7 / 14
暗躍編
犬神遣い鵯透子の邪悪なる奉仕 4-1
しおりを挟む
昼休み。
涌井は美堂を伴って東奔西走、一人になろうとする諸見沢を追い回した。
迷惑そうにするのだがその実、楽しそうな諸見沢を見られて涌井は安心した。
血を見て動揺するときだけではない。ポジティブな意味での歳相応な反応を、諸見沢もするのだと。
自分がそれを引き出せたという事実が、涌井の心を満たしたのは語るまでもない。
「掃除もちゃんとやるんだよ」
掃除の予鈴が鳴れば、わざわざ諸見沢の班が任された掃除場所まで彼を送って釘を刺す。
返事の代わりとばかりに肩を竦めた諸見沢だったが、掃除道具入れから箒を取り出していた。
美堂とも別れ、涌井も北校舎三階東トイレへと向かった。
鮫島、鵯(ひよどり)も来たばかりで、それぞれ担当の掃除を開始する。
今日の分担は鵯が手洗い場、鮫島が個室外床タイル、涌井が各個室と便器だ。
粉末クレンザーをふりかけ、涌井は棒タワシで和式便器を擦り始めた。
いつだったか美堂が「和式トイレは一番手前のしか使わない」と言っていたのを思い出す。
一番手前のトイレの内側を掃除した道具で、二番目以降は外側を掃除されているから、と。
しゃがんで用を足すのが辛いらしく、美堂は開き直って便器の縁に腰かけて用を足すのだとか。
水洗式なのだから、おまるみたいに水道管を掴めばいいのに。
涌井がそう提案しても、美堂は無理だと言って曲げなかった。
そもそも、掃除道具を除菌したりはしない。前日に最奥のトイレを掃除した道具で、翌日に一番手前のトイレを擦ることを考えれば穴だらけの理論でしかない。
指摘しかけて、当時の涌井は言葉を飲み込んだ。
どこで割り切るのかが重要なので、美堂がいいのならそっとしておくべきだ、と。
美堂にだってトイレ掃除は回って来るから、実態はわかっているはずなのだ。
そんなことを考えながら、涌井は便器掃除を終え、最奥の個室から出た。
床タイルに鮫島が放水できるよう、手洗い場の方へ戻ろうとしたときだった。
放物線を描く水流が、涌井の顔面を洗い流した。
目を開けていられず、水流に対して反射的にかき分けるように手を動かすも放水はやまない。
足元の床タイルは、泡立って滑りやすくなっている。
最奥の個室から出たところなので、涌井のすぐ傍には開け放した窓がある。
このトイレがあるのは、三階。
もしバランスを崩して落ちれば、死ななくとも怪我は避けられない。
無論、高所からの落下自体が純粋に恐ろしい。
涌井は腕で水流を防ぎ、まずは足腰に力を入れ、態勢を立て直した。
「ちょっと、何すんの!」
普段大きな声を出さない涌井も、さすがに声を荒げる。
腕を盾にして、ホースを持つ者を睨む。やはり、鮫島だ。
こちらの状況を無視し、手洗い場の掃除を続ける鵯にも腹が立つ。蛇口に近いんだから、止めてくれてもいいだろうに。
薄ら笑いを浮かべて放水を続ける鮫島に業を煮やし、涌井は大股で距離を詰める。
しかし、途中で足を滑らせて前のめりに倒れ込んでしまう。
クレンザーの泡と、清潔ではない水が制服に染み込む。
濡れて顔に張り付く髪が、逆立って天を衝きそうになるほどの激しい怒りが、涌井の裡に沸き起こる。
猛然と立ち上がると、涌井は便器を磨いていた棒タワシを振りかぶった。
それを鮫島めがけて投げつける。
しかし、棒タワシは鮫島に当たらない。
依然として顔への放水は続いており、狙いがつけられなかったのだ。
しかし棒タワシは、飛ぶ際にタワシ部に染み込んだ便器の水を撒き散らした。
それを浴びたくない鮫島は、当たらない棒タワシでもできるだけ距離を取ろうとした。
注意が涌井から棒タワシに移れば、放水の狙いも甘くなる。
その機を涌井は見逃さなかった。
床タイルを蹴り、タックルするように鮫島に掴みかかった。
