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暗躍編
犬神遣い鵯透子の邪悪なる奉仕 8-1
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帰りのHRが終わっても、指定の時間までは二時間ほどある。
儀式、と涌井には言ったものの。
本当のところ美堂を呪い殺すだけならば、鵯にかかれば準備など不要だ。
金が欲しければそれ用の魔術を行使する、と言ったのは鵯だ。だが、対価なき奉仕など鵯にとっては唾棄すべきものでしかない。
つまり、鵯の取り分を涌井から搾取するための行程を、儀式と言って丸め込んだのだ。
説明されていないので仕方ないが、涌井がそれに気付く様子はない。
運動部と帰宅部の男子が急いで教室を飛び出し、文化部と担任がゆったりとそれに続いて出ていく。
教室に残るのは、雑談に興じる何人かの女子のみ。
いつもの放課後の光景。
クラスメイトがまた一人消えるなどと、考えもしていないだろう。
鵯と涌井の二名の例外を除いて。
「図書室で本でも借りて、適当に時間を潰してて」
帰宅せずに待機するよう涌井に指示したところ、対案を求められたので、鵯はそう言っておいた。
図書室は一七時で閉まってしまう。
司書教諭の退勤時間の都合があるからだ。
不服そうにする涌井を宥めすかして、図書室へと送り出す。
「まったく。無銭(ただ)より高いものはない、ってか」
右耳の後ろから生えた三つ編み髪束を指でいじりながら、鵯は先に特別教室棟の中庭へ向かう。
階段を降りながら、ポケットから取り出したスマホで、魔法円を検索する。
偽の儀式で使う雰囲気作りのためのものだが、ゆえにそれっぽさは重要だ。
一八時という時間も、魔法円もすべては涌井に儀式っぽさを感じさせるための演出。
アニメのものを弾きつつ物色していると、鵯は特別教室棟への渡り廊下で仁王立ちしている者に気が付いた。
「てっきり、諸見沢君でもいるんじゃないかと思ってたけど。案外、勇敢じゃない」
まっすぐ鵯を睨んで立つのは、美堂理美だった。
帰りのHR後も動きがなかったので、むしろここで出会えたのは鵯にとって好都合だった。
直帰されていたとしても、美堂の席に残った思念をもとに追尾するのは可能。
だが、対面で術をかけられるなら面倒がないのも事実だ。
「お前、美桜に何かしてるだろ。」
「何のこと?」
「とぼけんな、お前が美桜に関わるようになってから、美桜はおかしくなっただろうが」
「言い掛かりはやめてもらえる? 独りぼっちの美堂さん」
「独りぼっち? 煽ってるつもり? お前こそ、友達といるところなんて見たことないんですけど」
「それは美堂さんが見てないだけでしょ。今じゃ、涌井さんはあなたじゃなくて私の友達だし」
「友達? お前が、美桜と?」
「もちろん。困っているときに手を差し伸べてるんだから、友達でしょ」
ばつが悪そうに美堂が視線を逸らしたのを、鵯は見逃さなかった。
「あなたと違ってね」
「仕方ないじゃん、あんな状況じゃ」
「その通り、あなたは悪くない。でも、涌井さんはそう思わなかった。それだけ」
言葉に窮したようで、美堂は苦虫を噛み潰した顔をする。
「残念ね。一度しかない中学生活で、恋も、友情も失うだなんて」
うるさい、などと無意味に吠えるだけになった美堂と、鵯はゆっくりと距離を詰めていく。
「あなたの出番はもう少し後だから、それまで寝ていなさい」
すれ違いざまに、鵯は美堂の肩を叩いた。
それを合図に、鵯の耳の後ろから三つ編み髪束が飛び出した。
