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(17)サイン会ハプニング

最後の一人

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 だが、サイン会開始直前に、「計算上では一人につき三十六秒でちょうど一時間よ」と茉莉奈まりなに言われ――。
 結果的にそれは〝そうしろ〟と言うことだよな、と言外に込められた圧を感じ取った信武しのぶだ。

 信武は机の上に置いた腕時計の秒針をチラチラ気にしながら、一人なるべく三十秒以内を目処にサインをこなした。

 一見単純なことに思えるこの時間管理というプレッシャーが、正直かなり神経をすり減らす作業だったから。

 せっかく会いにきてくれたファンに、もっと丁寧なサービスを心掛けたいという思いとは裏腹、時間がそれを許さないもどかしさに、心がささくれ立つ。

 だがその甲斐あって、ほぼ一時間で最後の一人というところまでこなすことができた信武だ。

 時計を見ると、二分くらいゆとりがあって。
 これでラストだと思うと、最後尾だし、長く待たせちまったよなという思いも手伝って、つい丁寧に対応しようかななんて思ってしまった。

 ラスト十人ぐらいは正直気持ち的に限界で、うまく日和美いうところの〝不破ふわ 譜和ふわさんスマイル〟で対応出来ていたか自信がない。

 サイン会開始すぐの頃は、結構ファンの顔を見て話をしていた信武だったけれど、気がつけば手元と時計ばかりを気にしていて。「有難うございました」とサイン本を手渡すときにだけチラリとファンと目を合わせる感じになってしまっていた。

(あー、ホント俺、何やってんだよ)

 最後の最後になって、そんなことを反省すると言うのはどうかと思ったが、しないよりはマシだろう。

 グッと気持ちを引き締めてペンを握り直したと同時。

「あの、――、これ、お願いします」

 聞き慣れた声に、ハッと顔を上げた信武しのぶは、目の前に姿日和美ひなみが立っているのを認めて、思わずペンを握ったまま立ち上がっていた。

 すぐさま異変に気付いた茉莉奈まりなに、肩へ手を載せられてグッと押さえつけるようにして座らされた信武だったけれど、愛しい女性を前に心臓がバクバクするのまでは抑えられない。

 そして、不測の事態に慌てたのは何も信武だけではなかったらしい。

「しの、……先生、お座り!……――ください。ファンの方が驚いておられます」

 急に立ち上がった信武に、茉莉奈が何とか体裁ていさいを取り繕ったようにそう小声でいさめてきたのだが、信武にはそれが「信武、お座り!」と言うセリフにしか聞こえなかった。
 肩に載せられた手指にギリリと込めらた力がそれを裏付けているように思えて仕方がない。

 と――。

「あ、……えっ、うそ……、っ」

 突然距離を詰めてきた茉莉奈に圧倒されたように信武の目の前。日和美がヒュッと息を詰めて口ごもったから。

 信武はハッとして日和美の方を見た。

 だが、案の定日和美は信武の方を見てはいなくて。

 大きく見開かれた目がじっと見つめる先にいたのは茉莉奈だったから――。

 信武はその顔を見て(しまった!)と思った。


「え? ……な、んで……? ねぇ、信武さん。これ、……どういうこと、……なの?」

 逼迫ひっぱくした空気の中、日和美の困惑した声だけがやけに大きく聞こえた――。
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