鮫島の髪を怒りに任せて力一杯に引っ張ると、ホースを持つ鮫島の手が緩んだ。
涌井はすかさずホースを奪い取り、鮫島の耳へとホースを突っ込む。
「お前! 何してくれてんだよ!」
金切り声を上げて恫喝するも、鮫島は耳への放水にパニックになり意味のある言葉を紡げない。
当然のことだが、涌井にそんな事情を汲んでやる義理などない。
逃げ出さないように鮫島の足を踏みつけ、涌井は全体重をそこへかける。
叫ぶ鮫島に、涌井はあらん限りの罵倒を口を突いて出るに任せて浴びせかけた。
「何してるの、やめなさい!」
来栖が血相を変えて飛び込んで来て、涌井からホースを取り上げる。
「耳に水入れたりしちゃ、ダメでしょうが!」
涌井をいらつかせる普段の媚びたような態度をかなぐり捨て、来栖は涌井を叱責する。
怒りに脳を支配され、興奮した涌井にはうまく言葉が紡げない。
顔を真っ赤にして泣く鮫島と、それを庇うように抱く来栖を睨むことしかできない。
「鵯さん、何があったかわかる?」
「知りません。興味ないので」
来栖の質問をかわし、掃除終了を告げるチャイムに従って鵯は出ていこうとする。
「そう。ごめんだけど、鮫島さんのこと保健室に連れて行ってくれる」
「お断りします。制服が濡れるので」
それだけ言って、鵯は去って行った。
徹底した無関心に、あっけに取られた様で来栖も目を剝いていた。
逆に、涌井はそれがおかしくて少し冷静さを取り戻した。
「何がおかしいの」
怒鳴らず、感情を圧縮したような静かなる怒りを口調に込めて来栖が問う。
「先生がいかに日頃の行いが悪くて、人望がないかわかって面白かったんですよ」
「はっ。あんたに言われたかない」
「でしょうね。言いますけど。先生、人望ないですね」
「あんたねぇ」
何事か、と様子を見に来た同じ班の男子が顔を覗かせる。
「先生、どうしたんですか」
「ごめん、強羅君。鮫島さんのこと、保健室連れて行ってあげて」
鮫島と来栖、そして涌井を見比べるわずかな間が流れる。
「鵯は?」
「早く」
「はい。行くぞ、鮫島」
急き立てられて、来栖から鮫島を引き受けざるを得なかった強羅が、その場を後にする。
「性欲で支配してる男がいると、便利ですね」
他の男子が残っているうちに、来栖の触れられたくないであろうところに、敢えて触れる。
何かを感じ取っていたらしい男子二人が、顔を見合わせる。
してやったり。涌井は口の端を吊り上げる。
疑念は噂となり、噂は波紋となって組織に広がり、やがて醜聞となって千里を駆ける。
一矢報いた。涌井の心を暗い喜悦が満たす。
「何のこと? あることないこと言うものじゃないわよ」
下手な火消しを挟んだ後に、
「あなたたちは教室に帰りなさい」
慌てて残った男子を追い払う来栖だが、その表情に余裕はない。
素直に男子たちは教室へと向かったが、涌井は来栖に対する優位性を感じていた。
「先生、警告したはずだけど。何するかわかんない、って」
「失職するなら、何もできませんよね。それとも、ガキ一人のためにムショ入るんですか?」
諸見沢に当てられてしまったのだろうか。
怒りによる興奮が、弱みを握っている相手への嗜虐性に拍車をかけたのか。
涌井は、いつになくアグレッシブだった。
「鵯さんが何も話さなかったことの意味を考えておくべきよ。事実がどうあれ、あなたに味方はいない。あなたが、鮫島さんをいじめたという真実が作られても、誰も否定してくれない」
「いじめ? 私が?」
はらわたが煮えくり返るとは、このことだ。
地味な女という評価を甘んじて受け、それでも善良を装って今日まで十四年弱、日陰で生きてきた。
それを。
邪悪な本性を化粧で隠し、生徒に媚び、あまつさえ人気のある男子と性的な関係を結ぶ来栖が。
涌井がいじめを行っている、と吹聴するというのか。
