と既にデキている女をどうこうしたいとは、言わなかった」
「知るわけないじゃない、そんなの!」
「あなたが知らないなら、私も知らないっての」
「殺してよ。あのババアを呪い殺して!」
「落ち着きなさい。鮫島さんが欲しいのは強羅君の心であって、来栖先生の不幸ではないはず」
「でも、許せない。教師のくせに、私の、私の強羅君を……!」
鵯には鮫島がどうして強羅に拘泥するのかわからない。
バスケの上手さを鼻にかけるが、実際には井の中の蛙。軽薄で、学校の成績も良くない。
無論、目的のためとはいえ、馬の骨にしか見えないから恋愛の手助けなどしてやっているのだが。
「ローマは一日にして成らず、って言うでしょ。鮫島さんは、自分の恋に集中して」
「本当に、鵯さんを信じていいの」
「信じなければ、呪術どころか虫刺されの薬だって効かないものよ」
来栖は、鮫島以外からも恨みを買っている。
そのことが観測できただけでも、鮫島の胸騒ぎだの女の勘だのに付き合って戻って来た甲斐があった。
鵯はそう自分を納得させて、鮫島に八つ当たりされた不快感を相殺させる。
「面白いことになりそうだしね」
黒く染まっていく鮫島のオーラを眺めながら、鵯は静かに笑むのだった。
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