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5 ノーサイド
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「ったく、おまえがベソかいてどうすんだよ」
腕を伸ばして、しっかりしろと頭を小突く。
「いいか、足立。そういうときがまさに狙い目。絶好のチャンスだろが。本気で惚れてるなら、おまえがしっかり彼女の支えになってやれ。そんで迷わずモノにしろ」
発破をかけると、足立は口を引き結んだまま、うんうんと何度も頷く。なんだかなあとひそかに溜息が漏れた。
「ほら行くぞ。仕事もプライベートもしっかりな」
言いながら、伝票を手に立ち上がった。
「あ、主任! 自分が払います!」
あわてて伸びてくる手を、いいからと制す。
「おまえに奢られるほど墜ちちゃいねえよ。おまえはさっさと帰って仕事しな」
手で追い払うマネをして背を向けた。
「あの、結城主任、ホント、ありがとうございました」
「ああ。元気でな」
「はい」
「俺に会ったって、会社の連中には言うなよ」
「はいっ」
背を向けたまま、ヒラヒラと手を振ってみせる。背後で躊躇う気配があったが、なんとなく察するものがあったのだろう。足立はやがて、諦めたように遠ざかっていった。
吐息とともに張りつめていたものを払拭し、そのままレジに向かう。コーヒー1杯千円。かつての俺には、その程度の額など、ほんのはした金にすぎなかった。
プロジェクトを成功させる都度、慰労会と称して部下たちを連れ、街に繰り出し、高い酒や料理を大盤振る舞いしたものだった。食事会や飲み会がお開きになれば、終電前の時間帯であってもタクシーを拾って帰宅する。そんなのがあたりまえの日常で、そんな過去から、まだ3ヶ月も経っていなかった。それなのに、自分が現在置かれている状況は、あのころとは180度違う。
会計をしながら、ふとロビーのほうを見やると、ホテルをあとにする足立の後ろ姿が見えた。
スーツ姿のエリート会社員。
翻って、己の服装を顧みる。さすがに、ここしばらく定番となっていた洗いざらしのスウェットの上下というわけにもいかず、カジュアルではあっても、外出用のボトムとシャツ、ジャケットを身につけていた。無精髭も剃って、一応、社会人として最低限の身なりは整えてある。だが。
これから会社に戻って、早速プロジェクトの準備に取り掛かるだろう足立を思うと、言い知れぬやりきれなさがこみあげてきた。
ホテルの最寄り駅から地下鉄に乗りこんで、ぼんやりと車窓の向こうを流れる暗闇を見つめる。胸にひろがるのは、虚しさと濃い疲労と悔しさ。
――なんなんだよ、これ。
3ヶ月前までの日々が幻だったのか。それとも、いまのこの状況こそが夢なのか。
感情が掻き乱される。なにもかも、受け容れることができない。
自分がいま住んでいるはずの駅で電車を降り、改札を抜けたところで足が止まった。
「仕事、してえな……」
ポツリと本音が口から零れたら、あとはもう、どうにもならなかった。
なんだよ……なんで俺なんだよ。どうしてっ。
こんなのは、認められるわけがなかった。
世の中には、俺なんかより遙かに無能な奴がいる。ゴミみたいな奴もいる。実害しかもたらさない、碌でもない奴らがごまんといる。それなのに、なぜよりによってこの俺なのだ。
ふざけんな。俺がいったいなにをしたって言うんだっ。
理性で覆っていた蓋がゆるんではずれたら、その内側に封じこめてぎゅうぎゅう詰めにしていた感情が爆発して一気に溢れかえった。
嫌だっ、嫌だっ。死にたくないっ。こんなふうに終わりたくなんてないっ! もっと生きたい! もっと仕事して、金を稼いで、存分に遊び倒して。
この世に在るかぎり、己の生を存分に謳歌したかった。
やれることがまだまだたくさんあったはずだった。この世界に自分が生きた証を刻みつけられるはずだった。無限ではない時間を、それでももっとたっぷり味わい尽くすことができるはずだった。
美味いものをたらふく食って、大勢の人間にチヤホヤされて、自分の能力を最大限に活かして結果に繋げ、高みをのぼりつめて成功を掴み取る。そういう人生が約束されてたはずだった。
こんな呆気ない幕切れがあってたまるか。こんな惨めな終わりでたまるか。嫌だ。俺はもっと生きたい。見苦しくても無様でもかまわない。この世にしがみついて、あさましく生きつづけていきたい!