とっくに教師は聖職などではなくなっているが、それでも学校という治外法権での発言力は強い。
少なくとも、来栖が鮫島と共謀して涌井を悪と断じれば、みな涌井の弁明など白眼視するだけだ。
誰も、真実に興味はない。
自分の人生で手一杯、他人など叩くためにいる家畜だ。
涌井の動揺を読み取ったのか、微かに来栖の口元が緩む。
来栖は、人差し指を床に向けた。
意味を悟った涌井は、信じられない、と目を剥いた。
「さあ、人生の分岐点よ。公正な裁きを受けられるか、自分に不利な真実を捏造されるか。先生はどっちでもいいけどね。だって、鮫島さんの耳に障害が残れば、あんたの人生終わりだから」
強羅の精子を飲んだ大口をかっ開き、来栖が嗤う。
人生は、あまりに長い。
本来の人間の寿命だって、涌井の年齢の三倍程度はあるのだ。
「そうそう。ガキは大人の言いなりになってりゃいいの。弱い奴は、一生地べたを舐めているのがお似合いなんだよ」
手を突き、膝を折り、頭を垂れる。
惨め。
あまりにも惨め。
幼い反抗心は、芽生えかけた自己肯定感は、邪まな大人に容易く折られてしまった。
「わかったか、ブス!」
無関係な罵倒に胸を衝かれ、涌井の心は限界を迎えた。
歪められた涌井の唇から、か細い悲鳴が漏れる。
熱い涙が床へと落ちた。
美人じゃないから自信が持てない、自信がないから言い返せない。
ブスだから誰も助けてくれない、助けられないから貶めていいと周知される。
涌井の憎悪は、両親へと向かう。
どうして美人に産んでくれなかった。
いや、どうして美しくもないのに子供など産んだ。
お前らの性欲のために、この不幸な命を宿す身にもなれ。
どうせ美しくないのなら、いっそ人を殺められる怪物に産んでくれれば良かったのに────。
悪に屈する苦しみに、悪に敗れた悔しさに。
自分が死ぬか、来栖を殺すかの二択しか、涌井は解決策が見出せない。
そのどちらとも選びたいけれど、そのどちらとも選べぬ自らの弱さに涙するしかない。
私の人生って、ずっとこうなのだろうか。
何も言えずいるうちに、担任がトイレにやってきて、涌井に事情を問い質す。
けれど、涌井は答えることが出来ない。
自分の意志で行動し、理不尽へと抗い、それでも何もしない方がマシだったような結果がもたらされた。
そんなときに、信用にも値しない、教師としての資質に欠ける担任など頼れるはずもない。
無力感に打ちひしがれた涌井は、来栖が都合よく歪めた真実を担任に吹き込むのを、ただ聞いていることしかできなかった。
◆
鮫島と涌井、そして強羅のいない教室で、社会科教師の蟻本による歴史の授業が行われている。
四班で唯一授業を受けている女子、鵯透子。
彫りの深い、日本人離れした顔立ち。冷たい印象を与える無表情で、板書をしたりしなかったりしている。
その鵯の唇だけが、唐突に笑みの形に歪む。
生まれたのね。
他人に聞こえない声で、鵯が呟いた。
空席になっている涌井の席を見て、鵯は確信する。
常人には見えぬ黒い靄がそこから立ち昇っているのを、ただ鵯だけが視認していた。
強大な怨念、憎悪。
涌井の心に渦巻くそれが、彼女がいつも使っている机と椅子にまで伝播しているのだ。
わさわさ、わさわさ、と背まで伸びた黒髪が波打つ。
鵯の耳の後ろから、三つ編みにした髪束が生えた。
鮫島に与えたものと違って落ちず、それは伸び続ける。
それは、ヘビのように、ムカデのように鵯の肌を這い、幾重にも首に巻き付いていく。
髪束は、それを皮切りに何本も何本も鵯の髪の中から生えてはうねうねと動き出す。
あるものは鵯の腕に巻き付き、あるものは重力に逆らって鎌首をもたげ、あるものは髪束同士で絡み合う。
メグちゃん、と鵯の呼んでいる憑き物が、暗い想念に反応して昂っているのだ。
鮫島を止めなかったのも、来栖に状況を説明せず教室に帰ったのも、すべてはこのため。
