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暗躍編

犬神遣い鵯透子の邪悪なる奉仕 4-2

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 鮫島の顔は依然として赤い。

 しかし、赤面をもたらす感情は涌井の反撃への怒りと恐怖ではなくなっていた。

「気を付けて降りろよ」

 肩を貸してくれている強羅が、階段を降りる鮫島に声をかけてくれる。

 せっかく同じ班にまでなったのに、関係性を深められずにいた想い人。

 女子人気の高い彼と、お互いの身体が密着している。

 呼吸は乱れ、顔の赤みが引かないのも気にしなくていい。涌井にされたことで興奮していると、強羅は思ってくれるはずだから。

 これも衝動的に涌井へと放水したお蔭だ。

 

 鮫島は掃除のやり直しをしたあの放課後から、涌井のことが気に入らないと感じていた。

 まず、心ここに在らずといった様になって天井に放水などして、居残りを一人で延長したこと。

 あれにより強羅と来栖が交接する様に、涌井は鮫島を差し置いて近くで耳をそばだてることに成功した。

 具体的に何をしていたか、鮫島よりも情報を持ったことが許せない。

 許せなさでいえば、鮫島の中では来栖も涌井も大差ない。

 諸見沢と急接近していることも、鮫島を苛立たせる要因だ。

 強羅と違って、正当な活動で結果を残しているわけでもない。それなのに偉そうな諸見沢自体が、鮫島に言わせれば鼻につく。傲慢で、独善的で、反体制を気取る。ああいう人間自体が鮫島は気に入らない。

 クラス、いや学校、むしろ社会でスクラム組んで排除すべき敵。造反者。

 それが強羅を小馬鹿にしたことで、鮫島のはらわたは煮えくり返っていた。

 だというのに、涌井は鮫島の神経を逆撫でするように諸見沢と親しくして、楽しそうにする。

 人目につかない場所でするのも許せないのに、あろうことか黒板の前で堂々と。

 強羅と仲が深まらず鬱屈して、来栖に嫉妬して苦しむ鮫島に見せつけたのだ。

 やったのがギャル層でも腹が立つのに、鮫島と同じ地味女子の涌井にそれをされたのが悔しかった。

 いつもより顔を艶々させて掃除場所のトイレに来たのを見て、あのとき鮫島の中で何かが切れてしまった。

 魔が差した、とでもいうのか。

 便器を掃除し終えて出てきた涌井、そして鮫島の手には水を吐き出すホース。

 やれ。

 誰かが囁いたのだ。

 今までに感じたことのない、強烈な害意、敵意、侮蔑。

 それに身を任せ、鮫島は放水していた。

 結果、激情を爆発させた涌井の逆襲に遭い、鮫島は左耳へと水を流し込まれてしまった。

 ごろごろと水が耳の中で動く気配こそすれ、左耳は外の音をまったく拾わない。

 怖い。

 耳が治らなかったら、どうしよう。

 鮫島はそんな恐怖に苛まれていたのだが、お蔭で強羅と二人きりになれた。

 人生、何があるかわからない。

 

