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6 夢で会いましょう
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――大丈夫。大丈夫だよ。
だれかが繰り返す。
なんだよ、大丈夫って。俺がまるで、なにかを大丈夫じゃないとでも思ってるみたいな口ぶりじゃねえか。なにかに怯えて、不安がってるみたいな。
思ったところで、ふと気づく。この声。この口調。
直後にハッとして目を開ける。そこに、こちらを覗きこんでいるガキの姿があった。
「おまえ……っ」
呟いて、状況が呑みこめずにあたりを見渡すと、馴染みのない部屋の中にいた。
白い壁。白い天井。頭上をぐるりと囲むように埋めこまれたカーテンレール。
「――どこだ、ここ」
「病院だよ」
「病院?」
言われて、そういえばと意識を取り戻すまえのことを思い出す。
「――なんだ、あのまま死んだわけじゃなかったのか……」
なんとなく拍子抜けした気分になりながら身を起こす。それで、自分がベッドに横たわっていて、その枕もとにガキがいた、という状況だったことをようやく認識した。
駅前で、これまで堰き止めていた感情のストッパーがはずれて大決壊を起こした。
駆けつけた警官らにただちに取り押さえられ、そのさなかに脳内に埋めこまれている時限装置も作動して、ついにリミットを迎えた。そう思ったのだが、とりあえず今回は、最後の一線を越えることは免れたらしかった。
そうか、と他人事のように状況を理解したのはいいが、終幕が延期になったことを素直に喜ぶ気にはなれなかった。
張りつめていたものが切れたのは、感情面だけでなく、気力の面でもおなじだった。それをもう一度、奮い立たせるのは正直しんどい。これからのことを考えると、かなり憂鬱で耐えがたかった。
「おじちゃん、心配しなくても平気だよ」
横合いからかけられた声に振り返ると、ガキはまだ、こっちをじっと見ていた。
「だからなにがだよ。ってか、おまえ、なんでここにいる?」
「知らない。でも、おじちゃんは、もう帰ったほうがいいよ」
「ああ? そりゃ帰っていいなら俺だってそうするけどよ」
言いながら、ガキ越しに出入り口のほうを見やる。俺はあのまま、この病院に救急搬送されたということなんだろうか?
自分が置かれている状況がいまいち呑みこめず、とりあえず看護師を呼ぶか、それともこちらからだれかに声をかけに行ったほうがいいのだろうかと思案を巡らせた。
「おじちゃん、ありがとね」
「だからなにが? お礼言われることなんて、なんもしてねえだろ」
「うううん、そんなことない。クマゴロー、大事にしてくれた」
「いやべつに、してないって」
「でも、捨てないで持っててくれてるでしょ? それに、お風呂にも入れてくれたし」
なんで知ってんだよ、という思いと同時に、なにやら異様にこっぱずかしくなってきた。
「そっ、それはその、なんだっ。おまえの気が変わって、やっぱ返せとか言われたときに手もとになかったら後味悪ぃし、とにかく小汚なくて、あのまま家に置いとくのも抵抗あったから、それで洗濯しただけだよ。べつに親切とか、そんなんじゃねえからっ」
言えば言うほど恥ずかしくなってくる。
なんだ俺は。天然のツンデレかよ。しかもガキ相手に。
「ってか、おまえ、早く取り来いよ。なんであれっきり顔出さねえんだよ。ほんとに捨てちまうぞ?」
「うん」
いいともダメとも言わず、ガキはニコニコしている。調子が狂うったらなかった。
「まあ、あれだ。その、なんだったらこのまま、一緒に来るか? そうすりゃおまえに直接渡せるし、その足で家まで送ってやるからよ」
「うううん、大丈夫」
なにがどう大丈夫で、どっちの意味かもはっきりしないのに、ガキはやけにきっぱりと言った。
なんだ、大丈夫って。このまま一緒に来れるって意味か? それとも送らなくてもひとりで帰れるって意味か?
「おじちゃん、あのね、奇跡は起こるよ。だから全部、クマゴローに任せてね」
「なんだそれ。全部って、なにを任せるんだよ? ってか、おまえ、まだ俺に預けたままにする気か?」
それには答えず、ガキはニッコリとする。
「おじちゃん、ありがとう。ぼく、おじちゃんに会えてすごくよかった」
「おい」
「だからほんと、ありがとね」
「いや、だからおいってっ」
ガキは、せーの、とでも言わんばかりに胸のまえに上げた両の掌をこっちに向ける。
ちょっ、待てっ! よもやそのまま突き飛ばす気じゃあるまいなっ。
焦って身構えようとしたが遅かった。
「元気でね、おじちゃん」
言葉が終わらないうちに、ドンッと胸を突き飛ばされた。
子供の力とは思えない強烈な一撃で、鞭打ちにでもなったかと思うほどの衝撃を首に感じる。あっ、と思ったときには上半身がベッドの向こう側に飛び出ていた。
そのまま、重力に引かれる。
落ちるっ。
背中から床に叩きつけられるだろう瞬間を覚悟して、最大限、身を縮めてその衝撃に備えた。
無意識のうちに固く目を瞑る。その全身を、不快な浮遊感が包んだ。
思いのほか、長く感じられる落下の時間。
どこまでも、どこまで落ちつづけていく。
衝撃は、なかなか訪れない。
果てのない深淵を、どこまでも落下しつづけていくかのような不可思議な感覚――
と、次の瞬間。
ビクッと全身が大きく痙攣して、ハッと我に返った。
だれかが繰り返す。
なんだよ、大丈夫って。俺がまるで、なにかを大丈夫じゃないとでも思ってるみたいな口ぶりじゃねえか。なにかに怯えて、不安がってるみたいな。
思ったところで、ふと気づく。この声。この口調。
直後にハッとして目を開ける。そこに、こちらを覗きこんでいるガキの姿があった。
「おまえ……っ」
呟いて、状況が呑みこめずにあたりを見渡すと、馴染みのない部屋の中にいた。
白い壁。白い天井。頭上をぐるりと囲むように埋めこまれたカーテンレール。
「――どこだ、ここ」
「病院だよ」
「病院?」
言われて、そういえばと意識を取り戻すまえのことを思い出す。
「――なんだ、あのまま死んだわけじゃなかったのか……」
なんとなく拍子抜けした気分になりながら身を起こす。それで、自分がベッドに横たわっていて、その枕もとにガキがいた、という状況だったことをようやく認識した。
駅前で、これまで堰き止めていた感情のストッパーがはずれて大決壊を起こした。
駆けつけた警官らにただちに取り押さえられ、そのさなかに脳内に埋めこまれている時限装置も作動して、ついにリミットを迎えた。そう思ったのだが、とりあえず今回は、最後の一線を越えることは免れたらしかった。
そうか、と他人事のように状況を理解したのはいいが、終幕が延期になったことを素直に喜ぶ気にはなれなかった。
張りつめていたものが切れたのは、感情面だけでなく、気力の面でもおなじだった。それをもう一度、奮い立たせるのは正直しんどい。これからのことを考えると、かなり憂鬱で耐えがたかった。
「おじちゃん、心配しなくても平気だよ」
横合いからかけられた声に振り返ると、ガキはまだ、こっちをじっと見ていた。
「だからなにがだよ。ってか、おまえ、なんでここにいる?」
「知らない。でも、おじちゃんは、もう帰ったほうがいいよ」
「ああ? そりゃ帰っていいなら俺だってそうするけどよ」
言いながら、ガキ越しに出入り口のほうを見やる。俺はあのまま、この病院に救急搬送されたということなんだろうか?
自分が置かれている状況がいまいち呑みこめず、とりあえず看護師を呼ぶか、それともこちらからだれかに声をかけに行ったほうがいいのだろうかと思案を巡らせた。
「おじちゃん、ありがとね」
「だからなにが? お礼言われることなんて、なんもしてねえだろ」
「うううん、そんなことない。クマゴロー、大事にしてくれた」
「いやべつに、してないって」
「でも、捨てないで持っててくれてるでしょ? それに、お風呂にも入れてくれたし」
なんで知ってんだよ、という思いと同時に、なにやら異様にこっぱずかしくなってきた。
「そっ、それはその、なんだっ。おまえの気が変わって、やっぱ返せとか言われたときに手もとになかったら後味悪ぃし、とにかく小汚なくて、あのまま家に置いとくのも抵抗あったから、それで洗濯しただけだよ。べつに親切とか、そんなんじゃねえからっ」
言えば言うほど恥ずかしくなってくる。
なんだ俺は。天然のツンデレかよ。しかもガキ相手に。
「ってか、おまえ、早く取り来いよ。なんであれっきり顔出さねえんだよ。ほんとに捨てちまうぞ?」
「うん」
いいともダメとも言わず、ガキはニコニコしている。調子が狂うったらなかった。
「まあ、あれだ。その、なんだったらこのまま、一緒に来るか? そうすりゃおまえに直接渡せるし、その足で家まで送ってやるからよ」
「うううん、大丈夫」
なにがどう大丈夫で、どっちの意味かもはっきりしないのに、ガキはやけにきっぱりと言った。
なんだ、大丈夫って。このまま一緒に来れるって意味か? それとも送らなくてもひとりで帰れるって意味か?
「おじちゃん、あのね、奇跡は起こるよ。だから全部、クマゴローに任せてね」
「なんだそれ。全部って、なにを任せるんだよ? ってか、おまえ、まだ俺に預けたままにする気か?」
それには答えず、ガキはニッコリとする。
「おじちゃん、ありがとう。ぼく、おじちゃんに会えてすごくよかった」
「おい」
「だからほんと、ありがとね」
「いや、だからおいってっ」
ガキは、せーの、とでも言わんばかりに胸のまえに上げた両の掌をこっちに向ける。
ちょっ、待てっ! よもやそのまま突き飛ばす気じゃあるまいなっ。
焦って身構えようとしたが遅かった。
「元気でね、おじちゃん」
言葉が終わらないうちに、ドンッと胸を突き飛ばされた。
子供の力とは思えない強烈な一撃で、鞭打ちにでもなったかと思うほどの衝撃を首に感じる。あっ、と思ったときには上半身がベッドの向こう側に飛び出ていた。
そのまま、重力に引かれる。
落ちるっ。
背中から床に叩きつけられるだろう瞬間を覚悟して、最大限、身を縮めてその衝撃に備えた。
無意識のうちに固く目を瞑る。その全身を、不快な浮遊感が包んだ。
思いのほか、長く感じられる落下の時間。
どこまでも、どこまで落ちつづけていく。
衝撃は、なかなか訪れない。
果てのない深淵を、どこまでも落下しつづけていくかのような不可思議な感覚――
と、次の瞬間。
ビクッと全身が大きく痙攣して、ハッと我に返った。
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