人間の強い負の想念を、メグちゃんの餌とするためだ。
もう少しよ、と呟き、鵯は自らに巻き付くメグちゃんを優しく撫でた。
ちょうどそのとき。
板書をしていた蟻本が、一旦、教室を振り返った。
最後尾の席は目立つものだ。
蟻本は鵯の髪の中を蠢く夥しい数の三つ編みの髪束を見た。見てしまった。
腐った食物に涌く蛆の群れを彷彿とさせる、肌を泡立たせる光景。
常識を嘲笑う異常現象に、凍り付く蟻本。
しかし、鵯は動じない。悠然と、蟻本を見返す。
様子のおかしい蟻本に、生徒たちが鵯の方を振り向いた。
しかし、生徒たちが見たのは、真面目に授業を受けている鵯の姿だった。
蟻本の目にも、蠢く三つ編み髪束の群れなど確認できない。
瞬きする間に消えてしまったと言わんばかりだ。
先ほど見たものは、幻覚だったのか? 蟻本は自問し、自明の答えに自嘲する。
バレーボール部の副顧問を安請け合いしてしまったせいで、疲れているのだろうと結論した。
「どうかしました?」
蟻本を慮るつもりのないのが丸わかりの質問をする鵯。
生徒たちも、蟻本に不審そうな目を向ける。
目を瞬かせ、何でもない、と生徒たちに伝えて板書の解説に入ろうとした蟻本は、しかし再び凍り付くことになった。
〈怯えちゃって、先生かわいそう〉
吐息が耳に当たるような囁きを、蟻本は確かに聞いたのだ。
だが、それはあり得ないことだ。
教室の最後尾の席に座る鵯が、教壇に立つ蟻本の耳元で囁くなど、物理的に無理なのだから。
〈まるで、怖いものでも見たみたいに、お顔が真っ青ですよ〉
まただ。また聞こえた。
震え上がる蟻本に、具合が悪いのか、と心配する生徒の声が上がる。
だが、大丈夫だ、と返す余裕はもはや蟻本にはない。
おそるおそる、鵯を見る。
無数の三つ編み髪束を床に垂らした鵯も、蟻本のことを見ていた。
まるで地面に根を這わせる樹木だった。
床だけでは足らぬと、余った髪束が天井にまで伸びて教室を覆っている。
にまり。
樹木の幹に浮き出たような鵯の顔が、蟻本を見て笑ったのだ。
それが合図だったのだろう。
教室に蔓延る無数の髪束は、一斉に蟻本へと殺到した。
「う、うわああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
矢も楯もたまらず、蟻本は駆けだした。
チョークも教科書も放り出し、教室を一目散に逃げ出した。
だが髪束は蟻本の手足を絡め取り、巻き付き、あろうことか服ごと蟻本の肉体を貪りだした。
髪束に牙などあろうはずもない。
だが、確かに毛先が蟻本の肌に突き刺さって食い荒らしているのだ。
皮膚を破り、肉を抉り、神経を引きちぎり、血を撒き散らす。
言語に絶する激痛が蟻本を襲い、その口から泡を噴かせ、絶叫を迸らせた。
蟻本は信じてもいない神や、母親に助けを求めて泣き喚き、廊下でもだえ苦しんだ。
各教室から何事かと生徒が窓から顔を出し、飛び出してきた教師たちが暴れる蟻本を助け起こし、また抑え込む。
人肉を食らう髪束は、蟻本にしか見えていない幻だった。
残酷にも周りからは、突然発狂した教師が廊下でのたうっているようにしか見えないのだ。
いくつものクラスが自習となり、蟻本は教師たちによって保健室へと連れて行かれた。
後に残るは中年男性の漏らした、刺激臭の中に砂糖の匂いの混ざる尿のみ。
生徒たちが自習などおとなしくするはずもなく、誰もが蟻本の狂態について憶測を披露し合った。
ただ一人、真実を知る鵯透子を除いて。
「もう、メグちゃんたら。食べ過ぎよ」
鵯は髪を手櫛で整えて、陰湿な笑みを浮かべるのだった。
待ちきれずに、怯えさせた蟻本の精神を食べてしまったメグちゃん。
このことで蟻本は精神のバランスを持ち崩し、休職に入るのだが、それはまた別の話。
