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第八章―納涼を求めんが為
り
しおりを挟む「宗右衛門。お前、水に入れないといざという時、本当に困るぞ?」
「でも……こわくて……」
「……ふぅ」
何度繰り返したか分からないやり取りに、主水は腰に手をあて、溜息を深くついて俯いてしまった。
しかし、すぐに勢いよく顔を上げ、宗右衛門に片手を差し出した。
「なら、手を握ったままでいてやるから。まずは足だけでも浸けられるようにしよう。俺も何の成果もなく戻ったんじゃ、左近先輩にどやされるからな」
「……ぜったい、ぜったい、てをはなさないでくださいね?」
「おぅ。約束だ」
一歩一歩、まるでつかまり立ちし始めたばかりの赤子のように水の中へ足を浸けていく二人。
それを見て、吾妻はやれやれと呆れたような表情を浮かべた。
水練だけが忍びの素養というわけではないが、次代の八咫烏を引っ張っていく立場にあると思われる者達の姿としてはいささか頼りない。
「道は長そうですね」
「まぁ、まだ逃げ出さないだけマシでしょう。どこかの誰かさんと違って」
「……あっはっはー」
笑って誤魔化す勘助を、庄八郎がすぅっと目を細めて見やる。
「そういえば、お前も泳ぎ苦手だったけど、いつの間にか泳げるようになってたよな?」
「は? えっ、いや、俺のことはどうでもいいだろっ」
慌てることこそ答え。
滝壺に叩き落されたり、水中へ放り投げられて岸まで泳がされたり、川を泳いで渡らなければ新作を試されると脅されたり。全ては自分が泳ぎの鍛錬から逃げ出しそうになったことが元とはいえ、そんな所業を受ければ誰だって必死になって泳ぐようになる。
だが、それを知られるのは恥ずかしいからと、勘助は今の今まで隠し通していた。もし、こんなことさえなければ、死ぬまで隠し続けていたかもしれない。
そんな暴露話を披露した吾妻はというと、二人の様子を黙って見続けていた。
「よし、じゃあ、ちょっと休憩な。俺、ちょっと潜ってくるから、お前はここで待ってろ」
「え? あ、はい」
主水が身体を簡単に動かして水中に飛び込むと、吾妻は木から飛び降りていく。
ここは上流にあたるため、水が澄んでいて泳いでいる主水の姿がよく見える。それを水に浸からない位置で一人見ていた宗右衛門の背後についた。
「宗右衛門」
「あ。あづませんせい」
「どうです? 主水の泳ぎは見事でしょう?」
「はい。まるで、さかなみたい」
「魚、ですか」
「……すごいなぁ」
宗右衛門が主水に向ける目には、やはりまだ水への恐怖の色が強いが、同時に微かに憧憬の色も籠っていた。
それを横目で見た吾妻は、主水の方へ顔を向けたまま宗右衛門の名を呼んだ。
「なんですか?」
「無理は禁物ですよ。貴方は貴方の進み具合があるのですから」
「……はい」
そうしていると、主水がひと泳ぎ終え、二人の元へ戻ってきた。
宗右衛門の隣に吾妻がいるのを見て、目を瞬かせている。
「あれ? 吾妻先輩、帰っていらしたんですか」
「えぇ。そんなことより、主水。貴方、雛を放って一人で泳ぎに行くとは何事ですか」
「……すみません」
主水は濡れた着物から水を絞り落とすこともせず、身を縮こまらせる。
その様子に、宗右衛門が隣にいる吾妻の服をくいくいっと引っ張った。
「あのっ。あづませんせい、そんなにおこらないで」
「宗右衛門。これは怒っているのではありません。叱っているのです」
「え?」
「いいですか? よく覚えておきなさい。怒るのと叱るのとは違います。その違いは貴方の今後の課題にもなってくるでしょうから、ここでは詳しく教えません。それに、それは私の役目ではありませんからね。貴方はいずれ、貴方達の代の梅組の柱になるでしょう。その時に、決して間違えないようにするのですよ?」
「はい」
宗右衛門は納得していないような表情を浮かべているが、こくりと頷いた。
彼の今後を考えると、この二つの違いはとても重要なことだ。ただ感情をぶつければいい『怒る』と違って、『叱る』のは難しい。その点、吾妻達の代の頭である伊織はそれを正しく心得ている。
吾妻は宗右衛門に向けていた視線を再び主水へと向けた。
「貴方も知っての通り、この子達はそれぞれの名手の技を見て、聞いて、実践の中で育てられています。左近は自分の期待に沿う働きのできない者、この子達の益にならない者に、大切な雛を任せるなんて愚行は犯しません。今回、この子の鍛錬を私達の代ではなく貴方に頼んだ目的、意味。しっかりと考えて次回から行動するように」
「……はい」
そう言うと、吾妻は踵を返し、その場を後にする。その背を、主水は深々と頭を下げながら見送った。
一方、庄八郎達は薄く笑みを浮かべ、自分達の所に戻ってきた吾妻を出迎えた。
「また随分と丁寧に指導なさいましたね」
「まぁ、宗右衛門もいましたからね。本来なら呼び出して一対一で叱るところですが、今回は二人ともに万が一のことがあったらということで、それぞれに自覚をと。……蝶と彦が心配なので、先に戻ります。後は任せましたよ」
「「はい」」
三人が一度下げた頭を再び上げる頃には、吾妻の背はすでに遠くにあった。
そのまま岩場の方を見下ろすと、宗右衛門に気遣われる主水が、大丈夫だと苦笑しつつ宗右衛門の頭を撫でていた。
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