三つ編み髪束は放物線を描いて美堂に食らいつくと、鵯を離れて美堂の髪の毛の中へと潜り込んだ。
瞬間、糸が切れたように美堂は床へ倒れ伏した。
「涌井さんから聞いたあなたの放言通り、自爆で青春を終わらせてあげるわ」
化け猫の笑みで美堂を見下ろした後、鵯は改めて中庭へと歩き出した。
それに少し遅れる形で、鵯の背後でもぞもぞと美堂が起き出した。
立ち上がった美堂は、猫背でおぼつかない足取りで、鵯とは反対方向へ歩いて行った。
「もうすぐよ、メグちゃん」
新たに生えた三つ編み髪束を撫でながら、鵯は階段を使って中庭へと降りる。
ポケットから取り出したのは、教室から拝借してきたチョーク。
屈んでタイルの床にチョークを押し当て、鵯はこれと決めた魔法円の製図に取り掛かった。
視聴覚室に隣接するパソコン室ではパソコン部が活動し、校舎の外周をバレーボール部が走り込んでいた。
だというのに、誰も鵯の奇行を気にも留めなかった。
お蔭で鵯は奇異の目を向けられたり声をかけられたりすることなく、魔法円を綺麗に描き写せたのだった。
◆
図書室を追い出され、涌井は仕方なく教室に戻って宿題をしていた。
さほど難しいものではなかったので、間違いはあっても一つか二つだろう、という自負がある。
儀式の刻限にはまだ余裕があったので、図書室で借りて来た翻訳物のファンタジー系児童文学を読んで時間を潰した。
「やっべ」
存外にその本が面白かったせいで、気が付けば時刻は一七時五五分。
慌てて荷物をまとめると、涌井は教室を飛び出して特別教室棟の中庭へと走った。
渡り廊下に差し掛かると、パソコン室の明かりに照らされて、中庭に描かれた大きな魔法円が見えた。
足音で涌井に気が付いたのだろう。
タイル床に腰を下ろした鵯が、涌井に手を振っていた。
階段も一足飛びに降りて、やっとのことで鵯の待つ中庭に辿り着いた。
「ごめん……お待たせ……」
「大丈夫だよ。よほど面白い本を見つけたんだね」
肩を上下させ、息を整える涌井に鵯は微笑む。
内心、鵯は待ちくたびれて激怒しているのでは、と冷や冷やする涌井。
だが、その場で屈伸運動などしてストレッチを始める鵯からは、そんな気配は感じられない。
「本当にここでやって大丈夫なの? 見つからない?」
「気になるなら、帰っていくパソコン部の人にどうでもいい悪口でも叫んでみたら?」
見上げれば、活動を終えて帰ろうとするパソコン部の部員たちの姿があった。
これから元友人を呪い殺そうとする人間ではあるが、無関係の人間にそんなことをするのは気が引ける。乱暴な人間は少なそうだが、もしも涌井が女だからとナメて絡んでくるイキったオタクがいたら厄介だ。
苦笑いを浮かべ、涌井はお茶を濁そうと試みる。
ところが、鵯にはそれが不満だったようだ。無表情で、眉一つ動かさずに涌井を見つめてきた。
さすがは魔女と言うべきか。
穴が空きそうなほどに強烈な、無言の圧力だった。
涌井は心臓を握り潰されるような心地がして、手足といわず腋といわず嫌な汗をかいてしまう。
「じゃあ、美堂さんの悪口にしようか。これは儀式のための感情喚起だから、やってね」
「わ、わかった」
視線だけで石化してしまい、今更パソコン部の部員への罵倒もできなくなっていた涌井は、鵯の譲歩に飛びついた。
「美堂理美、死ねぇっ!」
「声が小さい」
「美堂理美、死ねえぇっ!」
「怨念が足りない、やり直し。もっとねばりを持たせて、腹から声を出す」
どうしてこんな体育会系みたいな声出しをさせられているのか。
理不尽にも思ったが、なにせ監督役が鬼教師よりも怖いリアル魔女だ。
鬼教師は暴力を封印されているが、鵯なら気分一つで涌井を消すだろう。
