一ノ瀬一二三の怪奇譚

田熊

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ep.2 「微笑む女の写真」

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壁には無数の写真が並んでいた。

 白黒の古いものから、最近のカラー写真まで、時代もテーマもバラバラだ。机の上には未整理の写真の束。すべてがランダムに置かれ、部屋全体が「記録された時間の倉庫」のようになっている。

「ずいぶん集めたね」

 僕が何気なく言うと、佐々木は苦笑した。

「昔から写真が好きなんですよ。僕の仕事みたいなものですし」

「収集家って職業なの?」

「いや……仕事はカメラマンなんですけど、こっちは完全に趣味ですね」

 なるほど、と僕は相槌を打つ。

「写真って、いいでしょう?」と佐々木は続けた。「記憶が曖昧になっても、写真があれば、その瞬間が確かに存在したって証明できる」

「そうだね。だから僕の仕事にもなるわけだ」

「ライターでしたっけ?」

「主に取材記事を書いてる。でも、こういう話は個人的な興味で集めてるだけ」

 それで、と僕は言った。

「僕を呼んだってことは、ただのコレクション自慢じゃないんだろう?」

 佐々木は一瞬言葉を飲み込むような表情を見せたあと、机の上から一枚の写真を抜き取り、僕に差し出した。

「これ……ちょっと見てもらえませんか?」

 僕は写真を手に取る。

 集合写真だった。十五人ほどの男女が横一列に並び、背景には洋風の建物。観光地の記念写真だろうか。昭和後期あたりの撮影に見える。

「どうですか?」

「……何が?」

「違和感、ありませんか?」

 僕はもう一度写真をよく見る。顔ぶれは一見して自然だし、妙な影や写り込みもない。おかしな点は――

「ここです」

 佐々木が指差したのは、最前列中央に座る白いワンピースの女性だった。

 細い肩。端正な顔立ち。黒髪が静かに肩にかかり、カメラをまっすぐに見つめている。

「この人が、何か?」

「この写真を撮ったとき、彼女はいなかったんです」

 僕は写真を見つめたまま、少しだけ息を吐く。

「なるほど。それは怖いね」

 佐々木は真剣な顔で頷く。

「元々は、彼女が写っていない写真があったんですよ。でも、気づいたらこの写真に変わっていて……元の写真がどこにもないんです」

「それはおかしい」

「でしょう? だから、僕の記憶違いかと思ったんです。でも、当時一緒に写っていた人たちに聞いたら、誰も彼女のことを覚えていなかった」

 記憶違いではない。
 誰も彼女を「知らない」と言う。
 なら、この写真に写る彼女は――

「で、その元の写真は、なくなってしまったわけか」

「そうです。捨てた覚えはないのに」

 佐々木は苦笑いし、ポケットから煙草を取り出した。
 火をつけようとして、思い直したように手を止める。

「正直、この写真……気味が悪くて仕方ないんです。だって、誰も覚えていないのに、彼女はこっちを見て微笑んでいるんですから」

 僕は写真の女性を見た。

 確かに、彼女は微笑んでいる。
 控えめな、ほんのわずかな表情の変化。
 しかし、それは「カメラに向けられた笑顔」ではなく、「写真の外の何か」に向けられたものに見えた。

 それが僕の想像にすぎないのか、それとも――。

「ちょっと借りるよ」

「え?」

 佐々木が怪訝そうな顔をするのを無視して、僕は写真に手を触れた。

 次の瞬間、視界が暗転する。



 目を開けると、そこは写真の中だった。

 日差しが柔らかく、風が吹いている。
 人々のざわめき、地面に影を落とす光。

 集合写真が撮影される直前の世界。
 カメラマンが「はい、撮りますよ!」と声をかける。
 人々が静かに並び、シャッターの瞬間を待っている。

 そして――

 白いワンピースの女は、いない。

 なるほど。
 つまり、この写真が撮られた時点で、彼女はここにはいなかった。

 なら、彼女はどこから現れた?

 僕はふと、視界の隅に違和感を覚えた。

 ――その瞬間、背筋が冷たくなる。

 集合写真の輪の外、少し離れた木陰。
 そこに、彼女は立っていた。

 他の誰にも気づかれず、ただ一人、僕だけを見ている。
 黒髪が風に揺れる。表情は、さっき写真で見たものと変わらない。

 しかし、今の彼女の微笑みは、確かに「僕」に向けられていた。

「……また、来たの?」

 冷たい汗が流れる。

 「また?」

 どういう意味だ。
 僕は彼女に会ったことなどない。
 ――はずだ。

 だが、頭の奥で、何かが蠢いている。

 ……この女性の名前は。

 ――……。

 思考が、引きずり込まれるような感覚に襲われる。

 その瞬間、意識が弾かれるように現実へ戻った。



 ふと、足元を見る。

 ――影が、もう一つ増えている気がした。


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