――死にたくなんかない……っ!!
気がつくと、喉を振り絞るようにして絶叫を迸らせていた。
やり場のない怒り。抑えきれない悔しさ。どうあっても受け容れることのできない悲しみ。
己を掻き毟りたくなるような、限界を知らない凄まじいまでの絶望――
近くの派出所から、警官たちが駆けつけてくる。
「どうしましたっ? 大丈夫ですか!?」
「落ち着いてください!」
丁寧な口調とは裏腹に、警官らは錯乱したヤク中か精神異常者とでも思ったか、ふたりがかりで乱暴に取り押さえようとする。
頭の一部の冷めたところで、そんな状況を他人事のように眺めている自分がいるというのに、口から溢れ出る絶叫はなおも止まらない。
苦しい。つらい。悔しい。我慢ができない。
不意に、いまだかつてないほどの激しい頭痛に見舞われる。
口を衝いて迸る絶叫が、もはや感情の爆発ゆえのものなのか、それとも断末魔の苦しみによるものなのか、それすらも判然としなくなっていた。
訪れた瞬間同様、唐突にすべての感覚が遮断する。耐えがたかったはずの激痛が消え去り、理性も感情も、あらゆる感覚が無に帰して消失していった。
ああ、そうか。これですべてが終わるのだ。
最後に残った意識のどこかで、そう思った。
すべてのしがらみから、肉体も魂も解き放たれる瞬間。
終幕は、想定していた時期よりずっと早く訪れた。
けど、生殺しのような状態がつづくよりはずっといい。
呆気なかったな……。
なんの感慨もなく思ったところで、俺の自我は虚無と化した。
腕を伸ばして、しっかりしろと頭を小突く。
「いいか、足立。そういうときがまさに狙い目。絶好のチャンスだろが。本気で惚れてるなら、おまえがしっかり彼女の支えになってやれ。そんで迷わずモノにしろ」
発破をかけると、足立は口を引き結んだまま、うんうんと何度も頷く。なんだかなあとひそかに溜息が漏れた。
「ほら行くぞ。仕事もプライベートもしっかりな」
言いながら、伝票を手に立ち上がった。
「あ、主任! 自分が払います!」
あわてて伸びてくる手を、いいからと制す。
「おまえに奢られるほど墜ちちゃいねえよ。おまえはさっさと帰って仕事しな」
手で追い払うマネをして背を向けた。
「あの、結城主任、ホント、ありがとうございました」
「ああ。元気でな」
「はい」
「俺に会ったって、会社の連中には言うなよ」
「はいっ」
背を向けたまま、ヒラヒラと手を振ってみせる。背後で躊躇う気配があったが、なんとなく察するものがあったのだろう。足立はやがて、諦めたように遠ざかっていった。
吐息とともに張りつめていたものを払拭し、そのままレジに向かう。コーヒー1杯千円。かつての俺には、その程度の額など、ほんのはした金にすぎなかった。
プロジェクトを成功させる都度、慰労会と称して部下たちを連れ、街に繰り出し、高い酒や料理を大盤振る舞いしたものだった。食事会や飲み会がお開きになれば、終電前の時間帯であってもタクシーを拾って帰宅する。そんなのがあたりまえの日常で、そんな過去から、まだ3ヶ月も経っていなかった。それなのに、自分が現在置かれている状況は、あのころとは180度違う。
会計をしながら、ふとロビーのほうを見やると、ホテルをあとにする足立の後ろ姿が見えた。
スーツ姿のエリート会社員。
翻って、己の服装を顧みる。さすがに、ここしばらく定番となっていた洗いざらしのスウェットの上下というわけにもいかず、カジュアルではあっても、外出用のボトムとシャツ、ジャケットを身につけていた。無精髭も剃って、一応、社会人として最低限の身なりは整えてある。だが。
これから会社に戻って、早速プロジェクトの準備に取り掛かるだろう足立を思うと、言い知れぬやりきれなさがこみあげてきた。
ホテルの最寄り駅から地下鉄に乗りこんで、ぼんやりと車窓の向こうを流れる暗闇を見つめる。胸にひろがるのは、虚しさと濃い疲労と悔しさ。
――なんなんだよ、これ。
3ヶ月前までの日々が幻だったのか。それとも、いまのこの状況こそが夢なのか。
感情が掻き乱される。なにもかも、受け容れることができない。
自分がいま住んでいるはずの駅で電車を降り、改札を抜けたところで足が止まった。
「仕事、してえな……」
ポツリと本音が口から零れたら、あとはもう、どうにもならなかった。
なんだよ……なんで俺なんだよ。どうしてっ。
こんなのは、認められるわけがなかった。
世の中には、俺なんかより遙かに無能な奴がいる。ゴミみたいな奴もいる。実害しかもたらさない、碌でもない奴らがごまんといる。それなのに、なぜよりによってこの俺なのだ。
ふざけんな。俺がいったいなにをしたって言うんだっ。
理性で覆っていた蓋がゆるんではずれたら、その内側に封じこめてぎゅうぎゅう詰めにしていた感情が爆発して一気に溢れかえった。
嫌だっ、嫌だっ。死にたくないっ。こんなふうに終わりたくなんてないっ! もっと生きたい! もっと仕事して、金を稼いで、存分に遊び倒して。
この世に在るかぎり、己の生を存分に謳歌したかった。
やれることがまだまだたくさんあったはずだった。この世界に自分が生きた証を刻みつけられるはずだった。無限ではない時間を、それでももっとたっぷり味わい尽くすことができるはずだった。
美味いものをたらふく食って、大勢の人間にチヤホヤされて、自分の能力を最大限に活かして結果に繋げ、高みをのぼりつめて成功を掴み取る。そういう人生が約束されてたはずだった。
こんな呆気ない幕切れがあってたまるか。こんな惨めな終わりでたまるか。嫌だ。俺はもっと生きたい。見苦しくても無様でもかまわない。この世にしがみついて、あさましく生きつづけていきたい!
――死にたくなんかない……っ!!
気がつくと、喉を振り絞るようにして絶叫を迸らせていた。
やり場のない怒り。抑えきれない悔しさ。どうあっても受け容れることのできない悲しみ。
己を掻き毟りたくなるような、限界を知らない凄まじいまでの絶望――
近くの派出所から、警官たちが駆けつけてくる。
「どうしましたっ? 大丈夫ですか!?」
「落ち着いてください!」
丁寧な口調とは裏腹に、警官らは錯乱したヤク中か精神異常者とでも思ったか、ふたりがかりで乱暴に取り押さえようとする。
頭の一部の冷めたところで、そんな状況を他人事のように眺めている自分がいるというのに、口から溢れ出る絶叫はなおも止まらない。
苦しい。つらい。悔しい。我慢ができない。
不意に、いまだかつてないほどの激しい頭痛に見舞われる。
口を衝いて迸る絶叫が、もはや感情の爆発ゆえのものなのか、それとも断末魔の苦しみによるものなのか、それすらも判然としなくなっていた。
訪れた瞬間同様、唐突にすべての感覚が遮断する。耐えがたかったはずの激痛が消え去り、理性も感情も、あらゆる感覚が無に帰して消失していった。
ああ、そうか。これですべてが終わるのだ。
最後に残った意識のどこかで、そう思った。
すべてのしがらみから、肉体も魂も解き放たれる瞬間。
終幕は、想定していた時期よりずっと早く訪れた。
けど、生殺しのような状態がつづくよりはずっといい。
呆気なかったな……。
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