72 / 117
第九章―織田木瓜と三つ葉葵
ほ
しおりを挟む伊織達が安土城を訪れた数日後。
前右府――信長が伊織から話を聞き及んでいたとおり、岡崎の信康の元へ嫁にやった娘――五徳から、まこと恨み辛みのこもった文が届けられた。姑との関係の悪さを思わせる言葉に始まり、夫の素行の悪さ、彼らが武田側との密通している等の項目が全部で十二か条。
信長にしてみれば、中には気にせず適当にあしらっておけばよいものをと思うものもある。本来ならば捨て置けぬ武田との密通の話も、八咫烏の調略にはまってのことであると承知しているので、正直なところ、どうしたものかという思いの方が強い。
それに、信長としては、娘を嫁に出した身。いうなればこれは他家の内情である。婿とその母親相手とはいえ、早々干渉すべきではない。
しかし、一方で信長は伊織が言っていた言葉も気になってくる。家康の腹の内。同盟を結ぶ相手にそう何度も裏切られてはかなわない。
そこで、信長はこの件について家康に申し開きをしにくるよう、浜松へと遣いを出した。
そして、天正七年七月十六日。
二人の男が安土城へと登城してきた。
家康が信長への使者として遣わしたのは、徳川家の重臣であり家康の信任厚い酒井忠次と、信康の実妹を正室にもち長篠城主でもある奥平信昌であった。同時に、家康を合わせて三人からそれぞれ信長へ馬が贈られた。
信長は先日の伊織同様、先に待たせておき、些か性急ぎみに部屋へと入ってきて、平伏している二人へ顔を上げるように言う。そして、挨拶もそこそこに、本題へと切り込んだ。
信長に五徳が書いて寄越してきた書状のうち、一条ずつ読み上げられ、その真否を問われる。常であれば、投げて寄越され、その真否を合わせて問われそうなものが、一つずつ聞かれるものだから、二人は真綿で首を絞められているような心持となった。
「これは真か?」
「……真にござりまする」
「これはどうじゃ?」
「……」
「これは真かと申しておる!」
「……も、申し訳ござりませぬ! 我らの口からは申せませぬ」
全て否、誤解か偽言であると即答できれば楽なのだが、なまじっか本当のことの方が多いだけに問題である。目の前の男相手に嘘はつけない。
特に、忠次は岡崎にいる国人衆達に家康からの指示を伝える立場。必然的に信康と五徳、築山殿との関係性を見ることも多かろうと、信長に攻め立てられる。忠次は戦場では経験したことのない居心地の悪さに、背中を冷や汗が伝っていくのを感じた。
自分の剣幕にすっかり委縮してしまっている二人を見て、信長はふんっと鼻を鳴らした。しかし、決して二人の態度を不快に思っているわけではない。何から何まで伊織の思う通りに進んでおり、それが信長としては少々面白くないのである。
平伏し続ける二人に、信長はその鋭い視線を下げて寄越した。
「徳川殿はこの件について、なんと申しておったか」
「はっ。この件、諸々筋の通った道をとりますゆえ、こちらに一任していただきたく、と」
「……このように父にも臣下にも見限られるようであれば、是非もなし。徳川殿の良きように計らうよう申しつけておけ」
「「はっ」」
信長の言質を取り、二人がさらに深く頭を下げると、信長はそのまま小姓を伴って部屋を出ていった。
遠ざかる足音を聞きながら、二人は顔をゆっくりと上げていく。
「某、お二人に自害させるよう申しつけられるのかと思うておりました」
「あぁ。あの方ならば、そう申されても不思議ではない」
「では、何故?」
「分からぬ。とにかく、前右府様からの干渉は免れたのだ。このことを早く殿にお伝えせねば」
「そうですな。疾く、参りましょうぞ」
安土城を辞去した二人は、一度自らの居城に戻ることはせず、そのまま浜松城にいる家康の元へと馬を走らせた。
遣いの帰りを待っていた家康は、二人から信長の返答を聞き、意気消沈してしまった。その家康の心情を読み取った忠次が、膝をついたまま家康に詰め寄っていく。
「殿、家臣団の分裂を避けるためでございます。今は北条との同盟も控えており、武田との戦に備え、一丸となるべき時。このままでは他所との戦どころではなく、内部から瓦解しかねませぬ」
「分かっておる。分かっておるが……」
家康も覚悟の上とはいえ、やはり実力のある嫡男を失うのは惜しい。
――あの時、八咫烏から届けられた文が、かように大事になろうとは思ってもいなかった。家臣の一部が決して触れてはならぬところに手を出したためと、捨て置いたのがいけなかったらしい。
だが、それを後悔したところでもう遅い。それに、岡崎殿が前右府殿に出した文の内容は大半が正しい。いくらその一部が誤りで、信康は嵌められたのだと訴えても彼の人の耳には届かぬだろう。
――それにつけても。
「腹立たしいのは、十二のうち半分までがあれに関する内容である点よ! しかも、よりにもよって、あの武田との密通などっ!」
「……恐れながら、築山殿と岡崎殿の諍いがなければ、このような大事にはならなんだやもしれませぬ」
「まこと……あれは徳川を潰すつもりかっ?」
家康は確かに自身の正室である築山殿に恨まれる覚えがいくつもあった。だが、それはこの戦の世では致し方ないことであったとも言える。
――自分はこの家を守らねばならない身。そして、ゆくゆくは……。
家康は傍に控える者全てを人払いさせた。そして、常であれば相談をもちかける忠次にも皆と同様下がっているように言う。
「少し、一人で考えたい」
「……承知しました」
それからしばらくの間、家康はなんとか徳川家の活路を見出そうとするが、事はもはやどうにもならない所にまでやって来ていた。
全ては、信康配下の者がとある忍び里に手を出したがため。そこに信康が加担していたかどうかは定かではないが、代わりに支払う代償は大きすぎるものとなるに違いない。
家康は大きく深い溜息をつき、疲れの見える顔を両手で覆い隠した。
0
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる