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暗躍編

犬神遣い鵯透子の邪悪なる奉仕 8-2

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 一方、現実の校舎。

 涌井美桜が、諸見沢嵐星の愛を美堂理美に奪われる被害妄想を幻視していた頃。

 ほとんどの生徒が帰ってしまい、不気味なほど静まり返った校舎をよろよろと歩く人影があった。

 美堂理美である。

 以前はなかった三つ編みが一本、その後頭部より垂れている。

 それは先刻、美堂が鵯と対峙した際に鵯の耳の後ろから発射されたものだった。

 当然、それはメグちゃんに憑依寄生された証である。

 つまり、今の美堂は鵯の魔術の影響下にあり、行動のすべては鵯の指示の下にある。

 美堂が特別教室棟への渡り廊下を歩いているのも、美堂の意思ではなく鵯の命令だった。

 そこからすぐ見下ろせる中庭では他ならぬ美堂を呪う体で、涌井の負の感情を引き出す儀式が行われている。

 しかし、美堂には涌井と鵯の姿は見えない。あるのは闇と沈黙のみだ。

 仮に美堂が鵯の魔術によるコントロール下になく、意識が明瞭であったとしても、それは同じこと。

 人払いの結界。

 聖域神域を常人俗人より秘匿するべく用いられる、認識疎外の術が展開されているからだ。

 無論、結界を張ったのは鵯である。

 ゆえに、美堂はこの時間まで校内を彷徨させられていたのと同様に、ただ歩く。

「あー、諸見沢君だあ」

 嬉しそうに、美堂がその名を呼んだ。

 美堂の視線の先には、確かに諸見沢によく似たシルエットが佇んでいた。

「帰ったんじゃなかったのお?」

 だが、それは諸見沢ではない。

 輪郭が安定せず、わさわさと小刻みに揺れるは髪の毛の塊。

 渡り廊下を真下から貫いた無数の髪の毛を、人型に整形した髪人形。

 まるで疑似餌のように、美堂はそれに強く誘引された。

「聞いてよお、あのねえ、今日ねえ、えと……なんだっけ?」

 不明瞭な意識ながら、美堂はポケットからスマホを出す。

 昼休みの一件を録音したものを諸見沢に聞かせて、涌井への幻滅を狙う。

 そのためのスマホだったが、しかしそれを思い出せる程度の知性を美堂は封印されてしまっていた。

「あー、そうだ、諸見沢君。写真撮ろう」

 美堂は諸見沢と誤認した髪の毛の塊に抱き着き、自撮りの構えでスマホを掲げる。

「あれえ、自撮りって、どうすんだっけぇ?」

 ブルーライト光が薄闇を切り取り、偽諸見沢の正体を明らかにする。

 それでも、まったく真実に気が付くことなくスマホの操作を試みる美堂。

 残念ながら、自撮りの方法を美堂が思い出すことは、今後一生ない。

 黄昏時の暗がりをより濃く、より黒く塗り潰す巨大な闇がその証人だった。

 

              ◆

 