人を呪う前に自分一人が行方不明にされてはかなわないので、涌井は言われた通りに声を張った。
「死ぃぃぃねぇぇぇぇぇぇぇっ、地獄へ堕ちろぉぉぉっ、美堂理美ぃぃぃぃぃぃっ!!」
「ほら、誰もこっちを見てない」
鵯の言う通りだった。
部員たちは作業の内容や検定試験、またはゲームの話などで盛り上がり、中庭には目もくれない。
やがて、パソコン室の明かりが消える。
戸締りを終えたパソコン部の顧問が去って行くのを見送って、鵯はストレッチを切り上げた。
「じゃあ、始めよっか」
「気付かれないのに、誰もいなくなるのを待ってたの?」
「うん。外側の問題じゃなくて、涌井さんが儀式に集中しやすくするためにね」
「そ、そっか。私の問題か」
「硬くならないの。さあ、魔法円の中心に立って、目を閉じて」
言われるまま、涌井は魔法円の中心へと進み出る。
「まずは、呪いのターゲットを克明にイメージングしましょう。イメージこそが、ライフルでありスナイパースコープよ」
「わかった、やってみる」
涌井の目蓋の裏に、ぼんやりと女の輪郭が浮かび上がる。
美堂を呪う気持ちを涌井が高めるのに比例して解像度が上がっていく。
やがてそれは、女というアイコンから美堂理美という個人へと結像する。
「さあ、美堂理美が許せないことをしている光景を思い浮かべて」
首肯すると、涌井のイメージの中で美堂が動き出す。
涌井は自分が応接室で聴取を受けている間に、諸見沢と親密にしていた美堂を想像した。
ボディタッチを繰り返し、軽口を叩いて仏頂面の諸見沢を破顔させるイメージが浮かぶ。
途端、ちりちりと心の繊細な部分を火で炙られるようないら立ちが生じる。
いら立ちは瞬く間に募り、不安、喪失感を燃料に烈火の瞋恚(しんい)となって燃え上がり、涌井の心を黒く炭化させる。
嫉妬、憎悪、嫉妬、怨念、嫉妬、憤怒、嫉妬、独占欲、嫉妬、嫉妬! 嫉妬! 嫉妬! 嫉妬! 嫉妬!
目の前で起きているかのような臨場感。
中庭に着いて時間も経ち、整ってきていたはずの呼吸が再び乱れていくのを涌井は感じた。
臨場感は没入感へと昇華されていき、夢か現か、涌井にはだんだんわからなくなっていった。
「今、美堂理美は涌井さんにとって許せない行いをしているよね」
鵯の言葉に、涌井は怒りに震えながら頷いた。
イメージはこの間にも進んでおり、その進行は虚実の反転を意味した。
今の涌井は中庭にいて中庭にいない。
夏の暑さの名残も、夜風の涼しさも、草いきれも、儀式の前に感じていたあらゆるものを知覚していない。
催眠術にかけられたように、今の涌井が現実から受け取れるのは鵯の呼びかけ、指示のみ。
それも、涌井が鵯の声を内なるものからの呼びかけのように感じているからこそ、反応しているに過ぎない。
鵯の声が止めば、すぐさま涌井の全神経がイメージの世界に集中する。
涌井の意識が創造したヴィジョンは、昼休みに起きた美堂の決定的な裏切りから発展するifの出来事。
すなわち、涌井が美堂を詰めたときの録音を諸見沢に聞かせている光景。
『見損なったぞ、涌井』
侮蔑するように涌井を睨む諸見沢は、その胸で泣く美堂を庇うように抱いている。
『違うの、お願い、話を聞いて、諸見沢君!』
誤解を解こうと駆け寄った涌井だが、諸見沢に突き飛ばされてしまう。
力で拒絶され、涌井はその場で尻餅をついた。
『寄るな。お前みたいな女、俺は大嫌いだ』
胸に大きな氷の杭を打たれたようなショックが、涌井を貫いた。
大嫌いだ、という諸見沢の言葉が反響する。
いっそ、その氷の杭で、言葉の反響で自我を破壊し尽くして欲しいとさえ思った。