 このまま時間が止まればいいのに。

 鮫島は降って湧いた幸運が、間もなく終わってしまうことを憎む。

 学校の怪談でありがちな、無限に続く階段の怪異。

 今、強羅と降りている階段がそれになって、永遠に二人きりになれたら、と夢想しさえした。

 仮に左耳が治らなくても、右耳で強羅の声は聞ける。

 進路やその先に広がる社会などのない、閉鎖空間でなら鮫島は幸せに暮らせる。

 ハンディキャップがハンディキャップとなるのは、その成員へと様々なものを要求し、様々なものを欲求させる社会が広がっているからにすぎない。

 愛する男だけいればいい、そういうシンプルな世界であればいいのに。

 鮫島は強羅以外の一切を疎む気持ちで、願う。

〈なるほど。自らが欠落したのではなく、現世が不要なモノに満ちていると悟ったか〉

 老若男女のいずれのようにも聞こえる、逆に言えばいずれでもない声を鮫島は聞いた。

 誰何しようとして、鮫島は思いとどまる。

 声は、聞こえないはずの左耳にだけ聞こえていたからだ。

 強羅の顔を盗み見るに、鮫島の聞いた声を彼も聞いたようには見えない。

 既に階段を降り終えて、後は保健室まで平坦な道を進むだけなのだ。

 残り僅かな強羅との時間を、妄想とも幻聴ともつかない何物かに邪魔されて堪るものか。

 カーディガンのポケットに入れたお守りの髪束を、強く握りこんだ。

〈よかろう。汝の願い、しかと聞き届けた〉

 手の中で髪束が動くのを感じ、鮫島は驚いてそれから手を放す。

 だが、もう遅かったのだ。

 髪束は凄まじい勢いで伸び、瞬く間にカーディガンのポケットから溢れた。

 燃え上がる炎のごとく躍動し、波濤のごとく鮫島を吞み込んで、彼方へとさらう。

「きゃああああっ!!」

「さ、鮫島!? ひ、ひいっ!!」

 加速度的に体積を爆増させる髪の毛は、鮫島の肉体を包み込むなりのたうち回って暴れだしたのだ。

 窓、天井、床へと鮫島をぶつけながら移動し、保健室と反対方向にある壁へ行き着くと、鮫島を磔にした。

「た、助けて! 強羅君!」

 壁にめり込んだ夥しい髪束の塊が、鮫島の体表を這いまわる。

 否、締め付けているのだ。

 意思を持つ髪束の群れは、鮫島を圧殺せんと深く、深く壁の中へと潜り込んで行く。

 一縷の望みを託して鮫島が伸ばした手を、しかし握ろうとする者はなかった。

 勇敢にも強羅がその手を握り、鮫島を助け出す英雄物語は展開されない。

 腰を抜かし、強羅は怯懦と嫌悪の滲んだ顔のまま、囚われの鮫島から一歩、また一歩と距離を取る。

 大きく見開かれる鮫島の目に、涙が溢れる。

 腕は力なくしな垂れて、髪束に飲み込まれて消える。

 踵を返し、悲鳴を上げて不格好に逃げていく強羅の背中が、滲んで輪郭を失う。

 どうして、と鮫島は答える相手のいない問いを発し、やり場のない怒りに身を焦がす。

 強羅だけいてくれればいい、他のすべてのない場所で二人っきりになりたい。

 幼くもささやかな望みを叶える、と声は言った。

 けれど、髪束は鮫島を飲み込むばかりで逃げる強羅を追う素振りすらない。

 あいつのせいだ。

 鮫島は、日本人離れした顔立ちのクラスメイトを呪った。

「鵯ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ、透子ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」

 ありったけの憎悪を込めて、怨嗟を叫ぶ。

 あの女さえ、いなければ。

 たとえ強羅を振り向かせられないまま中学を卒業しても、いつか誰かが愛してくれたかもしれないのに。

 その未来さえ、鮫島には訪れることもない。

「呪ってやるからなあああああああああああああああああああああああっ!!」

 

〈それでいいと思うよ〉

 

 大口を開けて咆哮する鮫島の涙を拭う、優しい指があった。

 その感触に、思わず胸がときめいてしまう。

 声があまりにも似ていたのだ。

 考えを改めた強羅が助けに戻って来た、そんな淡い期待が鮫島の心から憎悪を打ち払った。

 本当の強羅は優しくて、勇気のある王子様。そんな彼が、自分を見捨てるわけがない。

 びっくりしただけで、あるいは悪い冗談で逃げたフリをしただけに決まっている。

 今回だけは、許してあげようかな、などと甘い感情が鮫島の中を満たす。

 ゆっくりと目を開けた鮫島が見たのは、髪の毛でできた人形だった。

〈永遠に一緒だよ、瑞智〉

 真っ黒だった人形の顔に、強羅の笑顔が浮かんだ。

「どうせ騙すんなら、もっとうまく騙してよ」

 もはや憎悪すら湧いてこない。

 期待も、怒りも、すべてが絶望へと塗り替わる。

 失意が、鮫島の心をへし折った。

 せめてもの抵抗に、髪人形の強羅へと鮫島は唾を吐いた。

 だが、人形だからだろうか。偽強羅は気にも留めず、両手で鮫島の顔を包み込んだ。

〈愛してるよ〉

 恋心など失せたというのに。

 片思いの相手だった男を模したそれのキスを受け、鮫島は眠りに就いた。

 やがて全身が髪の毛もろとも壁に沈み、鮫島はこの世ではないどこかへと消えた。

 同時に、偽強羅も自壊して無数の髪の毛に戻った後に、霧散した。

 床に一本の髪の毛だけを残して、廊下は静けさを取り戻した。

 

              ◆

 

