籠ノ中ノ蝶

綾織 茅

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第二章―狙われた蝶―

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 夏休みに入って一週間が経った。

 隣の月代先生は不気味な程何もしてこない。

 私が家に戻ってきたら本当に何もしないでいてくれることに、気が緩んでいたのかもしれない。

 少し早めの夕食作り。

 ホテルで食べた料理の味が頭をぐるぐると駆け回っているけど、足下にさえ及ばない料理を毎日作っている。

 今日のメニューはオムライスだ。


「後は卵っと」


 冷蔵庫から卵を取り出し、割り溶かしてフライパンに流し入れた。ここからがおいしいかどうかの分かれ道だ。ゆるふわのオムライスにするにはちょっとしたコツがある。

 それを実践しようとした時、玄関のチャイムが鳴った。

 どうしようかな。このまま居留守を使おうか。

 そんなに遅い時間ではないけれど、今の時間に来るような人は思いつかない。

 依理もつい昨日きたばかりだ。


「……もしかして」


 私は火を止めて、玄関に向かった。

 ドアについている小窓からそうっと外を覗く。


「……不動産屋さん?」


 ここを借りる時に色々とお世話になった、不動産屋の菅井さんだった。

 どうしたんだろう? 何か問題でもあったのかな?

 月代先生ではないことに安心して、ドアの鍵を開け、ゆっくりと開いた。


「あの、不動産屋の菅井さんですよね? どうかなさったんですか?」
「こんにちは。実は書類に不備があったことに最近気づきまして。少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」


 丁寧な口調で眉を下げて言われれば、断るのはまず無理だ。


「いいですよ。あ、ちょっと待って下さい」


 来客用のスリッパを出してきて、菅井さんの前に差し出した。


「さ、どうぞ」
「どうもすみません」


 菅井さんをリビングに通し、私はキッチンでコーヒーを用意した。


「とても綺麗に片付いてますね」
「そんなことないですよ。一昨日部屋の片付けをしたんです。……はい、どうぞ」


 私はコーヒーと砂糖をテーブルの上に置いた。

 そしてテーブルを挟んで菅井さんの正面に座った。


「ありがとうございます」


 菅井さんは砂糖を入れず、ブラックのまま一気に飲み干した。

 喉が乾いてたのかな?

 私は砂糖を一袋だけ入れてスプーンで混ぜた。


「あの、不備ってどこにあったんですか?」
「ちょっと待って下さいね」


 菅井さんはカバンの中からファイルを取り出して、書類を一、二枚出した。それは紛れもなく私がここをかりる時に書いた書類だった。

 その書類をテーブルの上に置き、指で一つの空欄を指差した。


「ここにサインが必要だったんですよ」
「あ、ここですね?」


 借りたボールペンで、さらさらと自分の名前を書く。


「そういえば、ここ最近長くどこかにお出かけだったんですか?」
「え?」


 不意に質問を投げかけられたので、ペンを止めて顔を上げた。


「何度か伺ったんですが、毎回お留守だったので。お電話もつながらなくて」
「あ、ちょっと色々あって友達の家に。固定電話も解約したので。……はい、できました」
「ありがとうございます」


 菅井さんは書類を確認し、ニコリと笑った。


「はい。これで大丈夫です。……あの、すみません。コーヒーをもう一杯頂いてもいいですか?」
「いいですよ。ちょっと待ってて下さいね?」


 特別おいしいわけではないインスタントだけど、私はお客さんが来た時くらいしか飲まないからたくさん余ってる。

 それにきっとお仕事でたくさんの人と話して、喉が疲れたんだろう。

 わざわざ家まで来てくれて、コーヒーの一杯や二杯どうってことない。

 私は菅井さんに背を向け、キッチンに向かった。

 コーヒーをつぎ直し、リビングへ戻った。


「どうぞ」
「ありがとうございます」


 私も自分のコーヒーに口をつけた。


「……あ、れ?」


 何か……変な感じが。

 まぶたが急に重く……


「どうしました?」
「いえ。何でもな……い……」


 私が意識を手放す前に最後に見たのは、妖しく笑う菅井さんだった。


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