去って行く諸見沢に手を伸ばしかけたとき、美堂が涌井の方を振り向いた。
美堂の浮かべた下卑た笑みは、涌井を見下して悦に入っているそれだった。
血が沸き立ち、蒸発したそれが涌井を内側から蒸し焼きにしそうな、狂おしいほどの激情が涌井を襲った。
「私の声に続けて呪いを紡いで。行くよ。美堂理美、死ね」
「美堂理美、死ね」
「いいよ、その調子。怒り、悲しみ、憎しみを込めて。はい、美堂理美、死ね」
「美堂理美、死ねぇ!」
「あなたの怨みが深ければ深いほど、強ければ強いほど。美堂理美に降りかかる呪いも、凄惨で強烈になる。さあ、万感の思いを込めて、ありったけの感情をぶつけましょう。美堂理美、死ね!」
「美堂理美ぃぃぃぃっ、死ねぇぇぇぇっ!!」
現実世界から聞こえる鵯の呼びかけに煽られて、涌井は目を閉じたまま涙を流す。
感情の発露により、興奮した身体が熱を持つ。
速く浅い呼吸により、空気が涌井を通して禍々しいエネルギーへと変じて発散されるようだった。
「感じるでしょう。それが呪詛、呪いのエネルギーよ」
言霊の力だろうか。
鵯に背中を押されたことで、涌井の感じていたことが本当になる。
発散される感情のエネルギーが、無数の黒い粒子となって渦巻き、一点に集中していくのを涌井は視た。
否、もはやこれは具現化した、と言うべきだろう。
確かに涌井が視ているのは、イメージの世界だ。
だが、理屈を抜きにした肌感覚で理解してしまったのだ。
涌井は今、自分が自然のエネルギーを、土地に宿る想念を取り込んでは呪いへと変換する呪術装置に成り果てたことを。
「おめでとう、涌井さん。あなたは今、怨敵のあらゆる加護をも蹴破り息の根を止める悪霊になった! さあ、叫んで。美堂理美、死ね!」
「────────────────────────────────────────────────────────────────!!」
ありったけの怨嗟を込めて口にした呪いは、もはや言葉になっていなかった。
極限まで増幅された呪いのエネルギーは、地味な中学生の魂からとびっきりの獣性を引き出していたがゆえに。
儀式、と涌井には言ったものの。
本当のところ美堂を呪い殺すだけならば、鵯にかかれば準備など不要だ。
金が欲しければそれ用の魔術を行使する、と言ったのは鵯だ。だが、対価なき奉仕など鵯にとっては唾棄すべきものでしかない。
つまり、鵯の取り分を涌井から搾取するための行程を、儀式と言って丸め込んだのだ。
説明されていないので仕方ないが、涌井がそれに気付く様子はない。
運動部と帰宅部の男子が急いで教室を飛び出し、文化部と担任がゆったりとそれに続いて出ていく。
教室に残るのは、雑談に興じる何人かの女子のみ。
いつもの放課後の光景。
クラスメイトがまた一人消えるなどと、考えもしていないだろう。
鵯と涌井の二名の例外を除いて。
「図書室で本でも借りて、適当に時間を潰してて」
帰宅せずに待機するよう涌井に指示したところ、対案を求められたので、鵯はそう言っておいた。
図書室は一七時で閉まってしまう。
司書教諭の退勤時間の都合があるからだ。
不服そうにする涌井を宥めすかして、図書室へと送り出す。
「まったく。無銭(ただ)より高いものはない、ってか」
右耳の後ろから生えた三つ編み髪束を指でいじりながら、鵯は先に特別教室棟の中庭へ向かう。
階段を降りながら、ポケットから取り出したスマホで、魔法円を検索する。
偽の儀式で使う雰囲気作りのためのものだが、ゆえにそれっぽさは重要だ。
一八時という時間も、魔法円もすべては涌井に儀式っぽさを感じさせるための演出。
