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冬の日
三
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「水崎」
練習室で忘れられない出会いをした翌日、ゼミの授業を終え、西教授に昨日出したメールの確認を終えた千尋を呼び止める力の抜けた声が一つ。
「これ、借りてたやつ。あんがとさん」
千尋が声のしたほうを振り返ると、眠そうな目をした千尋の同級生、岬慎吾がブックカバーのついた本の栞紐を垂れさせながら千尋に向かって差し出していた。
「ああ、ありがと」
千尋は差し出された自分の本を受け取り、鞄に入れる。
「面白かったよ。あんまレポートの参考にはならんかったけど」
「そっか、ごめん」
「謝ることじゃないっしょ。俺に不都合はなんもないし、水崎のせいでもない」
処世術を咎められ、昨日を思い出した千尋の気分が少しだけ落ち込んだ。
千尋はこういった謝罪を咎められること自体には慣れている。直した方がいいと言われたこともあるが、最早履き慣れた靴よりも身体に馴染んでしまったこの処世術はなかなか千尋のもとを離れてはくれない。
その結果が昨日の失敗だと思うと、千尋はますます自分が嫌いになりそうだった。
「ま、とにかく借りてよかったよ。さんきゅ」
そう言って慎吾は千尋のもとを去ろうとする。
「あ、岬」
「んー?」
呼び止められた慎吾は、反転しかけていた身体を元に戻して千尋に向き直る。
振り向いた慎吾は、いつもの眠たげな目を少しだけ見開いて、珍しいものを見るかのように千尋を見ていた。
「ちょっと聞きたいんだけど、うちの学校でピアノと歌がうまい人知ってる?」
昨日のことを思い出した千尋は、練習室で見た世界を思い出しながら慎吾に尋ねる。
思い出すだけでも胸が締め付けられる。昨日の世界と、その世界の主の姿。
千尋が昨日一人で思い出していた時は、息が苦しくなったかと思えば、狭くなった気管から押し出される息は微かに甘く、僅かな呼吸でも千尋の心を満たしていた。
無論、昨日のことは痛みを伴う記憶でもある。だが、痛みを感じながらも千尋はあの世界の主であった女性の虜になってしまったかのように教室での光景を思い出し続け、光景も感覚も痛みごと心身に刻みつけた。
純情のみの綺麗な恋心ではない。欲求や同情、様々な感情が混ざったその心を、千尋は否定せずにそのまま抱え込んだ。
その結果生まれたのが、あの女性のことをもっと知りたい、という答えだった。
「ピアノと歌ねえ……」
慎吾はぼさぼさの髪をくしゃりとかき上げながら呟く。黒縁眼鏡の奥の瞳が記憶を辿るように上を向き、数秒してからすとんと元の位置に落ちてきた。
「わかんねえや。何? 探してんの?」
慎吾に問われ、千尋は答えを喉元まで持って来てから、一度心の中に戻す。
「探してるってほどでもないんだけど、昨日練習室で弾いてる人がうまかったから、有名な人なのかと思って、ちょっと気になったんだ」
戻した言葉を多少の真実を混ぜた嘘に変え、自分の想いを隠して千尋は語る。
「へー。俺は学校の人間のこととかさっぱりだからなあ。わりい」
そんな千尋を感情の読めない目でじとりと見つめながら、慎吾は軽い口調で謝罪の言葉を口にする。
これくらい自然に、相手を怒らせないタイミングでだけ言えたらいいのだろうか。
「いいよ。気にしないで」
社交辞令に聞こえる本心を告げ、千尋は慎吾のもとを去ろうとした。
「ん、つーか水崎はそいつのこと見たの?」
だが、今度は去りかけていた千尋の背を慎吾が呼びとめる。
既に自分の世界に入りかけていた千尋の意識が引き戻され、脳裏に浮かびかけていた昨日の光景に、振り返った慎吾の顔が被せて上書きされた。
「え、ああ、うん」
「じゃあ本人に聞きに行けばいいじゃん。こんな音楽と無縁そうな学部しかない学校でピアノ弾いてる奴に同じ顔なんていないっしょ」
慎吾が何気なく行った一言に、千尋の中で沈みかけていた感情が再びざわついた。
微妙に噛み合っていないように聞こえる慎吾の言葉は、千尋が隠したはずの裏側でかっちりと正確な歯車のように会話を噛み合わせている。
千尋は慎吾に対して何もない暗闇を覗いた時のような小さな恐怖を覚えつつも、慎吾の言葉が噛み合わせた歯車を回しながら考える。
慎吾はどこまで自分のことを解っているのか。それを考えるだけで千尋の中には顔を背けたくなるような羞恥心が芽生え始めたが、恐怖も羞恥心も、再びあの女性に会って話すということ、すなわち、あの世界にもう一度触れられるかもしれないという静かな高揚の前には霞んで見えた。
「ま、事情がよくわからんからあんまり野暮するのもやめとくわ。引き止めて悪いな」
そう言って再々度の引き止めが発生しないうちに、慎吾は背を向けて千尋のもとを去る。
千尋はその背を見送り、慎吾より少しだけ遅れて教室を出た。
夜の帳が下り、昨日よりも幾分か冷たい空気がキャンパス内を満たした頃、千尋は暖房の効いた教授室のドアを閉め、廊下で大きく息を吐いた。
千尋にとっては長い時間の教授への相談を終え、ひとまずは所属先の目処を立てることができた。
そのことへの安堵と、教授と話すという緊張感から解放された安堵、そして、今から行こうとする場所への期待と緊張の混ざった息は大きく長く、肺に溜まった気体が全て出ていくような心地が、気持ちが入れ替わるようで少しだけ千尋の心を落ち着かせた。
続けて大きく吸った息で、千尋は完全にいつもの落ち着きを取り戻す。
そして、今日はイヤホンを耳に挿さずに一階へと下りた。
音楽の代わりに幾分か速い自らの鼓動を聞きながら千尋が目指すのは、ピアノの練習室。昨日も足を運んだ、訪れる機会のほとんどない場所。
千尋は頭の中で、先日の女性に言われるであろう言葉に対する返答を繰り返し唱えながら歩く。これも千尋の処世術の一つだ。
『私の前でうじうじしないで』
その言葉の通りに、できるだろうか。
何よりも人に嫌われることを嫌う千尋は、傲岸不遜よりも平身低頭を選んで生きてきた。その様が「うじうじしている」と形容されたことも何度かあったが、嫌われていると思えばその相手には近寄らないようにしていた。
だが、今回ばかりは遠ざかれない。遠ざかりたくない。
遠ざからないために選んだ自分が相手にどう思われるかはわからない。もしも嫌われてしまったら、という不安の大きさは、千尋が友人関係でたびたび感じているそれよりも遥かに大きかった。
そんな不安に負けぬようにと用意した気概を身に纏い歩く千尋だったが、強い決意とは裏腹に、歩く度その気概は霧散していく。
音が聞こえないのだ。
練習室の前に来ても音は聞こえない。取っ手を引いてみたが、鍵がかかっていて入れない。つまり、誰もこの練習室を使用していない。
昨日の女性は、今日ここにはいない。
はっきりとその事実を認識すると、かっちりと千尋を固めていた気概は形を無くし、完全にいつもの千尋を冬の空気の下に放り出してしまった。
それと同時に、千尋の頭の中で慎吾の言葉が再生される。
「こんな音楽と無縁の学校で毎日弾いてる人なんていないか……」
決意の分だけ落胆し、千尋は握ったままだった練習室の取っ手を離す。
緊張以上の期待を胸の奥にそっと仕舞い込み、歩き出す千尋。
「ねえ」
その背にかかる、千尋が期待していたものとは違う女声。
どこかで聞いたような、しかし符合する記憶が見つからない声。
完治寸前の傷にできた小さなかさぶたのような引っかかり。記憶の中に確かにあるのに思い出せない歯がゆさを覚え、千尋はそんな引っかかりの正体を確かめるように声のしたほうを振り向いた。
千尋の目に映るのは、見慣れない女性の姿。
その姿を見ても、千尋は違和感の正体が掴めなかった。だが、次に女性が口を開いた際に聞こえた声を、やはり千尋は知っているような気がした。
「あなた、昨日ここにいた子よね」
目鼻立ちのしっかりした女性がどこかで聞いたような声で喋るたび、千尋の鼻をミントの冷たい香りが微かにくすぐった。
