戦国乱世は暁知らず~忍びの者は暗躍す~

綾織 茅

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第九章―織田木瓜と三つ葉葵

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 徳川が有している城を転々とさせていた信康を、二俣城主・大久保忠世に預けてから数日が経った。

 この大久保忠世という男、四年前に起きた長篠の戦い以降、主に武田の攻略を命ぜられている。そして、元々武田方の城であった二俣城の攻略後に城主となり、対武田との合戦では多大な功績を残していた。
 そんな忠世に信康を任せるということは、徳川の重臣として信頼が厚いだけではない。もし、信長に信康の動向を詰問された際、二俣城にいることによって、信康が改心し、武田と内通する側ではなく、武田を攻略する側にいるのだという訴えに多少なりとも真実味を帯びさせるためでもあった。

 まるで曲芸師が綱を渡っていくがごとく、一歩間違えば仕舞いの計略である。


「あれの頭は冷えただろうか」
「それは……」
「まだ、か」


 傍に控えていた臣下の男に家康が尋ねるも、かんばしくない答えが返ってくることは予想の範疇はんちゅうであった。

 家康がひじ置きである脇息きょうそくにもたれて顔を項垂うなだれさせていると、襖の向こう、廊下側から声がかけられた。


「なんじゃ」
「それが、殿にお目通りさせていただきたいと申す者が」
「何? わしに? 誰じゃ」
「三郎様にお仕えしていた武将が配下の者と申す男でございます」
「……よい。通せ」
「はっ」


 すーっと開いた襖から部屋の中へ入ってきたのは、直垂ひたたれ姿の老臣であった。

 老臣が家康の前に腰を下ろして深々と一礼するのを待ち、家康は眉をひそめつつ声をかけた。


「何用じゃ」
「まずは、こちらを」
「ん?」


 老臣は自分の横に置いていた風呂敷包みを正面に持ってきた。何か箱のようなものが入っているようで、その大きさに家康は見覚えがあった。

 まさか、と、家康はさらに眉を吊り上げる。


「我が主君の御首みしるしにございます」
「……っ! なぜ、このようなことにっ?」
「我が主君は、御屋形様の御嫡男であられる三郎様と共に同じ夢を見られ、八咫烏の里へ夜襲をかけられたのです。結果についてはもうお聞き及びでございましょう。その場は辛うじて逃がれられたものの、その後に今度はこちら側が攻められ、主だった重臣と共に果てられました」
「で、では、あの支城の主とは」
「さようにございます」


 本来、討ち取った敵将の首を正面切って見ることは首実験の作法上ご法度なのだが、今は風呂敷にも包まれ、直接見るわけではない。ましてや、これは敵将の首ではなく、味方のもの。
 しかし、家康はちらりと横眼で見た後、老臣が再び横に置くまで正面切って前を見ることをはばかった。


「……そなたは儂にこれを見せてどうしようと言うのじゃ?」
それがしは彼の里への夜襲以降、八咫烏に捕えられておりました」
「なに。それは……さぞかし」
「いいえ。彼らは某に対して、見張りはあれど、食事をきょうし、体調の悪い日などは薬師を呼んで治療させるなど、十分な礼節を持って対応しておりました。……まるで、武士らしく自害することも許されず、生き恥をさらす某を嘲笑あざわらうかのようではございましたが」
「……」
「ですが、彼らはそれで事を手打ちにしたわけではござりませぬ。その証拠に、某を解放し、ここまで主君の御首を持ってこさせたのです」
「……どういうことじゃ?」
「八咫烏より、御屋形様へお伝えするようにとの言葉がございます」


 老臣はそこで一度、言葉を切った。

 そして、目を僅かに伏せ、再び言葉を続けた。


「……この首をもって逃げおおすこと、我らはゆるさじ、と」


 家康はひゅっと息を詰めた。老臣の言葉が、まるで本物の八咫烏が言い放ったように聞こえたのだ。それは老臣の口から出て時が経つごとに、家康の心の臓を容赦なく鷲掴んでくるようであった。


「……誰ぞっ、急ぎ二俣城へ! 三郎の護衛を増やすよう」


 家康が傍に控えていた小姓に指示を与えていると、再び廊下から声がかけられた。今度は切羽詰まったような声で、家康はなおさら焦燥感しょうそうかんさいなまれた。


「今度はなんじゃ!?」
「ふ、二俣城の方角に火の手ありとの報告がっ」
「……なん、じゃと?」


 二俣城と家康の居城である浜松城は少しばかり距離がある。その中間辺りに念のための見張りとして人を置いていたのだ。
 そこからの報告に、家康は身体を前のめらせ、腰を浮かしかけた。そして、ふっと力が抜けたように座り直す。

 その様子に、老臣は静かな口調でさらに言葉を続けた。


「御屋形様。八咫烏に落とされた城は、彼らの手勢たったの十一名であったとか。いくら農繁期とはいえ、見張りの兵士は三百有余はおりましたはず。それがたった一晩で落城したのでございます」
「……三郎が首を、差し出せと申すか?」


 老臣は何も答えず、ただこうべを垂れた。それを見て、家康は目を固くつむり、顔を天上へと向ける。

 そうしていると、またもや家康の元へ来訪があった。信康の傅役もりやくである平岩七之助親吉その人である。
 親吉は家康と同年の生まれというよしみから、家康が今川の人質であった頃から付き従い、信康が元服してからは傅役として信康を補佐している。家康の信任も厚く、だからこその抜擢ばってきであったが、それでもこの件は防ぐことができずにいた。

 親吉は部屋に入るなり自分の頭を床に擦りつけた。今回の件を自分の責のようにとらえているのは、彼の顔つきから容易にうかがえる。


「殿っ! 此度こたびのことは、某が長年、三郎様を正しい道へ導くことができなかった罪ゆえでございまする! 某の首をねて織田殿へお見せいただれば、織田殿もご承知いただけるはずでございまする! く、疾く、某の首をっ!」
「……そうは言うが、三郎には既に逃れることができぬ理由がある。その上、そなたの首まで切って、儂だけが恥辱ちじょくを重ねるも口惜しい。……そなたの三郎への忠義、いつまでも忘れはせん」


 そう言うと、家康は目から涙をぼろぼろとこぼし始めた。
 唇を噛みしめ、胸の痛みに耐えようとしている様子を見てしまえば、親吉もそれ以上は言葉を重ねることができない。親吉も家康同様、断腸の思いでその場を後にした。


「全ては我ら年長者が、若人を正しき道へ導けなんだがため。我らのとがでもありましょうぞ」
「……致しかたなき、か」


 今をもって、家康は信康が武田と手を組もうとしていたのが真実であるとは思っていない。

 しかし、今は乱世。各地の敵がいつ攻めてくるか分からない中、頼みにできるのは信長の助力。信長の信頼を失い、今後助力が無くなるということは、徳川家が滅び、先を見ることができなくなるのと同じこと。
 もし、ここで親子の情を捨てることができず、信長の信頼を損ない、先祖代々続いてきた家を滅ぼしてしまえば、子のみを大事とし、先祖のことをないがしろにしたようなものである。そうなれば、武家の家門を守る者として、先祖に顔向けができるだろうか。いや、できようはずもない。

 老臣の悟りを開いた者のような言葉に、家康は己の覚悟の方向性を改め、己が子供を家門を存続させるために切り捨てることを決めた。もちろん、無実の子を己と家門のために犠牲にする咎を永劫えいごう背負うことを己への罰として。

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