アニメのものを弾きつつ物色していると、鵯は特別教室棟への渡り廊下で仁王立ちしている者に気が付いた。
「てっきり、諸見沢君でもいるんじゃないかと思ってたけど。案外、勇敢じゃない」
まっすぐ鵯を睨んで立つのは、美堂理美だった。
帰りのHR後も動きがなかったので、むしろここで出会えたのは鵯にとって好都合だった。
直帰されていたとしても、美堂の席に残った思念をもとに追尾するのは可能。
だが、対面で術をかけられるなら面倒がないのも事実だ。
「お前、美桜に何かしてるだろ。」
「何のこと?」
「とぼけんな、お前が美桜に関わるようになってから、美桜はおかしくなっただろうが」
「言い掛かりはやめてもらえる? 独りぼっちの美堂さん」
「独りぼっち? 煽ってるつもり? お前こそ、友達といるところなんて見たことないんですけど」
「それは美堂さんが見てないだけでしょ。今じゃ、涌井さんはあなたじゃなくて私の友達だし」
「友達? お前が、美桜と?」
「もちろん。困っているときに手を差し伸べてるんだから、友達でしょ」
ばつが悪そうに美堂が視線を逸らしたのを、鵯は見逃さなかった。
「あなたと違ってね」
「仕方ないじゃん、あんな状況じゃ」
「その通り、あなたは悪くない。でも、涌井さんはそう思わなかった。それだけ」
言葉に窮したようで、美堂は苦虫を噛み潰した顔をする。
「残念ね。一度しかない中学生活で、恋も、友情も失うだなんて」
うるさい、などと無意味に吠えるだけになった美堂と、鵯はゆっくりと距離を詰めていく。
「あなたの出番はもう少し後だから、それまで寝ていなさい」
すれ違いざまに、鵯は美堂の肩を叩いた。
それを合図に、鵯の耳の後ろから三つ編み髪束が飛び出した。
三つ編み髪束は放物線を描いて美堂に食らいつくと、鵯を離れて美堂の髪の毛の中へと潜り込んだ。
瞬間、糸が切れたように美堂は床へ倒れ伏した。
「涌井さんから聞いたあなたの放言通り、自爆で青春を終わらせてあげるわ」
化け猫の笑みで美堂を見下ろした後、鵯は改めて中庭へと歩き出した。
それに少し遅れる形で、鵯の背後でもぞもぞと美堂が起き出した。
立ち上がった美堂は、猫背でおぼつかない足取りで、鵯とは反対方向へ歩いて行った。
「もうすぐよ、メグちゃん」
新たに生えた三つ編み髪束を撫でながら、鵯は階段を使って中庭へと降りる。
ポケットから取り出したのは、教室から拝借してきたチョーク。
屈んでタイルの床にチョークを押し当て、鵯はこれと決めた魔法円の製図に取り掛かった。
視聴覚室に隣接するパソコン室ではパソコン部が活動し、校舎の外周をバレーボール部が走り込んでいた。
だというのに、誰も鵯の奇行を気にも留めなかった。
お蔭で鵯は奇異の目を向けられたり声をかけられたりすることなく、魔法円を綺麗に描き写せたのだった。
◆
図書室を追い出され、涌井は仕方なく教室に戻って宿題をしていた。
さほど難しいものではなかったので、間違いはあっても一つか二つだろう、という自負がある。
儀式の刻限にはまだ余裕があったので、図書室で借りて来た翻訳物のファンタジー系児童文学を読んで時間を潰した。
「やっべ」
存外にその本が面白かったせいで、気が付けば時刻は一七時五五分。
慌てて荷物をまとめると、涌井は教室を飛び出して特別教室棟の中庭へと走った。
渡り廊下に差し掛かると、パソコン室の明かりに照らされて、中庭に描かれた大きな魔法円が見えた。
足音で涌井に気が付いたのだろう。
タイル床に腰を下ろした鵯が、涌井に手を振っていた。
階段も一足飛びに降りて、やっとのことで鵯の待つ中庭に辿り着いた。
「ごめん……お待たせ……」
「大丈夫だよ。よほど面白い本を見つけたんだね」