 事情を聞くため、と涌井は生徒指導室での待機を命じられた。

 担任は、涌井を置いて鮫島の具合を聞きに保健室へ向かった。

 可能なら連れてきて双方の言い分を聞く、とのことだった。

 貸し出されたタオルで水を拭き取る。

 拭き終わると、同じく貸し出された体操服とジャージへと着替えた。放水を受けて濡れた制服を、もらったビニール袋へと詰める。

 集団行動を強いられる学校で、降って湧いた完全なる一人の時間。

 妙に物事を前向きに考えられるのは、自暴自棄になっているからだった。

 腰を下ろした革張りの高級そうなソファは、とても座り心地がいい。

 生徒指導室は尋問部屋などではない、とでも言いたいのだろうか。

 そうこうするうちに担任が戻ってきたが、その傍らに鮫島の姿はない。

 耳が治っていないのか、面倒事になるな、と涌井はうんざりした気持ちになった。

 お互いの親を交えた、お金の話になることは避けられないだろう。

「保健室に、鮫島さんがいなかったんだけど」

「知りませんよ。帰ったんじゃないですか」

「鮫島さんは、一人で保健室に行ったの?」

「強羅君が連れて行きました」

 答えると、担任はまた生徒指導室から出て行った。

 することもないので、涌井は天井を見上げる。教室に比べれば低く感じるそれに、そこはかとなく圧迫感を覚える。

 もしも、鮫島が勝手に下校していて、どこか目立たない場所で死んでいたらどうなのだろうか。

 清々するだろうか、鮫島の親やいじめ相手に飢えたクラスの連中から責められるだろうか。

 だったら、全員死ねばいいのに。

 シンプルな結論に、涌井はシニカルな笑みを浮かべた。

 他人など、叩くためだけにいる家畜。

 家畜に人獣共通感染症が広がれば、まとめて殺処分される。

 同じように、叩けない他人(ちくしょう)など殺処分されてしまえばいい。

 そうすれば自分の安全は守られる。暗黒の理想郷に思いを馳せる涌井の中に、反省の二字などあろうはずもなかった。

 無人のコンビニに残された食料を孤独に食む自分を妄想していると、扉が開いた。

 不可解そうな担任は、涌井に教室へ戻るよう指示した。

 強羅に訊ねても、鮫島の行方がわからなかったのだろう。

 興味がなかったのもあり、涌井は六時間目の授業を受けるべく、生徒指導室を出た。

 六時間目は、英語。担任の授業だ。

 

「本当なんだ、鮫島はめっちゃいっぱいの髪の毛に包まれて、どっか行ったんだよ!」

 授業中に強羅が大きな声を出し、そのせいで担任に注意されていた。

 それでも懲りずに帰りのHRを待つ間にも、同じ証言を繰り返す。

 スクールカーストが高いはずの強羅だが、さすがに信じる者はいなかった。

 目は口程に物を言う。

 熱弁も虚しく、強羅に向けられるクラスの視線は生温かいものだった。

 班員と担任以外は涌井の凶行を知らないこともあり、そちらを糾弾する者もない。

 優雅な傍観者として、気の触れた強羅を見ていられる立場は気分が良かった。

 靴は残っているのに鮫島は校内にいない、目撃者もいない、行動を共にしていたはずの強羅は様子がおかしい。

 原因はそんなところだろう。

 緊急の職員会議があるから、と顔を青くした担任が、極限まで無駄を削ぎ落した帰りのHRをやっつけで終わらせた。

 帰宅部の男子たちが快哉を叫び、教室を飛び出していく。

 一秒でも早く帰宅し、一秒でも長くゲームをしていたい彼らにとって、鮫島の安否など気に掛ける価値もないのだろう。

 どうでもいいやつが消えるのは、全体にとってもいいことだ。

 彼らの背中を眺めながら、涌井は薄く笑んだ。

 鮫島は、諸見沢が消えれば学校が綺麗になる、などと宣っていた。

 実際、消えて喜ばれているのは鮫島なのだから、皮肉なものだ。

 強羅も怪談めいた話を声高にするだけで、鮫島を気遣う素振りは見えない。

「神様って、本当にいるのかも」

 ひとりごちて、涌井は帰ろうとする諸見沢へと駆け寄った。

 美堂が空気を読んでくれたお蔭で、この日の涌井は諸見沢と二人で下校できた。

 特別な進展などは何もなかったが、それでも涌井の心はとても満たされたのだった。
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