涌井は美堂を伴って東奔西走、一人になろうとする諸見沢を追い回した。
迷惑そうにするのだがその実、楽しそうな諸見沢を見られて涌井は安心した。
血を見て動揺するときだけではない。ポジティブな意味での歳相応な反応を、諸見沢もするのだと。
自分がそれを引き出せたという事実が、涌井の心を満たしたのは語るまでもない。
「掃除もちゃんとやるんだよ」
掃除の予鈴が鳴れば、わざわざ諸見沢の班が任された掃除場所まで彼を送って釘を刺す。
返事の代わりとばかりに肩を竦めた諸見沢だったが、掃除道具入れから箒を取り出していた。
美堂とも別れ、涌井も北校舎三階東トイレへと向かった。
鮫島、鵯(ひよどり)も来たばかりで、それぞれ担当の掃除を開始する。
今日の分担は鵯が手洗い場、鮫島が個室外床タイル、涌井が各個室と便器だ。
粉末クレンザーをふりかけ、涌井は棒タワシで和式便器を擦り始めた。
いつだったか美堂が「和式トイレは一番手前のしか使わない」と言っていたのを思い出す。
一番手前のトイレの内側を掃除した道具で、二番目以降は外側を掃除されているから、と。
しゃがんで用を足すのが辛いらしく、美堂は開き直って便器の縁に腰かけて用を足すのだとか。
水洗式なのだから、おまるみたいに水道管を掴めばいいのに。
涌井がそう提案しても、美堂は無理だと言って曲げなかった。
そもそも、掃除道具を除菌したりはしない。前日に最奥のトイレを掃除した道具で、翌日に一番手前のトイレを擦ることを考えれば穴だらけの理論でしかない。
指摘しかけて、当時の涌井は言葉を飲み込んだ。
どこで割り切るのかが重要なので、美堂がいいのならそっとしておくべきだ、と。
美堂にだってトイレ掃除は回って来るから、実態はわかっているはずなのだ。
そんなことを考えながら、涌井は便器掃除を終え、最奥の個室から出た。
床タイルに鮫島が放水できるよう、手洗い場の方へ戻ろうとしたときだった。
放物線を描く水流が、涌井の顔面を洗い流した。
目を開けていられず、水流に対して反射的にかき分けるように手を動かすも放水はやまない。
足元の床タイルは、泡立って滑りやすくなっている。
最奥の個室から出たところなので、涌井のすぐ傍には開け放した窓がある。
このトイレがあるのは、三階。
もしバランスを崩して落ちれば、死ななくとも怪我は避けられない。
無論、高所からの落下自体が純粋に恐ろしい。
涌井は腕で水流を防ぎ、まずは足腰に力を入れ、態勢を立て直した。
「ちょっと、何すんの!」
普段大きな声を出さない涌井も、さすがに声を荒げる。
腕を盾にして、ホースを持つ者を睨む。やはり、鮫島だ。
こちらの状況を無視し、手洗い場の掃除を続ける鵯にも腹が立つ。蛇口に近いんだから、止めてくれてもいいだろうに。
薄ら笑いを浮かべて放水を続ける鮫島に業を煮やし、涌井は大股で距離を詰める。
しかし、途中で足を滑らせて前のめりに倒れ込んでしまう。
クレンザーの泡と、清潔ではない水が制服に染み込む。
濡れて顔に張り付く髪が、逆立って天を衝きそうになるほどの激しい怒りが、涌井の裡に沸き起こる。
猛然と立ち上がると、涌井は便器を磨いていた棒タワシを振りかぶった。
それを鮫島めがけて投げつける。
しかし、棒タワシは鮫島に当たらない。
依然として顔への放水は続いており、狙いがつけられなかったのだ。
しかし棒タワシは、飛ぶ際にタワシ部に染み込んだ便器の水を撒き散らした。
それを浴びたくない鮫島は、当たらない棒タワシでもできるだけ距離を取ろうとした。
注意が涌井から棒タワシに移れば、放水の狙いも甘くなる。
その機を涌井は見逃さなかった。
床タイルを蹴り、タックルするように鮫島に掴みかかった。
鮫島の髪を怒りに任せて力一杯に引っ張ると、ホースを持つ鮫島の手が緩んだ。
涌井はすかさずホースを奪い取り、鮫島の耳へとホースを突っ込む。
「お前! 何してくれてんだよ!」
金切り声を上げて恫喝するも、鮫島は耳への放水にパニックになり意味のある言葉を紡げない。
当然のことだが、涌井にそんな事情を汲んでやる義理などない。
逃げ出さないように鮫島の足を踏みつけ、涌井は全体重をそこへかける。
叫ぶ鮫島に、涌井はあらん限りの罵倒を口を突いて出るに任せて浴びせかけた。
「何してるの、やめなさい!」
来栖が血相を変えて飛び込んで来て、涌井からホースを取り上げる。
「耳に水入れたりしちゃ、ダメでしょうが!」
涌井をいらつかせる普段の媚びたような態度をかなぐり捨て、来栖は涌井を叱責する。
怒りに脳を支配され、興奮した涌井にはうまく言葉が紡げない。
顔を真っ赤にして泣く鮫島と、それを庇うように抱く来栖を睨むことしかできない。
「鵯さん、何があったかわかる?」
「知りません。興味ないので」
来栖の質問をかわし、掃除終了を告げるチャイムに従って鵯は出ていこうとする。
「そう。ごめんだけど、鮫島さんのこと保健室に連れて行ってくれる」
「お断りします。制服が濡れるので」
それだけ言って、鵯は去って行った。
徹底した無関心に、あっけに取られた様で来栖も目を剝いていた。
逆に、涌井はそれがおかしくて少し冷静さを取り戻した。
「何がおかしいの」
怒鳴らず、感情を圧縮したような静かなる怒りを口調に込めて来栖が問う。
「先生がいかに日頃の行いが悪くて、人望がないかわかって面白かったんですよ」
「はっ。あんたに言われたかない」
「でしょうね。言いますけど。先生、人望ないですね」
「あんたねぇ」
何事か、と様子を見に来た同じ班の男子が顔を覗かせる。
「先生、どうしたんですか」
「ごめん、強羅君。鮫島さんのこと、保健室連れて行ってあげて」
鮫島と来栖、そして涌井を見比べるわずかな間が流れる。
「鵯は?」
「早く」
「はい。行くぞ、鮫島」
急き立てられて、来栖から鮫島を引き受けざるを得なかった強羅が、その場を後にする。
「性欲で支配してる男がいると、便利ですね」
他の男子が残っているうちに、来栖の触れられたくないであろうところに、敢えて触れる。
何かを感じ取っていたらしい男子二人が、顔を見合わせる。
してやったり。涌井は口の端を吊り上げる。
疑念は噂となり、噂は波紋となって組織に広がり、やがて醜聞となって千里を駆ける。
一矢報いた。涌井の心を暗い喜悦が満たす。
「何のこと? あることないこと言うものじゃないわよ」
下手な火消しを挟んだ後に、
「あなたたちは教室に帰りなさい」
慌てて残った男子を追い払う来栖だが、その表情に余裕はない。
素直に男子たちは教室へと向かったが、涌井は来栖に対する優位性を感じていた。
「先生、警告したはずだけど。何するかわかんない、って」
「失職するなら、何もできませんよね。それとも、ガキ一人のためにムショ入るんですか?」
諸見沢に当てられてしまったのだろうか。
怒りによる興奮が、弱みを握っている相手への嗜虐性に拍車をかけたのか。
涌井は、いつになくアグレッシブだった。
「鵯さんが何も話さなかったことの意味を考えておくべきよ。事実がどうあれ、あなたに味方はいない。あなたが、鮫島さんをいじめたという真実が作られても、誰も否定してくれない」
「いじめ? 私が?」
はらわたが煮えくり返るとは、このことだ。
地味な女という評価を甘んじて受け、それでも善良を装って今日まで十四年弱、日陰で生きてきた。
それを。
邪悪な本性を化粧で隠し、生徒に媚び、あまつさえ人気のある男子と性的な関係を結ぶ来栖が。
涌井がいじめを行っている、と吹聴するというのか。
とっくに教師は聖職などではなくなっているが、それでも学校という治外法権での発言力は強い。
少なくとも、来栖が鮫島と共謀して涌井を悪と断じれば、みな涌井の弁明など白眼視するだけだ。
誰も、真実に興味はない。
自分の人生で手一杯、他人など叩くためにいる家畜だ。
涌井の動揺を読み取ったのか、微かに来栖の口元が緩む。
来栖は、人差し指を床に向けた。
意味を悟った涌井は、信じられない、と目を剥いた。
「さあ、人生の分岐点よ。公正な裁きを受けられるか、自分に不利な真実を捏造されるか。先生はどっちでもいいけどね。だって、鮫島さんの耳に障害が残れば、あんたの人生終わりだから」
強羅の精子を飲んだ大口をかっ開き、来栖が嗤う。
人生は、あまりに長い。
本来の人間の寿命だって、涌井の年齢の三倍程度はあるのだ。
「そうそう。ガキは大人の言いなりになってりゃいいの。弱い奴は、一生地べたを舐めているのがお似合いなんだよ」
手を突き、膝を折り、頭を垂れる。
惨め。
あまりにも惨め。
幼い反抗心は、芽生えかけた自己肯定感は、邪まな大人に容易く折られてしまった。
「わかったか、ブス!」
無関係な罵倒に胸を衝かれ、涌井の心は限界を迎えた。
歪められた涌井の唇から、か細い悲鳴が漏れる。
熱い涙が床へと落ちた。
美人じゃないから自信が持てない、自信がないから言い返せない。
ブスだから誰も助けてくれない、助けられないから貶めていいと周知される。
涌井の憎悪は、両親へと向かう。
どうして美人に産んでくれなかった。
いや、どうして美しくもないのに子供など産んだ。
お前らの性欲のために、この不幸な命を宿す身にもなれ。
どうせ美しくないのなら、いっそ人を殺められる怪物に産んでくれれば良かったのに────。
悪に屈する苦しみに、悪に敗れた悔しさに。
自分が死ぬか、来栖を殺すかの二択しか、涌井は解決策が見出せない。
そのどちらとも選びたいけれど、そのどちらとも選べぬ自らの弱さに涙するしかない。
私の人生って、ずっとこうなのだろうか。
何も言えずいるうちに、担任がトイレにやってきて、涌井に事情を問い質す。
けれど、涌井は答えることが出来ない。
自分の意志で行動し、理不尽へと抗い、それでも何もしない方がマシだったような結果がもたらされた。
そんなときに、信用にも値しない、教師としての資質に欠ける担任など頼れるはずもない。
無力感に打ちひしがれた涌井は、来栖が都合よく歪めた真実を担任に吹き込むのを、ただ聞いていることしかできなかった。
◆
鮫島と涌井、そして強羅のいない教室で、社会科教師の蟻本による歴史の授業が行われている。
四班で唯一授業を受けている女子、鵯透子。
彫りの深い、日本人離れした顔立ち。冷たい印象を与える無表情で、板書をしたりしなかったりしている。
その鵯の唇だけが、唐突に笑みの形に歪む。
生まれたのね。
他人に聞こえない声で、鵯が呟いた。
空席になっている涌井の席を見て、鵯は確信する。
常人には見えぬ黒い靄がそこから立ち昇っているのを、ただ鵯だけが視認していた。
強大な怨念、憎悪。
涌井の心に渦巻くそれが、彼女がいつも使っている机と椅子にまで伝播しているのだ。
わさわさ、わさわさ、と背まで伸びた黒髪が波打つ。
鵯の耳の後ろから、三つ編みにした髪束が生えた。
鮫島に与えたものと違って落ちず、それは伸び続ける。
それは、ヘビのように、ムカデのように鵯の肌を這い、幾重にも首に巻き付いていく。
髪束は、それを皮切りに何本も何本も鵯の髪の中から生えてはうねうねと動き出す。
あるものは鵯の腕に巻き付き、あるものは重力に逆らって鎌首をもたげ、あるものは髪束同士で絡み合う。
メグちゃん、と鵯の呼んでいる憑き物が、暗い想念に反応して昂っているのだ。
鮫島を止めなかったのも、来栖に状況を説明せず教室に帰ったのも、すべてはこのため。
人間の強い負の想念を、メグちゃんの餌とするためだ。
もう少しよ、と呟き、鵯は自らに巻き付くメグちゃんを優しく撫でた。
ちょうどそのとき。
板書をしていた蟻本が、一旦、教室を振り返った。
最後尾の席は目立つものだ。
蟻本は鵯の髪の中を蠢く夥しい数の三つ編みの髪束を見た。見てしまった。
腐った食物に涌く蛆の群れを彷彿とさせる、肌を泡立たせる光景。
常識を嘲笑う異常現象に、凍り付く蟻本。
しかし、鵯は動じない。悠然と、蟻本を見返す。
様子のおかしい蟻本に、生徒たちが鵯の方を振り向いた。
しかし、生徒たちが見たのは、真面目に授業を受けている鵯の姿だった。
蟻本の目にも、蠢く三つ編み髪束の群れなど確認できない。
瞬きする間に消えてしまったと言わんばかりだ。
先ほど見たものは、幻覚だったのか? 蟻本は自問し、自明の答えに自嘲する。
バレーボール部の副顧問を安請け合いしてしまったせいで、疲れているのだろうと結論した。
「どうかしました?」
蟻本を慮るつもりのないのが丸わかりの質問をする鵯。
生徒たちも、蟻本に不審そうな目を向ける。
目を瞬かせ、何でもない、と生徒たちに伝えて板書の解説に入ろうとした蟻本は、しかし再び凍り付くことになった。
〈怯えちゃって、先生かわいそう〉
吐息が耳に当たるような囁きを、蟻本は確かに聞いたのだ。
だが、それはあり得ないことだ。
教室の最後尾の席に座る鵯が、教壇に立つ蟻本の耳元で囁くなど、物理的に無理なのだから。
〈まるで、怖いものでも見たみたいに、お顔が真っ青ですよ〉
まただ。また聞こえた。
震え上がる蟻本に、具合が悪いのか、と心配する生徒の声が上がる。
だが、大丈夫だ、と返す余裕はもはや蟻本にはない。
おそるおそる、鵯を見る。
無数の三つ編み髪束を床に垂らした鵯も、蟻本のことを見ていた。
まるで地面に根を這わせる樹木だった。
床だけでは足らぬと、余った髪束が天井にまで伸びて教室を覆っている。
にまり。
樹木の幹に浮き出たような鵯の顔が、蟻本を見て笑ったのだ。
それが合図だったのだろう。
教室に蔓延る無数の髪束は、一斉に蟻本へと殺到した。
「う、うわああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
矢も楯もたまらず、蟻本は駆けだした。
チョークも教科書も放り出し、教室を一目散に逃げ出した。
だが髪束は蟻本の手足を絡め取り、巻き付き、あろうことか服ごと蟻本の肉体を貪りだした。
髪束に牙などあろうはずもない。
だが、確かに毛先が蟻本の肌に突き刺さって食い荒らしているのだ。
皮膚を破り、肉を抉り、神経を引きちぎり、血を撒き散らす。
言語に絶する激痛が蟻本を襲い、その口から泡を噴かせ、絶叫を迸らせた。
蟻本は信じてもいない神や、母親に助けを求めて泣き喚き、廊下でもだえ苦しんだ。
各教室から何事かと生徒が窓から顔を出し、飛び出してきた教師たちが暴れる蟻本を助け起こし、また抑え込む。
人肉を食らう髪束は、蟻本にしか見えていない幻だった。
残酷にも周りからは、突然発狂した教師が廊下でのたうっているようにしか見えないのだ。
いくつものクラスが自習となり、蟻本は教師たちによって保健室へと連れて行かれた。
後に残るは中年男性の漏らした、刺激臭の中に砂糖の匂いの混ざる尿のみ。
生徒たちが自習などおとなしくするはずもなく、誰もが蟻本の狂態について憶測を披露し合った。
ただ一人、真実を知る鵯透子を除いて。
「もう、メグちゃんたら。食べ過ぎよ」
鵯は髪を手櫛で整えて、陰湿な笑みを浮かべるのだった。
待ちきれずに、怯えさせた蟻本の精神を食べてしまったメグちゃん。
このことで蟻本は精神のバランスを持ち崩し、休職に入るのだが、それはまた別の話。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる