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暗躍編

犬神遣い鵯透子の邪悪なる奉仕 5

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 翌日、朝のHR。

 鮫島はまだ見つからない、と寝不足気味な様子の担任から告げられた。

 ざわめきがクラスに広がり、何人かの女子が心配しているかのようなやり取りをする。

 善良で、優しいイメージをクラスの連中に刷り込むための芝居。

 好きでもない男子にまで気を持たすような連中から透けて見える、うすら寒い魂胆に涌井は小さく鼻を鳴らした。

 諸見沢は、来ていない。

 その事実の方が、涌井にはよほど重要だった。

「昨日、何か気に障ること言っちゃったかなぁ」

 不安になった涌井は、HR終わりに美堂に話を聞いてもらっていた。

「えー? 来る方が特別じゃん、諸見沢君って。気にしすぎだよ」

「だといいんだけど」

「だいたい、あんたのくだらない一言で休むような人が、あんな目標書く?」

 黒板の上に掲示された短冊の中で異彩を放つ【硬派一筋】を美堂は指差した。

「そうだよね」

「そうよ。私の諸見沢君を見くびらないで」

「ちょっと、誰があんたのだって?」

「あんたのでもないでしょ?」

 地味女が軽口の応酬をして笑うのが、気に障ったのだろうか。

 だとしたら相当に器が小さいのだが、強羅が涌井にインネンをつけた。

「そういやお前、えと、涌井。お前、鮫島の耳にホースで水流し込んだんだって? こっわいなぁ」

 頭から冷や水を浴びせかけられたような心地だった。

 美堂の顔も凍り付いている。

 髪の毛の怪物がどうの、という怪談ではクラス中の歓心が買えないと悟ったのかもしれない。

 ゆっくりと涌井が強羅の方を見ると、強羅とその仲間や取り巻き女が下卑た笑みを浮かべていた。

「何されたか知らないけど、お前、聴覚潰しに行くとかサイコパス入ってね?」

「来栖から聞いたの」

 一瞬、強羅が怯んだ。

 わかりやすいな、と涌井は軽蔑する。

「鮫島本人から聞いたんだよ。手が滑って、お前に水がかかったら、お前がブチギレて耳に水流し込んで来た、って」

 朝のHRで鮫島の安否を気遣うフリをしていた女が、おどけた調子で怖がって自らを抱きしめた。

 ちら、ちら、と無関心を決め込んでいる連中からの視線も、涌井は感じ取っていた。

「違う。あれは手が滑った、なんて感じじゃなかった」

 美堂に目配せをして、加勢を乞う。

 ダメだ。

 強羅たちに睨みを利かされて、美堂は震え上がっている。

 こんなとき、諸見沢がいてくれたら。

 発言力も影響力も何もない涌井を助けてくれるとすれば、強羅たちを相手に臆せず物を言ってくれるとすれば、諸見沢をおいて他にはいない。

「行方不明になるほど鮫島さんを傷つけておいて、よくもそんなことが言えるな」

「鮫島さん、かわいそう。誰でも失敗はするのに、耳に水入れるとかキレ方が怖すぎ」

「こんなサイコパス女が生まれてきたのが、一番の失敗なのにな」

「いじめ、かっこ悪いぞ」

「おい、お前ら。あんまり言うと、お前らも耳に水入れられて聴力なくなるぞ」

 一方的なものの見方。

 歴史は常に、勝者が紡ぐもの。

 力のない涌井に、それを覆すことなど到底できはしない。

 降り注ぐ言葉の暴力、誹謗中傷。

 昂る感情が思考回路を焼き切ってしまい、涌井は反論を言葉にできなくなってしまう。

 来栖と強羅が性的な関係を結んでいることを暴露する?

