ショコラ・ノワール

西崎 仁

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第1章

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 女はそれ以降、数日に一度のペースで鳴海の店を訪れるようになった。
 現れるのは、決まって閉店に近い夜の時間帯。テーブル席が空くのを狙ってか、客の出入りがなくなる頃合いを、あえて選んでいるようなふしがあった。
 店に連れてきた一週間後にあらためて来訪を受けたとき、鳴海は女が置いていった一万円札を返そうとした。最初から、お金を取るつもりはなかったのだとも説いて聞かせた。だが女は、鳴海の差し出した札を受け取ろうとはしなかった。ならばと、店の商品を手土産にすることを提案したところ、逆に女のほうから、お茶を飲みに通ってもいいだろうかと問われた。鳴海はそれを、受け容れることにしたのである。
 注文するのは、いつも最初に出したホットチョコレート一杯。女はそれを、ひとり静かな時間の中でゆっくりと味わっていく。挨拶と注文以外でなにかを語ることはなく、鳴海もまた、なにも尋ねない。そんな不可思議なおとないが、一ヶ月近くつづいた。
 地味すぎる、というわけではないものの、決して遊び慣れた印象はない。激情に駆られて短慮を起こすタイプとも思えなかった。コンビニでの一件は、それだけ思いつめてのことだったのだろう。
 あれから一ヶ月になる。だが、まだそれだけしか経過していないとも言えた。たったそれだけの時間で、彼女はきちんと、自分の心に折り合いをつけることができたのだろうか。
 厨房に置いたままになっている果物ナイフを目にするたび、鳴海はあの瞬間のことを思い返さずにいられなかった。
 彼女はなぜ、理由をつけてまで店に通ってくるのだろう。遅い時間にふらりとやってきてホットチョコレートを口にし、それからどうするのだろう。まっすぐ家路につくのだろうか。
 コンビニにいた男女は、会話の内容から察するに、この近隣に住まいがあると推察された。アイスを購入しても、それが溶ける心配はない範囲での移動距離。短慮を起こすタイプではなく、激情に駆られて発作的な衝動に突き動かされるおそれがないからこそ、逆に怖いとも言えた。その性情が真面目で思慮深く、一途であるほどに――

『あたしのせいじゃない! あたしのせいじゃないっ! だって先生があたしの気持ちを踏みにじったからっ!』

 脳裡に、悲鳴のような声が甦る。

『好きだったのに。本気だったのに! なのに先生は、あたしのことなんてちっとも見てくれなかったっ。本気にしてくれなかったっ。あたしは真剣だったのに。すごくすごく真剣だったのにっ。自分の人生を懸けてもいいと思ってたのにっ。
 自分の未来をなげうってもかまわないくらい、この想いがあたしのすべてだったっ。先生に受け止めてほしい――たったひとつの願いさえ叶うなら、なにもかもどうなってもよかった! 約束された将来のすべてを引き換えにしたってかまわなかった。本気でそう思ってた! なのに先生は、そんな気持ちを伝えても相手にさえしてくれなかったっ。そんなの絶対許せないっ。だから全部、なにもかもメチャクチャにしてやりたかったの。だって、あたしがこんな思いをして、こんな目に遭ったのに、先生ひとりだけ幸せなんて許せないっ。あたし以外のだれかを見るなんてもっと許せないっ。なにもかも根こそぎ奪ってやりたかった。その結果がこれ・・よっ!
 ――ねえ、先生、大好き。だから先生も、あたしとおなじ絶望のどん底で、苦しみもがいてのたうちまわればいいんだ……っ!!』

 消すことのできない過去。
 上書きすることさえ許されない現実――

 鳴海は独り、狂気に染め上げられた闇の中で、苦痛に耐えるように奥歯を噛みしめた。

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