一ノ瀬一二三の怪奇譚

田熊

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ep.3 「影のない女」

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夜の街は、静かだった。
 とはいえ、完全な無音というわけではない。
 車のエンジン音、遠くの繁華街のざわめき、ビルの隙間をすり抜ける風の音。
 それでも、この道を歩くときだけは、妙に世界が遠のいたように感じる。

 僕はコンビニの明かりの下で足を止め、スマホを取り出した。
 ライターという仕事柄、ニュースのチェックは習慣になっている。
 特に、怪談めいた事件や都市伝説のような話には、自然と目が向く。

 軽く画面をスクロールしながら、ふと視線を上げた。
 道の向こう側から、一人の女性が歩いてくる。

 黒いコートに長い髪。
 顔はよく見えないが、細身のシルエットと歩調の軽やかさから若い女性だとわかる。

 すれ違いざま、なんとなく視線を向けた。
 その瞬間、違和感が背筋を這い上がる。

 ――影が、なかった。

 街灯の下を歩いているのに、地面に映るべき影がない。
 ありえない。

 僕は振り返った。
 彼女は、そのまま何事もなく歩き去っていった。
 だが、どう見ても影がなかった。

「……まあ、そんなこともあるか」

 ありえないことではない。
 光の当たり具合や角度によって、影が見えにくくなることはある。
 理屈ではそうだ。

 だが、僕の中の何かが「違う」と告げていた。



 翌日、ニュースをチェックしていると、見覚えのある顔が目に入った。

『行方不明の女性を捜索中』

 昨夜すれ違った、影のなかったあの女だった。

 記事によれば、彼女は数日前に突然姿を消したという。
 家族も友人も、彼女の消息を知らない。

 「影がない人間が突然消えた」
 それだけでは記事にするには弱いが、興味を引くには十分だった。

 僕は、その足で彼女の家を訪ねることにした。



 住宅街の一角にある彼女の家は、ごく普通の一軒家だった。
 インターホンを押すと、応対したのは母親らしき女性だった。

「すみません、ライターの一ノ瀬といいます。お嬢さんの件で少しお話を伺えればと思いまして」

 母親は不安そうな顔で頷いた。

「……あの子、本当にどこに行ったのか……警察も手がかりがないって……」

「失踪されたのは、何か前兆があったのでしょうか?」

「いいえ、特には……でも、最近、ちょっと様子が変だったんです」

「様子?」

「……影が、薄くなっていたような気がして」

 僕は少し息を呑んだ。

「影が……?」

「ええ、なんだか……まるで透けているみたいに」

 それは見間違いではないのか――と聞きかけて、やめた。
 昨日、僕自身が確かに見たのだ。影のない彼女の姿を。

 さらに話を聞くと、彼女は最近、写真を撮られるのを極端に嫌がっていたらしい。
 まるで自分の姿が写真に映ることを恐れているように。

 僕は母親に礼を言い、その家を後にした。



 その夜、調査を進めていると、彼女と同じように「影が薄くなっていた」と証言される人間が何人もいたことがわかった。
 そして、彼らに共通していたのは――

 全員、ある日突然消えたということだった。

 彼らの記録を辿ると、ほぼ例外なく「最近影が薄かった」という証言が出てくる。
 だが、彼らが消えたあと、家族や友人は徐々に彼らの存在を忘れていく。

 まるで初めから「いなかった」かのように。

 もし、これが「何か」による法則的な現象だとしたら。
 次に消えるのは――?



 深夜。

 デスクに広げた資料を見ながら、ふと背後に気配を感じた。

 視線を向けると、窓の外。
 闇の中に、黒いコートの女が立っていた。

 僕は息を呑む。

 彼女だ。

 影のなかった、あの女。

 静かにこちらを見つめ、ほんのわずかに口元を動かした。

 「……あなたも、そっちに行くの?」

 言葉の意味を考える間もなく、彼女の姿がふっと消える。

 夜風だけが、カーテンを揺らしていた。



 翌朝。

 僕は洗面所で顔を洗い、ふと鏡を見た。

 何かが、違う。

 ――影が、薄い。

 昨日までの僕の影は、確かにもっと濃かった。
 けれど、今は……光に溶けるように、薄く霞んでいる。

 気のせいかもしれない。
 ただの光の加減かもしれない。

「……これは、光の加減だろうな」

 そう呟きながら、僕は鏡から目を逸らした。

 だが、その違和感が消えることはなかった。


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