肩を上下させ、息を整える涌井に鵯は微笑む。
内心、鵯は待ちくたびれて激怒しているのでは、と冷や冷やする涌井。
だが、その場で屈伸運動などしてストレッチを始める鵯からは、そんな気配は感じられない。
「本当にここでやって大丈夫なの? 見つからない?」
「気になるなら、帰っていくパソコン部の人にどうでもいい悪口でも叫んでみたら?」
見上げれば、活動を終えて帰ろうとするパソコン部の部員たちの姿があった。
これから元友人を呪い殺そうとする人間ではあるが、無関係の人間にそんなことをするのは気が引ける。乱暴な人間は少なそうだが、もしも涌井が女だからとナメて絡んでくるイキったオタクがいたら厄介だ。
苦笑いを浮かべ、涌井はお茶を濁そうと試みる。
ところが、鵯にはそれが不満だったようだ。無表情で、眉一つ動かさずに涌井を見つめてきた。
さすがは魔女と言うべきか。
穴が空きそうなほどに強烈な、無言の圧力だった。
涌井は心臓を握り潰されるような心地がして、手足といわず腋といわず嫌な汗をかいてしまう。
「じゃあ、美堂さんの悪口にしようか。これは儀式のための感情喚起だから、やってね」
「わ、わかった」
視線だけで石化してしまい、今更パソコン部の部員への罵倒もできなくなっていた涌井は、鵯の譲歩に飛びついた。
「美堂理美、死ねぇっ!」
「声が小さい」
「美堂理美、死ねえぇっ!」
「怨念が足りない、やり直し。もっとねばりを持たせて、腹から声を出す」
どうしてこんな体育会系みたいな声出しをさせられているのか。
理不尽にも思ったが、なにせ監督役が鬼教師よりも怖いリアル魔女だ。
鬼教師は暴力を封印されているが、鵯なら気分一つで涌井を消すだろう。
人を呪う前に自分一人が行方不明にされてはかなわないので、涌井は言われた通りに声を張った。
「死ぃぃぃねぇぇぇぇぇぇぇっ、地獄へ堕ちろぉぉぉっ、美堂理美ぃぃぃぃぃぃっ!!」
「ほら、誰もこっちを見てない」
鵯の言う通りだった。
部員たちは作業の内容や検定試験、またはゲームの話などで盛り上がり、中庭には目もくれない。
やがて、パソコン室の明かりが消える。
戸締りを終えたパソコン部の顧問が去って行くのを見送って、鵯はストレッチを切り上げた。
「じゃあ、始めよっか」
「気付かれないのに、誰もいなくなるのを待ってたの?」
「うん。外側の問題じゃなくて、涌井さんが儀式に集中しやすくするためにね」
「そ、そっか。私の問題か」
「硬くならないの。さあ、魔法円の中心に立って、目を閉じて」
言われるまま、涌井は魔法円の中心へと進み出る。
「まずは、呪いのターゲットを克明にイメージングしましょう。イメージこそが、ライフルでありスナイパースコープよ」
「わかった、やってみる」
涌井の目蓋の裏に、ぼんやりと女の輪郭が浮かび上がる。
美堂を呪う気持ちを涌井が高めるのに比例して解像度が上がっていく。
やがてそれは、女というアイコンから美堂理美という個人へと結像する。
「さあ、美堂理美が許せないことをしている光景を思い浮かべて」
首肯すると、涌井のイメージの中で美堂が動き出す。
涌井は自分が応接室で聴取を受けている間に、諸見沢と親密にしていた美堂を想像した。
ボディタッチを繰り返し、軽口を叩いて仏頂面の諸見沢を破顔させるイメージが浮かぶ。
途端、ちりちりと心の繊細な部分を火で炙られるようないら立ちが生じる。
いら立ちは瞬く間に募り、不安、喪失感を燃料に烈火の瞋恚(しんい)となって燃え上がり、涌井の心を黒く炭化させる。
嫉妬、憎悪、嫉妬、怨念、嫉妬、憤怒、嫉妬、独占欲、嫉妬、嫉妬! 嫉妬! 嫉妬! 嫉妬! 嫉妬!