喫煙者がよく口にしている清涼菓子のような冷たさ。雰囲気も相まって目の前の女性が年上に見えた千尋は、目上の人間と話すような態度で女性の問いに答えた。
「え、あ、はい」
女性の言葉に困惑しつつ、千尋は切れ長の目から注がれる鋭い視線から目を逸らす。
その先で見かけた短い茶色のポニーテールには、見覚えがあった。
「あなたは京の何?」
「え?」
「ストーカーなら今すぐ通報する準備はできてるけど」
「ち、違いますって!」
シンプルなテーラードジャケットからスマホを取りだした女性を慌てて制止し、千尋は困惑を深めながらもその解決のために口を開く。
「そういうあなたは? えっと、あと、京っていうのは?」
千尋の質問に女性は目を細める。切れ長の目が一層鋭くなり、視線だけで人を射殺せそうなほどの力を感じた。
「……京にも確認したけど、本当に初対面だったみたいね」
訝しむような視線がただの突き刺さるような視線に変わり、女性はため息を吐いた。
「ごめんなさい。私は白咲夏海。昨日ピアノを弾いていた子、弘前京の友達よ」
「あ、僕は水崎千尋です。京さん? とは、確かに昨日が初対面でした」
一拍置いてから目の前の女性、夏海が自分の問いに答えてくれたことに気付き、千尋は礼儀として自分も名乗り返す。
「それで水崎くん、あなたは昨日ここで京と何をしていたの?」
質問、というよりは詰問に近い口調で夏海が千尋に向かって問う。一度軟化したと思われた態度が再び険しいものになり、気の抜けていた千尋の心を突き刺した。
柔らかくなっていた千尋の心に深々と突き刺さるような夏海の態度は、思わず千尋が謝罪と共に一歩後ずさってしまいそうなほどに物々しい。
だが、千尋がそれをしてしまえば今かけられている疑いの目がさらに厳しくなるだろう。そういう意味では、声すら飲み込んでしまった千尋の小心さは幸運だった。
「えっと、何を……ですか」
何を、何をしていたのだろう。いざ問われてみると少し難しい。
「京さんのピアノと歌を聴いてました」
それだけだ。千尋がこの場でしていたことと言えば、本当にそれだけだった。
心の中に思い描いたものまで語ってしまえば言葉では表現しきれないほどのもので、なおかつ抽象的になる。千尋はそれを言葉にするという行為に違和感を覚え、初対面の人間に語るようなものでもないと思い口には出さなかった。
「その後は?」
見ていたんじゃないんですか、という言葉は危険を孕むので飲み込んだ。
「京さんが僕に気付いて、僕が話しかけて、そしたら京さんを怒らせてしまったみたいで……」
口にしながら、情けなさと京にかけられた言葉の鋭さの二重苦で千尋は心がすり減るような思いをしていた。
だが、昨日のことを口にすればするほど、千尋の胸は不思議と熱くなっていく。情けなさよりも強い感情が、その勢いを増していく。
「そう」
千尋の言葉が切れたのを確認した夏海の言葉は、千尋のことを追及してきたわりにまるでそれが世界の裏側で起こっている出来事のように興味がなさそうだった。
「一応、これは忠告として聞いてほしいのだけれど」
起伏のない平らな声にしっかりとした感情を乗せ、夏海は千尋をまっすぐ見て話す。
「京にはあまり近付かないで」
そこに乗った感情は、拒絶。千尋が昨日感じたばかりの感情は、心の癒えていない部分に新しい針を突き立てようとする。
だが、千尋はその針を急ごしらえのかさぶたで撃退して食い下がる。
「どうして、ですか」
込み上がってきた熱と共に吐き出した言葉は、千尋が今日一日隠していた感情をほんの少しだけ乗せて夏海の耳に、心に向かって進む。
「僕はもう一度あのピアノと歌を聴きたいと思ってるんです」
「それだけならいいのだけど」
一つ言葉を吐いて、夏海の雰囲気が冷たい冬の空気よりも引き締まる。
「それ以上にならないで欲しいの。あの子には、ただの観客以外必要ない」
他人のことを自分のことのように話す夏海の姿は、自信に満ちていた。
