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第二章 ビル・エヴァンス「ポーギー」

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 英語の授業は睡魔との戦いだなぁと思っていたのだけれど、これっぽっちも眠気が襲ってくることはなかった。

 もちろん、授業が面白かったというわけではない。

 井上に訊ねられたことがずっと引っかかっていたからだ。

 どうして正男さんはレコードを手放してしまったのか──。

 いくらか予想はついたのだけど、どれも決定打にかけるものだった。

 単純に考えると「ジャズ嫌いの奥さんにレコードの存在がバレてしまい、手放さなくてはならなくなった」という考えに行き着くんだけど──どうもそう簡単なものではない気がする。

 友人から譲ってもらった大切なレコードなんだと説明すれば、さすがに奥さんも無理やり捨てるようなマネはしないだろうし。

 そもそも、仮にそうだとしたら依頼した時点で井上に話しているはずだ。

 結局、俺はその答えに行き着くことはできなかった。

 放課後、「少し考えてみる」と井上に伝え、いつものようにビハインド・ザ・ビートに向かった。


「あ、住吉さん」


 店の入り口を開けると、いつもなら東さんの愛想のない「いらっしゃい」が迎えてくれるのだが、今日は有栖川の慌てた声だった。


「どうした?」

「今朝、澄子さんがお店にいらっしゃったようで、東さんにこれを」


 有栖川がエプロンのポケットから、小さな封筒を取り出した。


「……手紙?」

「私と住吉さんに宛てたものです」

「え、俺にも?」

「はい。実に音抜けの良か謎でした」


 俺はカウンターの席に腰掛け、封筒を受け取る。

 中には一枚の便箋が入っていた。

 達筆だが読みづらいというわけではない、丁寧な文字。

 澄子さんらしい、と思った。

 手紙には、正男さんに再会できたことと、巡り合わせてくれた有栖川と俺への感謝の気持ちが綴られていた。


「澄子さんは佐世保を離れるそうです」


 有栖川がぽつりと言った。


「その手紙を東さんに渡されたとき、そうおっしゃっていたみたいです」

「離れるって、なんで?」

「正男さんに再会できたから、だと思います」


 いまいち理由が理解できない。

 再会できたならどうして離れる必要があるのか。


「頻繁に病院に顔を出せば正男さんのご家族と会うこともあるでしょう。そうなったら、何者なのかと詮索されることになります」

「いや、たしかにそうだけど……」


 なんとも言えない複雑な感情が渦巻いてしまった。

 今、佐世保を離れてしまえば、もう二度と正男さんと会うことはできない。

 だけど、会いに行けば行くほど家族はふたりの関係を疑惑の目で見てしまう。

 正男さんのためを思うなら、離れたほうが良いのは事実。

 だけど……。


「澄子さんは、正男さんのことをどう思っていたんだろうな」


 正男さんは恩人だ。

 その恩を仇で返すような真似をしてしまい、思い悩んでいた。


「『ポーギーを正男さんに』というメッセージにすべてが込められていると思います」


 ポーギーを正男さんに。

 あのレコードにサインと共に書かれていたメッセージ。


「以前にポーギーのことをお話しましたよね。とあるオペラの挿入歌だったって」

「ああ、覚えてる。確か……『ポーギーとベス』の挿入歌だったんだよな」

「そのとおりです。『ポーギーとベス』は貧しい黒人社会を描いたドラマで、冒頭のシーンでとある酒場で口論が起き、やがて喧嘩になって殺人事件に発展します。その犯人が、暴力癖があったクラウンという男なのですが、彼にはベスという愛人がいました。殺人犯の愛人だったベスは周囲から迫害されることになります。そして、そこで力になってくれたのが、主人公のポーギーなんです」


 愛人から暴力を受け、周りから迫害を受けるていたベスはポーギーの優しさに触れてやがて自分らしさを取り戻していく。


「そこでベスが歌ったのが、『アイ・ラブス・ユー・ポーギー』です」

「歌った? 歌詞があったってことか?」

「はい。ベスはこう歌います『いつかあのひとが戻ってきて、私を連れ去っていくかもしれない。だから、どうか私を離さないで。ポーギー、あなたを愛しているわ。だから私を守ってください』……」

「え? それって──」


 澄子さんが置かれていた状況そのままじゃないか。

 澄子さんは暴力癖があった夫から逃げ、正男さんに助けてもらった。

 弁護士を紹介してもらって離婚は成立したが、彼女は不安に苛まれていたはず。


「タイトルの『アイ・ラブズ・ユー・ポーギー』が『ラブ』ではなく『ラブズ』になっているのは、3人称で感情を表現しているからという説があります。自ら『ベスは貴方のことが好きみたい』と客観的に表現することで、好きになってはいけないのにどうすることもできないもどかしさを表現しているんです」

「つまり、澄子さんに同じ気持ちがあったってことか?」


 だから澄子さんは、ポーギーを正男さんにというメッセージをジャケットに残した。

 有栖川は以前、汚レコードが好きだと言っていた。

 作為的ではない、無意識な残したいと思う情念が見える汚レコードが好きだと。

 澄子さんがまさにそうだった。

 正男さんへ向けた思いが彼女を突き動かしたのだ。


「もしかすると、正男さんにも少なからず同じ気持ちがあったのかもしれません」

「いや、それは無いだろ。家庭は順調だって澄子さんにも言っていたみたいだし」

「それは嘘だったんじゃないでしょうか」 


 有栖川は言う。


「正男さんは、深夜の仕事が始まるまで毎日澄子さんのカフェで時間を潰していたとおっしゃっていました。もし、家庭が順調なら……そんなことしませんよね?」

「……あ」


 確かにそのとおりだな。

 結婚していて子供も家にいるのなら、カフェで時間を潰したりしないはず。

 もしかするとリストラにあって、奥さんとの関係はあまり良くなかったのかもしれない。

 遊びも許されず、仕事に邁進するしかなかった。

 正男さんは家に居づらかった。

 だから、仕事が始まるまでカフェにいた。

 そして──そこで自分と同じように、家庭に問題を抱える澄子さんと出会った。


「レコードをプレゼントされて、正男さんはポーギーについて調べたんだと思います。調べて、澄子さんの気持ちがわかった。だから、正男さんはレコードを手放すしかなかったんです」


 正男さんには、すべてをなげうって一歩を踏み出すことなんてできなかった。

 踏み出せば多くの人間を不幸にするとわかっていたからだ。

 だから正男さんは、その感情と一緒にレコードを手放し、カフェに行くことを辞めた。

 だけど、それから何十年かのときが流れ、最後のときが近づき、正男さんはもう一度思い出のレコードを手にしたいと願った。

 想いは遂げられなかったけど、澄子さんの想いが詰まったレコードだけは、もう一度逢いたい、と。


「……『叶わぬ恋』ってやつか」

「いいえ、『叶えてはいけない恋』です」


 そうか。

 だから正男さんは自分の子供には、レコードの件を相談できなかったんだ。


「それを考えると、正男さんが病院に入院していることを教えないほうが良かったのかな?」

「かもしれません。でも……このまま永遠に再会できずにいたら、ふたりとも絶対に後悔します。それは……それだけは、あまりにも不幸すぎると思います」


 失敗したことよりも、やらなかったことのほうが後悔のほうが強く残ってしまう。

 想いは遂げられないとしても、想いは届けたい。

 そうすれば、後悔だけは残ることがなくなる。

 確かに有栖川が言う通りだ。

 しかし、そう思う一方で、俺には理解できない世界だとも思った。

 想いを告げることなくこの世を去ることになるかもしれないという怖さを俺は知らない。

 知らないから、正男さんたちの想いに気づくことはできなかった。

 ひょっとして、有栖川は正男さんたちと同じような経験したのだろうか。

 いや、経験しているからこそ、正男さんたちの本心に気づくことができたんじゃないだろうか。

 それは、家族に向けたもの?

 それとも──有栖川も「叶えてはいけない恋」をしていた?


 俺は澄子さんの手紙に視線を落とす。

 感謝の気持ちが籠もった、澄子さんの手紙。

 その最後は、「東さんのカフェと、あなたたちに出会えて本当に良かった」という感謝の言葉で締めくくられていた。
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