「おめでとう、涌井さん。あなたは今、怨敵のあらゆる加護をも蹴破り息の根を止める悪霊になった! さあ、叫んで。美堂理美、死ね!」

 鵯が最後の煽り文句を投げかける。

 理性が残っている人間なら、到底発せないような獣の咆哮が涌井の口からほとばしる。

「最後の大詰めね」

 鵯は独語して、口角を吊り上げる。

 空間を震わす禍(まが)つ音霊(おとだま)が、合図となった。

 涌井の後方に立つ鵯の全身が震えたかと思うと、毛穴という毛穴から毛髪が噴き出した。

 それらは二~三メートルも伸びると自ら抜け、地面を這い進んでいった。

 次いで、風を孕んだかのように鵯の髪が膨らむ。

 数え切れないほどの三つ編み髪束が一斉に鵯の頭部から生まれ落ち、先んじた毛髪の群れを追った

 毛髪の群れは中庭のタイル床を覆い尽くし、涌井の足下を、魔法円を通過してその先の一点へと殺到する。

 編まれていない毛髪は一塊になると、渦を巻いてそこに上昇気流でもあるかのように逆巻いた。

 舞い上がる毛髪同士が互いの端と端を結び合い、長さを補足し合いながら束を強化していく。

「貫け。【怒髪衝天】」

 多くの人間が使って来た比喩表現を核に、鵯は魔術を構築、物理世界に干渉する。

 練り上げられた毛髪の渦は、鵯の魔力により鋭き槍へと再構成され────真上に架けられた渡り廊下を貫いた。

 校舎全棟を揺るがす振動が走り、衝撃波により窓ガラスが激しく音を立てる。中には割れるものもあったが、それは飛び散った破片の衝突によるものだった。

「制御が甘いか」

 粗雑な破壊と、不用意な騒音。

 己の未熟さに、思わず鵯は歯噛みした。

 人払い結界は校舎全体には及んでいない。

 結界を広げるよりも、素早く済ませて撤収するべきと判断。

 鵯は【怒髪衝天】によって渡り廊下へ飛び出た髪の毛に意識を向け、先端を再々構成する。

 瞬く間に毛髪の槍の切っ先を人型に整形、髪人形を作りだした。

「あー、諸見沢君だあ」

 間の抜けた声がすると、美堂が姿を現した。

 メグちゃんが憑依寄生しているため、美堂は轟音も振動も知覚できない。

 したがって、その足取りに恐怖もなかった。

「帰ったんじゃなかったのお?」

 鵯の魔術により髪人形を諸見沢と誤認した美堂は、それに抱き着いて甘える。

 これをそのまま涌井に見せたらどんな反応をするだろう、と鵯は化け猫の笑みを浮かべた。

 嗤うのか、それとも憤るのか。

 興味は湧いたものの、それを確かめる時間はない。

 諦めて、鵯は魔術の制御に意識を戻す。

「メグちゃん、いただきますの時間だよ」

 長かった準備を経て、ついに最後の仕上げ。

 メグちゃんの本格励起を呼びかける鵯の声にも、歌うような高揚感が滲み出る。

 渡り廊下に突き刺さる毛髪槍【怒髪衝天】の根本を三つ編み髪束が囲み、楕円形に展開する。

 三つ編みは他の三つ編みと絡み合い、また積み重なって塔を築いていく。

 その様はまさしく群体生物のそれ。

 しかし、編み上げられるは塔にあらず。

 小さな三つ編み髪束たちが群れ集って獲得した、新たなる個。

 見上げるような巨大な姿に、鵯は快哉を叫んだ。

「────汎用消滅呪殺式【溶解犬噛み】!!」

 ちょうど【怒髪衝天】が天に突き立てた舌に見えなくもない。

 渡り廊下の真下に顕現したのは、大口を開けた巨大な犬の首。

 その姿は、伝説にある犬神憑きとなる術のために、首から下を地面に埋められた犬にそっくりだった。

 編み上げられし呪いの巨犬は、【怒髪衝天】を軸にして首を伸ばして浮遊、上昇する。

 髪人形との自撮りを試みる美堂を口中に収めるや、がぶりと丸呑みにした。

 影法師が伸びて、一瞬で消えたかのようなあっけなさ。

 巨犬の首は、刎ねられたかのように宙を舞う。

 弧を描いて宙返りするや、今度は魔法円の中心に立つ涌井めがけて急降下した。

 催眠術めいた鵯の扇動により、涌井の前には物質化に至った高純度の呪いが結実している。

 巨犬が再び口を開くと、涌井もろとも呪いを取り込んだ。

 獣の化生ゆえか。

 そのかぶりつきっぷりは、中庭を肉塊と見て齧りつくような豪快さがあった。

「野生の美しさ、大自然のダイナミックさといったところかな」

 しかし、巨犬の一噛みが地面を大きく抉ることはなかった。

 物質化した呪いを吸収するや、巨犬の術式は自己崩壊を開始する。

 犬を構成する三つ編みが、それぞれ隣り合ったそれと溶け合い、吸収し合う。

 やがて、一本の三つ編み髪束にまで収束し、地面に転がった。

「お疲れ、メグちゃん」

 鵯は屈み、地面に転がるメグちゃんを拾い上げた。

「トウコ! オレ、がんバった! えらい? えらい!」

「ありがとね。ご飯はおいしかった?」

「うまい! うまかった! うなぎのかバ焼き味!」

「もう、どういう味覚してんの、メグちゃんたら」

 愛犬を撫でる少女となんら変わらぬ様子で、鵯はメグちゃんについた砂を優しく払う。

「さて、そろそろ行かないと」

 後に残るは、穴の開いた無人の渡り廊下。

 そして中庭に横たわり、寝息を立てる涌井のみ。

 しかし、渡り廊下の方から人の声が聞こえてくる。

 先の【怒髪衝天】で発生した音を聞いて、駆け付けた教師たちだった。

 鵯が一つ指を鳴らすと、【怒髪衝天】の術式は解除された。

 形を失った毛髪の群れは中庭に流れ込むと、旋回しながらタイル床を這い回った。

 鵯が雰囲気作りのために描いた、魔法円の残滓を消し去るためだった。

 数秒でそれを済ますと、毛髪の群れも巨犬と同様にメグちゃんへと回収された。

 最後に、人払いの結界を解除して、鵯は中庭を後にした。
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