言葉と視線に乗る感情も一際強さを増している。そこに拒絶の感情が存在することこそが絶対的に正しいかのように堂々とした負の感情が乗った言葉は、千尋でなくとも受け取った人間の身体の温度を奪いそうなほど冷たかった。
「京の音楽はそうじゃないと成り立たない。生きているような音楽が、物ですらない凡庸な音になってしまうかもしれないの。だから、あの子のために近付かないで」
京のために、と語られた夏海の言葉は、千尋の心を鉱石のように固くし、砕くような勢いで千尋の心を責め立てる。
千尋に芽生えた感情とそこからくる欲求。それら全てを必要のないものとして切り捨て、拒絶され、まるで重力が微かに強くなったかのように千尋の身体が重くなった。
「京さんの音楽って、何なんですか?」
それでも千尋が口を開くのは、微かな違和感を覚えたから。
微かに夏海の眉根が寄る。そこから千尋が感情を読み取ることはできない。
千尋は物怖じしながらも、目を逸らさずにまっすぐ夏海を見据えた。
それから数秒、千尋と夏海は無言で視線をぶつけ合う。険悪な雰囲気の流れる二人に近付く者はこの場におらず、人の少ない廊下はどんどん冷たくなっていく。
昨日とは異なる孤独が練習室の前を包み、時間すら凍らせてしまいそうだった。
「……あの子の音楽はね」
やがて夏海は観念したように口を開く。ため息に混ざって飛んできたミントの香りは、ほとんどなくなっていた。
「孤独なの。京の音楽は孤独で成り立っている」
千尋の耳に入ってきた単語の一つが、千尋の心臓を強く打ちつけた。
「だから近付かないで。これ以上、あの子に他人はいらない」
言い残し、これ以上話す気はないと夏海は千尋に背を向ける。
言葉でも行動でも強く拒絶を示して去っていった夏海の意志の残滓を感じながら、千尋は練習室の前で演奏代わりの心音を聞いていた。
感じるのは、確かに伝わってきた夏海の意志。そこに乗った感情と夏海の言葉の意味を考えて、千尋は自分の心ごとその意志を包みこんだ。
千尋はこの日、心に突き刺さるものが作るのは傷だけではないということを知った。
練習室で忘れられない出会いをした翌日、ゼミの授業を終え、西教授に昨日出したメールの確認を終えた千尋を呼び止める力の抜けた声が一つ。
「これ、借りてたやつ。あんがとさん」
千尋が声のしたほうを振り返ると、眠そうな目をした千尋の同級生、岬慎吾がブックカバーのついた本の栞紐を垂れさせながら千尋に向かって差し出していた。
「ああ、ありがと」
千尋は差し出された自分の本を受け取り、鞄に入れる。
「面白かったよ。あんまレポートの参考にはならんかったけど」
「そっか、ごめん」
「謝ることじゃないっしょ。俺に不都合はなんもないし、水崎のせいでもない」
処世術を咎められ、昨日を思い出した千尋の気分が少しだけ落ち込んだ。
千尋はこういった謝罪を咎められること自体には慣れている。直した方がいいと言われたこともあるが、最早履き慣れた靴よりも身体に馴染んでしまったこの処世術はなかなか千尋のもとを離れてはくれない。
その結果が昨日の失敗だと思うと、千尋はますます自分が嫌いになりそうだった。
「ま、とにかく借りてよかったよ。さんきゅ」
そう言って慎吾は千尋のもとを去ろうとする。
「あ、岬」
「んー?」
呼び止められた慎吾は、反転しかけていた身体を元に戻して千尋に向き直る。
振り向いた慎吾は、いつもの眠たげな目を少しだけ見開いて、珍しいものを見るかのように千尋を見ていた。
「ちょっと聞きたいんだけど、うちの学校でピアノと歌がうまい人知ってる?」
昨日のことを思い出した千尋は、練習室で見た世界を思い出しながら慎吾に尋ねる。
思い出すだけでも胸が締め付けられる。昨日の世界と、その世界の主の姿。
千尋が昨日一人で思い出していた時は、息が苦しくなったかと思えば、狭くなった気管から押し出される息は微かに甘く、僅かな呼吸でも千尋の心を満たしていた。
無論、昨日のことは痛みを伴う記憶でもある。だが、痛みを感じながらも千尋はあの世界の主であった女性の虜になってしまったかのように教室での光景を思い出し続け、光景も感覚も痛みごと心身に刻みつけた。
純情のみの綺麗な恋心ではない。欲求や同情、様々な感情が混ざったその心を、千尋は否定せずにそのまま抱え込んだ。
その結果生まれたのが、あの女性のことをもっと知りたい、という答えだった。
「ピアノと歌ねえ……」
慎吾はぼさぼさの髪をくしゃりとかき上げながら呟く。黒縁眼鏡の奥の瞳が記憶を辿るように上を向き、数秒してからすとんと元の位置に落ちてきた。
「わかんねえや。何? 探してんの?」
慎吾に問われ、千尋は答えを喉元まで持って来てから、一度心の中に戻す。
「探してるってほどでもないんだけど、昨日練習室で弾いてる人がうまかったから、有名な人なのかと思って、ちょっと気になったんだ」
戻した言葉を多少の真実を混ぜた嘘に変え、自分の想いを隠して千尋は語る。
「へー。俺は学校の人間のこととかさっぱりだからなあ。わりい」
そんな千尋を感情の読めない目でじとりと見つめながら、慎吾は軽い口調で謝罪の言葉を口にする。
これくらい自然に、相手を怒らせないタイミングでだけ言えたらいいのだろうか。
「いいよ。気にしないで」
社交辞令に聞こえる本心を告げ、千尋は慎吾のもとを去ろうとした。
「ん、つーか水崎はそいつのこと見たの?」
だが、今度は去りかけていた千尋の背を慎吾が呼びとめる。
既に自分の世界に入りかけていた千尋の意識が引き戻され、脳裏に浮かびかけていた昨日の光景に、振り返った慎吾の顔が被せて上書きされた。
「え、ああ、うん」
「じゃあ本人に聞きに行けばいいじゃん。こんな音楽と無縁そうな学部しかない学校でピアノ弾いてる奴に同じ顔なんていないっしょ」
慎吾が何気なく行った一言に、千尋の中で沈みかけていた感情が再びざわついた。
微妙に噛み合っていないように聞こえる慎吾の言葉は、千尋が隠したはずの裏側でかっちりと正確な歯車のように会話を噛み合わせている。
千尋は慎吾に対して何もない暗闇を覗いた時のような小さな恐怖を覚えつつも、慎吾の言葉が噛み合わせた歯車を回しながら考える。
慎吾はどこまで自分のことを解っているのか。それを考えるだけで千尋の中には顔を背けたくなるような羞恥心が芽生え始めたが、恐怖も羞恥心も、再びあの女性に会って話すということ、すなわち、あの世界にもう一度触れられるかもしれないという静かな高揚の前には霞んで見えた。
「ま、事情がよくわからんからあんまり野暮するのもやめとくわ。引き止めて悪いな」
そう言って再々度の引き止めが発生しないうちに、慎吾は背を向けて千尋のもとを去る。
千尋はその背を見送り、慎吾より少しだけ遅れて教室を出た。
夜の帳が下り、昨日よりも幾分か冷たい空気がキャンパス内を満たした頃、千尋は暖房の効いた教授室のドアを閉め、廊下で大きく息を吐いた。
千尋にとっては長い時間の教授への相談を終え、ひとまずは所属先の目処を立てることができた。
そのことへの安堵と、教授と話すという緊張感から解放された安堵、そして、今から行こうとする場所への期待と緊張の混ざった息は大きく長く、肺に溜まった気体が全て出ていくような心地が、気持ちが入れ替わるようで少しだけ千尋の心を落ち着かせた。
続けて大きく吸った息で、千尋は完全にいつもの落ち着きを取り戻す。
そして、今日はイヤホンを耳に挿さずに一階へと下りた。
音楽の代わりに幾分か速い自らの鼓動を聞きながら千尋が目指すのは、ピアノの練習室。昨日も足を運んだ、訪れる機会のほとんどない場所。
千尋は頭の中で、先日の女性に言われるであろう言葉に対する返答を繰り返し唱えながら歩く。これも千尋の処世術の一つだ。
『私の前でうじうじしないで』
その言葉の通りに、できるだろうか。
何よりも人に嫌われることを嫌う千尋は、傲岸不遜よりも平身低頭を選んで生きてきた。その様が「うじうじしている」と形容されたことも何度かあったが、嫌われていると思えばその相手には近寄らないようにしていた。