 いきなり切り札に頼りたくなるくらい、涌井には切れる手札がない。

 たとえ切ったところで、まだ機が熟していない。噂がまだ力を持っていない。

 強羅以外の班員の男子に疑念の種は植えつけたが、彼らもあまり発言力はない。

 仮に彼らが付和雷同してくれても、強羅たちに睨まれれば美堂の二の舞だ。

 それでも、涌井は何か反論しなくてはならなかった。

 このまま押し切られてしまえば、空気を支配されてしまう。

 明日から、美堂が涌井と口を利いてくれなくなる可能性だってある。

 不寛容なサイコパス。そんな汚名を着せられるわけにはいかない。

 その焦りが、余計に涌井の心を蝕み、思考を侵す。

 万事休す、と涌井の目から涙が零れかけたときだった。

 

「違うよ。鮫島さんは笑いながら、涌井さんの顔に放水してたんだよ」

 

 鶴の一声。

 あのとき、興味がなさそうにさっさと教室に帰ってしまったはずの、鵯透子が涌井に助け船を出したのだ。

「現場で見ていた女子の私よりも、伝聞でしか語れない男子の言うことを信じるの?」

 何か言おうとした強羅たちに被せる、有無を言わせぬ力強い言葉。

 興が醒めた、と強羅が肩を竦めているうちに一時間目のチャイムが鳴った。

「ありが、とう」

 戸惑い混じりに、涌井は鵯に礼を言う。

「いいってことよ、涌井さん。私たち、同じ班の仲間でしょ」

 同じ四班の強羅の背中を見ながら、鵯は笑むのだった。

 振り向いて何かを言うでもない強羅を見て、涌井は胸がすく思いがした。

「何かあったら、また言ってね」

 国語教師の姿が廊下に見えたあたりで、鵯はそう付け加えた。

「ありがとう」

 今度はスムーズに礼を言って、涌井は教科書とノートを開く。

 ふと、本性を現した来栖の姿が涌井の脳裏を過ぎる。

──何かあったら、また言ってね

 弱った心に染み込む、鵯の言葉。

 昨日まで無関心そうだったのに、どういう風の吹き回しか、とは思う。

 けれど、鵯の気が変わらないうちに相談するのもありかもしれない。

 魔女や化け猫と呼ばれるだけに、鵯は本当に呪いや黒魔術に明るいのではないか。

 そこまで考えて、馬鹿馬鹿しくなり涌井は自嘲する。

 だが、馬鹿馬鹿しいはずの発想を完全には払えない自分にも気が付いていた。

 

「へぇ。来栖先生って、そういうことしてるんだぁ」

 昼休み。

 視聴覚室前の廊下で、涌井は来栖との軋轢について鵯に打ち明けた。

 掃除のやり直しのときに、男子トイレから来栖と強羅が乳繰り合う声を聞いたこと。

 やり取りを聞いてしまったことで、脅迫されたこと。

 昨日の掃除での鮫島とのトラブルについて、涌井が悪いかのように担任へと伝えられたこと。

 結構なことを言ったつもりだが、鵯の反応は薄い。

 驚きに声を上げるでもなく、否定するでもない。

「それで、私にどうして欲しいの?」

「え?」

「だって、来栖先生を糾弾したいなら、担任の木酢先生でも他の先生にでも言えばいいでしょ」

「でも」

「大人は信用できない。親友は頼りにならない。自分の言葉に力がない。みんなの見たい真実ではない。直接対決で勝つ自信もない」

 人徳のなさをあげつらわれ、しかし涌井は言い返せない。

「だから、私を頼ったんじゃないの? 魔女だの化け猫だのとみんなが呼んでる、私を」

 白昼の校舎に現れた妖怪は、さもおかしそうに肩を揺らす。

 妖気とも言うべき雰囲気に当てられ、涌井は背筋を冷たいものが伝うのを感じた。

「魔術、呪術、妖術、呪い。呼び方はともかく、意図的に偶然を起こす技術には弱者のための力、という一面もある」

 語りだした鵯の耳の後ろから、三つ編みの髪束が伸びたように見えた。

 まさか、と涌井は自分の見たものを勘違いだと否定する。

 器用にも髪の中に隠していたものが、重力に従って落ちて来ただけだと。

 でも、何のために、そんなことを?