目の前で起きているかのような臨場感。
中庭に着いて時間も経ち、整ってきていたはずの呼吸が再び乱れていくのを涌井は感じた。
臨場感は没入感へと昇華されていき、夢か現か、涌井にはだんだんわからなくなっていった。
「今、美堂理美は涌井さんにとって許せない行いをしているよね」
鵯の言葉に、涌井は怒りに震えながら頷いた。
イメージはこの間にも進んでおり、その進行は虚実の反転を意味した。
今の涌井は中庭にいて中庭にいない。
夏の暑さの名残も、夜風の涼しさも、草いきれも、儀式の前に感じていたあらゆるものを知覚していない。
催眠術にかけられたように、今の涌井が現実から受け取れるのは鵯の呼びかけ、指示のみ。
それも、涌井が鵯の声を内なるものからの呼びかけのように感じているからこそ、反応しているに過ぎない。
鵯の声が止めば、すぐさま涌井の全神経がイメージの世界に集中する。
涌井の意識が創造したヴィジョンは、昼休みに起きた美堂の決定的な裏切りから発展するifの出来事。
すなわち、涌井が美堂を詰めたときの録音を諸見沢に聞かせている光景。
『見損なったぞ、涌井』
侮蔑するように涌井を睨む諸見沢は、その胸で泣く美堂を庇うように抱いている。
『違うの、お願い、話を聞いて、諸見沢君!』
誤解を解こうと駆け寄った涌井だが、諸見沢に突き飛ばされてしまう。
力で拒絶され、涌井はその場で尻餅をついた。
『寄るな。お前みたいな女、俺は大嫌いだ』
胸に大きな氷の杭を打たれたようなショックが、涌井を貫いた。
大嫌いだ、という諸見沢の言葉が反響する。
いっそ、その氷の杭で、言葉の反響で自我を破壊し尽くして欲しいとさえ思った。
去って行く諸見沢に手を伸ばしかけたとき、美堂が涌井の方を振り向いた。
美堂の浮かべた下卑た笑みは、涌井を見下して悦に入っているそれだった。
血が沸き立ち、蒸発したそれが涌井を内側から蒸し焼きにしそうな、狂おしいほどの激情が涌井を襲った。
「私の声に続けて呪いを紡いで。行くよ。美堂理美、死ね」
「美堂理美、死ね」
「いいよ、その調子。怒り、悲しみ、憎しみを込めて。はい、美堂理美、死ね」
「美堂理美、死ねぇ!」
「あなたの怨みが深ければ深いほど、強ければ強いほど。美堂理美に降りかかる呪いも、凄惨で強烈になる。さあ、万感の思いを込めて、ありったけの感情をぶつけましょう。美堂理美、死ね!」
「美堂理美ぃぃぃぃっ、死ねぇぇぇぇっ!!」
現実世界から聞こえる鵯の呼びかけに煽られて、涌井は目を閉じたまま涙を流す。
感情の発露により、興奮した身体が熱を持つ。
速く浅い呼吸により、空気が涌井を通して禍々しいエネルギーへと変じて発散されるようだった。
「感じるでしょう。それが呪詛、呪いのエネルギーよ」
言霊の力だろうか。
鵯に背中を押されたことで、涌井の感じていたことが本当になる。
発散される感情のエネルギーが、無数の黒い粒子となって渦巻き、一点に集中していくのを涌井は視た。
否、もはやこれは具現化した、と言うべきだろう。
確かに涌井が視ているのは、イメージの世界だ。
だが、理屈を抜きにした肌感覚で理解してしまったのだ。
涌井は今、自分が自然のエネルギーを、土地に宿る想念を取り込んでは呪いへと変換する呪術装置に成り果てたことを。
「おめでとう、涌井さん。あなたは今、怨敵のあらゆる加護をも蹴破り息の根を止める悪霊になった! さあ、叫んで。美堂理美、死ね!」
「────────────────────────────────────────────────────────────────!!」
ありったけの怨嗟を込めて口にした呪いは、もはや言葉になっていなかった。
極限まで増幅された呪いのエネルギーは、地味な中学生の魂からとびっきりの獣性を引き出していたがゆえに。
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