だが、今回ばかりは遠ざかれない。遠ざかりたくない。
遠ざからないために選んだ自分が相手にどう思われるかはわからない。もしも嫌われてしまったら、という不安の大きさは、千尋が友人関係でたびたび感じているそれよりも遥かに大きかった。
そんな不安に負けぬようにと用意した気概を身に纏い歩く千尋だったが、強い決意とは裏腹に、歩く度その気概は霧散していく。
音が聞こえないのだ。
練習室の前に来ても音は聞こえない。取っ手を引いてみたが、鍵がかかっていて入れない。つまり、誰もこの練習室を使用していない。
昨日の女性は、今日ここにはいない。
はっきりとその事実を認識すると、かっちりと千尋を固めていた気概は形を無くし、完全にいつもの千尋を冬の空気の下に放り出してしまった。
それと同時に、千尋の頭の中で慎吾の言葉が再生される。
「こんな音楽と無縁の学校で毎日弾いてる人なんていないか……」
決意の分だけ落胆し、千尋は握ったままだった練習室の取っ手を離す。
緊張以上の期待を胸の奥にそっと仕舞い込み、歩き出す千尋。
「ねえ」
その背にかかる、千尋が期待していたものとは違う女声。
どこかで聞いたような、しかし符合する記憶が見つからない声。
完治寸前の傷にできた小さなかさぶたのような引っかかり。記憶の中に確かにあるのに思い出せない歯がゆさを覚え、千尋はそんな引っかかりの正体を確かめるように声のしたほうを振り向いた。
千尋の目に映るのは、見慣れない女性の姿。
その姿を見ても、千尋は違和感の正体が掴めなかった。だが、次に女性が口を開いた際に聞こえた声を、やはり千尋は知っているような気がした。
「あなた、昨日ここにいた子よね」
目鼻立ちのしっかりした女性がどこかで聞いたような声で喋るたび、千尋の鼻をミントの冷たい香りが微かにくすぐった。
喫煙者がよく口にしている清涼菓子のような冷たさ。雰囲気も相まって目の前の女性が年上に見えた千尋は、目上の人間と話すような態度で女性の問いに答えた。
「え、あ、はい」
女性の言葉に困惑しつつ、千尋は切れ長の目から注がれる鋭い視線から目を逸らす。
その先で見かけた短い茶色のポニーテールには、見覚えがあった。
「あなたは京の何?」
「え?」
「ストーカーなら今すぐ通報する準備はできてるけど」
「ち、違いますって!」
シンプルなテーラードジャケットからスマホを取りだした女性を慌てて制止し、千尋は困惑を深めながらもその解決のために口を開く。
「そういうあなたは? えっと、あと、京っていうのは?」
千尋の質問に女性は目を細める。切れ長の目が一層鋭くなり、視線だけで人を射殺せそうなほどの力を感じた。
「……京にも確認したけど、本当に初対面だったみたいね」
訝しむような視線がただの突き刺さるような視線に変わり、女性はため息を吐いた。
「ごめんなさい。私は白咲夏海。昨日ピアノを弾いていた子、弘前京の友達よ」
「あ、僕は水崎千尋です。京さん? とは、確かに昨日が初対面でした」
一拍置いてから目の前の女性、夏海が自分の問いに答えてくれたことに気付き、千尋は礼儀として自分も名乗り返す。
「それで水崎くん、あなたは昨日ここで京と何をしていたの?」
質問、というよりは詰問に近い口調で夏海が千尋に向かって問う。一度軟化したと思われた態度が再び険しいものになり、気の抜けていた千尋の心を突き刺した。
柔らかくなっていた千尋の心に深々と突き刺さるような夏海の態度は、思わず千尋が謝罪と共に一歩後ずさってしまいそうなほどに物々しい。
だが、千尋がそれをしてしまえば今かけられている疑いの目がさらに厳しくなるだろう。そういう意味では、声すら飲み込んでしまった千尋の小心さは幸運だった。
「えっと、何を……ですか」
何を、何をしていたのだろう。いざ問われてみると少し難しい。
「京さんのピアノと歌を聴いてました」
それだけだ。千尋がこの場でしていたことと言えば、本当にそれだけだった。