「だいたいのことは、できるよ。さぁ、願いを言ってみて」

 三つ編みは伸び続け、ヘビのようにムカデのように鵯の首を這いずり、巻き付いていく。

 奇術だ。

 そう自分に言い聞かせるも、それが何の意味も持たないことは自明だ。

 唐突な超常現象を目の当たりにして、叫ぶでも逃げるでもなく固まってしまった。

 これ以上なく雄弁に、真実、鵯が妖怪だと涌井の本能が警鐘を鳴らしている。

「何でもできる、って言うなら」

「うん」

「悪い政治家とか、テロリストとかを呪い殺す的な、正義のために使わないの」

「使わないよ。私たちみたいな人種って、基本的に個人主義だから。社会正義に興味はないの」

「でも、呪いで暗殺したら回りまわって自分にも恩恵があるんじゃない?」

「じゃあ、涌井さんが誰でも呪い殺せるとして。みんなが悪いって言ってる政治家を呪い殺すの?」

「そのほうが、よくない? 親の給料上がったり、消費税なくなるかもじゃん」

「悪い、って言われてる政治家が、諸見沢君みたいに誤解されてるだけだとしても?」

 ぞわっ、と涌井は肌が粟立つのを感じた。

 思い出したのは、諸見沢と強羅が揉めた際、誤って強羅が窓に突っ込んでガラスを割り、傷を負って血まみれになった事件。

 自分の言ったことは、好感度の差で真実を判断し、諸見沢を悪と断じて処分することと同じだ。

 反応が気に入ったのか、鵯は化け猫のように笑んでいた。

「政治のことは、わからないからね。どんなに税金が高くて、どんなに生活が苦しくても、お金が欲しいなら、お金を得る魔術を使うのが私たち」

「そんな」

「それにね、昔の戦争で敵国の指導者に呪いをかけた、私たちの世界の有名人もいるにはいるの。何も未開の部族の小競り合いだけの話じゃないの、そういうのって」

「いたんじゃん」

「でも日本は負けた。あと、その人がいた団体に、今の政治家ってたくさん加入してるよ」

 言葉を切って鼻を鳴らし、鵯は「だから個人主義であるべきなのよねぇ」と呟いた。

 自分で話を振っておきながら、涌井はとんでもない話を聞いた気がした。

「ある意味でもっともな疑問だったけど、そういうこと。で? 涌井さんは、来栖先生をどうしたいの?」

 首に巻き付く髪をいじりながら、鵯は「自殺させる? 強羅君に殺させる? 不特定多数にレイプさせる? 強酸で顔を焼くよう操る?」と喜色満面で邪悪な提案をする。

 自殺させる、以外の提案には嗜虐心を刺激された涌井だったが、どれも本当の願いではないと感じた。

「何でもできる鵯さんにとっては、つまんないかもしれないけど」

「別に死なせたら面白いってわけじゃないでしょ」

「私は、来栖先生に謝って欲しい」

 拍子抜けしたのだろう。

 鵯の顔から表情が抜け落ちた。

 つまらない願いだと、涌井も自覚がある。

 けれど、来栖が死んだり輪姦されたりしたら心が晴れる、とも思えなかったのだ。

 言ってみたはいいものの、目の前にいるのは人智を超えた力を操ると豪語する存在。ただのクラスメイトではない。

 もし、機嫌を損ねたらただでは帰れない可能性について、涌井は考えていなかった。

 精一杯、鵯を見つめ続けるも、緊張で手と言わず足と言わず嫌な汗が滲んでいる。

 嫌な沈黙が場を支配する。

 散々思案した果てに涌井の言ったことを理解できた、と言わんばかりの間を置いて。

「いいよ」

 ゆっくりと唇を笑みの形に歪め、鵯は肯定を口にした。

「いいの? 何か、血みどろの惨劇とか望んでそうだったけど」

「なんで? 怖いこと言わないでよ。望むのは、私じゃなくて涌井さんでしょ」

「そう、だけど」

「少し時間がかかるけど、いい?」

「えっ」

 時間がかかればそれだけ、来栖から無用なストレスを受ける可能性が上がる。

 単純に惨たらしい結果なら早く実現できる、とかなら変更もやむなしか?

 迷いだした涌井を面白がるかのように、鵯が付け加える。

「私の都合というか、来週の月曜日、それも朝の方が面白いでしょ」

 思わず、感嘆の溜め息が漏れた。

 陰湿な企みに、涌井は震え上がる思いだ。

 月曜日の、朝。

 つまり、鵯は来栖に全校集会にてゲリラ謝罪をさせよう、と宣ったのだ。
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