心の中に思い描いたものまで語ってしまえば言葉では表現しきれないほどのもので、なおかつ抽象的になる。千尋はそれを言葉にするという行為に違和感を覚え、初対面の人間に語るようなものでもないと思い口には出さなかった。
「その後は?」
見ていたんじゃないんですか、という言葉は危険を孕むので飲み込んだ。
「京さんが僕に気付いて、僕が話しかけて、そしたら京さんを怒らせてしまったみたいで……」
口にしながら、情けなさと京にかけられた言葉の鋭さの二重苦で千尋は心がすり減るような思いをしていた。
だが、昨日のことを口にすればするほど、千尋の胸は不思議と熱くなっていく。情けなさよりも強い感情が、その勢いを増していく。
「そう」
千尋の言葉が切れたのを確認した夏海の言葉は、千尋のことを追及してきたわりにまるでそれが世界の裏側で起こっている出来事のように興味がなさそうだった。
「一応、これは忠告として聞いてほしいのだけれど」
起伏のない平らな声にしっかりとした感情を乗せ、夏海は千尋をまっすぐ見て話す。
「京にはあまり近付かないで」
そこに乗った感情は、拒絶。千尋が昨日感じたばかりの感情は、心の癒えていない部分に新しい針を突き立てようとする。
だが、千尋はその針を急ごしらえのかさぶたで撃退して食い下がる。
「どうして、ですか」
込み上がってきた熱と共に吐き出した言葉は、千尋が今日一日隠していた感情をほんの少しだけ乗せて夏海の耳に、心に向かって進む。
「僕はもう一度あのピアノと歌を聴きたいと思ってるんです」
「それだけならいいのだけど」
一つ言葉を吐いて、夏海の雰囲気が冷たい冬の空気よりも引き締まる。
「それ以上にならないで欲しいの。あの子には、ただの観客以外必要ない」
他人のことを自分のことのように話す夏海の姿は、自信に満ちていた。
言葉と視線に乗る感情も一際強さを増している。そこに拒絶の感情が存在することこそが絶対的に正しいかのように堂々とした負の感情が乗った言葉は、千尋でなくとも受け取った人間の身体の温度を奪いそうなほど冷たかった。
「京の音楽はそうじゃないと成り立たない。生きているような音楽が、物ですらない凡庸な音になってしまうかもしれないの。だから、あの子のために近付かないで」
京のために、と語られた夏海の言葉は、千尋の心を鉱石のように固くし、砕くような勢いで千尋の心を責め立てる。
千尋に芽生えた感情とそこからくる欲求。それら全てを必要のないものとして切り捨て、拒絶され、まるで重力が微かに強くなったかのように千尋の身体が重くなった。
「京さんの音楽って、何なんですか?」
それでも千尋が口を開くのは、微かな違和感を覚えたから。
微かに夏海の眉根が寄る。そこから千尋が感情を読み取ることはできない。
千尋は物怖じしながらも、目を逸らさずにまっすぐ夏海を見据えた。
それから数秒、千尋と夏海は無言で視線をぶつけ合う。険悪な雰囲気の流れる二人に近付く者はこの場におらず、人の少ない廊下はどんどん冷たくなっていく。
昨日とは異なる孤独が練習室の前を包み、時間すら凍らせてしまいそうだった。
「……あの子の音楽はね」
やがて夏海は観念したように口を開く。ため息に混ざって飛んできたミントの香りは、ほとんどなくなっていた。
「孤独なの。京の音楽は孤独で成り立っている」
千尋の耳に入ってきた単語の一つが、千尋の心臓を強く打ちつけた。
「だから近付かないで。これ以上、あの子に他人はいらない」
言い残し、これ以上話す気はないと夏海は千尋に背を向ける。
言葉でも行動でも強く拒絶を示して去っていった夏海の意志の残滓を感じながら、千尋は練習室の前で演奏代わりの心音を聞いていた。
感じるのは、確かに伝わってきた夏海の意志。そこに乗った感情と夏海の言葉の意味を考えて、千尋は自分の心ごとその意志を包みこんだ。
千尋はこの日、心に突き刺さるものが作るのは傷だけではないということを知った。
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